軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第35話 「早退令嬢と、隣にいる人」

思い出の男の子がルーカスだとわかってから、三日が経った。

その三日間、エリーゼは自分がおかしくなったのかと思っていた。

廊下で後ろから足音が聞こえると、ルーカスかもしれないと思う。図書室の扉が開くたびに、少し顔を上げてしまう。並んで歩いているとき、隣にいる人の気配が、以前より近く感じる。

全部、気のせいだと思おうとした。でも気のせいにはならなかった。

(……何をしているんだろう、私は)

以前は、近くにいることが自然で、ただそこにいる人、という感覚だった。

でも今は、それが以前とは全然違う感覚になっていた。同じことのはずが、違う意味を持ち始めていた。

十二年間、約束を覚えていてくれていて、あの時の男の子だとわかった。

それだけで、目の前の人が全然違う人に見えた。いや、違う人ではなかった。同じ人だった。

でも、見え方が変わった。声の質も、横顔も、本を読むときの目も、全部、以前より輪郭がはっきりしていた。

自分でも、何がそうさせているのかはわかっていた。

わかっているのに、どうしようもなかった。

そんなことを思いながら、今日も図書室に来ていた。

図書室で、先に来ていたルーカスが隣の席に座っていた。

エリーゼが席に着くと、顔を上げた。それだけだった。また本に視線を落とした。

(……いつも通りだ)

ルーカスにとっては、何も変わっていないのかもしれなかった。

でも、エリーゼにとっては違った。声の質も、横顔も、本を読むときの目も、全部、以前より輪郭がはっきりしていた。

エリーゼは本を読むが、文字が頭に入ってこなかった。

(……本当に、どうしたんだろう。困った)

ふと、ルーカスが本から顔を上げた。目が合った。

「本が進んでいないな」

「……考え事をしておりました」

「そうか」

それ以上聞かなかった。また本に視線を落とした。

しばらくして、ふとルーカスの顔を見たとき、不機嫌な表情になっていた。

(何か、まずいこと言っちゃったかな)

「……その、どうかしましたか?」

「不機嫌そうな顔をされているので……」

ルーカスが少し間を置いた。

「……また敬語」

一言だった。

エリーゼは少し止まった。

「……え」

「ようやく再会できたのに、まだそんな話し方をするのか」

エリーゼは少しだけ笑いたくなった。この反応が、あの頃と全然変わっていなかった。

「……わかった」

言ってみると、思ったより自然だった。ルーカスが少し頷いた。それだけだった。

しばらく沈黙が続くと、ルーカスから声をかけてきた。

「卒業した後、何をするつもりだ」

「家のことをすると思う。それと……婚約も解消してしまったから、新しい方を探すことも、そろそろ考えないといけないかな」

少し間があった。

ルーカスが、エリーゼを見た。

「……候補はいるのか」

少し低い声だった。

エリーゼは少し驚いた。

「いない、けど」

また少し間があった。

「そうか」

ルーカスが前を向いた。何も言わなかった。

エリーゼはその横顔を、少し見ていた。

さっきより、何かが少し違って見えた。表情が変わったわけではなかった。ただ、肩の辺りの力が少し抜けたような、そんな気がした。

(……なんで、候補がいるかどうかを聞いたんだろう)

聞けなかった。でも、その「なんで」が少しわかる気がして、胸の中が静かに温かくなった。答えを確かめるのが少し怖くて、でも怖いだけではなかった。

「ルーカスは?」

名前を呼んだ。敬語をやめてから、自然に言えた気がした。

「家に戻る。ただ、ここを離れるのは気が進まないが」

「図書室も、この学園も。悪くなかった」

エリーゼは少しの間、ルーカスを見ていた。

「……私も、同じ。この学園に来てよかったと思うことが、たくさんあって。あなたに、また会えたことも、含めて」

少し間があった。ルーカスがエリーゼをじっと見た。

「……そうか」

同じ言葉だったが、今度は温度が違った。

「中庭の桜が、もうすぐ咲く頃だな」

「そうですね。暖かくなったら、あのベンチにまた座れますね」

「ああ」

エリーゼは本に視線を戻した。頬が少し熱かった。

翌日の廊下で、フローラが友人たちと歩きながら話しているのが聞こえた。

エリーゼが通り過ぎようとしたとき、フローラと目が合った。フローラが少し笑って、声をかけてきた。

「エリーゼ様、少しよろしいですか」

「ええ」

フローラが、友人たちを先に行かせてから、少し声を落として言った。

「最近、ヴァイセンベルク様といつも一緒にいますよね」

「そうね」

「あの二人、図書室でも廊下でも帰り道でも、ずっと一緒って、もう学園中の話題になっているんですよ」

エリーゼは少し間を置いた。

「……話題に」

「なっています。ヴァイセンベルク様って、他の子には全然近づかないじゃないですか。それがエリーゼ様とだけ、いつも一緒にいるから」

「そうなのですか」

「そうです!」

「最近、なんか変わったって言っている子もおりまして、『ヴァイセンベルク様と一緒にいるとき、エリーゼ様の表情が柔らかい』と。決して、悪い意味ではありません」

フローラが少し慌てたように付け加えた。

「それと……私は、エリーゼ様に幸せになってほしいなって、ずっと思っていて。だから言いたくなって」

エリーゼは少し驚いた。

「……ありがとう」

フローラが少し笑って、歩いていった。

エリーゼはしばらく、廊下に立っていた。

学園中の話題。表情が柔らかい。

(……そんなに、わかるものなのか)

自分では気づかないうちに、何かが滲み出ていたらしかった。

その夕方、帰り道で廊下を並んで歩いていたとき、エリーゼの本が手から滑り落ちた。

拾おうとした瞬間、ルーカスの手が先に動いた。本を拾って、エリーゼに渡した。

受け取るとき、指の先がルーカスの手に触れた。ほんの一瞬だった。

「……ありがとう」

声が、いつもより少し細くなっていた。自分でも気づくくらいに。

「ああ」

ルーカスは何事もなかったように歩き始めた。

エリーゼは一瞬だけ止まってから、また歩き始めた。

本を、少し強く持った。指が触れた感触が、まだそこに残っている気がした。本当にそこにあるわけではなかった。でも、消えてくれなかった。

隣を歩くルーカスは、いつもと同じだった。歩き方も、横顔も、何も変わっていなかった。それなのに、今日はその横顔が、少しだけ見ていられなかった。

(……困った。本当に、困った)

ルーカスは何も変わっていないのに、自分だけがこんなふうになっている。

それが少し恥ずかしかった。

でも、恥ずかしいだけではなかった。

その夜、部屋で一人になってから、エリーゼはしばらく天井を見ていた。

最近のことを、頭の中で巻き戻した。

図書室でじっと見られた、あの目のこと。指が触れた、あの一瞬のこと。廊下で聞こえた、皆が話題にしているという話のこと。候補はいるのか、と低い声で聞かれたこと。

以前なら、流せた。でも今日は、全部がどこかに引っかかって、取り出せなかった。

(……これは、なんだろう)

うまく名前がつけられなかった。つけようとすると、少し怖い気がして、途中で止まってしまう。でも何かがそこにあることだけは、はっきりとわかっていた。

胸の中が、温かかった。それだけは確かだった。

ただ、卒業まであと三週間だった。この図書室も、この廊下も、毎日当たり前のようにあった時間が、あと三週間で終わる。そして、それぞれの道へ行く。

(……卒業した後も、また会えるのだろうか)

わからなかった。聞く勇気が、まだなかった。

でも、聞かなければいけない気がした。三週間という時間は、長いようで短かった。

婚約者がいた頃、こういう感情を持ったことは一度もなかった。自分で閉じ込めて演じていた頃はわからなかった。

でも、今はわかる気がした。

あの人は、十二年間、約束を覚えていた。また来ると言って、本当に来てくれた。ずっとそばに居てくれたのに、自分は気づくのが遅かった。

(……本当に、遅かった)

ルーカスに言われた言葉が、また頭に浮かんだ。

気づくのが遅いぞ、と言っていた。少し呆れたような、でも可笑しそうな声で。

あのときは少し悔しかった。でも今は、そうじゃなかった。

なぜそうじゃないのか。なぜあの言葉が今も頭に残っているのか。

考えていくと、また何かに行き着きそうで、エリーゼは少し目を閉じた。

今夜は、ここまでにしよう。

エリーゼは旅する少女の本を手に取った。少女が最後の一歩を踏み出す直前のページを開いた。

少女は怖がっていなかった。ただ、前を向いて、立っていた。

(……次の話で、この子は踏み出す)

エリーゼは二周目だから、それを知っていた。

(……私は、どうだろう)

本をそっと閉じた。窓の外に、冬の終わりの空があった。もう少しで、春が来る。

中庭のベンチに、また座れる。あの思い出のベンチに、あの人と、また並んで座れる。

それだけのことが、今夜は少しだけ、胸の中で大きかった。

旅する少女が、最後の一歩を踏み出すページが、すぐそこにあった。