軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 「早退令嬢と、中庭のベンチ」

中庭に出るようになったのは、転校生が来てから少しした頃のことだった。

理由は単純だった。一人でいられる場所が欲しかった。

孤立してから、廊下を歩くたびに視線を感じた。食堂も、授業棟の前も、どこにいても誰かの目がある。それが悪意であっても哀れみであっても、視線は視線だった。積み重なると、少しだけ重くなる。

中庭は静かだった。

石畳に囲まれた小さな庭で、花壇と木が数本あるだけの地味な場所だ。昼休みに使う生徒もいたが、放課後に残る人間はほとんどいなかった。日当たりのいい端のベンチに座ると、校舎の音が遠くなった。

エリーゼはその場所を気に入った。

特に何もしない。本を持ってくることもある。ただ座っていることもある。風が吹けば木の葉が揺れた。遠くで鳥が鳴いた。それだけで十分だった。

(……こういう時間が、今まで一度もなかった)

誰かのための時間でも、誰かに見られるための時間でもない。ただ自分がそこにいるだけの時間。

こんなに静かなものだったのかと、毎日少し驚いていた。

転校生は、学園でたちまち有名になっていた。

理由は二つあった。

一つは、ヴァイセンベルク公爵家の嫡男という家柄。

もう一つは、銀髪と整った顔立ち。

廊下を歩けば視線が集まった。エリーゼに向けられるものとは全然種類の違う視線だった。羨望、好奇心、期待。そういうものが混ざって、転校生の方へ集まっていた。

授業棟の前に、女子生徒が数人集まっているのを見かけた。転校生を囲んでいた。

「ヴァイセンベルク様、今日の放課後ご一緒しませんか」

「お茶の場を設けましたの。ぜひ」

「私たちにもお声がけいただけたら嬉しいですわ」

口々に声をかけていた。転校生はそれを聞いて、軽く首を振った。

「遠慮する」

一言だった。笑顔もなく、謝罪もなく、ただそれだけ言って歩き続けた。

女子生徒たちがざわついた。「冷たい方ね」という声と「でもそこがいい」という声が同時に聞こえた。

(……はっきりしている人だ)

エリーゼはそれを廊下の端から見ていた。計算のない断り方だった。相手を傷つけないように言葉を選ぶわけでもなく、かといって乱暴でもない。ただ事実を言っただけ、という感じだった。

別の日、食堂でのことだった。

リナが転校生の席に近づいていくのが見えた。

困った顔ではなかった。今日は違う顔をしていた。少し上目遣いで、声は柔らかく、明るい笑顔で話しかけていた。「守ってほしい」ではなく、「仲良くなりたい」という表情だった。

「ヴァイセンベルク様、転校してきたばかりでお一人では何かと大変でしょう。私、リナと申します。何かあれば気軽にお声がけください」

「……ああ」

転校生は食事の手を止めなかった。

「学園でお困りのことがあれば、ご案内しますよ。私、実は首席ですので、勉強のことなども」

「大丈夫だ」

また短かった。リナが少し間を置いた。

「では、放課後ご一緒に」

「用がある」

リナが微笑んだまま、少しだけ止まった。

その笑顔の下で何かが動いた気がした。計算が走ったような、ほんの一瞬の止まりだった。

「……そうですか。またいつでも」

リナは引いた。自然な引き方だった。無理をした痕跡がなかった。

(……上手い)

エリーゼはそれを食堂の隅から見ていた。

引き際が綺麗だった。押して無駄と判断したら、すぐ退く。それでいて相手に「嫌われた」という印象を残さない。

でも転校生は、リナが立ち去るのを見ても特に何の表情も変えなかった。また食事に戻っただけだった。

(……珍しい。リナに塩対応できる男子生徒を、この学園で見たのは初めて)

エリーゼは目を伏せた。

演じている者が演じている者を見抜けるなら、演じていない者は演じている者に引っかからない。そういうことなのかもしれなかった。

ある日の放課後、ベンチに座って本を読んでいると、中庭に人が入ってきた。

視線を上げた。

転校生だった。

エリーゼが使っているベンチとは反対側、中庭の端の別のベンチに向かって歩いていった。エリーゼの存在には気づいているようだったが、こちらを見なかった。そのままベンチに座って、自分も本を開いた。

(……ここを、知っていたのか)

エリーゼは少し驚いたが、何も言わなかった。転校生も何も言わなかった。

二人で、それぞれの本を読んだ。木の葉が揺れた。遠くで鳥が鳴いた。それだけだった。

しばらくして、転校生が立ち上がった。本を閉じて、中庭を出ていった。こちらを振り返らなかった。

エリーゼはその背中を少しだけ見て、また本に目を落とした。

(……また来るのかもしれない)

そう思っただけで、特に何も思わなかった。

翌日も、転校生は来た。

同じベンチに座って、同じように本を開いた。何も言わなかった。エリーゼも何も言わなかった。

その翌日も、来た。また来た。また来た。

気づいたら、それが当たり前になっていた。

二人とも何も言わない。お互いの存在を確認するでもなく、無視するでもなく、ただそれぞれの場所にいる。中庭に静かな時間が流れて、やがて日が傾いて転校生が立ち上がれば、エリーゼも本を閉じる頃合いだとわかるようになった。

(……時計代わりになっている)

そう気づいたとき、少しおかしかった。声には出なかったが、口の端が少しだけ上がった。

作った笑い方ではなかった。ただ、おかしかっただけの顔だった。

ある日、中庭に出るとすでに転校生がいた。

珍しかった。いつもはエリーゼの方が先に来ていた。

エリーゼはいつもの場所に座った。風が少し強かった。木の葉がざわざわと鳴った。

少しして、読んでいた本のページが、風でばさりとめくれた。栞がどこかへ飛んでしまった。

立ち上がって探すと、転校生の足元に落ちていた。

転校生が先に気づいていて、拾い上げた。立ち上がって、こちらへ持ってきた。

「……これか」

「ありがとう」

受け取った。

そのあと一瞬、静かになった。

(……ため口だった)

自分でも驚いた。なぜそう言ったのか、わからなかった。令嬢として十七年間、目上であれ同年代であれ、初対面に近い相手にため口を使ったことなどなかった。

謝ろうと思った。口を開きかけた。

でも転校生は特に何の反応も示さなかった。怒るでも、不思議がるでもなく、ただ「ああ」と短く言って、自分のベンチに戻っていった。

(……怒らなかった)

エリーゼは栞を手の中で見た。なぜため口が出たのか、まだわからなかった。でも、何かが「それでいい」と言っているような気がした。その「何か」が何なのかも、わからなかった。

ただ。

いつもより少しだけ、距離が近くなった気がした。

翌日の中庭でのことだった。

エリーゼが本を読んでいると、校舎の方から女子生徒が数人、中庭へ入ってきた。

転校生を探しているようだった。

「ヴァイセンベルク様! こちらにいらっしゃったんですね、探しましたよ」

「ねえ、今から一緒に街へ行きませんか」

「先生方にも聞いて回ったんです。全然見つからなくて」

転校生は本から目を上げた。少し間を置いてから、短く言った。

「用がある」

「え、でも」

「先約がある」

女子生徒たちが顔を見合わせた。エリーゼの方をちらりと見た。エリーゼは視線を本に戻した。

「……そうですか」

女子生徒たちが、少し不満そうにしながら引き上げていった。

中庭がまた静かになった。

転校生が、また本を開いた。エリーゼも本のページに目を落とした。

(……先約)

その言葉が、少し頭に残った。

二人の間には何の約束もない。毎日ここで本を読んでいるだけだ。「先約」という言葉が当てはまるようなことは、何一つしていない。

でも、転校生はそう言った。

(……変な人だ)

エリーゼはまた思った。悪い意味では全然なかった。ただ、本当に変だと思った。

木の葉が揺れた。今日も静かな午後だった。