作品タイトル不明
第19話 バーゼル正式解
【印を捨てたなら、次は声を奪う】
壇上の板に浮かんだ黒い文字を見て、俺は足を止めた。
発表の鐘は、もう鳴っている。
広間の視線が、こちらに集まっていた。
ここで止まれば、発表は始まらない。
だが、声を奪う。
その意味はわかる。
記号を消されても、言葉で残せばいい。
言葉を封じられたら?
俺は、この草稿をどう発表する。
「レオンハルト様」
カタリナが小さく呼んだ。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」
「では、言い直します」
彼女は図版を抱え直した。
「声が出なくても、図は出せます」
エリザが横から言う。
「声が出るうちに、最初の定義だけ言ってください」
アレクセイも近づく。
「数表は私が読める」
「あなたが?」
「あなたの声が奪われたらな」
アンナが静かに言った。
「宮廷記録官も読み上げられますよ」
イワンが薄く笑う。
「私の声でよければ」
「それは嫌です」
思わず言った。
声は出た。
まだ奪われていない。
エリザが俺の足を軽く蹴った。
「余計な返事で声を使わない」
「はい」
黒い文字は、まだ板にある。
印を捨てたなら、次は声を奪う。
脅しだ。
だが、最初からずっとそうだった。
脅しは、行動を止めるためにある。
なら、止まらない。
俺は壇上へ上がった。
広間が静まる。
俺は手元の草稿を見た。
記号なし版。
πはない。
そこには長い言葉がある。
円周と直径の比。
美しくはない。
だが、残る。
「本日は」
俺は声を出した。
喉は、まだ動く。
「一、二、三、四と続く数の二乗。その逆数を足し合わせる級数について、述べます」
広間が静まる。
第一部の頃より、聴衆は多い。
学者。
書記。
宮廷人。
神学者。
航海局。
工房関係者。
そして、数表を抱えたアレクセイ。
図版を抱えたカタリナ。
E番号表を持つエリザ。
俺は一人ではない。
「まず、答えを示します」
ざわめきが走る。
俺は板に書いた。
1 + 1/4 + 1/9 + 1/16 + ……
その先に、かつてならπ²/6と書いた。
だが、今日は違う。
俺はゆっくり書く。
円周と直径の比。
その二乗。
それを六で割った数。
長い。
格好悪い。
だが、黒い文字は消えない。
「この級数は、この値へ近づきます」
一人の学者が手を上げた。
「なぜ、いつもの印を使わないのですか」
来た。
当然来る。
俺は答えた。
「本日の草稿では、記号に頼りません」
「なぜ」
「記号は便利です。しかし便利な印がなくても、円はあります」
俺はカタリナを見る。
彼女が図版を掲げた。
円。
直径。
糸で測った円周。
それを直線に伸ばし、直径と比べた図。
「円周と直径の比は、図で示せます。言葉で定義できます。数値で近似できます」
アレクセイが数表を掲げる。
「近似表はこちらです」
彼は不機嫌そうに、しかし正確に続けた。
「円周と直径の比を取り、その二乗を六で割った値。有限和の二十項、五十項、一百項に対する比較です」
広間の何人かが身を乗り出す。
アレクセイは淡々と読み上げた。
数字。
誤差。
近づき方。
実務計算官の声は、硬いが信用できる。
「完全な一致ではない」
反対派の学者が言う。
アレクセイは即答した。
「有限和だからです」
広間に小さな笑いが起きた。
「項を増やせば近づきます。誤差の方向も記録してあります」
俺は頷いた。
「有限から近づく。これが第一の入口です」
そこで、喉に違和感が走った。
声が、少しかすれた。
来たか。
俺は一瞬だけ黙った。その一瞬で声が出なくなった。
エリザがすぐに前へ出る。
「第二の入口は、円から生じる長さです」
広間の視線が彼女へ向く。
エリザ・ベルヌーイ。
正式な発表者ではない。
だが、Eとして残る検討者。
彼女は怯まなかった。
「この長さは、特定の場所で零になります。円周と直径の比の一倍、二倍、三倍に対応する場所です」
俺は息を整える。
声はまだ戻らない。
エリザは続けた。
「その零になる場所を手がかりとして、積の形を考える。ここには飛躍があります」
反対派の学者が笑う。
「認めるのか」
「認めます」
エリザは言った。
「だからこそ、E1として注意を残しました」
彼女はE番号表を掲げる。
「零点から積への移行は、最も危険な箇所です。しかし、危険だから捨てるのではなく、有限和と係数比較によって支える」
俺は喉を押さえながら、彼女を見る。
強い。
俺が声を失っても、証明は止まらない。
エリザの赤線が、声になっている。
カタリナが次の図を出した。
零点の図。
押し跡のある紙。
赤線ではなく、Eの符号。
「こちらが、E1の図版です」
カタリナの声は少し震えていた。
だが、よく通った。
「赤線は消されました。なので、符号と押し跡で残しました」
書記たちがざわつく。
「赤線が消された?」
「校閲者の件か」
カタリナは続けた。
「この証明は、一人の手だけではありません。危険な箇所を、検討者が示し、図版で残し、数表で支えています」
広間が静まり返る。
俺は息を吸った。よし。
声が戻るか。
「……その通りです」
かすれた声が出た。
小さい。
だが、出た。
「この証明は、私一人のものではありません」
エリザがこちらを見る。
カタリナも。
アレクセイも、わずかに目を伏せた。
「しかし」
俺は続ける。
「この名で歴史に残す責任は、私が負います」
Leonhard Euler。
名簿のその文字が、かすかに光った。
白化ではない。
刻まれる前の震えのように見えた。
俺は板へ向き直る。
「では、係数を比べます」
喉が痛い。
声が細い。
それでも言う。
「円から生じる長さを、一方では積の形として見る。もう一方では、級数の形として見る。そこに現れる二次の係数を比べる」
エリザが即座に補う。
「係数比較です。ここがE2」
カタリナが図を出す。
アレクセイが数表を指す。
「有限和の近似は、この比較と矛盾しません」
反対派学者が立ち上がる。
「だが、それはまだ完全な厳密性ではない!」
俺は彼を見る。
確かにそうだ。
現代数学の厳密さなら、穴はある。
だが、ここは十八世紀だ。
そして、発見には跳躍がある。
その先に未来がある。
俺は声を絞った。
「完全な城壁ではありません」
広間が静まる。
「ですが、これは道です」
喉が痛い。
でも、届いている。
「危うい道です。だから、転げ落ちないよう、赤線を残した。図を残した。数表を残した。証言を残した。後の者が直せるように」
エリザが目を見開く。
俺は続けた。
「数学は、完成した石像ではありません。次の者が登れる足場です」
黒い文字が、壇上の隅で揺れた。
印を捨てたなら、次は声を奪う。
その文字が、少し薄れる。
まだだ。
まだ消えない。
「そして、この足場の先に」
俺は板に手を置いた。
「無限と円がつながる」
カタリナが最後の図を掲げる。
円。
有限和。
円周直径比。
六分の一。
すべてが、一枚に収まっている。
「ゆえに」
俺は言う。
声が、ほとんど出ない。
エリザが隣に立つ。
アレクセイも前に出る。
カタリナも図版を掲げる。
俺一人の声ではない。
「一、二、三、四と続く数の二乗。その逆数を足し合わせる級数は」
エリザが続ける。
「円周と直径の比の二乗を」
アレクセイが続ける。
「六で割った値へ」
カタリナが、最後に言った。
「近づきます」
広間に沈黙が落ちた。
長い。
とても長い。
その後、一人の老学者が机に手を置いた。
「計算を」
すぐに数人が動く。
有限和の表。
円の図。
係数比較。
E番号。
近似値。
書記たちが紙を回す。
神学者が図を見ている。
宮廷役人が記録する。
イワンが、今回は笑っていなかった。
アンナは腕を組み、何も言わない。
反対派の学者は、何度も計算している。
「近い」
誰かが呟いた。
「確かに、近い」
「係数も合う」
「危ういが……」
「捨てるには、美しすぎる」
エリザが低く言った。
「美しいだけでは足りません」
俺は笑いそうになった。
声が出ないので、笑えなかった。
その時、黒服の神学者が立ち上がった。
「私は」
広間が静まる。
「この議論を、異端とはしない」
重い一言だった。
「彼らは無限を所有しようとしていない。有限から近づき、この世界の秩序を写そうとしている」
公開検討会からの言葉。
秩序を写す。
カタリナの顔が、少しだけ揺れた。
神学者は続ける。
「ならば、私が見る限り、これは冒涜ではない。探究である」
その瞬間、広間の空気が変わった。
異端の危険が、外れた。
少なくとも、この場では。
アカデミーの長老格の学者が立つ。
「本草稿を、レオンハルト・オイラーの名で正式記録へ進めることに、私は賛成する」
別の学者が頷く。
「検討継続。ただし、発見者名はオイラーでよい」
「図版と補注も保管すべきだ」
「数表も添えるべきだ」
アレクセイが小さく息を吐いた。
「俺の表もか」
「よかった、ですね」
俺がかすれ声で言うと、彼は横を向いた。
「仕事の名だ」
エリザがE番号表を閉じる。
「赤線も残ります」
カタリナが図版を抱きしめた。
「図も」
俺は、壇上に立ったまま、しばらく動けなかった。
勝った。
いや、完全な証明ではない。
まだ危うい。
まだ後世の厳密さには足りない。
だが、歴史に刻まれる。
Leonhard Eulerの名で。
この時代に。
この紙に。
この人々の記憶に。
名簿の上で、Leonhard Eulerの文字が黒く深く沈んだ。
今度は白化ではない。
紙に根を下ろすような黒さだった。
その瞬間、壇上の隅にあった黒い文字が消えた。
【印を捨てたなら、次は声を奪う】が消えていった。
俺は、喉の痛みを忘れて息を吐いた。
書記が大きな声で宣言した。
「二乗逆数級数に関するオイラー草稿、正式記録へ編入」
広間にざわめきが広がる。
拍手ではない。
十八世紀の学術会議らしい、低い唸りと紙の音。
だが俺には、それが拍手より大きく聞こえた。
カタリナが近づいてきた。
「レオンハルト様」
「はい」
声はかすれていた。
「残りました」
「はい」
「名前も」
「はい」
「図も」
「もちろん」
エリザが横から言う。
「赤線もです」
「はい」
アレクセイが不機嫌そうに加える。
「数表もな」
「ええ」
俺は笑った。
今度は、少しだけ声が出た。
「全部、残りました」
その瞬間。
広間の奥で、ぱきり、と音がした。
封蝋が割れる音だった。
全員が振り返る。
そこには、封印したまま保管されていた、あの封筒があった。
ケーニヒスベルクの橋の地図。
未検討。
解法なし。
出現記録のみ。
そう書かれていた封筒。
その封蝋が、今、ひとりでに割れていた。
カタリナが息を呑む。
エリザが表情を硬くする。
アンナが静かに呟く。
「次が来ましたね」
封筒が開く。
中から、地図が滑り出た。
川。
島。
七つの橋。
そして、黒い文字。
次は、橋を渡れ。
俺は、かすれた喉で呟いた。
「……休ませてくれよ」
だが、誰も笑わなかった。
地図の端に、さらに一行が浮かび上がったからだ。
【橋を解かねば、都市の名を消す】