軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第31話 右目の白い朝

白い朝だった。

窓の外では、サンクトペテルブルクの雪が低い屋根を均し、煙突の煙さえ白く薄めていた。熱病の夜をいくつも越えたはずなのに、部屋にはまだ薬草を煮詰めた苦い匂いが残っている。寝台の脇には水差しと布。机の上には、封をされた橋の記録と、ケーニヒスベルクから持ち帰った七本版の写し。その紙束が、俺が数学者であることを思い出させるように、黙って朝の光を受けていた。

俺は目を開けた。

左側の窓枠は、はっきり見えた。凍りついた硝子の模様も、カタリナが昨日置いていった椅子の背も、机の上のインク壺も見える。

右側は、白く滲んでいた。

まるで、薄い牛乳を垂らした水の向こうに世界があるようだった。輪郭はある。光もある。だが、線が紙から浮き上がらない。昨日まで読めたはずの細い字が、右目では雪の粒みたいに散ってしまう。

俺はゆっくり瞬きをした。

変わらない。

もう一度。

やはり変わらない。

胸の奥が、静かに冷えた。

「……まだ見えてる」

自分に言い聞かせるように呟いた声は、病み上がりの喉で少し割れた。右目は完全に失われたわけではない。ただ、世界の半分が、少し遠くなっただけだ。そう考えようとした。考えようとしたが、その言い訳は、紙の上の滲んだ文字ほど頼りなかった。

扉が控えめに叩かれた。

「レオンハルト様、起きていらっしゃいますか」

妻のカタリナの声だった。柔らかい。だが、言葉の縁には眠りの浅さが残っている。彼女も、ずっと看病でろくに休んでいないはずだ。

「起きています」

扉が開いた。カタリナは盆を持って入ってきた。湯気の立つ薬湯、黒パン、小さな林檎。彼女の袖口には、昨夜使った薬草の匂いが染みていた。髪はきちんとまとめられているが、目の下に薄い影がある。

「熱は、少し下がったように見えます」

「でしょう。もう大丈夫ですよ」

カタリナは盆を机に置き、すぐには返事をしなかった。彼女は寝台の近くに立ち、俺ではなく、俺の視線を見ていた。紙ではない。目でもない。視線の流れそのものを見ている。

「今、窓の左側だけをご覧になりました」

「たまたまです」

「それから、机の上の紙を見る時、顔を少し左へ向けました」

「癖ですよ」

「熱で倒れられるまでは、その癖はありませんでした」

柔らかい敬語なのに、逃げ道がない。カタリナは椅子に座ると、机の上から一枚の紙を取った。七本の橋の記録ではなく、何も書かれていない白紙だった。彼女はそこへ太い線を一本引き、俺の右側へ掲げた。

「この線は、見えますか」

「見えます」

「では、こちらは?」

今度は細い線。右目で見ると、白い朝光に溶けかけた髪の毛のようだった。

「……少し」

カタリナは紙を近づけた。

「この距離では」

「見えます」

「この距離では」

「滲みます」

彼女は小さく息を吸った。泣かなかった。ただ、紙を丁寧に机へ置いた。

「右目で読んでいませんね。紙ではなく、左側を探しています」

「まだ見えています」

「まだ、という言い方をされました。この先、自分の目がどうなるか、知っておられるのですね」

言われて、俺は唇を閉じた。

まだ。

たしかに言った。

転生者の俺には、未来の知識がある。この先、オイラーの目がどうなるか知っている。「サイクロプス」と呼ばれるようになることを知っている。

まだ見えている。大丈夫。まだ書ける。まだ読める。だが、その「まだ」は、もう終わりの方角を含んでいる言葉だった。

「カタリナ」

「はい」

「心配しすぎです。熱病の後ですから、少し目が疲れているだけです」

「それならよいのです」

彼女は静かに言った。

「けれど、疲れているだけでも、記録します。右目、細線、朝光、滲み。紙は逃げませんが、症状は逃げます」

病まで記録するのか。

そう言おうとして、やめた。彼女にとって、記録とは恐怖を閉じ込める箱でもあるのだ。名前が消えた時も、日付が白くなった時も、橋が八本に増えた時も、彼女はまず見て、書いた。そうして守った。今度は俺の目を見ている。守ろうとしている。

扉の外から、硬い靴音が聞こえた。二つ。いや、三つ。すぐに扉が開き、エリザが入ってきた。外套の肩に雪が残っている。顔はいつも通り冷静だが、手に持った紙束の量が多い。

「起床しているなら結構。寝台で死体相手に議論しなくて済みます」

「朝から語彙が強いですね」

「事実認定です。死んでいないなら、仕事です」

「病人への配慮は?」

「配慮して紙束を半分にしました」

半分でこれか。

彼女は机に紙を置いた。羊皮紙、草稿、アカデミーの書簡。その一番上に、心当たりのある標題があった。

『Mechanica(力学)』。

史実では1737年に公刊される、初期オイラーの代表作。そして力学という学問を、ニュートン以来の幾何学の証明問題から離脱させ、現代までつづく解析的方法へと移行させた重要著作だ。そしてオイラーがπという記号を公式に用いた最初の著作でもある。

『Mechanica』がなければ、ニュートン力学を微分方程式として組織的に扱った初期の手本が失われる。それは、現代なら当たり前の「自然や機械を数式にして扱う」科学の礎石の一つが失われることに等しい。

胸の奥で、別の冷たさが生まれた。来た。橋の次は、運動だ。点と線で都市を見た直後に、今度は動く物体を式で追う仕事が来る。

エリザは俺の顔を見て、すぐに目を細めた。

「その顔。内容は知っているけど、過程で詰む時の顔ね」

「そんな顔の分類があるんですか」

「あなた専用よ」

カタリナが、草稿へ目を落とした。

「これは、運動の本ですか」

「アカデミーからの要請です」

エリザが答えた。

「力学を、より新しい形で整理する草稿。運動を図でなく、計算可能な形へ移す。宮廷も関心を示しています」

「宮廷が?」

嫌な予感がして聞くと、エリザは短く頷いた。

「砲弾、船、機械、天体。運動を予測できる数学は、使い道が多すぎるわ」

カタリナが心配そうに俺を見る。

「今のお体で、すぐに扱うものではないと思います」

「同感です」

俺が言うと、エリザは即座に切った。

「友人としては同感よ。でも遅らせれば他人が粗雑に扱う」

「またそういう」

「動くものを式で扱う。その方針をあなたの名で残す必要があると思う。橋の問題と同じよ。放置すれば、別の誰かが別の線を足すわ」

八本目の橋の線が、頭に浮かんだ。

便利を口実にした嘘。

力学でも同じことが起こるだろう。砲弾の軌道を宮廷に都合よく歪める。船の動きを過信する。あるいは図だけで判断して事故を起こす。運動を扱う数学は、橋よりずっと直接に人に関わる。ずっと多くの人を殺す。

外から乱暴な足音が近づいた。

今度はノックもなかった。

「生きてるか、オイラー」

アレクセイが入ってきた。毛皮の帽子を手に持ち、頬を赤くしている。いつもの不機嫌な顔だが、目だけはこちらの様子を探っていた。

「一応」

「一応で仕事を受けるな」

「あなたがそれを言いますか」

「俺は一応では数表を書かない」

彼は机の上のMechanicaの紙を見て、口の端を曲げた。

「運動か。宮廷が食いつくな」

「もう食いついています」

エリザが言った。

「なら、先に噛み方を決めておけ。放っておけば軍が丸呑みするぞ」

相変わらず口は悪いが、言っていること、心配してくれることは正しい。アレクセイは橋の時に、実務の重さを何度も見せてくれた。彼がいると、数学が現実に落ちる。その分、逃げられないのだが。

「で、目はどうなんだ」

彼に唐突に言われ、俺は一瞬固まった。

「誰から聞いた?」

「見ればわかる。右の紙を見てない」

「あなたまで」

「数字を見る奴は視線も見る。嘘つくな」

カタリナが静かに頷く。

「アレクセイ様も、そうおっしゃっています」

「包囲されていますね」

「治療のためです」

柔らかい声で言われると、余計逃げられない。

その時、部屋の空気がかすかに揺れた。窓から入る朝光が、机の上の力学草稿に落ちる。紙の余白に、黒い文字がゆっくり浮かび上がった。

【見えぬ目で、運動を語るな】

誰も声を出さなかった。

黒い文字は、紙に沈むように濃くなっていく。校閲者だ。橋の次に、今度は俺の目を突いてきた。病を起こした訳ではないと思う。だが、弱った場所を見つけるのは早い。

カタリナが紙へ近づく。

「文字の沈み方は浅い。脅しです」

エリザが冷たく言った。

「なら、反論するだけ」

アレクセイが鼻を鳴らす。

「見えないなら黙れ、か。趣味が悪い」

俺は黒い文字を見た。右目では滲む。左目なら読める。だが、その事実がかえって腹立たしかった。

【Ne de motu loquaris oculis caecis.(見えぬ目で、運動を語るな)】

俺は羽ペンを取った。

カタリナが止めようとしたが、首を振った。長文はまだ無理だ。だが、一行なら書ける。

『Si figura labat, formula sequere.(図が滲むなら、式で追う)』

黒い文字が揺れた。

エリザがすぐに続けた。

「まだ不十分です。何を式で追うのかを明確化してください」

「病人にも容赦ない」

「容赦は治療に含まれません」

俺は苦笑し、もう一行を書いた。

『Positionem corporis mutari per formulas sequimur.(物体の位置がどう変化するかを式で追う)』

アレクセイが横から言う。

「速さもだ。位置だけじゃない」

エリザが頷く。

「速度。定義は後で詰めます」

カタリナが紙を取り、太い字で清書してくれた。

位置。

速度。

変化。

その文字は、大きく、右目でも見えた。

見えた。

少なくとも、彼女の書く大きな文字なら。

胸の奥に、小さな安堵が生まれる。

「大きく書けば、読めますね」

カタリナが言った。

「今のところは」

俺は素直に答えた。

「では、大きく書きます。紙は増やせばよいのです」

「校閲者が嫌がりそうですね」

「嫌がるなら、なおさらです」

カタリナにしては強い言い方だった。

アレクセイが肩をすくめる。

「紙代は宮廷に出させろ。運動を欲しがってるのはあいつらだ」

エリザはMechanicaの草稿をめくった。

「まず、この部で扱う入口を固定します。位置。速度。加速度。力。今は、それ以上は広げない」

「加速度まで?」

「あなたを見る限り、そこまで知っている顔です」

「顔で読むのやめませんか」

「便利なので」

彼女は断定した。

俺は寝台からゆっくり立ち上がろうとした。

足元が少しふらつく。カタリナがすぐ腕を支えた。手が温かい。薬草とインクの匂いが近づく。

「今日は机までです」

「アカデミーには」

「行きません」

「でも」

「行きません」

柔らかい敬語のまま、絶対に譲らない。

アレクセイが笑う。

「負けておけ。今日の相手は宮廷より強い。校閲者に勝った女だ」

「そうします」

俺は机に座った。右目を半分閉じると、紙の線は少しましになる。左目だけで見る世界は、幅が狭い。だが、集中すれば読める。

エリザが目ざとく言った。

「右目を閉じたわね」

「少し楽なので」

カタリナがすでに記録していた。

右目、細線困難。左目使用時、読字可。太字有効。

日付とともに病状記録が増えていく。恥ずかしいが、必要だ。自分の身体さえ、今は記録対象だった。そうしてできるだけ守られねば。持たせなければ。オイラーがなすべき仕事は多い。

外では馬車の車輪が凍った道を削る音がした。あの音も運動だ。位置が変わり、速度があり、雪に足を取られ、止まる。橋の次は、動くものすべてが問題になる。

俺は草稿の余白へ書いた。

『位置とは、物体が時刻ごとに占める場所』

エリザがすぐに赤を入れる。

「時刻ごと、は重要です。残します。占める場所、は少し重いですが許容」

アレクセイが言う。

「馬車なら、場所だけじゃなく向きもいる」

「今は入口です」

「入口で転ぶなよ」

「あなたもエリザみたいなことを言い始めましたね」

「やめろ。縁起が悪い」

エリザが冷たく見る。

「聞こえてるわよ」

カタリナが小さく笑った。

その笑いで、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。熱病の湿った匂いの中に、朝のパンと薬湯の匂いが戻ってくる。俺は黒パンをひと口かじった。硬い。だが、味がある。生きている味だ。

校閲者の黒い文字は、まだ紙の端に残っていた。

【見えぬ目で、運動を語るな】

俺はその横に、大きく書いた。

『Ergo visibile faciamus.(なら、見える形に変える)』

カタリナが、その文字をさらに大きく清書した。

今度は右目でも、はっきり読めた。