軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 「早退させていただきます。もう、悪役令嬢キャラには疲れました」

朝、いつもより早く目が覚めた。

窓の外はまだ薄暗かった。カーテンの隙間から差し込む光が、細く、頼りなかった。

エリーゼはしばらくそのまま天井を見ていた。

今日だ。

特別な感情はなかった。緊張もない。気負いもない。ただ「今日だ」という事実だけが、胸の奥にぽつんとあった。

引き出しの中の書類のことを思った。

昨夜重ねてしまった、二種類の紙束。フローラたちの、でっちあげだらけのもの。エリーゼ自身の、事実だけを並べたもの。

(……大丈夫かしら)

またその不安が来た。今朝も来た。昨夜と同じ不安だった。

エリーゼは起き上がった。

鏡の前に立った。

顎を上げる。扇を持つ。目を笑わせない。口の端だけを上げる。

いつも通りの手順だった。

スイッチを入れた。これで完成だ。

引き出しを開けて、書類の束を取り出し、鞄の中にしまった。

部屋を出た。

大広間は、すでに多くの生徒で埋まっていた。

エリーゼが入ると、空気が変わった。視線が集まった。前からも、横からも、後ろからも。この学園でエリーゼ・ヴァルドランが鞄を抱えて大広間に入ってくる、それだけで何かが起きると誰もが感じた。

フローラたちが後ろに並んだ。「エリーゼ様、今日こそ」と小声で言った。

エリーゼは中央に立った。鞄から書類の束を取り出して、両手で持った。

リナが少し離れたところに立っている。不安そうな顔をしていた。可憐で、今にも泣きそうな、そういう顔。

クロード殿下が壇の端で腕を組んでいる。

全員が、エリーゼの言葉を待っていた。

「リナ、あなたのこれまでの行いについて、証拠がここにあります。読み上げさせていただきますわ」

書類の束を持ち上げた。フローラたちが「そうよ!」と囃し立てた。

しかし広間のざわめきは、取り巻きたちへの同調ではなかった。

「……また始まった」

「リナさんが何をしたって言うの」

「ヴァルドラン様って、本当にリナさんのことが嫌いなのね」

囁き声が、あちこちから聞こえた。エリーゼの背後からではなく、広間全体から。

(……そうか。ここは、そういう場所だったのか)

リナが作り上げた空気の中に、エリーゼは今立っている。それを、今更ながら実感した。

エリーゼは最初の一枚を手に取った。フローラたちが用意したものだった。

「まず、三月の茶会にて──リナがお茶をこぼした件について」

読み上げた。取り巻きたちが「そうよ!」と声を上げた。

リナが困ったような顔をした。

「エリーゼ様……私、何かいけないことを……」

震える声だった。細い、今にも消えそうな声。

広間がざわめいた。

「かわいそうに」

「あんな些細なことまで」

という声が聞こえた。

次の一枚を取った。また、フローラたちのものだった。

「五月、授業にて──リナが教師に取り入るため虚偽の回答を申告した件について」

読み上げた。日付の記載はあったが、証言者の名前がなかった。

「そんな事実はありません!」

リナが涙をこらえた声で言った。

「それはどこの誰が書いたものだ」

クロード殿下が口を開いた。静かだが、刃のある声だった。

「名前も出所もない書類を、そのまま読み上げるのか」

広間から笑いが漏れた。エリーゼに向けられた笑いだった。

(……わかっていた)

「根拠は? 証人はいるのか」

殿下が言った。

「そうよ! 証拠もないのに!」

「リナさんがそんなことするはずないでしょう!」

広間から声が上がった。取り巻きたちが「そうじゃないんです!」と言い返した。広間がざわめいた。

(……フローラたちの書類は、やはり使えない)

次の一枚を取った。また読んだ。また遮られた。また笑われた。

「でたらめばかり言わないでください!」

広間のどこかから、はっきりとした声が飛んだ。

「リナさんをいじめてきたのはそっちでしょう!」

別の声が続いた。

取り巻きたちが「違います!」と言い返した。広間がまたざわめいた。

エリーゼはまた次の一枚を読み上げた。また遮られた。クロード殿下が言った。

「エリーゼ、その書類に信頼性はあるのか」

静かだが、真っ直ぐな言葉だった。

信頼性。

(……殿下も、信じていない)

当然だ。フローラたちのものは、信頼性などない。それはわかっていた。

また次の一枚を取った。手が、わずかに重かった。

「もう終わりにしてください! リナさんが傷ついています!」

「そうよ! いい加減にして!」

声が重なった。一つではなかった。二つ、三つ。広間の複数の場所から、同時に来た。

エリーゼは読み上げながら、ふと思った。

(……この声は、全部リナが作ったものだ)

丁寧に、着実に。

友人を増やし、味方を増やし、「守るべき存在」という像を学園の中に刷り込んだ。今日この場にいる生徒たちのほとんどが、リナの作り上げた像の中に立っている。

エリーゼがどんな証拠を出しても、この場では「悪役令嬢のでっちあげ」にしか見えない。

そういう舞台を、リナは用意していた。

(……私の負けだ)

怒りは来なかった。ただ、虚しかった。重かった。

次の一枚を取った。また読んだ。また遮られた。リナがまた涙をこらえた。広間がまた沸いた。

何度繰り返しても、同じだった。

何度繰り返しても。

何度繰り返しても。

手の中に残ったのは、エリーゼ自身が調べた書類だった。

表紙に書いてある。

『リナ嬢の貴族への言動・意図的に孤立させた件について』

日付がある。場所がある。証言者の名前がある。エルヴィンへの手紙の記録、クラウスへの廊下での耳打ち、贈り物の記録、令嬢を孤立させてから近づく手口の複数の証言。全部、確認が取れたものだけが並んでいる。

これを読めば、広間の空気は変わるかもしれない。

(でも……)

(読んでも、また遮られる。また笑われる。また「でっちあげだ」と言われる)

この広間で、この空気の中で。

読んだとして、何が変わるのか。

広間の声が、また来た。

「まだ続けるの?」

「いい加減にしなよ」

「リナさん、大丈夫?」

殿下の目が、エリーゼではなくリナの方を向いていた。心配そうな、守りたいという目で。

五年間、その目が自分に向いたことがあっただろうか。

五年間、婚約者として動いてきた。殿下のために。殿下の周囲を整えるために。でも今日この場で、殿下はリナの方を見ている。広間の全員がリナの方を見ている。

(……なんで、私がこれをやっているんだろう)

怒りからじゃない。リナが憎くて証拠を集めたわけじゃない。ただ本当のことを知りたかっただけだ。それだけのことだった。

なのに今、この場に立って、遮られながら、笑われながら、一枚ずつ読み上げている。

これは何のためだ。

誰のためだ。

(……疲れた)

じわりと、そう思った。疲れた。本当に、心の底から。

もうずっと前から疲れていた。五歳から疲れていた。令嬢らしい笑い方を覚えさせられた日から。平民の子に意地悪をして褒められた日から。本を取り上げられた日から。婚約が決まって「おめでとう」と言われた日から。ずっと、ずっと疲れていた。

それが今日、この場に来て、遮られて、笑われて、また疲れた。

コップの水が、静かに、音もなく溢れた。

「エリーゼ様!次を読んでください!」

フローラの声が来た。

(……もう、このキャラには疲れた)

声に出したわけじゃない。ただ、胸の奥でそう思った。思ったら、止まらなくなった。

疲れた。十七年間、疲れ続けた。

それを、今日も続けるのか。

エリーゼは書類の束を、静かに下ろした。

パサ、という乾いた音がした。

「……え?」フローラが声を上げた。

「エリーゼ様、まだ──」

扇を閉じた。

パチン。

小さな音だった。でもその音が、広間に響いた。

ざわめきが止まった。誰もが息を呑んだ。広間全体が、一瞬で静まり返った。

エリーゼは深く、丁寧に、お辞儀をした。

「気分が変わりました。申し訳ございませんが……」

「早退させていただきます」

誰も言葉を返せなかった。

クロード殿下が「は……?」という顔をした。リナの表情が一瞬崩れた。計算でない、素の顔が覗いた。フローラたちが顔を見合わせた。

「エリーゼ様、ちょっと──」

「あとは、皆さまにお任せいたしますわ」

くるりと背を向けた。扉へ向かって歩いた。

後ろから「エリーゼ!」と声が飛んできた。聞こえていた。でも足が止まらなかった。「待て」という声もした。止まらなかった。

扉を開けた。出た。静かに閉めた。

閉めた扉の前で、一瞬だけ、立ち尽くした。

(……やってしまった)

真っ先にそう思った。

フローラたちの顔が浮かんだ。殿下の「は……?」という顔が浮かんだ。

家族は怒るだろう。学園での評判は、今日より悪くなる。

(……やってしまった。本当に、やってしまった)

でも。

足が、動かなかった。戻ろうとしなかった。体が、もう戻れないと知っていた。

エリーゼはゆっくりと顔を上げた。

廊下の窓から、昼の光が差し込んでいた。

(……ああ)

こんなに明るかったんだ、ここ。

白くて、静かな光だった。廊下の石畳の上に、真っ直ぐ伸びていた。いつから気づかなくなっていたのだろう。毎日この廊下を歩いていたのに、この光を見ていなかった。

エリーゼはしばらく、その光の中に立っていた。

扉の向こうがうるさかった。でも、ここは静かだった。

風が廊下を通り抜けた。それだけで、少し息が楽になった。

胸の奥で何かが、するりと解けた気がした。

解けた後に残ったのは、怒りでも後悔でもなかった。

ただ、静かだった。

(……もしこれが物語の話ならば、ここで私がはっきりとモノ申せば、大きく動いたのでしょうけれど)

そんなことをぼんやりと思った。特に感慨もなく。すぐに消えた。

エリーゼはゆっくりと、廊下を歩き始めた。

足取りが、少しだけ軽かった。

静まり返った大広間の中で、書類が床に散らばっていた。

エリーゼが書類の束を下ろした拍子に、何枚かが滑り落ちていた。

クロード殿下の取り巻きの一人、セドリックという男子貴族が、それを拾い上げた。パラパラとめくった。

ある部分で、手が止まった。

表紙に、几帳面な文字で書かれていた。

『リナ嬢の貴族への言動・意図的に孤立させた件について』

表情が、変わった。

セドリックは書類を持ったまま、しばらく動かなかった。