軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 「早退令嬢の、決行前夜」

一学期も、折り返しを過ぎた頃のことだった。

クロード殿下から、二人きりのお茶会のお誘いがあった。

婚約者として、月に一度か二度、こういう時間が設けられる。

殿下は悪い人ではない。むしろ、ちゃんと時間を作ろうとしてくれる誠実さがある。それはわかっていた。

エリーゼは指定された応接室に、五分前に入った。

ドレスを整えて、顎を上げて、扇を持って。婚約者の顔を作ってから、椅子に座った。

殿下が来た。金色の髪が、窓の光を受けて明るく輝いていた。

「待たせたか」

「いいえ。今参りましたので」

いつも通りの言葉だった。いつも通りの笑顔だった。

殿下も笑い返した。「相変わらず時間に正確だな」

(……それだけの感想か)

エリーゼは内心でそう思ったが、顔には出さなかった。

紅茶が運ばれてきた。薄いレモンの香りがした。

最初の十五分は、無難な話が続いた。

学園の授業のこと、王都の社交シーズンのこと、次の試験のこと。

エリーゼは適切に相槌を打ち、適切な言葉を選んで返した。

婚約者として、こういう時間を「うまくこなす」ことは得意だった。

五年間、ずっとやってきたことだ。

殿下はよく喋る。話題を探そうとしてくれる。それは優しさだと思う。

ただ、その話題の中に、エリーゼ自身のことはあまり出てこなかった。

その後、話題はリナのことになった。

なぜそうなったのか、エリーゼにははっきりとわかった。

殿下は「最近のエリーゼのリナへの態度が気になっている」と言いたかったのだ。だからこのお茶会を設けた。最初から、それが本題だった。

「エリーゼ。リナへの振る舞いのことだが」

殿下の目が、初めてまっすぐエリーゼを向いた。

(……この目だ)

エリーゼはその目を見た。リナの話をするときだけ、殿下はこういう目をする。真剣で、真っ直ぐで、熱を持った目。

五年間、この目が自分に向けられたことがあっただろうか。

怒るエネルギーも、悲しむエネルギーも、もう残っていなかった。

ただ「ああ、疲れる」と思っただけだった。

「彼女は平民だが、学園に正式に推薦された生徒だ。必要以上に追い詰めるのは、俺には賛成できない。少し、控えてもらえないか」

「……殿下のお気持ちは、理解しております」

エリーゼは静かに答えた。「ただ私も、殿下の婚約者として、殿下の周囲が適切であるように心がけているつもりでした。行き過ぎがあったとすれば、それは反省いたします」

「わかった。頼む」

殿下が少し安堵した顔になった。約束が取れたと思っている顔だった。

エリーゼは「はい」とだけ言った。

お辞儀をして、応接室を出た。

廊下の向こうの空は、薄く曇っていた。雲が低く垂れ込めている。

(……重い空だ)

エリーゼはしばらくその空を見上げた。

明るくなかった。眩しくもなかった。ただ、どこまでも低く、灰色がかっていた。

なぜか、それが今の自分に似ている気がした。

何かが積み重なって、どこかが限界に近づいていて、でもまだ崩れていない。そういう空だった。

翌日の放課後、授業棟の廊下でのことだった。

リナへの接触は控えようとしていた。調査のためという理由もあった。殿下との約束もあった。

でもフローラが「エリーゼ様、あれを見てください」と袖を引いた。

廊下の先で、リナが下級生の令嬢に何やら囁いている。その令嬢が、困ったような顔をしていた。

令嬢たちの孤立工作の、あの手口だ。エリーゼには見てすぐわかった。

フローラが「何かしていますわ。エリーゼ様、このまま見過ごすのですか」と言った。

(……完全にやめるわけにも、いかない)

殿下との約束が頭にある。でもフローラたちの手前、今ここで何もしないのも別の問題を生む。

エリーゼは小さく息を吸ってから、前に出た。

「リナ様、そのくらいにしておきなさい」

淡々とした、感情の薄い声だった。怒りではなかった。ただ、やめさせるための言葉だった。

リナが振り返った。困った顔を作りかけて、少し止まった。エリーゼの目が「怒りではない」と読んだのかもしれない。いつもと違う温度に、一瞬戸惑ったようだった。

フローラが「そうよ!」と声を上げた。リナがまた困った顔に戻った。

そのとき、廊下の向こうからクロード殿下の声がした。

「エリーゼ!」

振り返ると、殿下が歩いてきた。昨日と同じ、真剣な目だった。ただ昨日より少し、硬い。

「昨日、頼んだはずだが」

低く、静かな声だった。怒鳴ってはいない。でもその分、重かった。

廊下にいた生徒たちが、息を呑んだ気配があった。

エリーゼは殿下を見た。

何かを言おうとした。フローラが先に動いたこと、リナが下級生に何かしていたこと、完全にやめるのが難しかった事情。そういう言葉が喉の手前まで来た。

でも、言わなかった。

「……申し訳ございません」

それだけ言って、お辞儀をした。

殿下がエリーゼの顔を見た。何かに気づいたような、でも何も言えないような、そういう間があった。

「……わかった」

殿下がリナを連れて歩き去る。フローラたちも、気まずそうに散っていった。

廊下に、エリーゼだけが残った。

誰かが「気の毒に」と小声で言った気がした。聞き間違いかもしれなかった。

(……疲れた)

声には出さなかった。ただ、思った。

笑顔を作ろうとして、うまく作れなかった。

廊下の窓ガラスにかすかに映った自分の顔が、少しだけ、くたびれて見えた。

(……もう少しだけ。あと少しだけ)

エリーゼは静かに歩き出した。

その夜、机に向かった。

引き出しを開けて、二種類の書類を取り出した。

フローラたちのものを、まず手に取った。

量だけは多かった。だが読めばすぐわかる。裏付けのない話、誰かから聞いた噂をそのまま書いたもの、日付が矛盾しているもの。「三月の茶会でリナがお茶をこぼした件」には出所がなく、証言者の名前もない。「聞いたところによれば」という書き出しが何度も出てくる。

(……これは、大丈夫かしら)

正直なところ、不安だった。

明日、これを読み上げたとして、どこまで通じるのか。名前も出所もない書類を、誰が信じるだろうか。

エリーゼ自身の書類を、次に手に取った。

日付がある。場所がある。証言者の名前がある。

エルヴィンへの手紙の記録、クラウスへの廊下での耳打ち、贈り物の記録、令嬢を孤立させてから近づく手口の複数の証言。

全部、確認が取れたものだけが並んでいる。

(……明日だ)

先延ばしにできる時間は、もうあまりない。

フローラたちも「いつやるんですか」と言い始めていた。殿下に釘を刺された今、タイミングを逃せばこの書類が日の目を見ることはなくなるかもしれない。

(……これを出せば、空気は変えられる。変えなければならない)

今日の廊下での殿下の目が、頭の端に浮かんだ。

「昨日、頼んだはずだが」という低い声が、まだ耳の奥に残っていた。

(……殿下は、リナが傷ついていると言った。でも、計算して傷ついた顔を作っていることも、私は知っている)

どちらが本当のことか。どちらも、本当のことだ。

その両方を知っているのは、今この学園でエリーゼだけだった。

二種類の書類を重ねて、引き出しに戻した。

引き出しを閉めた。パタン、という小さな音がした。

(……明日、決行する)

大広間で読み上げる。フローラたちの書類も、エリーゼ自身の書類も、全部持っていく。

どこまで通じるかは、やってみなければわからない。

(……大丈夫かしら)

フローラたちの書類への不安が、また頭をよぎった。

でも。

エリーゼは目を閉じた。窓の外の空は、今夜も低く曇っていた。

やるしかない。そう決めた夜だった。