作品タイトル不明
6.
その朝、屋敷はいつもより少しだけ賑やかだった。
廊下を行き交う足音が増え、使用人たちの声も普段より高い。
花が運び込まれ、布が替えられ、鏡が磨かれていく。
クラリスが学園入学の為に王都へ向かう日だった。
私は、少し離れた場所からその様子を眺めていた。
母としての役目は、ここにはない。
最初から、与えられていない。
新しい外套に身を包み、侍女たちに囲まれる少女。
十五歳。
前世で遊んだ乙女ゲームの画面が、ふと頭をよぎる。
学園、出会い、恋。
そして、断罪。
華やかな物語の裏側で、切り捨てられるのは、いつも周縁の人間だった。
馬車が門を出ると、屋敷の空気は一変した。
張り詰めていたものが、すっと抜ける。
役目は終わった。
そう言わんばかりに、使用人たちはそれぞれの持ち場へ戻っていく。
私は自室に戻り、机に向かった。
紙を一枚引き寄せる。
「三週間」
と、書き足す。
学園入学から三週間。
それが、この屋敷を出る日だ。
町外れの部屋には、旅支度がほぼ整っている。
靴、外套、保存食、薬草。
目立つものは、何一つない。
護衛騎士ディートリヒは、今も私の夜の外出を「密会」だと思っている。
衛兵たちも同じだ。
私は出て、戻る。
それを、何度も見てきた。
――戻らない可能性を、誰も考えない。
昼下がり、ルカと庭をのんびり歩く。
この子はもう、変化に慣れていた。
夜に歩くこと。
知らない味を食べること。
小さな部屋で過ごすこと。
夜。
私はいつも通り外套を羽織る。
荷物は持たない。
いつもの外出と、何一つ変わらない。
門番は顔も上げず、形式的に声をかける。
「行ってらっしゃいませ」
「ええ。すぐ戻るわ」
夜道を歩きながら、私は静かに息を整える。
焦りはない。
迷いもない。
(人生二周目だもの)
そう、自分に言い聞かせる。
魔法の言葉のように。
今は、守るものがはっきりしている。
怖くても、行く。
一緒なら、行ける。
三週間後。
私は、この屋敷を出る。