作品タイトル不明
第30話 熱病の右目
右側の世界が、少し遅れて戻ってきた。
最初は、蝋燭の火が二重に見えただけだった。
次に、机の端が滲んだ。
それから、カタリナの顔の右半分が、薄い水の向こうにあるようにぼやけた。
「レオンハルト様!」
カタリナの声が近い。
けれど、その声もどこか遠くから聞こえた。
広間の床板の匂いが強い。濡れた毛皮、古い紙、暖炉の煙、川から上がる泥の匂い。その全部が、急に鼻の奥へ押し寄せてくる。
俺は机に手をついた。
指先に紙のざらつきがある。
七本の橋の骨格図。
正式記録。
条件変更表。
都市名保全記録。
そこに、俺の指が触れていた。
「大丈夫です」
言ったつもりだった。
声は出た。
だが、自分でも嘘だとわかった。
「大丈夫な顔じゃない」
エリザが言った。
いつもの冷たさより、少しだけ速い声だった。
「座ってください」
「まだ、正式記録が」
「正式記録は私が見ます」
「図は私が持ちます」
カタリナが言った。
「表は俺が見る」
アレクセイの声。
「地図は私が」
マティアス。
「橋は俺が証言する」
ハインリヒ。
次々と声が重なる。
市参事会の代表も、商人も、老婆も、何かを言っている。
だが、言葉の輪郭がぼやける。
音だけが、川の水のように耳の奥を流れていく。
俺は、笑おうとした。
「つながってますね」
「何を言っているのですか」
エリザの声が近づいた。
「熱があります」
カタリナの手が、俺の額に触れた。
冷たい。
いや、彼女の手が冷たいのではない。
俺の額が熱いのだ。
「かなり熱いです」
「少し疲れただけです」
「嘘です」
即答だった。
カタリナは俺の腕を取った。
細い手なのに、力が強い。
「立てますか」
「立てます」
立とうとした。
膝が笑った。
床が少し斜めになった。
誰かが背中を支える。
アレクセイだった。
「立てていない」
「すまない」
「謝るな。重い」
「そこは黙って支えてください」
「うるさい患者だ」
患者。
その言葉が、やけに胸に残った。
俺は病人なのか。
いや、違う。
まだ倒れている場合ではない。
七本の橋は守った。
都市の名も残った。
だが、正式記録を最後まで見届けなければ。
そう思った瞬間、右目の奥が鋭く痛んだ。
針で刺されたような痛みではない。
熱い布を押し当てられたような、鈍く重い痛み。
右側の視界が、また白く揺れた。
「……右が」
思わず呟いた。
カタリナの顔色が変わる。
「右?」
「右側が、少し」
エリザが息を呑んだ。
「目、ですか」
「大丈夫です」
「その言葉は禁止にしましょう」
彼女は強く言った。
「あなたの大丈夫は、ほとんど大丈夫ではありません」
アレクセイが俺を椅子へ押し込んだ。
「座れ。橋は逃げない」
「橋は逃げなくても、記録は」
「逃げたら追う。今は座れ」
乱暴だ。
だが、ありがたい。
椅子に座ると、身体の芯から寒気が上がってきた。
暖炉の火がある。
部屋は人で温まっている。
なのに、背骨の奥が氷のように冷たい。
額だけが燃えるように熱い。
「医師を呼びます」
カタリナが言った。
「待ってください」
「待ちません」
「正式記録の封だけ」
「待ちません」
初めて、彼女が俺の言葉を完全に切った。
声は静かだった。
でも、絶対に譲らない声だった。
「あなたが倒れれば、記録を見る目も、声も、手も失います」
「でも」
「私たちがいます」
その一言で、俺は黙った。
私たち。
カタリナだけではない。
エリザがいる。
アレクセイがいる。
マティアスがいる。
ハインリヒがいる。
市参事会も、商人も、老婆も、書記たちもいる。
さっきまで対立していた人々が、今は同じ記録の周りに集まっている。
橋を通じて、つながった人々。
俺は、それを見たかった。
右目では、もう少し滲んでいる。
でも左側には見えている。
エリザが正式記録の文面を確認している。
「七本の橋のまま、不可能性を記録。条件変更表を添付。八本目は改変線として封印」
アレクセイが配送表を出す。
「商人用、軍用、市民用、修繕用。全部ある」
マティアスが地図を広げる。
「七本版地図。骨格図を添える。ただし、地図は地図として残す」
ハインリヒが太い声で言う。
「七本の橋の修繕責任者として証言する。八本目はない」
老婆が杖を床に鳴らす。
「市民にも伝える。探してもなかった。でも明日から少し楽になる」
市参事会の代表が、震える手で署名する。
商人も、不満そうにしながら署名する。
将校も。
アンナはそのすべてを見て、短く言った。
「宮廷記録にも残す。橋は増やさない」
イワンが微笑む。
「八本目の嘘も、嘘として保管します」
「変な書き方をしないでください」
俺が言うと、声がかすれた。
イワンは軽く頭を下げる。
「努力しましょう」
「努力では足りません」
カタリナが言った。
俺は少し笑った。
笑っただけで喉が痛んだ。
エリザが最後に、正式記録を読み上げた。
「ケーニヒスベルクの七つの橋について、一度ずつ全橋を渡る道は存在しない。理由は、四つの陸地すべてが奇数本の橋に接続しているためである」
静かな声だった。
けれど、その声は広間の隅まで届いた。
「ただし、都市の運用については条件を分解し、商業、軍務、市民生活、修繕の各目的に応じた経路を別に定める。橋の本数は七本のまま記録する」
カタリナが続けた。
「八本目は、改変線として封印。橋として認めず」
マティアス。
「七本版地図を正とする」
ハインリヒ。
「七本の橋を七本のまま守る」
アレクセイ。
「条件変更表と配送表を添付する」
アンナ。
「宮廷は、七本版記録を認める」
市参事会。
「市は、七本の橋のまま対応する」
最後に、書記が封を押した。
鈍い音がした。
ごん。
その音は、バーゼル問題の時の封印音とは違った。
あの時は、名が刻まれる音だった。
今度は、都市の骨格が守られる音だった。
俺は、椅子に座ったまま目を閉じた。
「終わった……」
「まだ終わっていません」
エリザの声。
「次は、あなたの治療です」
「厳しい」
「当然です」
カタリナが俺の肩に外套をかけた。
毛皮の匂いがする。
彼女の手が、俺のこめかみの横に触れる。
「右目、まだ見えますか」
俺は右目だけで見ようとした。
カタリナの顔が、ぼやけている。
左で見ると、はっきりする。
右で見ると、水の向こうの絵のように滲む。
「見えます」
「どのくらい」
「少し、滲みます」
カタリナの唇が引き結ばれた。
泣きそうにはならない。
この人は、こういう時ほど泣かない。
その代わり、全部覚える顔をする。
俺の熱。
俺の目の動き。
声のかすれ。
右側の滲み。
全部、記録する顔だ。
「医師を呼びます」
「はい」
今度は逆らわなかった。
広間を出る時、足が重かった。
床板が波打つように感じる。
アレクセイとハインリヒが両側から支えた。
「軽いな」
ハインリヒが言った。
「数学者だからな」
アレクセイが返す。
「脳みそが重いだけだ」
「失礼な」
俺が言うと、二人が同時に鼻で笑った。
カタリナは前を歩き、扉を開ける。
外の空気が流れ込んだ。
冷たい。
肺に刺さる。
その冷たさが、一瞬だけ熱を冷ましてくれた気がした。
だが、すぐに身体が震えた。
馬車に乗せられる。
毛布をかけられる。
車輪が凍った道を軋ませる。
窓の外で、ケーニヒスベルクの街が流れていく。
橋が見えた。
七本のうちの一つ。
右目では、その橋の輪郭がぼやけていた。
でも、左目では見える。
木の欄干。
川の黒い水。
渡る人影。
橋は残った。
都市は消えなかった。
そのことだけは、はっきりわかった。
「レオンハルト様」
カタリナが隣で言った。
「眠らないでください」
「眠いです」
「だめです」
「少しだけ」
「だめです」
彼女の声が、普段より少し強い。
「では、話してください」
「何を」
「橋のことを」
「さっき終わりました」
「終わっていません。あなたが意識を失わないためです」
なるほど。
看病という名の尋問だ。
「橋は」
俺はゆっくり言った。
「線ではありません」
「はい」
「でも、線として見ると、つながり方が見えます」
「はい」
「人も、同じです」
「はい」
「商人も、軍も、職人も、地図師も、市民も、みんな別々の点でした」
「はい」
「でも、橋の問題で、少しつながった」
「はい」
カタリナは頷き続ける。
俺が途切れないように。
声が消えないように。
「カタリナ」
「はい」
「右が滲みます」
彼女の手が、俺の手を握った。
冷たい指。
でも、力強い。
「今は、私が見ます」
その言葉で、胸が詰まった。
いつか来る言葉だと思っていた。
でも、こんなに早く聞きたくはなかった。
俺は歴史を知っている。
1735年。オイラーは最初の大病を患い、それはやがて彼の視力を奪う。
馬車が揺れる。
遠くで鐘が鳴った。
その音が、水の中から聞こえるように遠かった。
宿へ着く頃には、熱がさらに上がっていた。
医師が呼ばれた。
苦い薬の匂い。
濡らした布。
熱い額。
寒い指先。
カタリナの声。
エリザの低い指示。
アレクセイが外で何かを怒鳴っている。
ハインリヒが水を運ぶ。
マティアスが地図を保管する場所を確認している。
みんなの声が、点のように遠くにある。
それでも、つながっている。
俺は、うわごとのように呟いた。
「橋は……線じゃない」
カタリナが答える。
「はい」
「つながりだ」
「はい」
「都市は?」
「残りました」
「七本?」
「七本です」
「八本目は?」
「嘘として封じました」
「よかった」
それだけ言うと、意識が沈みかけた。
カタリナの手が、俺の手を強く握る。
「こちらへつながっていてください」
その声だけが、暗くなる世界の中で残った。
夜が明けたのか、まだ夜なのか、わからなかった。
熱の底で目を開けた時、最初に見えたのは白い布だった。
次に、カタリナの顔。
左側は、はっきりしていた。
右側は、水に溶けた絵のように滲んでいた。
俺は、瞬きをした。
変わらない。
右側だけが、白い。
カタリナが、俺の目を見て息を呑んだ。
「レオンハルト様」
俺は答えようとした。
声が出なかった。
喉が焼けるように痛い。
それでも、どうにか口を動かした。
「橋は……」
カタリナは、すぐに答えた。
「守りました」
俺は少しだけ笑った。
都市は消えなかった。
橋も残った。
だが、俺の右側の世界だけが、少し白くなっていた。