作品タイトル不明
第二百二十七話
◇◇◇クルル◇◇◇
イーリアからは、頼信のことを怒らないように、と言われていた。
泣いてしまったのも、いきなりのことでびっくりしただけだと。
それに頼信に悪気がないのは明らかだし、悪気だけでなく色々足りないのも今更のことでしょう? と。
クルルもそこに異論はないし、実のところあんなに怒ってしまった自分自身に驚いていた。
落ち着いて振り返れば、多分、それくらい、イーリアの辛そうな顔をながらく見ていなかったせいなのだ。
仕事に追われて疲れ果てたイーリアが、むくれて機嫌悪くしているのはしょっちゅうだった。
でも、感情を押しつぶそうとしてできない、苦痛に満ちた顔はすっかり見なくなった。
イーリアをあの表情から解放してくれたのは、間違いなく頼信だった。
だからクルルとしては、過剰に反応してしまったことを反省していた。
なんなら頼信に謝るべきだと頭ではわかっていたのだが、できなかった。
まず第一に、イーリアを泣かせたのは事実であるから。
それからそもそもあの切り出し方が、信じられないほど稚拙だったから。
というかクルルとしては、まず自分に相談しろと言いたかった。
そうすればイーリアを傷つけることもなかったし、なにより……。
クルルはそこまで思って、渋々認めねばならない。
頼信に素直に謝れないのは、結局のところ、頼信が大切な場面で頼ってくれなかったことにひっかかっているからだった。
もちろんあのクソ間抜けのことだから、そもそも頼るような場面ではないと考えていた可能性のほうが高い、とクルルも理性ではわかる。
それでも、感情を理性でねじ伏せられず、結局、頼信に対しては怒った顔を向けることしかできなかった。
それはジレーヌを出立し、ロランについてからもそう。
そんな自分に対して苛立ってしまうし、不機嫌そうにしているせいで頼信がますます委縮して、そのうじうじした様子にまた苛々してしまう。
もうその頃には自分がなにに怒っているのかよくわからなくなって、でも引っ込みもつかなくて、クルルは結局、イーリアのことで未だに怒っている自分、という分かりやすい仮面をかぶるほかなかった。
ほかにどんな顔をすればいいのか、まったくわからなかったから。
そんな具合なので、コールから言われてヴォーデン属州側の兵とやらを倒すのは、良い憂さ晴らしだった。
戦いはすべてを忘れさせてくれる。
それが訓練の成果を発揮できる舞台であれば、なおのこと素晴らしい。
『猫姫よ、八つ当たりは禁止だって忘れんでくださいよ』
ヴォーデン属州との州境を示す川沿いの崖の上で、最後の準備をしているクルルに、バダダムが声をかけてきた。
「わかってる。しつこいぞ」
『師匠からはもっとしつこく言われているので、しようがないでしょう』
訓練のおかげで体格が二回りは大きくなったバダダムは、見た目だけならあの野蛮なドドルにも負けていない。
『いつもならヨリノブ殿が諫めてくれるが、今回はそのヨリノブ殿のせいときた。止めるモノがいない』
共にゲラリオにしごかれているせいか、それともクウォンで一緒に戦った記憶があるせいか、バダダムとはすっかり気安くなり、今ではクルルに遠慮なくものを言ってくる一人でもある。
クルルは腰帯をきつく締め直し、魔石を確認し、大きくため息をついた。
「私をなんだと思ってるんだ? 師匠の兄貴分が同行してるのに、師匠の名を汚すわけがないだろうが」
クルルが顎をしゃくれば、その先にはヨークンがいる。
ヨークンはゲラリオが島に連れてきた魔法使いで、ゲラリオがまだ少年の頃、右も左もわからない戦場でいろいろと教えてくれた頃からの付き合いだという。
見た目こそゲラリオといい勝負の汚さだが、物腰が洗練されていて慎重な性格のせいか、ゲラリオよりかなり大人に見える。
そのせいでクルルは、ヨークンと話しているとひどく自分が子供に感じられて、嫌だった。
粗野で下品だけれど、わかりやすくて目線の近いゲラリオのほうが好きだと気がついて、なにか我ながら負けた気がしたものだ。
そのゲラリオは、今回の旅には同行していなかった。
コールと頼信、それにクルルが島の外に出てしまうので、イーリアの守りとしてゲラリオを置かざるを得なかった。
ヨークンやシュレッツたち新しい魔法使いを信用していないわけではなく、ジレーヌ領としては新入りとなる彼らにイーリアの護衛を任せていたら、周囲からの見栄えが良くないというのがゲラリオの考えだった。
特にマークスたちにとって、ヨークンら新顔がイーリアの屋敷に駐留していたら、面白くないだろう。
その点、ゲラリオならば島の危機を竜から救った実績があるし、ロランにて誘拐されたイーリアを奪還した功労者のうちの一人だ。
それから下品な者同士、マークスたちとやたら仲がいいということもある。
そんなわけで、この迎撃部隊はヨークンが率いて、クルルが補佐の役目となっているのだが、正直荷物持ち以外にやることなどない気がしていた。
ヨークンは、あのゲラリオよりもさらに戦場暮らしが長い。
今もヨークンは崖から身を乗り出すようにして地形を確認し、ゼゼクという名の獣人が束ねる斥候たちが先行しては、ヴォーデン属州の兵の位置を確かめ、ヨークンに報告している。
合成魔石の秘密を共有している以上、なんならヨークンだけでも余裕で勝てるはず。
なにせクルルとバダダムでも魔導隊を倒せたのだから、歴戦のヨークンとゼゼルとなれば、二人を倒すには大軍が必要になるだろう。
それでも今ここにクルルがいるのは、大事な戦いにジレーヌの古株が参加していないのはよくないという、やはり面倒な見栄えの話が理由である。
ただ、それは全体の半分であって、もう半分は、実戦をもっと経験しておけという、ゲラリオの師匠らしい指示があった。
小娘扱いしてこないゲラリオのそういうところが、クルルははっきりと好きだ。
なのでクルルとしては、八つ当たりによってヴォーデン属州側にむやみやたらと損害を与え、この後の交渉に支障が出るようなことをして、師匠の顔に泥を塗るつもりはない。
いつも馬の糞の欠片がついてそうな顔だが、それはそれなのだから。
それでもバダダムがしつこく確認してくるのは、自分の匂いがそれくらい怒りに満ちているからだろうと、クルルは自覚している。
「怒ってるのは、半分は私自身のことだ」
『ん?』
聞き返すバダダムを、クルルは睨みつけた。
「……仲直りの仕方が、わからないんだよ」
『……』
バダダムの呆れた様子に、クルルの尻尾が一瞬持ち上がるが、すぐにそれも垂れたのだった。