軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第25話 「早退令嬢と、不発の企み」

その日の理科実習は、奇妙な終わり方をした。

薬品を使った調合の実験だった。生徒たちが各自の実験台に向かい、先生の指示した手順に従って薬品を順番に混合していく、いつもの授業だった。安全のための手順も定められていて、指定された薬品以外は使わないこと、分量を守ること、異変があればすぐに知らせることと、授業前に確認があった。

それぞれの実験台には、あらかじめ番号が振られた薬品の瓶が並べられていた。各自がそれを番号順に扱うだけの、単純な手順だった。

誰もが慣れた手つきで実験を進めていた。

十五分ほど経ったころ、一人の令嬢の実験台から、白い煙が薄く上がった。

ぼこ、という小さな音がした。

令嬢が驚いて飛び退いた。椅子が後ろに倒れた。周囲の生徒たちが振り返った。先生が急いで駆け寄って、実験台の上の瓶を確認した。中身が少し膨らんで、淡い煙を細く出していた。

それだけだった。

煙はすぐに薄れた。瓶の中身も落ち着いた。実習室がざわついたのは数分だけで、怪我人は出なかった。先生が令嬢の様子を確認した。震えていたが、怪我はなかった。

「これは……」

先生が首を傾げた。

「指示した薬品でこの反応は出ないはずですが」

令嬢が使っていた薬品の瓶を手に取った。ラベルは指示通りのものだった。でも、反応がおかしかった。中身が入れ替えられているのではないかというざわめきが、実習室の中でひそひそと広がった。

イザドラは隣の実験台から、その様子を眺めていた。

「……こんな程度でしたか」

小さく、ほとんど独り言のように呟いた。取り巻きの一人だけが聞こえたかもしれない、そういう声だった。

拍子抜けした顔だった。想定していた結果とは、違ったらしかった。

授業が終わった後、先生が実習室の薬品棚を片付けていると、棚の奥に見慣れない瓶が一本紛れているのを見つけた。

ラベルを確認した。先生の顔色が、変わった。

それは、今日の実習で使う薬品リストには載っていない、別の薬品だった。単体では問題のないものだった。でも、今日の実習で令嬢が混合した薬品と合わさっていたとしたら。先生はその組み合わせが何を引き起こすか、すぐにわかった。

先生は棚を閉めて、急いで学園長室へ向かった。

その日のうちに、理科実習担当の先生たちが集まって確認作業が行われたという話が、翌朝には広まっていた。

棚の奥にあった薬品が、本来今日の令嬢の実験台に置かれるはずだったものらしいという話。でも実際に令嬢の台にあった薬品は、それとは全く別の、危険性の低い薬品にすり替えられていた。だから反応は起きたが、膨張と白煙だけで済んだという話。

もし棚の奥の薬品がそのまま令嬢の実験台に置かれていたら。もし令嬢がそれをそのまま混合していたら。

爆発という言葉が、生徒たちの間でひそかに出回った。実習室全体が巻き込まれていたかもしれなかった、と誰かが言った。窓が吹き飛ぶほどの反応が起きていたかもしれない、とも。

誰かが、危険な薬品を仕込もうとした。でも別の誰かが、それをさらに別のものにすり替えた。二重のすり替え。だから不発に終わった。

(……誰かが、止めた)

エリーゼはその話を廊下で聞いた。立ち止まって、少しの間、頭の中で整理した。

誰かが危険な薬品を仕込もうとした。そして別の誰かが、それをさらに別のものにすり替えた。二重のすり替え。

その「誰か」は、まだわからなかった。

(……でも、そうでなければ、あの実習室にいた全員が)

考えるだけで、手が少し冷たくなった。

翌日の食堂での出来事だった。

昼食の時間、一人の令嬢が食堂から出ようとしたとき、扉のすぐ外でイザドラの取り巻きとぶつかった。令嬢の手の中のトレーが傾いた。スープが、制服に広がった。

令嬢が固まった。

「……す、すみません。前を見ていなくて。本当に申し訳ありません」

令嬢が頭を下げた。顔が青かった。手が震えていた。

「クリーニング代はお支払いします。弁償します。本当に、申し訳ございませんでした」

何度も頭を下げた。

取り巻きは笑顔のまま立っていた。何も言わなかった。じっと令嬢を見下ろしていた。

周囲の生徒たちが足を止めて見ていた。誰も声を上げなかった。止められなかった。

しばらくして、そこへイザドラが通りかかった。

状況を一瞥した。それから、令嬢に向かって穏やかに笑った。

「まあ、大変だったわね。でも、いいじゃないの」

イザドラが取り巻きに目配せした。

「私が替えの制服を用意してあげるわ。ね、そうしましょう。さあ、行きなさい」

令嬢が顔を上げた。泣きそうな目をしていた。

「……あ、ありがとうございます」

「気にしないで。お互い様ですもの」

イザドラが笑顔で言った。令嬢が深く頭を下げて、足早に食堂を出ていった。

周囲の生徒たちがざわめいた。イザドラって意外と優しいじゃないか、という声が聞こえた。

イザドラはそれを聞きながら、令嬢が去った方向を少しだけ見た。笑顔のままだった。

エリーゼは食堂の端のテーブルから、その一部始終を見ていた。

(……次の標的が、決まった)

イザドラの今の笑顔は、親切ではなかった。あれは印をつけた顔だった。助けてやった相手を、次に使う。それだけのことだった。

感謝させておいて、次に何かを要求できる関係ができた。

令嬢はまだ気づいていない。助けてもらったと思っている。あの笑顔を、本当に優しいと思っている。

全部、計算だった。

(……リナのやり方に、少し似ている)

エリーゼはそう思った。でも、リナとは根本が違った。リナは生き残るために動いていた。イザドラは楽しんでやっていた。それが、一番の違いだった。

エリーゼは食事に視線を落とした。

食堂の出口の方で、イザドラが令嬢たちに囲まれてまた笑っていた。さっきのことなど、もう忘れたような顔をしていた。

その日の中庭で、エリーゼはしばらく本を持ったまま座っていた。

転校生が来た。いつものベンチに座った。エリーゼの様子に気づいた。

「本を開いていないな」

「……少し、考えていて」

「薬品の件か」

「ええ。それと、今日の食堂のことも」

転校生が少し間を置いた。

「薬品は、誰かが止めた」

「……やはりそう思いますか」

「二重にすり替えられていた。偶然でそうなるものじゃない」

エリーゼは転校生を見た。

「……誰だと思いますか」

「さあ」

「わからない、ですか」

「証明できないことは言えない」

またその言葉だった。エリーゼは少し苦笑しそうになって、こらえた。

転校生は本を開いた。

エリーゼはしばらく、その横顔を見ていた。

(……この人は、何かを知っている)

聞こうとして、やめた。証明できないことは言わない人だった。

エリーゼは本に視線を戻した。

旅する少女が、最後の門の前に立っていた。扉に手をかけていた。あと数ページで、終わる。

エリーゼはそのページを、ゆっくりと読んだ。