軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 「早退令嬢と、旅する少女」

噂の翌日、本当に転校生が来た。

廊下がざわついた。

銀色の髪だった。

それだけで、廊下の空気が少し変わった。背が高く、口数が少なそうで、周囲のざわめきに一切反応していなかった。隣を歩く教師が何か話しかけていたが、短く頷くだけだった。

エリーゼは廊下の端でそれを見ていた。

(……ヴァイセンベルク公爵家の、嫡男)

昨日の噂通りだった。銀髪で、誰にも振り向かない。確かにそういう雰囲気だった。

転校生がふと、視線を動かした。

エリーゼの方を、一瞬だけ見た。

目が合った。灰色の目だった。

何かを言うでもなく、ただ一瞬だけ見て、また前を向いた。

エリーゼも特に何も思わなかった。視線を戻して、廊下を歩き出した。

(……灰色の目だった)

それだけが、なんとなく頭の端に残った。

なぜ残ったのかは、わからなかった。

謝罪を始めたのは、孤立してすぐのことだった。

最初は、何かを取り戻そうとしていたわけではなかった。ただ、言わないままでいる方が苦しかった。それだけのことだった。

「以前、失礼なことをしました」

それだけ言って、頭を下げて、立ち去る。

それだけにした。長い言葉は言わない。言い訳も説明もしない。

最初の相手は、食堂で席を追い立てたことのある下級生の生徒だった。

廊下で見つけて、近づいて、言った。

「以前、失礼なことをしました」

下級生が固まった。

「え……あ、その」

エリーゼは頭を下げて、立ち去った。

次は、授業中に嫌みを言った相手に。その次は、廊下でわざと進路を塞いだことのある生徒に。一人ずつ、少しずつ、見つけるたびに同じことをした。

当然、許されるとは思っていない。頭を下げたところで、彼女たちが受けた不快感が消えるわけでもない。投げつけた言葉の刃は、もう戻せないのだから。

ただ、謝罪を続けながら、エリーゼは自分の醜さに気づかされていた。

(……今まで、私は何を必死に守ろうとしていたんだろう)

以前の自分なら、誰かに近づくときには常に「どう見られるか」「どう利用するか」という計算を張り巡らせていた。取り巻きを従え、虚勢を張り、誰かを下げることで自分の位置を確かめる。そんなことに、どれほどの神経を削り、心を濁らせていたか。

「失礼なことをしました」と、ただ事実を認めて謝る。そのあまりの簡潔さに、胸が締め付けられる。

(……こんなに、単純なことだったのに)

計算も虚飾も捨てて、ただ過ちを認める。それは自分を許すことではなく、自分の小ささを突きつけられる作業だった。

けれど、その痛みが伴うたびに、喉元を締め付けていた重苦しいプライドが、少しずつ剥がれ落ちていく。

「楽」ではない。

ただ、自分がどれほど余計な重荷を背負って、自分勝手に他人を傷つけて生きてきたのかを、ようやく理解し始めたのだ。

図書室に行ったのは、偶然だった。

放課後、廊下を一人で歩いていたとき、見慣れない扉の前を通り過ぎた。

入ったことがなかった。令嬢として取り巻きを連れて歩いていた頃は、図書室など立ち寄る理由がなかった。

扉を開けた。

本の匂いがした。

静かだった。窓から午後の光が差し込んで、埃がゆっくりと浮かんでいた。

棚が並んでいた。背表紙がずらりと並んでいた。

(……こんな場所だったのか)

エリーゼはゆっくりと小説棚の間を歩いた。

タイトルを一つひとつ目で追っていった。知らない本ばかりだった。読んだことのある本など、一冊もなかった。令嬢としての十七年間に、物語を読む時間などなかったから。

棚の端まで来て、ふと手が止まった。

見覚えのある本だった。

表紙に、旅をしている少女の絵が描いてあった。

(……この本)

エリーゼの手が、少し震えた。震えたことに、自分で気づいた。

知っている。この表紙を、知っている。

十歳の秋、雨の日の自室。あの日読みかけて、取り上げられた本。

ページをめくりかけて、続きが読めなかった本。

七年間、どこかにあると知っていたが、探す理由がなかった。探す時間もなかった。探す自分が許されていなかった。

エリーゼは本をそっと手に取った。

棚の前に立ったまま、最初のページを開いた。

少女が、どこかへ向かって歩いていた。行き先は決まっていない。問われると「どこへでも行けます」と笑う。そういう少女の話。

(……続き、読める)

たった一行読んだだけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。

エリーゼは窓際の席に座った。午後の光の中で、ゆっくりとページをめくり始めた。

本のページをめくる音だけが、静かな図書室に響いていた。

どれくらい時間が経ったのかわからなかった。

少し本を読んでは、あまりの懐かしさに、何度も角度を変えて表紙を眺めた。

上下を逆さまにして背表紙の綴じ目を確認し、また元に戻しては、食い入るように絵を見つめる。

令嬢としての作法も、周囲の目も、その時だけは完全に忘れていた。

「何してんの」

声がして、エリーゼは顔を上げた。

少し離れた席に、男子生徒が座っていた。

今朝廊下で見た転校生。銀色の髪をしていて、灰色の目が真っ直ぐこちらを見ていた。

「……懐かしい本でしたので、色々と確かめていました」

エリーゼは正直に言った。転校生は少し目を瞬かせた。

図書室は静かだった。本のページが風もないのに少しだけ揺れた気がした。

転校生が口を開いた。

「……面白いか、それ」

低く、短い声だった。

エリーゼは少し驚いた。また話しかけられると思っていなかった。

「……まだ途中なので、わかりません」

「そうか」

それだけだった。転校生はまた自分の本に目を落とした。

エリーゼも手元の本に目を戻した。

しばらく、また静かになった。風が窓の外を通り抜けた。午後の光が少しずつ傾いていった。

(……変な人だ)

エリーゼはそう思った。悪い意味ではなかった。ただ、変だと思った。

ヴァイセンベルク公爵家の嫡男が転校してきて、初日の放課後に図書室にいる。しかも一人で、黙って本を読んでいる。

それから、純粋な気持ちで私に話しかけてきた。

何かを求めているわけでも、何かを探っているわけでも、何かを確かめているわけでもない。隣に人がいて、本の話をした。それだけだった。

ただ、そのやり取りに身に覚えがあるような気がしていた。

もう少しすると閉館の時間になった。エリーゼは本に栞を挟んで、席を立った。

転校生も、ほぼ同時に立ち上がった。

二人で棚に本を戻しに行った。エリーゼは旅する少女の本を棚に戻した。

(……明日、また来よう)

そう思った。続きが気になっていた。七年前から気になっていた続きが、まだそこにあった。

図書室を出ると、廊下は夕暮れの光に染まっていた。転校生が先に出て、こちらを振り返りもせずに廊下を歩いていった。

エリーゼはしばらく、その後ろ姿を見ていた。

誰かのためでもない。ただ自分として歩いているような、そういう後ろ姿だった。

エリーゼは反対方向へ歩き出した。