軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 「早退令嬢は、もうやめた」

屋敷に戻ると、静かだった。

玄関に入ると、年配の使用人が出迎えた。

「お帰りなさいませ。……本日はお帰りが、随分と早うございますね」

少し驚いた顔をしていた。こんな時間に帰ってくることは、まずなかったから。

「ただいま」

エリーゼは鞄を渡しながら言った。

「ええ、少し気分が優れなくて。今日は早めに休みます」

「さようでございますか。何かお持ちしましょうか」

「いいえ。結構です。ありがとう」

使用人が心配そうな顔をしたまま頭を下げた。エリーゼは小さく頷いて、廊下を歩き出した。

父も母も、今は王都を離れている。公務の都合で、数日ほど屋敷を空けるとのことだった。

(……よかった)

今は誰にも会いたくなかった。

自室に入り、扉を閉めた。

ベッドに腰かけ、窓の外を見た。

雲一つなく、どこまでも広がっている。

(……や〜めた)

声に出したわけじゃない。ただ、心の中でそう思った。思ったら、止まらなくなった。

やめた。

やっと、やめる決心がついた。

怒りも、悲しみも、不思議となかった。ただ「終わった」という感覚だけがそこにあった。コップの水が十七年かけて満杯になって、今日ようやく全部こぼれた。そういう感覚。

(……これからどうなるんだろう)

取り巻きたちは離れていくだろう。殿下との婚約も、きっとただでは済まない。学園での評判は、今日よりずっと悪くなる。

(……でも、もう、どうでもいい)

そう思って、少し驚いた。

殿下のために動いてきた。殿下が喜ぶように、殿下の役に立つように。その気持ちは本物だった、と思う。でも今は、それがひどく遠いことのように感じる。疲れ果てると、何もかもが等距離になっていく。婚約も、家族も、取り巻きも、全部同じ遠さになっていた。

窓の外の空が、やけに広く見えた。

今まで気づかなかったけれど、空ってこんなに広かったんだ。こんなに青かったんだ。

エリーゼはしばらく、その空を見ていた。

(……まあ、いいか)

短い独白だった。でも、それだけで十分だった。

なんとなく、少しだけ、前を向ける気がした。

夜、一人で夕食をとった。

いつもより静かな食卓だった。使用人が気を遣って小さな灯りを足してくれたが、それでも広い食堂に一人では、少し余白が多かった。

父と母が帰ってくるのは、もう少し先のことになる。

(……何と言われるだろう)

エリーゼはスープを一口飲んだ。温かかった。

それだけで、今夜は十分。

翌朝、鏡の前に立った。

いつも通りの手順に、手が動きかけた。

顎を上げようとして、やめた。扇を手に取ろうとして、やめた。口の端を上げようとして、やめた。

鏡の中に、何もしていない自分が映っていた。

顎も上がっていない。扇もない。作り物の笑顔もない。

(……これが、私か)

久しぶりに見る顔だった。何年ぶりかはわからない。もしかしたら、十七年ぶりかもしれなかった。

エリーゼはしばらく、その顔を見つめた。

特別な感慨はなかった。ただ、知らない顔に見えた。それだけのことだった。

鞄を持って、部屋を出た。

学園に来た。校門をくぐった。

スイッチを入れなかった。顎も上げず、扇も持たず、ただ普通に歩いた。

廊下を歩いていると、すれ違う生徒たちが振り返った。

何かを言いたそうな顔をしていたが、誰も声をかけてこなかった。エリーゼも何も言わなかった。

そこへ、フローラが来た。

いつもなら真っ先に駆け寄ってくる。今日も駆け寄ってきた。でもその顔は、いつもと全然違っていた。

「エリーゼ様」

声が固かった。怒りを押し込めているような、張り詰めた声だった。

「昨日のこと、どういうおつもりなんですか」

「別に」

「別に、じゃないですよ!」

フローラが声を上げた。廊下にいた生徒たちが振り返った。

「私たちはずっとエリーゼ様のために動いてきました。証拠も集めました。あの場でエリーゼ様が途中で投げ出したせいで、私たちがどれだけ恥ずかしい思いをしたか」

「……そうね」

「そうねって、それだけですか!」

フローラが一歩近づいてきた。

「扇はどこへ行ったんですか。今日はなぜ持っていないんですか。令嬢らしくない歩き方をして。昨日と今日で、エリーゼ様は一体どうなってしまったんですか」

エリーゼはフローラを見た。

怒りがあった。傷があった。「エリーゼ様についていたのに」という、裏切られた色があった。

(……フローラは、私を頼りにしていたんだ)

利用していた部分はあったかもしれない。でも、フローラもまた、エリーゼを必要としていた。だからこそ、今日この顔をしている。

「……ごめんなさい」

エリーゼは短く言った。

フローラが止まった。

「フローラには、迷惑をかけました」

「……っ」

何か言おうとして、言葉が出てこないようだった。目が少し赤くなっていた。怒りと何か別のものが混ざっているような目だった。

エリーゼはもう一度小さく頷いて、歩き出した。

「待ってください」

フローラの声が来た。でも、追いかけてはこなかった。

エリーゼは振り返らなかった。

廊下の先に、窓の光があった。今日も、白くて静かな光だった。

(……ゼロからのスタートは、こういうものか)

遠くも近くも、まだよくわからなかった。

ただ一歩ずつ歩けば、それでいい気がした。