軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第16話 「早退令嬢の、夏季休み」

夏季休みに入って、三日が経った。

エリーゼの日々は、想像していた通りだった。

朝、決まった時間に起きる。身支度をして、朝食を取る。父は書斎に籠もり、母は来客の対応や書簡の整理で午前中が終わる。エリーゼには、誰かに何かを頼まれることもなく、かといって自由に出かける当てもなかった。

自室の窓から庭を眺めた。庭師が花壇の手入れをしていた。整った庭だった。でも、学園の中庭とは違った。誰かと並んで座るベンチもなく、本のページをめくる音が響く静けさもなかった。

(……長い)

三日でそう思うなら、休みの残りはもっと長く感じるだろう。

婚約破棄の件は、まだ家の中で尾を引いていた。父は以前より口数が減った。母は表向きには何も言わないが、食事の席での沈黙が重かった。「もう、結構です」と言ったあの夜から、三人の間の空気は元に戻っていなかった。

翌日、エリーゼは孤児院へ向かうことにした。

王都の外れにある孤児院には、以前から折々に訪問していた。

令嬢としての慈善活動、という名目ではあったが、エリーゼにとってはそれだけではなかった。子供たちは、エリーゼに余計なことを何も求めなかった。令嬢らしくある必要がなかった。ただそこにいれば、一緒に遊んだり、本を読んだりできた。

孤児院の門を入ると、子供たちが走り寄ってきた。

「エリーゼお姉さん!」

「来てくれた!」

エリーゼは少し驚いた。こんなふうに名前を呼ばれることに、学園では慣れていなかった。

「久しぶりね。みんな元気だった?」

「元気! ねえ、今日は何しに来たの?」

「会いに来たの」

「それだけ?」

「それだけよ」

子供が不思議そうな顔をした。エリーゼはおかしくなって、声を出して笑った。

作った笑い方ではなかった。

午後の時間を子供たちと過ごした。本を読んだ。庭で遊んだ。転んで泥だらけになった子供の手を拭いてやった。令嬢としての作法も、正しい笑い方も、ここでは何も要らなかった。

帰り際、一番小さな子が手を握ってきた。

「また来る?」

「来るわ」

「約束?」

「約束よ」

子供が満足そうに笑った。

エリーゼはその笑顔を見ながら、ふと思った。

約束を、こんなに気軽に言えたのはいつ以来だろう。

答えは出なかった。でも、悪い気分ではなかった。

孤児院に行ったり、王都の書店に立ち寄ったりしながら、数日が過ぎた。

学園にいるよりは静かな日々だった。でも、思ったより悪くはなかった。一人で出かけることに、少しずつ慣れていった。誰かの目を気にせず歩ける街は、意外と広かった。

それでも家に戻ると、三人の間の沈黙は続いていた。

(……まだ、時間がかかるのかな)

そう思いながら、エリーゼはその日も夕食を終えた。

夏季休みに入って数日が経ったある日の午後、屋敷の前が急に騒がしくなった。

エリーゼが自室で勉強をしていると、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。使用人の一人が扉をノックした。

「お嬢様、大変です。ヴァイセンベルク公爵家の若様がお見えになっていて……!」

「……ヴァイセンベルク?」

エリーゼはその家名を頭の中で繰り返した。転校生の、家名だった。

「突然いらっしゃって、旦那様が応接間にご案内しているのですが、奥様も大変お慌てで」

理由がまるでわからないまま、エリーゼは立ち上がった。

廊下を歩きながら、何が起きているのかを考えようとした。でも、何も思いつかなかった。

応接間の前に立った。扉越しに、声が聞こえた。

転校生の声だった。

「此度は突然の訪問、大変失礼いたしました。それと……以前、当家の事情により急なご無礼をお掛けしたこと。改めてお詫び申し上げます」

低く、落ち着いた声だった。

父の声が続いた。

「……いえ。そのようなことは、こちらこそ」

いつもより、少し震えていた。

母の声もした。何かを言おうとして、言葉にならないような、そういう間があった。

エリーゼは扉を開けた。

転校生が父に向かって頭を下げていた。母が隣で、目元をそっと押さえていた。

三人がエリーゼの方を見た。

父が、少し安堵したような顔になった。

「ようやく来たか。エリーゼ、お客様だ。ヴァイセンベルク公爵家のルーカス様がわざわざお越しくださった」

転校生がエリーゼを見た。

「ようやく来たか」

それだけだった。説明も謝罪も、何もなかった。

「……なぜ、うちに」

「会いに来た」

父が少し咳払いをした。

「せっかくだから、エリーゼ、庭でもご案内して差し上げなさい。ルーカス様もどうぞ、ごゆっくり」

そう言いながら、父の目が「早く行きなさい」と語っていた。エリーゼはこんな父の顔を見るのは久しぶりだった。

庭に出た。

夏の日差しが、庭木の葉を明るく照らしていた。花壇には色とりどりの花が咲いていた。

「なぜ、うちに来たんですか」

並んで歩きながら、エリーゼは聞いた。

「会いに来た」

「それは聞きました。でも事前に連絡もなく、突然」

「それについては失礼した。次からは先に知らせる」

エリーゼは少し拍子抜けした。謝るとは思っていなかった。

「……次があるんですか」

「あるかもしれない」

また一言だった。エリーゼは少し呆れた。でも、怒る気にはならなかった。

庭をゆっくりと歩いた。時折訪れる沈黙は、中庭の時と同じで不思議と苦ではなかった。花壇の花のことを少し話した。転校生は特に感想を言わなかったが、立ち止まって見ていた。

「夏季休み中、孤児院に行ってきたんです」

「どんな場所だ」

「王都の外れにあって、子供たちがたくさんいて。令嬢としての慈善活動、という名目なんですけど、私にとっては特別な場所で」

「特別、とは」

「あそこでは、何も作らなくていい。ただそこにいるだけで、子供たちが話しかけてきてくれて」

短く「そうか」と言った。その横顔は、驚くほど穏やかだった。

「また行くのか」

「……ええ。また来るって、約束しましたから」

転校生が少し間を置いた。

「良い約束だ」

「そうですね」

真っ直ぐな言葉だった。その響きが心地よくて、エリーゼの心にすとんと落ちる。

しばらく歩いてから、転校生が口を開いた。

「両親との仲は、どうだ」

「……なぜそれを」

「学園で、夕方まで中庭にいた。家に居場所がない気がすると言っていた」

覚えていたのか、とエリーゼは思った。あれは少し本音が漏れただけだったのに。

「……よくはないですよ。婚約破棄のことで、ぎくしゃくしていて。食事もいつも通りのはずなのに、おいしいと思えることが減りました」

言ってから、少し驚いた。そんなことまで言うつもりはなかった。

「時間がかかるものだ」

「そうですね」

「でも、取り戻せるものもある」

それだけ言った。それ以上は何も言わなかった。

エリーゼはその言葉を少し考えた。

ただの励ましのように聞こえた。でも、何かもう少し深いところから来ている言葉のような気もした。どちらなのかは、わからなかった。

庭の木が、風で静かに揺れた。

屋敷の中では、父と母が応接間の窓からこっそりと庭を覗いていた。

カーテンの隙間から、二人分の顔がそろりと覗いた。

「……仲良さそうじゃないか」

父が小声で言った。

「そうね。でもあなた、そんなにじっと見たら気づかれてしまうわよ」

母も小声で言いながら、父よりも顔を前に出していた。

「エリーゼがあんなふうに話しているのは、久しぶりに見た気がする」

「……そうね」

母の声が、少しだけ柔らかくなった。

「ルーカス様は、ちゃんとエリーゼの話を聞いていらっしゃるわね」

「うん。まあ、そういう子だったからな」

父が静かに言った。それ以上は続けなかった。

二人でしばらく、庭を歩く二人の後ろ姿を眺めていた。

庭が夕暮れの色に染まり始めた頃、父が庭の入口から顔を出した。

「ルーカス様、よろしければ夕食をご一緒に……」

「お気持ちは大変ありがたいです」

転校生が穏やかに答えた。

「本日は突然お伺いしたにもかかわらず、温かく迎えてくださり、本当にありがとうございました。今日のところはこれで失礼いたします」

父が「そうですか、それは残念ですな」と言った。本当に残念そうだった。

転校生が玄関へ向かう前に、エリーゼの隣で少しだけ歩を緩めた。声を低くして、静かに言った。

「今夜の食事は、美味しければいいな」

「……え?」

振り返ったときには、転校生はもう歩き出していた。

エリーゼはその背中を見ながら、今の言葉の意味を考えた。

なぜ夕食の話をしたのか。

ただの思いつきなのか。それとも、何か別の意味があったのか。

よくわからなかった。

その夜の夕食は、婚約破棄の前と同じだった。

少なくとも、エリーゼにはそう感じられた。

父が口を開いた。今日の庭の花のこと。夏の暑さのこと。他愛のない話だったが、それが続いた。母も、少し話した。孤児院でどうだったかを聞いてきた。

「楽しかったの?」

「……ええ」

「そう。よかった」

それだけだったが、母が聞いてきたこと自体が久しぶりだった。

婚約破棄の後からずっと、三人で食卓を囲んでも誰も何も言わなかった。それが今夜は違った。声があった。返す言葉があった。

今日の夕食は、久しぶりにおいしかった。

エリーゼは食事をしながら、その声を聞いていた。

食事が終わって、父が立ち上がる前に言った。

「ルーカス様は、立派になられたな」

それだけだった。エリーゼには何のことかわからなかった。

転校生と父の間に、何か話があったのだろうとは思った。聞こうとして、少し迷った。でも今夜の、この久しぶりの食卓の余韻を壊したくなかった。だから、深く聞かないことにした。

(……それでいい)

そう思った。

自室に戻って、窓から外を見た。星が出ていた。夏の夜は、空が近い気がした。

(……取り戻せるものもある)

ふと、転校生の言葉が浮かんだ。

今夜の食卓が、その言葉と少し重なった気がした。

夏季休みの残りが、今日の朝より少しだけ億劫ではなくなっていた。

同じ夜、王都の別の場所で。

白金色の髪の令嬢が、机の前に座っていた。

手紙を書いていた。宛先は書いていなかった。でも、令嬢の口元には薄い笑みがあった。

ペンが、紙の上を滑った。

夏季休みが終わる頃には、準備が整っているはずだった。

令嬢はペンを置いた。窓の外の夜を眺めた。王都の灯りが、遠くに広がっていた。

「休み明けが、楽しみだわ」

誰に言うでもない、独り言。

その声は、楽しそうだった。ひどく、楽しそうだった。