作品タイトル不明
第二百三十五話
アマクの治める領地は、ゾノフスと呼ばれる土地らしい。
はるか昔、戦斧を用いて戦う英雄が居を構えたことが町の起源で、その英雄の名前だそうだ。
冒険者たちの話ではヴォーデン属州の中でも豊かな領地であり、賑やかな土地だという。
アマクに聞いたところ、すべて母親の功績だと、誇らしさが半分、恥ずかしさが半分といった感じで答えていた。
ゾノフスの領主は王の嫡子たるアマクらしいのだが、実質的に運営を取り仕切っているのはアマクの母なのだと。
冒険者たちの話では、アマクはルベールの野心に利用されたか、宮廷で面倒な仕事を押し付けられたかだろうということだった。
しかしアマクの語り口を聞いていたら、案外、アマクは自らこの討伐に志願したのではないかと思った。
なんの功績もないまま人の上に立つというのは、それはそれで辛いものだから。
領地の運営は母が取り仕切り、口を出すことができないから、せめて面倒な仕事を引き受けることで、少しでも宮廷内で存在感を示そうと思ったのではないか。
そしてそこに、鼻の利くルベールが横槍を入れてきたと、そんなところではないか。
この世界はまったく、優しく作られていないから。
自分がもしもヴォーデンのような領地にある鉱山で蘇っていたら、きっとろくでもない人生を送っていたことだろう。
そうこうして、アマクたちを返り討ちにして三日目には、州境から長く続く山岳地帯を抜け、峠を越えることとなった。
「風が急に冷たくなったな」
ドラステルの格好のまま旅をしているクルルが、面頬の奥でそう言った。
海路で神の住む山を目指した際も、北上するにつれてどんどん風が冷たくなった。
季節的にはあの頃より夏に近づいたにも関わらず、峠道を吹き上げてくる北からの風は乾いていて、ひどく冷たい。
険しい岩がちの山は樹木がまばらで、動物を見ることはほとんどなかった。
そんな荒れた土地とやり取りされる交易品などろくにないので、ここに道が維持されているのは、唯一の交易品である奴隷獣人たちを運ぶためのようだった。
それに船という選択肢は、西周りの航路が蛮族たちの住まう島を横切ることになるため、使えないのだ。
そんなわけで、自分たちがヴォーデン側に向かって歩く最中も、ぞろぞろと隊列を組まされて歩く奴隷獣人たちを何度か見た。
クルルは無言でこちらに圧力をかけてきたが、ここで奴隷商を襲うわけにはいかない。
奴隷商はこの世界の法律に則り、彼らの商いをしているだけなのだから。
今すぐにでも目の前の奴隷たちを助けたいと歯噛みするクルルのことを、自分はその手を強く握って、奴隷獣人たちの隊列から引き離すほかなかった。
「ゾノフスは平野部を二日ほど歩いた先です。海岸線に出るには、もう一日ほどかかります」
見晴らしの良い峠から、アマクがそう説明した。
神の住む山もそうだったが、峠からの見晴らしは素晴らしかった。
はるか遠くに鉛色の空と同化しているように見えるのが、もしかしたら海かもしれない。
海まで歩いて三日なら、一日30kmとして90km。
確か富士山から見える視界の果てが200kmだから、超えてきた山は標高千メートルとか、高いところで二千メートルといったところか。
実のところ、自分の体力は割と危なかった。
日々訓練していて、若さもみなぎるクルルはもちろん平気な顔をしている。
なんなら敵地を前に、興奮しているらしいのが尻尾の動きから察せられた。
「この山から狙えば、どこでも一撃で沈められるな」
おそらく過信でもなんでもないその一言に、自分は聞こえなかった振りをした。
◇◇◇
ヴォーデン属州内を進む際は、アマクたちが返り討ちにあった敗残兵とみられないよう、注意する必要があった。
いたずらに彼らの名誉を傷つけてはならないし、通り抜ける町や村で反感を持たれるかもしれない。
とはいえ、冒険者たちも協力的で、これといった問題は起きなかった。
無事に家に帰れるかもしれないのに、わざわざ事を荒立てないだろとはヨークンの言葉だ。
それに事を荒立てるにしても、彼らの前衛とこちらの獣人を比べれば、体格の差は明らかだ。
彼らにとって分の悪い賭けになるだろうことは、一目瞭然だった。
それにこの行軍の中で目立っていたのは、どちらかというとジレーヌ領の獣人たちのほうかもしれない。
見事な体格の獣人たちにはそれだけで迫力があるし、なんとも心を揺さぶる雄々しさがある。
町や村を抜ける際、子供たちが目を輝かせて追いかけてきたし、一体いくらで売っているのかと興奮した様子で商人が詰め寄ってくることもあった。
反面、通り過ぎる町や村で暮らす、枷に繋がれた獣人たちがこちらを見る目には、表現しようのない絶望とも諦念とも違う、泥のような感情があった。
彼ら一人一人をその場で助けることは容易だが、それでは問題の解決にはつながらない。
なんなら奴隷を巡る混乱が実体経済にまで波及して、巡り巡って解放したはずの獣人たちをも苦しめてしまうかもしれない。
だから自分たちは、今しばし待っていてくれと胸中で言い訳するほかなかったし、クルルの手を強く握ることしかできなかった。
こうしてゾノフスの町に入ったのだが、事前に聞いていた話にたがわず賑やかな様子に、ようやくほっと一息つけた時のこと。
アマクの帰還を知った領民が、大慌てで屋敷に向かって走っていった。
露店で売られているこの地方の食べ物に視線を奪われていたクルルも、その様子に目を眇め、魔石の位置を確かめ直していた。
そして町の人々の視線を一身に集める自分たち一行を屋敷の前で出迎えたのは、赤い髪の毛をイーリア以上に膨らませて仁王立ちする、立派な体格の女傑なのであった。