軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第17話 「ヒロインの、崩れた朝」

夏季休みが明けた。

この休みを、ただ過ごしていたわけではなかった。

殿下との関係は終わった。でも、学園での立場はまだ終わっていない。あの応接室での話は、殿下が「ここだけに留める」と言った。学園への報告も保留だ。広まってはいない。ならば、まだ動ける。

ばれていない。それだけが、私の手札だった。

休みの間、静かに考えていた。どう立て直すか。どこから始めるか。焦らず、丁寧に。今までもそうやってきた。また同じようにやればいい。一から積み上げ直す覚悟はあった。まだ終わっていない。終わらせない。

再出発を、静かに準備していた。

だから今日、学園の門をくぐるとき、私の足取りは揺れていなかった。笑顔を作った。いつもの、柔らかい笑顔を。

大丈夫だ。今日から、また始めればいい。

そう思っていた。

最初は、気のせいだと思った。

廊下を歩いていると、前から来た令嬢と目が合った。いつもなら軽く会釈してくれる子だった。でも今日は、目が合った瞬間に少し早足になって、そのまま通り過ぎた。

(……授業に急いでいるのかもしれない)

自分にそう言い聞かせた。ばれていないはずだ。あの応接室にいたのは三人だけだった。殿下は「ここだけに留める」と言った。広まるはずがない。

次の廊下でも、同じことが起きた。いつも話しかけてきてくれた男子生徒が、私を見た瞬間に視線を逸らした。軽く会釈する間もなく、別の方向に歩いていった。

(……気のせいだ)

また同じことを思った。でも今度は、少し間があってから思った。すぐには思えなかった。

食堂に入ったとき、気のせいではないとわかった。

いつも座っていた席の近くにいた令嬢たちが、私が近づくと話を止めた。目を合わさなかった。荷物を持って、別のテーブルに移っていった。

音もなく、静かに、離れていった。

(……何かが、ある)

食堂の中を見回した。いくつかの視線がこちらに向いていた。でも、どれもすぐに逸れた。誰も私の目を見なかった。

胸の奥で、何かが冷たくなった。

ばれていないはずなのに。

(……まさか、ばれているのか)

頭の中で、否定しようとした。ばれるはずがない。あの場にいたのは三人だけだ。殿下は留めると言った。セドリックが外に話すはずもない。ばれていない。ばれているはずがない。

でも、じゃあなぜ。なぜ今日、皆がこんな目をしている。

答えが出なかった。出ないのに、嫌な汗だけが背中に滲んだ。

確かめようとした。いつも話してくれた令嬢に声をかけた。

「少し、よろしいですか」

「あ……ごめんなさい、今から授業で」

笑顔だったが、目が泳いでいた。そのまま行ってしまった。

別の生徒にも声をかけた。同じだった。用事があると言って、去っていった。

(……誰も、話してくれない)

夏季休みの前までは、こんなことはなかった。私に声をかけられれば、みんな立ち止まってくれた。話してくれた。それが当たり前だった。

それが今日、一日で全部変わっていた。

おかしい。何かがおかしい。でも何がおかしいのかが見えなかった。

応接室でのことが漏れたのか。でも殿下は「ここだけに留める」と言った。セドリックが動いたのか。でもあの調査はすでに終わっているはずだ。では何が……。

頭の中で考えを巡らせるたびに、答えが出なかった。出ないのに、嫌な予感だけが育っていった。

(……誰かが、動いた)

でも誰が、何を、どこまで動かしたのかが、全部見えなかった。見えないことが、一番怖かった。

午後の廊下を歩いていたとき、前から一人の令嬢が歩いてきた。

白金色の髪だった。

カーレン伯爵……いや、侯爵家の令嬢。イザドラ・カーレン。同じ学年で、存在は把握していた。家柄は高い。でも、今まで大きく動くことのなかった令嬢だった。私の計算の中では、脅威として扱う必要のない人間だった。

そのイザドラが、まっすぐ私を見て歩いてきた。

他の生徒たちのように視線を逸らさなかった。避けもしなかった。むしろ真っ直ぐに、ためらいなく向かってきた。

私の前で、立ち止まった。

そして、にっこりと笑った。

作った笑顔ではなかった。本当に、心の底から楽しんでいるような笑顔だった。

「ごきげんよう、リナ様」

明るい声だった。友好的ですらあった。

でも、その笑顔の奥にある何かが、私の背筋に冷たいものを走らせた。

三年間、人の笑顔の奥を読んできた。その目が、今この瞬間、はっきりと告げていた。

(……この人は、全部知っている)

何を知っているのかはわからなかった。でも、「知っている人間の顔」をしていた。そして、それをひどく楽しんでいた。

イザドラはそれだけ言って、私の横を通り過ぎた。振り返らなかった。白金色の髪が、廊下の先に消えていった。

私は廊下に立ち尽くした。

(……なぜ、あの令嬢が)

今まで脅威として見ていなかった。計算の外に置いていた。なのになぜ今日、あの目で、あの笑顔で、私の前に現れたのか。

何かを知っている。何かを持っている。そして、それを使うつもりでいる。

その確信だけが、じわりと広がっていった。

夜、自室に戻ってから、私はしばらく窓の外を見ていた。

今日一日で何が変わったのかを、頭の中で整理しようとした。でも、整理できなかった。情報が足りなかった。

ばれていないはずだった。でも何かが広まっていた。

誰かが動いた。でも誰なのかわからなかった。

イザドラが笑っていた。でも、何を知っているのかわからなかった。

わからないことが多すぎた。三年間、わからないことをこのまま放置したことは一度もなかった。必ず情報を集めて、必ず手を打った。でも今夜は、何から手をつければいいのかすら、思いつかなかった。

(……何かが、起こる)

今日一日で感じた違和感が、全部一つの方向を指していた。

それが何なのかは、まだわからなかった。

でも止められないことだけは、わかっていた。

机の上に、何も置いていなかった。書くべき計画も、打つべき手も、今夜は何も思いつかなかった。

ふと、自分の手を見た。

震えていた。

初めてのことだった。