軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第6話 悪女の罠

夜会の灯りは、眩しすぎた。

王都の中央にある迎賓館の大広間は、目に映るものすべてが華やかだ。

その華やかさの中で、カイル様の隣に立つ私へ向けられる視線だけは、ひどく重かった。

「あれが例の……」

「処刑台から戻った令嬢でしょう?」

「レイヴン公爵がなぜ」

囁き声。

値踏みする目。

好奇心と疑いが、遠慮なく肌に刺さる。

今夜の招待状は、リリアたちから届いたものだった。

姉妹のわだかまりを解きたい。

皆の前で、もう一度やり直す姿を見せたい。

そう綴られた文面は、驚くほど優しかった。

だけど、私はもうリリアを信じられない。

罠かもしれない。

それでも、行かないわけにはいかなかった。

だから私は今夜、カイル様の隣に立っている。

会場の奥に、白いドレスのリリアがいた。

その隣に、エドガー様。

私を見る目は、相変わらず冷たい。

リリアがこちらへ歩いてくる。

足取りは軽い。

まるで、大好きな姉に駆け寄る妹のように。

「お姉様」

「今夜は、とてもお綺麗ですわ。公爵様に飾っていただけるなんて、羨ましい」

「ありがとう、リリア」

自分でも驚くほど、自然と声が出た。

リリアの瞳が、ほんの少し細くなる。

「お元気そうで安心しました。処刑台であれほどお怯えだったから、ずっと心配していたの」

処刑台。

息が詰まりかけた時、カイル様の声が低く響いた。

「その話を、彼女にするな」

リリアの笑みが固まった。

「まあ……私はただ、姉を案じて」

「案じるなら、言葉を選べ」

静かな声だった。

けれど、会場の空気がわずかに冷える。

エドガー様が前に出た。

「公爵閣下。リリアにそのような言い方は」

カイル様が彼を見る。

「君は、黙っていろ」

呆れているかのような短い一言。

エドガー様の顔が赤くなる。

周囲が少しだけざわめく。

けれど、誰もカイル様に逆らわない。

リリアは唇を噛み、すぐに儚げな笑みを作り直した。

「お姉様、少しだけ二人でお話しできますか」

私は息を止めた。

「二人で?」

「ええ。姉妹ですもの」

姉妹。

その言葉が、ひどく空々しく響く。

カイル様が一歩、前に出ようとした。

けれど私は、小さく首を振った。

逃げてばかりではいられない。

そう思った。

今度こそ、リリアの前で俯きたくなかった。

「ここでなら。二人きりでなくても話せるでしょう」

ほんの一瞬。

リリアの笑みが消えた。

そして、彼女は私だけに聞こえるように言った。

「……そうですわね。お姉様は、私が怖いのですね」

図星だった。

それでも、私はリリアから目を逸らさなかった。

「二人きりで話せば、また誰も見ていない場所で、私だけが悪者になります」

「だから、ここで話します」

リリアの瞳が、かすかに揺れた。

エドガー様が眉を吊り上げる。

「まだリリアを疑うのか!」

その声に胸が縮む。

カイル様は一歩も動かなかった。

私の代わりに遮ることも、リリアを黙らせることもしなかった。

ただ、隣にいる。

それだけで私は息ができた。

リリアが、近くの給仕を呼んだ。

銀の盆に並んだ葡萄酒の杯。

赤い液体が、燭火を映して揺れている。

「では、仲直りの乾杯だけでも」

「お姉様から、私にいただけませんか?」

心臓が、嫌な音を立てた。

「私から?」

「ええ、お願いします」

リリアは弱々しく微笑む。

「お姉様の手から受け取りたいのです。私たちが、もう一度やり直せる証として」

周囲の空気が変わる。

断れば、冷たい姉。

受ければ、優しい姉。

そういう場に、いつの間にかされている。

嫌だ。

そう思った。

けれど、その一言が喉から出ない。

また、心が狭いと言われる。

また、嫉妬していると言われる。

また、悪女だと。

私は震える手を伸ばし、いちばん手前にあった杯を取る。

「……どうぞ」

リリアは、それを両手で受け取った。

「ありがとう、お姉様」

リリアは杯に口をつける。

そして彼女の顔から、すっと血の気が引いた。

「苦し……」

か細い声。

杯が床に落ちる。

赤い酒が、大理石に広がった。

リリアの体が、エドガー様の腕の中へ崩れ落ちる。

悲鳴が上がった。

「リリア様!」

「毒か!?」

「今、アリシア様が杯を!」

一斉に視線が私へ向いた。

まただ。

リリアが倒れる。

私の手に、証拠が残る。

誰も、私の話を聞かない。

処刑台の上での記憶が頭によみがえる。

エドガー様がリリアを抱き起こしながら、私を睨みつけた。

「貴様……!」

「違います」

声は震えた。

「私は、その杯を渡しただけです……」

「渡しただけだと? リリアが倒れたんだぞ!」

「まだ決めつけるな」

カイル様の声が、広間を切った。

大きな声ではない。

けれど、その場にいた誰もが口を閉ざした。

カイル様は一歩前へ出る。

「全員、その場を動くな」

その言葉に応じて、壁際に控えていた数名の騎士が動いた。

今夜、カイル様は念のためだと言って、部下を最小限だけ連れてきていた。

彼らは迷わず出入り口を押さえ、給仕たちの動きまで止めた。

「薬師を呼べ。杯と盆には誰も触れるな。給仕、そのまま立っていろ」

銀の盆を持った給仕が、真っ青な顔で固まった。

カイル様はリリアのそばに膝をついた薬師へ視線を向ける。

「リリア嬢はなぜ倒れた?命に関わるのか?」

薬師は慌ててリリアの脈を取り、瞳を確認した。

リリアは苦しげに息をし、白い手で胸元を押さえている。

目には涙。

唇は震えていた。

誰が見ても、毒に倒れた可哀想な令嬢だった。

けれどカイル様は、表情を変えない。

「……脈は乱れていますが、命に関わるほどではありません」

薬師が額の汗を拭う。

「意識を落とし、顔色を悪く見せる薬に近い症状です」

広間がざわめいた。

「毒ではないのか?」

「では、なぜ倒れた?」

エドガー様が叫ぶ。

「そんなもの、あの女が何かを仕込んだからに決まっている!」

カイル様が彼を見る。

「どうやって」

冷たい一言。

エドガー様が詰まる。

「どうやって、とは……」

「アリシアが杯を取ったのは、給仕の盆からだ。彼女が薬を混ぜる時間はあったか」

「そ、それは……」

カイル様は薬師へ短く命じる。

「杯の中身を調べてくれ」

薬師が床に落ちた杯と、こぼれた葡萄酒を慎重に調べる。

小瓶の試薬を垂らし、銀の匙で混ぜる。

広間が息を詰める。

けれど、酒の色は変わらなかった。

薬師が眉をひそめる。

「……杯の中に、毒性の反応はありません」

会場が大きくざわめいた。

「毒がない?」

「では、なぜリリア嬢は」

エドガー様の顔が青ざめる。

「そんなはずがない! では、あの女が別の方法で――」

「また推測か……」

「推測で人を裁くな」

処刑台の上で、誰も言ってくれなかった言葉だった。

カイル様は薬師へ視線を戻す。

「薬を口にした可能性は?」

「杯ではなく、直前に口にした菓子や丸薬であれば、あり得ます」

その瞬間、リリアの侍女の肩がびくりと揺れた。

カイル様はそれを見逃さなかった。

「そこの侍女」

低い声。

侍女の顔から血の気が引く。

「夜会が始まってから、リリア嬢に何を渡した」

「わ、私は、何も……」

「答えろ」

侍女の膝が震える。

リリアが床の上で弱々しく声を漏らした。

「やめて……その子を責めないで」

か細い声。

可哀想な被害者の声。

けれど、カイル様は動かない。

「責めてはいない。確認をしている」

侍女は唇を震わせた。

「……砂糖菓子を」

広間が静まる。

「リリア様に頼まれて、小さな砂糖菓子をお渡ししました」

エドガー様が怒鳴る。

「黙れ! 余計なことを言うな!」

その一言で、会場の空気が変わった。

カイル様の目が、刃のように細くなる。

「余計なこと、か」

リリアは青ざめた顔で震えていた。

けれど、その震えが本当に苦しみから来るものなのか、私にはもうわからなかった。

エドガー様が私を睨む。

「貴様が仕組んだんだろう! リリアを陥れるために!」

「違います」

まだ声は震える、でも前よりもまっすぐだった。

「私は、何も仕込んでいません」

「まだ嘘を――」

「さっきも言ったが、彼女に何かを仕込む時間はなかった」

カイル様が遮る。

「少なくとも、今この場で彼女が薬を混ぜた証拠はない」

エドガー様の顔が歪む。

「レイヴン公爵、貴様……! 貴様の立場なら、証拠を作ることも消すことも容易いだろう!」

その瞬間、胸の奥で何かが熱くなった。

私のことなら、まだ耐えられる。

悪女と呼ばれても。

嫉妬深いと言われても。

身の程を知れと言われても。

でも。

この人を、同じ口で汚してほしくなかった。

「やめてください」

エドガー様が私を見る。

「何?」

私は一歩、前に出た。

カイル様がわずかにこちらを見る。

けれど、止めなかった。

だから、私は続けた。

「カイル様を侮辱しないでください」

広間が静まり返った。

「この方は、あなたたちが一度もしなかったことをしてくださいました」

「私の言葉を、聞いてくださいました」

「あなたたちは、私がなぜ破片を持っていたのかも聞いてくれなかった……」

声が震える。

「今も同じです。リリアが倒れたから、私が悪いと決めつけようとしている」

私は、床に倒れたリリアを見る。

「もう、同じことは繰り返しません」

心臓がうるさい。

「私は、リリアに薬を飲ませていません」

沈黙。

それを破ったのは、カイル様の声だった。

「よく言った」

短い言葉。それだけなのに、胸の奥が熱くなる。

カイル様はそれ以上、私を甘やかすようなことは言わなかった。

すぐに視線を戻し、死刑執行人の顔に戻る。

「アレックス!」

出入り口を封鎖していた騎士の一人が、すぐに進み出た。

「はっ!」

「夜会参加者の控室、侍女の荷物、エドガー卿の従者の動きを確認しろ」

カイル様の声は静かだった。

「薬は単独では手に入らない。入手経路がある」

その言葉に、エドガー様の顔がわずかに強張った。

リリアは床の上で、弱々しく涙を流している。

「ひどい、どうして、私ばかり……」

か細い声。

以前なら、その声だけで周囲はリリアを守った。

誰かが私を責めた。

誰かが私を黙らせた。

けれど今夜は違った。

誰も、すぐには動かない。

リリアの涙を見ても、貴族たちは互いに顔を見合わせている。

同情ではなく、疑いの色を浮かべて。

その光景に、リリアの指先がかすかに震えた。

「お姉様……」

リリアが私を見る。

涙に濡れた瞳。

可哀想な妹の顔。

「私、ただ仲直りしたかっただけなのに……」

胸の奥が痛んだ。

昔から、その声に逆らえなかった。

リリアが泣くたびに、私は何かを差し出してきた。

髪飾り。

刺繍。

手柄。

婚約者。

そして、私自身の感情まで。

でも、もう同じところには戻らない。

「私は、あなたを傷つけていません」

「今日も、あの日も」

リリアの涙が、一瞬だけ止まる。

「私は、あなたを傷つけていません」

広間に沈黙が落ちた。

カイル様が、わずかに私を見る。

その瞳に、ほんの少しだけ静かな光が宿った気がした。

その時、騎士の一人が戻ってきた。

「閣下。参加者の控室から、小瓶が見つかりました」

広間がざわめく。

騎士は布に包まれた小瓶を差し出した。

中には、淡く濁った液体がわずかに残っている。

薬師がそれを確認し、息を呑む。

「これです。先ほどの症状を引き起こす薬と同じ匂いがします」

「誰の荷物からだ」

カイル様が問う。

騎士は一瞬だけリリアを見た。

「リリア嬢の化粧箱の底に」

リリアの顔から、血の気が引いた。

「違う……そんなもの、知りません」

「知らない?」

「では、誰が君の化粧箱に入れた」

リリアは唇を震わせる。

「そ、それは……きっと、お姉様が」

「アリシアは、控室に入っていない」

即答だった。

リリアが息を呑む。

カイル様は騎士へ視線を移す。

「控室前の状況は?」

「会場側の警備が二名。アリシア様は、一度も控室付近へ近づいてないという証言もあります。」

会場の空気が変わった。

リリアの涙が、今度こそ武器にならない。

その事実が、静かに広がっていく。

エドガー様が声を荒げる。

「罠だ! リリアを陥れるために、誰かが仕込んだのだ!」

「その可能性も調べる」

カイル様は淡々と言った。

「だから、君の従者も調べる」

エドガー様が言葉を失う。

「なぜ、私の従者を……」

「給仕に杯を運ばせた者がいる」

カイル様は銀の盆のそばで震えている給仕へ視線を向けた。

「答えろ。誰に指示された」

給仕は唇を震わせ、床に膝をついた。

「エドガー様の従者です……。姉妹の和解の場に、葡萄酒を運べと」

「でたらめだ!」

エドガー様が叫ぶ。

だが、その声はもう、以前のように周囲を従わせる力を持っていなかった。

リリアは床に座り込んだまま、震えていた。

可哀想な被害者の顔を作ろうとしているのに、唇の端が引きつっている。

「違うの、私は、ただ……」

その声は、もう誰にも届かない。

いや。

届いてはいる。

けれど、信じてもらえていない。

私はそのことに、胸の奥が少しだけ痛んだ。

あれほど苦しめられた。

処刑台にまで送られた。

何度も、悪女にされかけた。

それでも……

泣き崩れるリリアを見て、胸のどこかがまったく痛まないわけではなかった。

幼い頃、同じ屋敷で過ごした日々がある。

一緒に庭を歩いたこともある。

リリアが本当に怯えた顔で、私の袖を掴んだ日もあった。

あの子は、私を壊そうとした。

でも、だからといって私も、あの子が壊れていく姿を望んでいたわけではない。

そんな自分が、少しだけ苦しかった。

カイル様が隣に戻ってくる。

「大丈夫か」

「……はい」

足はまだ震えていた。

けれど、立っていられる。

カイル様は私の顔を見て、ほんのわずかに目が優しくなった。

「よく頑張った」

「ありがとうございます」

そう答えると、カイル様は、ただ、私の肩に外套を掛ける。

処刑台の時と同じ黒い外套。

温かくて重い。

守られている重さ。

「今夜の件で、最終裁定に進める」

低い声だった。

「次は法廷だ」

法廷、その言葉に心が重くなる。

私を悪女と呼んだ人たち。

彼らが裁かれるところを、私は見ることになる。

怖い。

苦しい。

そして……少しだけ、悲しい。

「大丈夫か?迷っているのか」

私のそんな痛みを見透かしたようにカイル様が聞いてくる。

「……わかりません」

正直に言った。

「許したいわけではありません。でも……必要以上に苦しんでほしいと願うことは違う気がします」

カイル様の表情は変わらなかった。

けれど、その視線がほんの少しだけ柔らかくなる。

「覚えておく」

「君の言葉として」

胸の奥が熱くなる。

この人は、私の甘さを否定しない。

私の迷いさえ、聞いてくれる。

「ありがとうございます」

声は小さかった。

けれど、しっかりと伝えたかった。

広間の灯りが、少しずつ落とされていく。

大理石には、こぼれた葡萄酒の赤い染みが残っていた。

血のように見えたその色を、私はまっすぐ見つめる。

もう、目を逸らさない。

処刑台で終わるはずだった命。

何度も悪女にされかけた私。

それでも私は、まだここにいる。

憎しみではなく。

恐怖でもなく。

私自身の声で、真実を告げるために。