軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第18話 「ヒロインの、終焉」

朝から、嫌な予感がしていた。

昨日から続いている視線の重さは、今日も変わらなかった。廊下を歩けば誰かが避けた。食堂に入れば話し声が止まった。それでも私は笑顔を保った。崩してはいけない。ここで崩れたら、全部終わる。

(……まだ大丈夫だ)

自分に言い聞かせながら、大広間に向かった。

昼休みの大広間は、いつも多くの生徒が集まる場所だった。今日も変わらず、広い室内に生徒たちの声が響いていた。

私が入ると、周囲の空気が少し変わった。

いつものことだ、と思おうとした。でも今日はいつもより重かった。視線が多かった。しかも、誰もすぐに逸らさなかった。じっと見ていた。

(……何かある)

背筋に冷たいものが走った。でも、引き返すわけにはいかなかった。引き返せば、それ自体が何かを認めることになる。

前を向いて、歩いた。

声がしたのは、広間の中央に差し掛かったときだった。

「あら、ちょうどよかった」

明るい声だった。よく通る、涼やかな声だった。

振り返ると、イザドラ・カーレンが立っていた。

白金色の髪。紫がかった灰色の瞳。昨日の廊下で見たときと同じ、楽しそうな顔をしていた。周囲の生徒たちが、その声に引き寄せられるように視線を向けた。

(……来た)

昨日からずっと感じていた「何かが起こる」という予感が、今この瞬間に形になった。

「皆さまにお集まりいただいてよかったわ。丁度いい機会ですもの」

イザドラが広間全体を見渡した。生徒たちがざわめいた。その視線が、私に向いていた。

「リナ様のことで、少し皆さまにお伝えしたいことがあって」

広間が静まった。

私は笑顔を保った。崩さなかった。崩せなかった。

「何のことでしょうか、イザドラ様」

「まあ、落ち着いて聞いてちょうだい」

イザドラが微笑んだ。楽しんでいた。この状況を、心の底から楽しんでいた。

「夏季休みの間、少し調べさせていただいたの」

イザドラが言った。

「リナ様がこの学園で、どんなふうに動いてこられたのかを。思っていた以上に、興味深いことがたくさん出てきたわ」

「……調べた、とはどういうことですか」

「そのままの意味よ。気になることがあったから、確かめた。それだけのことよ」

イザドラが広間をゆっくりと見渡した。

「リナ様はこの学園で、多くの殿方と特別に親しくされていたようね。一人ひとりに、とても丁寧な言葉をかけて。でも、その言葉が……ほとんどの方に、同じものだったとしたら?」

広間がざわめいた。

何人かの男子生徒の顔が、強張った。見覚えのある顔だった。私が丁寧に関係を作ってきた相手たちだった。

「そんな……」

誰かが呟いた。

「俺にも、同じことを言っていたのか」

別の声が次々と続いた。

広間のざわめきが大きくなった。

(……まずい)

「それは誤解です。それぞれの方への言葉は、それぞれに思って」

「周りの男性たちの顔を見ますと」

「似た言葉、というには少し限度がありますわね」

イザドラが静かに遮った。

広間の空気が変わった。

「他にもあるわよ」

イザドラが続けた。

今度は令嬢たちの方を向いた。

「リナ様に、仲良くしていただいていたと思っていた方、いらっしゃるかしら。でも、その前に誰かから変な噂を流されて、気づいたら孤立していた、という経験のある方は?」

広間の中で、複数人の令嬢が顔を上げた。

目が合った。私が、孤立させてから近づいた令嬢たちだった。

「……ええ」

一人が、静かに言った。

「私、リナ様が来てくださる前に、急に友人たちに距離を置かれて。なぜか分からなかったけれど、後から聞いたら、変なことを言われていたと。そこにリナ様が声をかけてくださって、あなただけが味方だと思っていました」

もう一人が続いた。他にも声が多数、上がる。

「私もそうです。リナ様に親切にしていただいていたのに、同じことを別の方にもされていたと最近聞いて。あのときの親切が、最初から計算されていたと思うと……」

声が詰まった。

(……止めなければ)

「それも誤解です! 私は何も──」

「リナ様」

イザドラが静かに言った。楽しそうな声だった。でも、その奥に何か鋭いものが混じっていた。

「証言してくださった方々の言葉も、でっちあげとおっしゃるの?」

「そうは言っていません。ただ、誰かに誘導されて」

「誘導。また面白いことをおっしゃるわ」

イザドラが少し首を傾けた。

「私はただ、事実を確認しただけよ。証言してくださった方々が自分の言葉でお話くださったことを、私がどう誘導できるというの?」

答えが出なかった。

でも、まだ終わっていない。まだ、逆転できる。

「そもそも、この話の出所はどこなんですか」

私は声を上げた。

「イザドラ様がどこからこの情報を得たのか、それ自体が怪しいのではないですか。なぜ突然、夏季休みが明けてこのような場を設けるのか」

「あら、気になる?」

イザドラが微笑んだ。

「ならばちょうどいいわ。もう一つ、確認したいことがあるの」

イザドラが広間の端に視線を向けた。

セドリック・ランフォードが立っていた。

(……セドリック)

胸の奥で何かが落ちた。

「セドリック様」

イザドラが穏やかに声をかけた。

「以前、大広間でエリーゼ・ヴァルドラン嬢が読み上げようとした書類がございましたわね。床に落ちたものを、あなたが拾われたとお聞きしました。その書類、今ここで公開していただけませんか」

広間が静まり返った。

セドリックは何も言わなかった。

「セドリック様?」

イザドラが重ねた。

セドリックの表情が、わずかに固まった。答えなかった。

「……」

沈黙が続いた。

イザドラが、ゆっくりと広間全体を見渡した。

「お答えにならないということは」

一拍置いた。

「お認めになっていることと、同義ですわよね」

広間がどっとざわめいた。

(……駄目だ)

「ちょっと待ってください!」

声が大きくなった。

「あの書類はでっちあげです。エリーゼ・ヴァルドラン様が私を陥れるために作ったものです。あの方はずっと私に嫌がらせをしてきた方で、その方が作った書類なんて──」

「エリーゼ様」

イザドラが静かに遮った。

広間の空気が、また変わった。

「あの書類の精度については、セドリック様が黙ってらっしゃる。証言してくださった方々の話は一致している。そして今ここで、身に覚えのある方が何人もいらっしゃる」

イザドラが私を見た。

「この場を覆すには、今ここで一度でも疑いを持ってしまった方々を、もう一度完全に信じ直させなければならないわね。証言者がいて、状況が一致して、一度疑った人間を再度信用させることが、リナ様にできるかしら」

言葉が、出なかった。

できない。

それはわかっていた。一度疑われた信頼を、この場で取り戻すことはできない。積み上げたものが、今日一日で崩れようとしていた。

「それと」

イザドラが続けた。声が、少し低くなった。

「リナ様って、クロード殿下に随分と近しくしていらしたのよね。エリーゼ様との婚約が解消された頃から、特に」

広間がざわめいた。

「殿下のお側に寄り添って、エリーゼ様との仲を引き裂いて。婚約まで白紙にさせて。それが全部、今日出てきたような手口でなされたとしたら」

イザドラが広間全体を見渡した。

「殿下も、ずいぶんと上手くやられたということになりますわね」

広間が静まり返った。

何人かが、あからさまに顔をしかめた。殿下への、あからさまな嘲りが、広間の空気の中に滲んだ。

(……殿下まで)

私のせいで、殿下まで。

でも、それを止める言葉が、もう出なかった。

イザドラが私の方に視線を戻した。

「平民の身分でよくここまで頑張られましたわね」

穏やかな声だった。労うような声だった。でもその言葉の意味は、労いではなかった。

「でも、ここまでのようですわ」

広間が、しんと静まった。

広間の空気が、完全に変わっていた。

誰も私の方を正面から見なかった。見ても、すぐに目を逸らした。同情でも怒りでもなかった。ただ、関わりたくないという目だった。

(……誰も、いない)

一人ひとりに合わせて、丁寧に、慎重に積み上げてきた。誰にも疑われないように動いてきた。

それが今、この大広間で、全部崩れた。

イザドラが一歩引いた。もう私を見ていなかった。

関心が終わった人間に向ける目をしていた。それが、怒鳴られるより、責められるより、ずっと堪えた。

(……覆せない)

証言者がいた。状況が一致していた。一度疑いを持った人間たちの目が、もう戻らなかった。何を言っても、この場の空気はもう動かない。

今まで、誰にも疑われなかった。

なのに今日、全部終わった。

扉が、遠かった。

どうやって大広間を出たのか、よく覚えていなかった。

気づいたら廊下にいた。足音がした。自分の足音だった。

廊下を歩く生徒たちが、私を見た。何人かが何か囁き合った。聞きたくなかった。

窓の外には、遠く暗い空が見えた。

(……終わった)

今度は、本当にそう思った。

廊下の端の柱まで歩いて、壁に手をついた。

手が、震えていた。足も、震えていた。

笑顔を作ろうとした。でも、どんな顔をすればいいのか、もうわからなかった。

廊下の向こうから、イザドラの明るい声が聞こえた気がした。

誰かと、楽しそうに話している。