軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第32話 図が滲む

アカデミーの廊下は、病み上がりの身体には長すぎた。

石床から上がる冷気が靴底を通って骨に届く。窓の外は白い曇天で、雪明かりだけが壁を鈍く照らしていた。カタリナが大きく清書してくれた紙束を抱え、俺は右目を細めながら歩いた。左側の壁の継ぎ目は見える。右側に並ぶ肖像画は、白い膜の向こうでぼやけている。名前の札だけが、にじんだ黒い帯になっていた。

カタリナは半歩後ろを歩いている。彼女の足音は静かだが、俺が少しでもふらつくとすぐ近づく。手には図版筒と、太字で書き直した位置、速度、変化の紙。彼女は俺の目を支える準備を、道具として持っていた。

「無理をなさっていませんか」

「していません」

「廊下の右側を見ていません」

「左側に重要な壁があるので」

「壁は逃げません」

返す言葉がない。彼女の柔らかい声は、いつも逃げ道を塞ぐ。だから、まっすぐ歩ける。

エリザは先に会議室へ入っていた。扉を開けると、羊皮紙の粉っぽい匂いと、古いインクの酸っぱい匂いが鼻に入った。部屋の中央の大机には、巨大な幾何図が広げられている。円弧、斜面、振り子、力の矢印。黒い線は細く、美しい。その美しさが、右目には苦痛だった。線が二本に割れ、紙の上で震えているように見える。

机の向こうに、見知らぬ老学者が立っていた。背は高くないが、姿勢はまっすぐで、白い髪を後ろで束ねている。指には古いインク染みがあり、服の袖口は几帳面に整えられていた。彼は俺を見ると、礼というより観察のために顎をわずかに引いた。

「レオンハルト・オイラー殿」

「はい」

「セミョン・オルロフです。幾何と力学を講じております」

声は乾いていた。木の定規で机を叩くような声だった。

「お噂は聞いています」

「こちらもです。無限を円へ結び、橋を点と線へ潰し、今度は運動を図なしで語るそうですね」

どうして初対面の人間は、こうも最初から刺してくるのだろう。思い当たる節がありすぎて困る。

アレクセイが窓際で鼻を鳴らした。いつの間に来ていたのか、腕を組み、壁にもたれている。

「挨拶が古いな、先生」

オルロフは彼を見ない。

「若い計算官は、黙って数字を並べていなさい」

「数字なしで砲も船も動くなら、見せてもらいたいものだ」

「実務の粗雑さを学問へ持ち込むな」

「粗雑なのは実務じゃない、現実だ。まあ、 現実(それ) を無視できるっていう学問も、たいがいだが」

会議が始まる前から火花が散る。

エリザが机の横で冷静に言った。

「口論は後です。論点を明示してください」

オルロフはようやくエリザを見た。

「あなたがベルヌーイ家の検討者ですか」

「エリザ・ベルヌーイです。正式席次はありませんが、定義の不備は見えます」

「女が定義を裁く時代になりましたか」

「不備に性別はありません。貴方の時代にはありましたか?」

空気が一瞬凍った。アレクセイが小さく笑い、カタリナは困ったように目を伏せた。オルロフは表情を変えなかったが、目だけが少し鋭くなった。

「では、定義から行きましょう。オイラー殿、運動は図で示すものです。軌道、円、接線、弦、力の向き。これらを描かずに、何を理解するのですか」

彼は机の幾何図を指した。細い線。正確な円。美しい接線。右目で見ると、接線が円から離れて見えたり、重なって見えたりする。俺は目を細めた。失敗だった。オルロフはそれを見逃さなかった。

「図が読みにくいのですか」

部屋が静まる。

カタリナの手が、図版筒を握り直す気配がした。エリザは何も言わない。アレクセイも黙った。俺は、右目を隠すように顔の角度を変えた。

「病み上がりですので。細線が少し、朝の光で滲みます」

「あなたが見えないからといって、図を追放するのは不当だ。学問は万人に開かれている」

オルロフは冷たく言った。

「図は真理を明瞭にします。滲む目で式に逃げるのは、学問ではなく逃避です」

その言葉は、胸の奥に落ちた。

逃げているのか。

図が滲むから式へ逃げるのか。

俺は、机の上の図を見た。たしかに美しい。ニュートンの幾何的な力学は、図だけで世界を掴むような強さがある。だが、動いているものを一枚の図に閉じ込めることで消えるものがある。見えなくなるものがある。

俺は深く息を吸った。紙と羊皮紙の乾いた匂いが肺に入る。

「図は、運動を一瞬の中を止めてしまいます」

オルロフの眉が動いた。

「何ですと?」

「図は、物体がある瞬間にどこにいるかをよく見せます。接線も、弧も、力の向きも、美しく描ける」

「当然です」

「ですが、運動は一瞬ではありません。次の瞬間があります。その次もあります。変化します」

俺は、カタリナに目を向けた。

「例の紙を」

「はい」

カタリナは図版筒から、太い黒線で描いた紙を取り出した。彼女の助けを借りて、病室で作ったものだ。位置。速度。変化。文字は大きく、右目でも読める。彼女はそれを机の上に置く時、オルロフの幾何図を傷つけないよう、紙の端をきれいに揃えた。

「こちらはなんというか、粗い図ですね」

オルロフが言った。

「はい。粗いです」

カタリナが柔らかく答えた。

「ですが、オイラー殿の右目でも読める大きさです」

逃げ場を塞がれた。

オルロフの視線が俺へ戻る。だが、もう隠しても仕方ない。カタリナが言った以上、この場では事実になった。

エリザが淡々と言う。

「病状の隠蔽は議論の阻害要因よ。以後、右目の読図困難を前提に進行しましょう」

「配慮ではなく前提なんですね」

「当然です。条件を明示しなければ、証明は腐ります」

アレクセイがぼそっと言う。

「相変わらず言い方がひどいな」

「その方が有効ですから」

有効だ。悔しいが、有効なら仕方がない。

俺は太字の紙を指した。

「位置とは、物体が時刻ごとに占める場所です」

オルロフは腕を組む。

「そんなものは図に描けばよい」

「はい。ある時刻の特定の場所だけなら」

俺は、別の紙に点を三つ描いた。大きく、離して。カタリナがすぐに横へ時刻を書き添える。一、二、三。砂時計の絵も小さく添えた。

「時刻が変わると、位置も変わる。この変わり方を追いたいのです」

「線で結べばよい」

「結べます。特定の物体の特定の変化だけなら。ただ条件が変わったとき、その線がどれだけ速く進むか、次にどう曲がるかは、図だけでは足りないことがあります」

条件が変われば、運動は変わる。位置、速度、加速度……が変わる。そのすべてを図に落とすことは難しい。式ならできる。

アレクセイが窓際から言った。

「馬車なら、今いる場所だけじゃ足りねえ。次に滑るかどうかが問題だ」

オルロフは不快そうに彼を見た。

「実務の話ばかりだな」

「実務では死人が出る。図に描けるだけじゃ足りないんだ」

その言葉で、少しだけ空気が沈んだ。

エリザが紙を一枚取った。

「オイラー殿、説明がまだ曖昧です。あなたは位置、次に速度を扱いたい、という。では、速度とは何ですか」

「位置の変わり方です」

「何に対する変化ですか」

「時間です」

「その時間は、どう記録しますか」

そう、それが重要だ。力学とは、つまるところ時間の作用を扱う学問だから。

カタリナが砂時計を机に置いた。さらさらと砂が落ちる。小さな音だが、会議室では不思議に大きく感じられた。

「この砂が落ちる間に、点がどれだけ動くか」

俺は言った。

「それを比べれば、速さを扱えます」

オルロフは沈黙した。

完全には納得していない。だが、ただの逃避としては片づけられなくなった顔だった。

「オイラー殿。あなたは、図を捨てるつもりですか」

「いいえ」

俺は即答した。

「図は必要です。カタリナの図がなければ、私は多くを説明できません。問題を考えることも難しい。ただ、図だけでは、動きの変化を捉えきれない。だから式を足します」

「式を足す?」

「はい。幾何を捨てるのではありません。動くものとその変化を追うために、式を足すのです」

エリザの羽ペンが止まった。

「今の表現は有効です」

「珍しく即採用ですか」

「内容が明確でした。珍しく」

アレクセイが吹き出しかけ、咳で誤魔化した。

オルロフは机の上の二つの紙を見た。精密な幾何図と、太い字の粗い定義。彼の指が、羊皮紙の端を撫でる。粉っぽい白い屑がわずかに落ちた。

「図は、長い時間をかけて磨かれてきた言語です」

「はい」

「あなたの式は、若すぎる」

「そうかもしれません」

「若いものは、しばしば現実を壊す」

その通りだ。だが若いものはまた、現実の不足から生まれる。

「なら、壊さないように定義したい」

オルロフは、初めて少しだけ目を細めた。

「その定義、私が検証する」

挑戦状だった。

「お願いします」

「甘ければ切る」

「エリザと同じことを言いますね」

エリザが即座に言った。

「同列にしないで。私はもっと容赦なく切るわ」

オルロフが、わずかに口元を動かした。笑ったのかもしれない。

その時、机の上の古い幾何図が、かすかに黒く滲んだ。

カタリナがすぐに反応した。

「図の矢印ではありません。円の接線が……少しずれています」

俺は右目を使わず、左目で見た。たしかに、一本の細い接線が円からわずかに浮いている。だが、オルロフの図の線は精密で、そんなずれがあるはずがない。

オルロフの顔色が変わった。

「私の図が」

カタリナは紙に顔を近づけた。

「この線だけ、筆圧が違います。後からずらされています」

校閲者だ。

今度は、図を狙った。

【見えぬ目で、運動を語るな】

病室の黒い文字が思い出される。

図に頼れば、図をずらす。

式を頼れば、逃避だと責める。

本当に、性格が悪い。

オルロフは、震える手で自分の図を押さえた。

「この図は、私が描いた。こんなずれはない」

「記録します」

カタリナが即座に言った。

「オルロフ様の元図。接線改変。筆圧差あり」

エリザが続ける。

「図が改竄されるなら、図だけを根拠にできません」

オルロフが彼女を見る。

悔しそうだった。

だが、反論しなかった。

俺は静かに言った。

「図を守るためにも、式が必要です」

オルロフは、しばらく黙っていた。やがて、低く言った。

「図が嘘をつくなら、式で照合する」

「はい」

「式が嘘をつけば?」

アレクセイが言う。

「数表で殴る」

エリザが言う。

「定義で拘束する」

カタリナが言う。

「紙の痕で見ます」

三人の答えが並んだ。

俺は、少しだけ笑いそうになった。

オルロフは、そんな俺たちを見て、深く息を吐いた。

「奇妙な一団だ」

「よく言われます」

「だろうな」

彼は、自分の幾何図を巻き取らず、机の上に残した。

「見せてください、オイラー殿。あなたの、式で見る運動を」

その言葉は、承認ではない。

試験だ。

だが、門は開いた。

俺は太い字の紙を前へ出した。位置。時間。変化。速度。

外では、凍った道を馬車が通り過ぎる音がした。車輪が石を噛み、鉄が雪を削る。運動は部屋の外にもある。図の中にも、式の中にも、現実の冷たい道にも。

次は、それを捕まえる番だった。