軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第7話 帰る場所

王城の広間は、荘厳な静けさに包まれていた。

今日、すべてが裁かれる。

私を悪女にした嘘も。

それを信じた人たちも。

「いよいよだな」

「はい」

そう答えると、胸の不安が少し和らいだ。

怖くないわけではない。

でも、逃げたいとは思わない。

カイル様の手が、私の背に軽く触れる。

それだけで、息がしやすくなった。

広間には貴族たちが並んでいる。

少し前まで、私を悪女と罵った人たち。

今日は同じ口で、リリアたちを疑っている。

滑稽だと思うほど、心は強くなかった。

ただ、痛みが鈍くなっていた。

もう、この人たちに愛されたいとは思わない。

そう思った瞬間、肩の力が少し抜けた。

「開廷する」

王の代理である裁定官の声。

広間が静まる。

リリアは、いつもの可憐な顔で前に立っていた。

ただ、頬の色だけは悪い。

隣のエドガー様は私を睨み、その後ろの父は、やはり目を合わせなかった。

胸の奥がちくりと痛む。

けれど、もう昔ほど深くは刺さらない。

カイル様が一歩前へ出る。

それだけで、広間の空気が張り詰めた。

「アリシア・ベルフォードの判決について、再審査の結果を報告する」

静かな声が、広間に響く。

「結論から述べる。彼女は無実だ」

広間がざわめく。

カイル様の合図で、白い布の上に証拠が並ぶ。

花瓶の破片。

薬師組合の記録。

夜会の薬に関する帳簿。

リリアの顔から、わずかに色が引いた。

「まず、事件当日の傷について」

カイル様の声。

「薬師の診断では、リリア嬢の傷は浅く、内側から横にまっすぐ引かれていた」

薬師が頷く。

「他者が正面から傷つけた場合とは、角度が異なります」

リリアの肩が小さく跳ねる。

「違います……私は怖くて、よく覚えていなくて」

か細い声。

涙がにじむ瞳とその奥にある焦り。

「次に、花瓶だ」

カイル様が、白い布の上に置かれた硝子片へ視線を落とす。

「事件当日、リリア嬢の部屋では花瓶が割れた。大きな音。床に散った水と薔薇。硝子の破片」

「部屋に駆けつけた者は、まずそこを見る。倒れたリリア嬢と、破片を手にしたアリシアをな」

「だが、今の診断と合わせればわかる。花瓶の破片で、咄嗟に切りつけられた傷ではない」

リリアの顔から、少しずつ色が引いていく。

「花瓶は凶器ではない。人を呼び、アリシアを犯人に見せるための合図だった」

リリアが顔を上げる。

「そんな……憶測ですわ!」

「憶測ではない」

公爵家の騎士が、ひとりの侍女を連れてくる。

リリア付きの侍女。

顔は真っ青で唇が震えていた。

「証言しろ」

カイル様の声に、侍女は膝から崩れた。

「リリア様に命じられました……花瓶が割れる音がしたらすぐに駆け付けられるように待機しておくようにと」

「嘘よ!」

リリアの声が裂ける。

可憐な仮面が、初めて大きく崩れた。

「その子は脅されているのです! 公爵様に!」

カイル様は表情を変えない。

「なら、夜会の薬に関する帳簿も脅されたのか」

夜会で使われた薬の購入記録。

そこには、エドガー様の従者の署名が残っていた。

さらに、代金の出所を示す帳簿。

支払いに使われた金は、リリアの侍女を通じて渡されたものだった。

会場がざわめく。

エドガー様の顔色が変わった。

「それは……私は知らない!」

「従者はすでに証言している」

カイル様の声が冷える。

「君に命じられたと」

「でたらめだ!」

エドガー様が叫ぶ。

「私はリリアを守ろうとしただけだ! すべて、その女が悪い! アリシアが嫉妬して、リリアを傷つけたから――」

エドガー様が私のことを睨みながら言う。

「お前が最初から、もっとリリアに優しくしていれば!」

「地味な女のくせに、婚約者の座にしがみつかなければ!」

心が冷えていく。

なぜ、私はこんな人に一度でも惹かれていたのだろう。

「お前のような女が、俺の隣に立てるはずがなかったんだ!」

昔なら、その言葉で膝を折っていた。

私は価値のない女だと、信じてしまっていた。

でも、今はカイル様の背中がすぐそばにある。

私自身の足で、赤い絨毯の上に立っている。

「そうですか」

私は小さく息を吐いた。

「なら、婚約がなくなってよかったです」

エドガー様の目が見開かれる。

私は続けた。

「あなたの隣に立つために、自分を殺さなくてよかった」

言い終えた瞬間、胸の奥が軽くなった。

涙は出ない。

不思議だった。

あんなに欲しかった人なのに。

今は、もう遠い。

エドガー様が顔を歪める。

「アリシア、待て。俺は……本当は、お前を憎んでいたわけでは」

「エドガー様」

私は遮った。

「もう、私の名前を呼ばないでください」

言葉が静かに落ちる。

彼の顔から血の気が引いた。

リリアが突然、泣き崩れた。

「ごめんなさい、お姉様!」

リリアはその場に膝をついた。

白いドレスの裾が、床の上にふわりと広がる。

両手で顔を覆い、肩を震わせる姿は、誰が見ても哀れな妹そのものだった。

「私、寂しかったの。お父様も、皆も、お姉様ばかり見ている気がして……怖かったのです」

嘘。

そう思った。

でも同時に、少しだけ本当も混じっているのかもしれないと思った。

「だからって、殺すつもりはなかったの! ただ、少し困らせたかっただけで……」

リリアが私に手を伸ばす。

「お願い、お姉様。許して。姉妹でしょう?」

姉妹。

その言葉。

何度も私を縛った言葉。

リリアを許したいわけではない。

父に見捨てられた痛みが消えたわけでもない。

それでも。

ここで非情になってしまえば、私はきっといつか後悔する。

「裁定官様」

気づけば、声が出ていた。

広間中の視線が私へ向く。

カイル様も、静かに私を見た。

私は小さく息を吸う。

「罪をなかったことにはできません」

「私は、処刑台に立たされました。誰にも言葉を聞いてもらえず、罪人として命を終えるところでした」

リリアが唇を噛む。

エドガー様が目を逸らす。

父は、ただ俯いていた。

「だからこそ、思います」

私は続けた。

「怒りや憎しみだけで、人の行き先を決めたくありません」

広間が静まり返る。

「罰は必要です。けれど、必要以上に誰かが壊れていくことを望んでいるわけではありません」

言い終えた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。

甘いのかもしれない。

弱いのかもしれない。

それでも、これが今の私だった。

カイル様は何も言わなかった。

ただ、黒い瞳がほんの少しだけ和らいだ気がした。

裁定官はしばらく沈黙し、それから厳かに頷いた。

「被害者本人の嘆願を考慮する」

リリアの目がかすかに見開かれる。

裁定官が立ち上がる。

王家の紋章が光る。

広間の空気が張り詰めた。

「王の名において裁定を下す」

静寂。

私の心臓の音だけが、やけに大きい。

「リリア・ベルフォード。虚偽告訴、証拠偽装、薬物使用による謀略。よって社交界からの永久追放、および治療院付き修道院での15年間の奉仕を命じる」

リリアが崩れ落ちる。

「いや……そんなの、嫌」

「エドガー・グレイル。偽証および謀略への加担により、騎士位を剥奪。グレイル家の継承権を停止し、辺境砦での労役を命じる」

エドガー様が膝をついた。

「待ってくれ、アリシア!」

彼が私に手を伸ばす。

「俺が悪かった!お前ならわかってくれるだろう? 昔は俺を慕っていただろう?」

胸の奥が冷える。

もう、痛みですらない。

「昔の私なら、そうだったかもしれません」

エドガー様の顔に希望が浮かぶ。

私は首を振った。

「でも、その私は処刑台で死にました」

広間が静まる。

言葉が、自分の中にも深く沈む。

処刑台で死んだ私。

誰かに信じてもらうことだけを願っていた私。

もう、戻らない。

裁定官の声が続く。

「ベルフォード侯爵。偏った証言により裁きを歪め、家門内の不正を看過した責任により、当面の領地運営権を王家監査下に置く。侯爵本人には謹慎を命じる」

父が崩れるように膝をついた。

「アリシア……」

初めて、父が私を見る。

ようやく。

ようやく私を見た。

けれど、その目にあるのは愛ではなく、縋る弱さだった。

胸が少しだけ痛む。でも、涙は出ない。

「お父様」

声は静かだった。

「私は、ずっと信じてほしかっただけです」

それだけ言って、私は目を逸らした。

もう、あの家の娘として泣くことは終わりにした。

裁定官が最後に告げる。

「アリシア・ベルフォードの義妹殺害未遂の罪を正式に取り消す。名誉は回復されるものとする」

その言葉に、広間がざわめく。

少し前まで私を罵っていた貴族たちが、手のひらを返したように口を揃えて言う。

「アリシア様はお気の毒に」

「やはり、何かおかしいと思っていたのですわ」

「レイヴン公爵の慧眼ですな」

けれど、どの言葉も胸には届かなかった。

処刑台で誰も手を伸ばさなかった事実だけは、消えない。

事件は終わった。

そのことが、なぜかカイル様との距離まで遠ざけるように感じて、胸の奥がかすかに揺れた。

「終わったな」

カイル様が言った。

ただ、それだけ。

その一言は、達成感だけではない響きをもっていた。

私はうまく言葉に出来ずに頷く。

広間を出る時、リリアの泣き声が聞こえた。

エドガー様の怒号。

疲れきった父。

そのすべてが、背中の向こうへ遠ざかる。

赤い絨毯を歩く。

一歩。

また一歩。

足は震えていない。

王城の扉が開く。

頬を撫でる空気が、少しだけ甘く感じた。

馬車の前で、カイル様が手を差し出す。

温かい。

大きくて、確かな手。

「よく立っていた」

彼がいつも言ってくれる短い言葉。

不器用な褒め方。

でも、私には十分すぎた。

胸の奥が熱くなる。

「カイル様が、隣にいてくださったからです」

握った彼の手から、ほんの少しだけ力が伝わってくる。

「君が自分で立ち向かったんだ」

その言葉に、視界が滲む。

私は俯き、小さく笑う。

泣き笑いのような顔。

まだうまく胸を張れるほど強くはない。

それでも、今日の自分を否定したくはなかった。

「……はい」

馬車に乗り込むと、王城のざわめきが厚い扉の向こうに隔てられた。

膝の上に置いた手は、まだ少し震えている。

けれどそれは、恐怖だけではない。

終わったのだ。

長い悪夢が。

隣で、カイル様が静かに言った。

「これで、君は自由だ」

自由。

その言葉が、胸の中でゆっくり広がる。

私はもう、罪人ではない。

保護される理由もない。

なら、私はどこへ帰るのだろう。

誰の隣に、いたいのだろう。

私はカイル様を見た。

初めて見た時は、処刑台の刃よりも冷たく見えた。

きっと多くの人が、今も彼を恐れている。

けれど私は、知っている。

その奥にある優しさと孤独を。

「自由なら」

声が、少し震えた。

「もう少しだけ、レイヴン公爵邸にいさせていただくことはできますか?」

カイル様の瞳がわずかに揺れた。

ほんの一瞬。

けれど、確かに。

「それは、保護先としてか」

「それとも、君の意思で帰る場所としてか」

選ばせてくれる。

いつだって、この人はそうだった。

私はまっすぐ彼を見る。

「私の意思です、カイル様さえよければ……」

カイル様の表情は変わらなかった。

けれど、膝の上に置かれた彼の手が、ほんのわずかに握られる。

「そうか」

短い返事。

でも、その声は少しだけ掠れていた。

それから彼は、何かを飲み込むように一度だけ目を伏せた。

「……いや」

私は瞬きをする。

カイル様が、静かにこちらを向いた。

「違うな」

「カイル様?」

「君が帰りたいと言ってくれるのを、待つべきではなかった」

カイル様の黒い瞳が、まっすぐ私を見ていた。

「アリシア」

名前を呼ばれる。

処刑台で呼ばれた時とは違う。

裁きのためではなく、私自身を引き止めるような声だった。

「私の屋敷へ帰ってきてほしい」

息が止まる。

胸の音がうるさい。

「保護のためではない。義務でもない」

カイル様の声は少し硬かった。

けれど、その硬さの奥に隠しきれない熱があった。

「私が、君に帰ってきてほしい」

胸の奥が、痛いほど熱くなる。

選ばせてくれる人が。

いつも私の意思を待ってくれる人が。

今、初めて、自分の望みを私に差し出している。

「……はい」

声が震える。

「帰りたいです。カイル様のところへ」

カイル様の瞳が、ほんのわずかに揺れた。

そして、静かに頷く。

「帰ろう、一緒に」

その言葉だけで、胸の奥がいっぱいになった。

自分の居場所がある。

そう思えたのは、いつ以来だろう。

窓の外で、王城が遠ざかっていく。

かつて悪女と呼ばれた私は、もういない。

あの日の痛みまで消えたわけではない。

それでも私はその痛みを抱えたまま前へ進む。

私自身の意思で。

そして、私を望んでくれる人のいる場所へ。