軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第36話 「早退令嬢と、思い出のベンチ」

三月になった。

冬の間ずっと来られなかった中庭は、少し変わっていた。

枝だけだった木に、小さな葉が出始めていた。桜の木の枝には、ほんのりと色づいた蕾がついていた。まだ咲いてはいなかったが、もうすぐだとわかった。

空気が、柔らかかった。

エリーゼはいつものベンチに向かって歩いた。

一学期にここに来たとき、このベンチは一人で本を読む場所だった。それがいつの間にか、ルーカスが隣のベンチに座る場所になった。ベンチが壊されて、並んで座った日があった。冬になって来られなくなって、ずっと図書室で過ごした。そして今日、また戻ってきた。

同じベンチだった。でも、今日は少し違って見えた。

ルーカスがすでに隣のベンチに座っていた。本を開いていた。エリーゼが来ると、顔を上げた。

「久しぶりだな」

「ええ。ずいぶん長かった気がする」

いつものベンチに座った。

風が吹いた。冬とは違う、温かい風だった。

しばらく、二人とも黙って本を読んでいた。

エリーゼは旅する少女の本を開いていた。二周目の、最後のページだった。

少女は、長い旅の果てに、最初の場所へ戻ってきた。故郷の、見慣れた道だった。同じ石畳で、同じ家が並んでいて、同じ木が立っていた。

でも、少女の目に映る景色は、旅の前とは全然違って見えた。

少女は一人ではなかった。旅の途中で出会った人が、隣にいた。同じ景色を、二人で見ていた。

最後の一行を読んだ。

本を、静かに閉じた。

しばらく、表紙を見ていた。

少女が旅をしたのは、景色を見るためではなかった。変わった自分で、最初の場所に戻ってくるための旅だった。

(……そういう話だったんだ)

そのとき、風が吹いた。

本に挟んでいた栞が、ふわりと舞い上がった。エリーゼが手を伸ばしたが、間に合わなかった。栞は風に運ばれて、ルーカスのベンチの足元に落ちた。

エリーゼはベンチを立って、ルーカスの方へ歩いた。栞を拾おうとしゃがんだとき、ルーカスが先に拾っていた。

「ありがとう」

受け取ろうとしたとき、ルーカスが渡さなかった。

「こっちに座れ」

エリーゼは少し止まった。

「……え」

「どうせ同じだろう」

エリーゼはしばらく、ルーカスを見た。それから、隣に座った。少し間を空けて。

ルーカスが栞を渡した。エリーゼは受け取って、本に挟んだ。

少し間があった。

何も言わなかった。二人とも本を開いた。でも、隣にいることへの気づかいが、しばらく空気に漂っていた。

(……近い)

いつものベンチより、距離が近かった。でも、不思議と落ち着かないわけではなかった。

「終わったのか」

ルーカスが言った。

「ええ。二周目も、終わった」

「どうだった」

エリーゼは少し考えた。

「以前も話したけれど、少女は最初の場所に戻ってくるの。景色が変わったわけじゃない。少女が変わったから、見え方が変わった」

「ああ」

「でも、今日読み終えてわかったことがあって」

「何だ」

「旅の前は、一人でその道を歩いていた。でも戻ってきたとき、隣に居てくれる人がいた。それだけで、同じ場所が全然違う場所になっていた」

少し間があった。

ルーカスが、中庭をゆっくりと見渡した。桜の蕾を、少し見ていた。

「……このベンチも、そうか」

エリーゼは少し止まった。

「一学期にここに来たとき、ここは一人でいる場所だった。それも良かった。でも今は」

エリーゼが静かに話し、

ゆっくりと、ルーカスを見た。

最初にここに来たとき、一人で本を読んでいた。誰かと並ぶとは思っていなかった。でも今は、この隣が当たり前になっていた。

(……ずっと、ここに戻りたかったんだ)

図書室も悪くなかった。でも、ここに戻りたかった。このベンチに、この人と並んで座りたかった。

風が吹いた。桜の蕾が揺れた。

しばらく、沈黙があった。

ルーカスが本を閉じた。

エリーゼは気づいた。ルーカスが前を向いたまま、少し息を吸った。横顔に、何かを決めたような、静かな表情があった。

「エリーゼ」

名前を呼ばれた。

いつも通りの声だった。でも、その一言だけで、何かが違った。

「俺は……」

「エリーゼのことが、好きだ」

中庭に、静けさがあった。

桜の蕾が揺れていた。風が通り過ぎた。

エリーゼは動けなかった。

聞こえた。はっきりと聞こえた。でも、頭がすぐには動かなかった。その言葉が、胸の中でゆっくりと広がっていくのを、ただ感じていた。

エリーゼのことが、好きだ。

もう一度、頭の中で繰り返した。やっと、実感になってきた。

ルーカスが続けた。

「だから、俺の隣にいてほしい」

その一言が、また胸の中に落ちてきた。

静かに、でも確かに。重く。温かく。

エリーゼは前を向いたまま、何かが溢れてくるのを感じた。

頬に、何かが伝った。気づいたとき、すでに流れていた。

泣くつもりはなかった。

でも、止まらなかった。

(……なんで)

自分でも、わからなかった。

十七年間、感情を抑えてきた。令嬢として演じてきた。誰かのためでも、自分のためでもなく、ただ求められたものを演じてきた。喜んでいいとき、悲しんでいいとき、そういう感情の許可が、ずっとなかった。

だから泣かなかった。泣けなかった。

婚約者がいた頃も、大広間で断罪された朝も、早退したあの朝も。胸の中に何かが溜まっていても、流れることはなかった。

でも今は、違った。

今の自分には、仮面がない。誰かに求められたキャラではない。ただの、エリーゼだった。

だから、流れた。

胸の中に、確かにあった。本物の、自分だけの感情が。それが今日、あふれた。

エリーゼは手の甲で、頬をそっと拭った。それでもまだ、少し滲んでいた。

ルーカスが、エリーゼを見ていた。

「……泣いているな」

その声が聞こえた次の瞬間、ルーカスの腕がエリーゼの肩を包んだ。

静かに、でも確かに。

エリーゼは少し固まった。でも、拒まなかった。

温かかった。それだけだった。でも、それだけで十分だった。

しばらく、そのままでいた。中庭の春の光が、二人の上に差し込んでいた。

ルーカスが、静かに腕を離した。

「……落ち着いたか」

エリーゼは少し笑った。さっきまで泣いていたのに、笑えた。

「……うん」

「そうか」

「……私も」

エリーゼが言った。声が、まだ少し震えていた。

「私も、あなたのことが好き」

言えた。

ルーカスが、少しだけ目を細めた。怒っているわけでも、笑っているわけでもない。

今まで見た中で一番、柔らかい顔をしていた。

「卒業した後も、隣にいてくれるか」

ルーカスが言った。

「……それは、もう言ったじゃない」

「もう一度、聞きたかった」

「……いる」

「そうか」

それだけだった。でも、それだけで十分だった。

エリーゼは旅する少女の本を、膝の上にそっと置いた。

隣を、少し見た。ルーカスが前を向いて、中庭を見ていた。横顔が、春の光の中にあった。

(……この人が、隣にいる)

それだけのことが、今は何より温かかった。

最初は一人でいる場所だった。

早退した後、ここに来たとき、疲れ果てていた。

家族、婚約、未来。募る不安を抱えながら、座っていた場所だった。

でも、いつからか、二人の場所になった。

不安は不思議と和らいでいった。

そして今日、また同じベンチが、全然違う場所に見えた。

(ここは……思い出の場所)

桜の蕾が、もうすぐ開こうとしていた。

もうすぐ、咲く。