作品タイトル不明
第17話 発表者を奪え
【Alexei Vorontsov】
補助発表者欄に浮かんだその名を見て、アレクセイ本人が真っ先に後ずさった。
「違う」
彼はかすれた声で言った。
「私は書いていない」
広間の視線が、一斉に彼へ向く。
さっきまで、Leonhard Eulerの名を守るために唱和していた人々が、今度は別の名を見てざわめく。
「ヴォロンツォフ?」
「航海局の計算官だろう」
「彼も補助発表者なのか」
「数表を作っていたと聞いたが」
俺は名簿を見た。
主発表者。
Leonhard Euler。
そこは守った。
だが、その下。
補助発表者。
Alexei Vorontsov。
本来なら空欄だった場所だ。
校閲者は、オイラーの名を消せなかった。
だから、空欄に別の名を差し込んだ。
「くそ……」
俺は思わず呟いた。
アレクセイは顔を青くしている。
「私は違う。私は補助発表者などではない」
イワンが静かに口を開いた。
「しかし、あなたは航海局数表の検算に関わっている」
「それは数表だ!」
アレクセイが叫ぶ。
「バーゼル問題の草稿ではない!」
「ですが、今日の記録では、あなたの数表が検証補助として参照されました」
「だからといって」
「宮廷記録上、無関係とは言えません」
イワンの言葉は正しい。
正しいからこそ、危険だった。
校閲者は完全な嘘ではなく、曖昧な接続を使っている。
アレクセイは数表を作った。
その数表は、有限和と近似の検証に使われた。
だから、補助発表者。
理屈としては、ギリギリ通ってしまう。
エリザが低く言った。
「ずるいですね」
「ええ」
俺は頷いた。
「嘘ではなく、意味をずらしている」
カタリナが名簿に近づいた。
「筆跡はありません」
「え?」
「この名前は、書かれていません。名簿の繊維そのものが、この形に変わっています」
「つまり、校閲者」
「はい」
カタリナは紙の端を指した。
「ですが、他の文字より沈み方が浅い。完全には定着していません」
「なら、消せる?」
「消すのではなく、正しい役割へ戻すべきです」
その言葉に、俺はアレクセイを見た。
彼は自分の名を睨んでいた。
怒り。
恐怖。
そして、ほんのわずかな未練。
本人は隠しているつもりだろう。
だが、見えた。
その名が名簿に載った瞬間、少しだけ嬉しかった顔だ。
俺には責められない。
「アレクセイ殿」
俺は呼んだ。
彼はびくりと顔を上げる。
「何だ」
「正直に答えてください」
「私は書いていない」
「それは信じます」
彼の目が揺れる。
「では、何を?」
「名前が載った時、嬉しいと思いましたか」
広間が静まった。
エリザがこちらを見る。
カタリナも。
アレクセイは唇を噛んだ。
「……今、それを聞くのか」
「今だからです」
「残酷だな」
「はい」
俺は認めた。
「でも、校閲者はそこを狙ってきます」
アレクセイの拳が震える。
長い沈黙のあと、彼は小さく言った。
「思った」
誰かが息を呑んだ。
「一瞬だ。ほんの一瞬だ。だが、思った。ついに自分の名が、アカデミーの名簿に載ったと」
彼は笑った。
苦い笑いだった。
「あなたの草稿だとわかっているのに」
俺は何も言わなかった。
アレクセイは続けた。
「俺は、いつも数字を書いてきた。誰かの航海のために。誰かの砲術のために。誰かの報告書のために。間違えば責められる。合っていれば、誰も見ない」
「アレクセイ殿」
「あなたは違う!」
彼の声に熱が混じる。
「無限だの円だの、誰にもすぐ使えないものを語っているのに、皆が見る。宮廷も見る。アカデミーも見る。名前が残る!」
その言葉は、刺さった。
最初から何度も言われてきたことだ。
美しい数学。
役に立つ数学。
名前が残る数学。
名前が残らない計算。
エリザが静かに言った。
「わかります」
アレクセイが彼女を見る。
「あなたに?」
「ええ」
エリザは腕を組んだ。
「私の赤線も、放っておけば残りません。誰かの証明を強くしても、名簿には出ない」
「では、なぜ怒らない?」
「怒っています」
即答だった。
「ですが、他人の名を奪っても、私の名にはならない」
アレクセイは黙った。
その沈黙の中で、名簿のAlexei Vorontsovの文字が少し濃くなった。
カタリナが叫ぶ。
「いけません。定着が進んでいます」
「どうすれば」
俺が聞くと、カタリナは即答した。
「役割を定義します」
「数表の時と同じですね」
「はい。名が役割を持てば、校閲者のずらしを弱められます」
エリザが紙を出す。
「アレクセイ殿の正しい役割を、ここで確定させます」
イワンが興味深そうに言った。
「宮廷記録としても、それは有用です」
「あなたは黙っていてください」
エリザが刺す。
イワンは楽しそうに引いた。
俺はアレクセイへ向き直った。
「アレクセイ・ヴォロンツォフ」
「何だ?」
「あなたは、この発表の補助発表者ではありません」
彼の顔が少し歪む。
痛い言葉だ。
でも、必要だ。
「ですが、あなたの数表は、この発表の検証を支えました」
カタリナが書く。
航海局数表作成者。
有限和検算補助。
誤差記録責任者。
アレクセイ・ヴォロンツォフ。
エリザが続ける。
「バーゼル問題の証明者ではない。しかし、有限和の検算表を提供した者」
イワンが記録する。
「宮廷航海局計算官として、検算記録に名を残す」
アレクセイの名簿上の文字が揺れた。
補助発表者欄のAlexei Vorontsovが薄くなる。
だが、完全には消えない。
「まだ足りません」
カタリナが言う。
「本人の宣言が必要です」
アレクセイは顔を上げた。
「私が?」
「はい」
「何を言えばいい?」
俺は言った。
「自分の名を残す仕事を、自分で選んでください」
アレクセイは黙った。
広間の全員が見ている。
名を欲した男。
名を奪われかけた男。
いや、奪う側にされかけた男。
彼は、ゆっくり前に出た。
「私、アレクセイ・ヴォロンツォフは……」
声が震えていた。
だが、続けた。
「この二乗逆数級数の証明者ではない」
名簿の補助発表者欄が、さらに薄くなる。
「私は、航海局の数表を作成し、その誤差を検算した」
カタリナが同じ内容を書いていく。
エリザがE番号対応表の横に、検算表参照と記す。
「オイラー殿の草稿において、私の仕事は有限和の近似と誤差確認に関わる。証明の所有ではない」
最後の一言で、名簿の補助発表者欄が白く抜けた。
Alexei Vorontsovの文字が消える。
だが、同時に別紙の検算記録に、彼の名前が濃く残った。
航海局数表作成者。
有限和検算補助。
アレクセイ・ヴォロンツォフ。
アレクセイはそれを見た。
小さく息を吐いた。
「これが、私の名か」
「はい」
俺は言った。
「あなたの仕事の名です」
「小さいな」
「小さくない」
エリザが言った。
「正しい名です」
アレクセイは彼女を見て、少しだけ苦笑した。
「ベルヌーイ嬢に言われると、皮肉だな」
「皮肉です」
「そうか」
彼は笑った。
今度は、少しだけ本物の笑いだった。
その時だった。
名簿の主発表者欄が、また白く光った。
Leonhard Euler。
その文字の下に、新しい黒い線が走る。
俺は身構えた。
だが、そこに浮かんだのは俺の名前ではなかった。
問いだった。
【Quis es igitur? (では、お前は誰だ)】
広間が静まり返る。
俺の心臓が跳ねた。
お前は誰だ。
校閲者が、俺に聞いている。
本物のオイラーではない俺に。
「オイラー殿」
カタリナが小さく言った。
彼女は気づいている。
エリザも、ダニエルの書簡を握りしめていた。
アレクセイも、さっきまでの自分を忘れたように俺を見ている。
イワンの目が細くなる。
アンナは表情を消した。
ここで答えを間違えたら、終わる。
俺は、佐伯悠真だ。
未来から来た凡人だ。
レオンハルト・オイラーではない。
だが、ここでそう言えるか?
言えば、草稿はどうなる。
この二年間は。
カタリナの線は。
エリザの赤線は。
ダニエルの書簡は。
アレクセイの検算は。
全部、誰の仕事になる?
俺は震える手で羽ペンを取った。
だが、エリザが止めた。
「書く前に、言葉を選びなさい」
「……はい」
カタリナが言った。
「嘘は、紙に残ります」
アレクセイが低く続ける。
「だが、黙れば空欄になる」
その通りだ。
俺は、名簿の問いを見た。
では、お前は誰だ。
俺は深呼吸した。
「私は」
声が震えた。
「レオンハルト・オイラーの名で、この草稿に責任を持つ者です」
白い光が、少し弱まる。
消えない。
まだ足りない。
俺は続けた。
「答えを知っているだけの者ではありません。二年間、訂正され、検算され、記録され、この式をこの時代の形に直してきた者です」
エリザのEが、机の上でかすかに光った。
カタリナの図版が、揺れる。
アレクセイの数表も。
「この草稿は、私一人のものではありません」
俺は言った。
「ですが、この名で歴史に残す責任は、私が負います」
名簿の黒い問いが薄くなる。
では、お前は誰だ。
その文字が、ゆっくり消えていく。
代わりに、Leonhard Eulerの文字が少し濃くなった。
俺は息を吐いた。
「……止まった」
エリザが小さく言う。
「ギリギリです」
「はい」
「本当に危なかった」
「はい」
カタリナが俺を見る。
「嘘ではありませんでした」
「そう見えましたか」
「はい」
その言葉で、少しだけ膝から力が抜けた。
しかし、校閲者はまだ終わっていなかった。
名簿の端。
主発表者欄の横に、小さな空白が開いた。
そこに、黒い文字が浮かぶ。
【ならば、印を奪う】
俺は嫌な予感がした。
次の瞬間、草稿の束が一斉にめくれた。
ぱらぱらと紙が鳴る。
円の図は残っている。
有限和の表も残っている。
エリザのEも、カタリナの線も、アレクセイの数表も残っている。
だが。
転生直後から何度も書いてきた、小さなπの印だけが。
草稿の全ページから、剥がれ落ちるように消えていった。