作品タイトル不明
第18話 記号を捨てろ
π の記号が、草稿から剥がれ落ちていく。
転生直後から、俺が当たり前のように使ってきた印。
円周率。
円周と直径の比。
それを表す、未来では誰もが知っている記号。
そのπだけが、次々と白く抜けていった。
「円は?」
エリザが叫ぶ。
カタリナが図版を開く。
「残っています!」
「数表は?」
アレクセイが自分の帳面を押さえた。
「値は残っている。近似値も消えていない!」
「では、何が消えている?」
アンナが低く問う。
俺は、白く抜けた草稿を見た。
式は壊れている。
1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + …… = □²/6
右辺の中心だけが抜けている。
だが、円の図は残っている。
円周と直径の線も残っている。
カタリナが描いた丁寧な図も。
アレクセイが検算した近似値も。
エリザのE番号も。
残っている。
消えたのは、πという印だけだ。
「……そういうことか」
俺は呟いた。
「何がですか」
カタリナが見る。
「校閲者は、円を消せなかった」
俺は白く抜けた式を指した。
「円周と直径の比も、値も、図も消していない。消したのは、俺が使ってきたこの印だけです」
エリザが目を細めた。
「やはり、この記号は時代から浮いていた」
「はい」
「今まで便利に使いすぎましたね」
「反省しています」
「今すぐ反省を証明に切り替えてください。その記号を残すつもりなら」
本当に容赦ない。
でも、その通りだ。
俺は未来の便利さに甘えていた。
π。他ならぬオイラーが普及させ、未来に届けた記法。
一文字で済む。
誰でも意味がわかる。
未来なら。
だが、この時代では違う。
少なくとも、まだ正式な記録として深く根づいているとは言えない。
校閲者はそこを突いた。
歴史にまだ定着していない印。
未来から来た俺の癖。
それを剥がした。
「一旦、記号を捨てます」
俺は言った。
広間がざわつく。
「捨てる?」
アレクセイが聞き返す。
「その印なしで、どう発表する」
「印がなくても、関係は残っています」
俺はカタリナの図版を取った。
円。
直径。
円周。
線は、まだそこにある。
「円周と直径の比」
俺は言った。
「この言葉で呼びます」
エリザがすぐに紙を出す。
「長いです」
「知っています」
「発表中に何度も言うと、聴衆が疲れます」
「では、最初に定義します」
「どのように」
俺は板の前に立った。
白く抜けた式の横に、記号ではなく文章を書く。
円のまわりの長さを、その直径で割った比。
その比の二乗を六で割る。
「これで、右辺を表します」
アレクセイが眉をひそめる。
「長い」
「記号を奪われたので」
「それでは数表に向かない」
「だから補助表を使います」
俺はアレクセイの数表を指した。
「あなたが検算した近似値です。記号がなくても、値は追える」
アレクセイは一瞬黙り、すぐに帳面を開いた。
「円周と直径の比。近似値。二乗。六で割る。有限和との比較表」
「できますか」
「誰に言っている」
彼は羽ペンを取った。
「数表で殴る役だろ」
エリザが小さく頷く。
「悪くありません」
「かなり褒めてます?」
「少しです」
いつも通りだ。
そのいつも通りに、少し救われた。
カタリナは図版を広げる。
「では、図で示します」
「お願いします」
「円周を糸で測る図を足します。直径と比べる形にすれば、印がなくても意味が伝わります」
「糸?」
「父の工房で使います。曲線を写す時に」
「それ、使えます」
カタリナはすぐに別紙へ描いた。
円の外周に沿う糸。
それを伸ばして直径と並べる図。
円周は直径の三倍より少し長い。
その直感が見える。
神学者が、その図を覗き込んだ。
「これは、わかりやすい」
カタリナが少し驚いた顔をした。
「ありがとうございます」
「秩序を写す図だ」
公開検討会の言葉が、戻ってきた。
秩序を写す。
図は残っている。
言葉は残っている。
数表は残っている。
なら、まだ戦える。
そしてその後、π を取り戻す。
イワンが宮廷報告書を見ながら言った。
「しかし、正式記録では簡潔な表記が求められます」
「簡潔さで歴史が壊れるなら、長く書きます」
俺は答えた。
「宮廷の書記が嫌がりますよ」
「書記に苦労してもらいます」
イワンが笑った。
「今日のあなたは、宮廷に優しくない」
「いつも優しいつもりはありません」
アンナが静かに言った。
「では、記録上はこう扱いましょう。円周直径比」
「略しすぎでは」
エリザが眉をひそめる。
アンナは首を振る。
「正式文には定義を添える。以後の記録では、円周直径比。記号は使わない」
「宮廷記録としては妥当です」
イワンが言う。
「記号を消されても、言葉で残る」
カタリナが書き留める。
円周直径比。
その文字は消えない。
πではない。
だが、意味はそこにある。
俺は息を吸った。
「つまり、こうです」
板に書く。
一、二、三、四と続く数の二乗の逆数を足していく。
その和は、円周直径比の二乗を六で割った値に近づく。
長い。
美しくはない。
だが、消えない。
「美しくないですね」
アレクセイが言った。
「わかっています」
「だが、残る」
「はい」
「なら、それでいい」
エリザが草稿を見た。
「問題は、零点と積の部分です。そこでも印を使っていました」
「全部言葉にします」
「時間がかかります」
「正式発表の前に、説明版を作る」
「今から?」
「今から」
全員が一瞬黙った。
そして、同時に動いた。
エリザが危険箇所を洗い出す。
「E1、零点から積への飛躍。ここは記号を使わず、円から生じる長さが消える場所、と言い換えます」
カタリナが図を描く。
「π、2π、3πと書いていた場所は、半回転、一回転半、二回転半……いえ、違いますか」
「そこは調整します」
俺が言う。
「円周直径比の一倍、二倍、三倍に対応する場所、としましょう」
アレクセイが数表に補助値を書く。
「近似値は残っている。記号がなくても、数値の列で押せる」
アンナは宮廷用記録を整える。
「正式報告では、記号消失を記録事故として扱います」
「事故?」
「現象、と書くと宮廷が食いつきすぎる」
「もう食いついています」
「さらに、です」
イワンが薄く笑う。
「記録事故。便利な言葉ですね」
「便利すぎる言葉は嫌いです」
エリザが言った。
「それでも使います」
アンナは返した。
強い。
全員が、それぞれの場所で動いている。
俺一人ではない。
公開検討会の頃なら、πが消えた時点で詰んでいたかもしれない。
今は違う。
エリザが言葉を直す。
カタリナが図で支える。
アレクセイが数値で押す。
アンナとイワンが宮廷記録を整える。
ダニエルの書簡が名を支える。
二年間で作った網が、ここでも働いている。
「レオンハルト様」
カタリナが言った。
「この図で、円周直径比を説明できます」
彼女が広げた紙には、円と糸と直径が描かれていた。
さらに、糸を直径何本分かに並べた図。
三本と少し。
誰が見てもわかる。
「すごい。これは強い」
俺は言った。
「数式より?」
「入口としては、数式より強い」
カタリナは少しだけ目を伏せた。
「では、よかったです」
エリザが横から言う。
「入口だけです。奥は数式です」
「わかっています」
「でも、入口が閉じていれば誰も奥へ来ません」
エリザはカタリナの図を見て言った。
「よい図です」
カタリナが、ほんの少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
その瞬間、白く抜けていた草稿の余白に、黒い文字が浮かんだ。
【印なくして、何を残す?】
校閲者の問い。
俺は即座に答えた。
「関係だ」
広間が静まる。
俺は板に手を置いた。
「印がなくても、円はある。円周と直径の比はある。有限和はある。近づく値はある。零になる場所はある。係数の比較はある」
黒い文字が揺れる。
俺は続けた。
「数学は印ではない。関係なんだ」
その言葉で、黒い文字が薄れ始めた。
完全には消えない。
だが、弱まる。
エリザが静かに言った。
「検討会の言葉が戻りましたね」
「はい」
「ようやく、少しは自分の言葉になりましたか」
「たぶん」
「たぶん、では困ります」
「かなり」
「よろしい」
アレクセイが数表を持ってくる。
「円周直径比の近似値。二乗。六分の一。有限和との比較」
「ありがとう」
「あなたのためではない」
「名前のため?」
「仕事のためだ」
それは、前より良い答えだと思った。
俺はその表を受け取る。
数値は証明ではない。
完璧ではない。
だが、十分に示せる。
有限和が、その値へ近づくことを。
「発表まで、どれくらいです?」
俺が聞くと、書記が青い顔で答えた。
「鐘が鳴るまで、四半刻ほどです」
短い。
だが、やるしかない。
「草稿を再構成します」
エリザが言う。
「記号なし版です」
「間に合いますか」
「間に合わせるのです」
カタリナが図版を整える。
「図は三枚。円、糸、比」
アレクセイが表を渡す。
「近似表は二枚」
アンナが指示を出す。
「宮廷記録は、記号消失後の表現に統一」
イワンが書記へ命じる。
「円周直径比。定義を添えること」
俺は羽ペンを取った。
白く抜けたπの跡を見つめる。
そこに、もうπは書かない。
未来の便利な印を、一度捨てる。
この時代の紙に、この時代の言葉で残す。
それが、オイラーとして立つということなのかもしれない。
ならば、きっとこの先オイラーとして、πを取り戻せるはず。
俺は書いた。
円周と直径の比。
その文字は、白くならなかった。
「残った」
カタリナが呟く。
「残りましたね」
エリザが言う。
「では、進めましょう」
四半刻は、ほとんど戦争だった。
削る。
書き直す。
図を差し替える。
表を入れる。
E番号を対応させる。
記号なしの説明へ置き換える。
俺の頭は焼けそうだった。
だが、止まらなかった。
鐘の音が聞こえた。
一つ。
重い音。
発表開始の合図。
広間の空気が変わる。
人々が席へ戻る。
紙が整えられる。
俺は、完成したばかりの記号なし草稿を持った。
手が震えている。
カタリナが図版を抱えて隣に立つ。
エリザがE番号表を持つ。
アレクセイが近似表を持つ。
アンナとイワンが宮廷記録を構える。
神学者が、静かに目を閉じている。
俺は深呼吸した。
「行きます」
エリザが言った。
「余計なことは言わずに」
カタリナが言った。
「図を見る時は、ゆっくり」
アレクセイが言った。
「数値を間違えるな」
「全員、注文が多い」
「全部、必要です」
三人の声が重なった。
俺は少し笑った。
そして、壇上へ向かった。
その時、壇上の板に、最後の黒い文字が浮かんだ。
【印を捨てたなら、次は声を奪う】
俺は足を止めた。
発表の鐘は、もう鳴っていた。