作品タイトル不明
第5話 死刑執行人の傷
夜の公爵邸。
客室に置かれた燭台の火が、静かに橙色の光を広げていた。
昼間の尋問の様子が、まだ心に焼き付いている。
姉なのだから。
譲りなさい。
我慢しなさい。
そんな言葉ばかりを飲み込んできた私は、いざ自分のために立とうとすると、足元が崩れそうになる。
拒まれることが怖い。
誰かと比べられることが怖い。
私が何かを望んだ瞬間、それを浅ましい嫉妬だと呼ばれることが怖い。
それでも。
もう、何も感じないふりだけはできなかった。
眠れなくて、私は部屋を出た。
薄いショールを肩にかけ、静かな廊下を歩く。
床に敷かれた深紅の絨毯。
壁には古い肖像画。
どの顔も厳しく、こちらを見下ろしている。
その奥。
半開きの扉から、かすかな明かりが漏れていた。
中から、紙をめくる音。
低い咳払い。
私は足を止めた。
戻るべき、そう思ったのに指先が扉に触れていた。
「入っていい」
見つかっていた。
頬が熱くなる。
「……失礼します」
扉を押す。
部屋の中は、インクと古い紙の匂いがした。
壁一面の本棚に机の上に積まれた書類。
銀の燭台の下で、公爵が書類に目を通していた。
白いシャツに、ゆるく羽織った濃紺の上着。
いつもより少しだけ、無防備に見えた。
それがなぜか、胸を落ち着かなくさせる。
「眠れないのか?」
公爵が顔を上げる。
私は小さく頷いた。
「……はい」
公爵が読んでいた書類を伏せる。
「こちらへ」
命令ではない。誘う声。
私は机の向かいの椅子へ座る。
革張りの椅子は冷たいが、体を包むように柔らかい。
公爵が銀のベルを鳴らすと
しばらくして、侍女が温かいミルクティーを運んできた。
白磁のカップに甘い湯気。
蜂蜜とシナモンの香り。
手のひらで包むと、指先の冷えが少しずつほどけた。
「今日のことを、考えていました」
ぽつりとこぼれる。
「尋問の時……公爵様は、なぜあんなに冷静でいられるのですか」
父の声を聞いただけで、私は崩れそうだった。
リリアの涙を見ただけで、息が苦しくなった。
なのに公爵は、揺れなかった。
公爵はしばらく沈黙した。
燭台の火が揺れる。
その光が、彼の横顔に影を落とす。
「慣れているだけだ」
「慣れるものなのですか?」
口にしたあと、失礼だったと気づく。
慌ててカップを握った。
「すみません……」
「いい」
公爵は目を伏せた。
「慣れたくて慣れたわけではない」
その声は、いつもより低かった。
少しだけ、遠い。
「昔……私は一度だけ、裁きを見誤った」
息を止める。
公爵は机の上に視線を落としたまま続ける。
「ある伯爵が、領民から不当に税を奪い、逆らった者を罪人に仕立てた」
「訴えは握り潰され、証人は消えた」
紙が一枚、彼の指先で静かに歪む。
「その頃の私は、まだ公爵位を継いだばかりだった。」
「貴族を裁く場に立つことはできたが、隠された罪を引きずり出す権限まではなかった」
「正しい手順を踏めば、正しく裁けると思っていた」
「だが遅すぎた……」
「助けを求めていた者たちは、冬を越せなかった。牢の中で。路地で。名も残らずに」
公爵の声は冷静だった。
けれど、その冷静さが痛い。
感情を閉じ込めすぎて、凍ってしまった声。
「それから私は、王に願い出た。貴族犯罪に踏み込めるだけの権限を」
「それで……死刑執行人に?」
公爵が小さく頷く。
「誰かが汚れ役を引き受けなければ、また同じことが起きる」
胸の奥が苦しくなる。
黒衣の死神。
冷酷な公爵。
皆が恐れる名前。
でも、その黒衣の下にあったのは、誰かを救えなかった傷。
「怖くは、なかったのですか」
「皆に恐れられることが」
公爵が私を見る。
黒い瞳。深く、静かな闇。
「恐れられる方が楽だった」
「近づく者がいなければ、失うものもない」
それは、寂しい言葉だった。
あまりにも。
「でも……」
「それでは、公爵様がひとりになってしまいます」
言ってから、失敗したと思った。
踏み込みすぎた。
そう思った。
けれど、公爵はただ私を見つめている。
まるで、初めてその言葉を聞いたみたいに。
「君は、そんなことを気にするのか」
「だって……ひとりは、つらいです」
父に見捨てられた時。
エドガー様に罵られた時。
処刑台で誰も手を伸ばしてくれなかった時。
あの痛みを私は知っている。
「誰にも理解されないのは、つらいです」
「だから、公爵様もそうだったのなら……悲しいと思いました」
長い沈黙が落ちた。
燭台の火が、かすかに揺れる。
「失礼でしたか」
「いや」
短い返事。
けれど、いつもより少し遅かった。
公爵の視線が、私の手首へ落ちる。
白い包帯、縄の跡を隠す布。
その黒い瞳に、静かな痛みのようなものが浮かんだ。
「君の言葉は、失礼ではない」
彼の声は硬い。そしてどこか苦しそうだった。
「嬉しいことだと思うのだが、ただ……慣れない」
「慣れない?」
「私を案じる者など、長くいなかった」
胸の奥が痛んだ。
何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。
「処刑台に立つ者は、たいてい叫ぶ」
低い声が落ちる。
「命乞いをし、罪を否定し、誰かのせいにする」
私は息を止めた。
「だが、君は違った」
机の上の公爵の指に、ほんの少し力がこもる。
「君の沈黙は、罪人のものには見えなかった」
胸が震える。
「救いを求めることさえ諦めた者の沈黙に見えた」
言葉が出なかった。
あの時。
私は確かに、助けてほしいと叫ぶことすら諦めていた。
「私は、その沈黙を無視したくなかった」
公爵は、それ以上は言わなかった。
けれど、その短い言葉だけで十分だった。
この人は、私を可哀想だから拾ったのではない。
私の沈黙を、見ていたのだ。
誰も聞かなかった声の代わりに。
「……私は」
「ずっと、黙っていればいいのだと思っていました。黙って、我慢して、父を困らせなければ、私も皆から愛されるのだと」
言葉にした途端、胸の奥が痛んだ。
公爵の瞳が、わずかに暗くなる。
「君は、ここにいるために何かを差し出す必要はない」
静かな声だった。
「誰かに何かを譲らなくていい。黙らなくていい。自分を責める必要もない」
「我慢も沈黙も、君の居場所の代価ではない」
胸の奥で、何かがほどけた。
私は俯いたまま、小さく息を吸う。
「ありがとうございます……カイル様」
名前を呼んだ瞬間、彼の表情がわずかに反応した。
「……その呼び方でいい」
それだけ。
けれど耳の奥に、いつまでも残る声だった。
顔を上げると、カイル様はすでに視線を逸らしていた。
横顔はいつものように静か。
その不器用で優しい性格に、私の胸は静かに締めつけられた。
*
一方、その頃。
王都の白い屋敷で、リリアは鏡の前に座っていた。
うっすらと血がにじむ白い包帯。
わざと食事をとらずに、少しやつれさせた顔。
誰が見ても、傷ついた可哀想な令嬢。
そのはずだった。
「どうして……」
落胆の声が、ぽつりと落ちる。
「どうしてお姉様ばかり、いつも認められるの」
扇を握る指先に力がこもる。
本当なら、お姉様はもういないはずだった。
あの処刑台で、悪女として終わるはずだった。
そうすれば、誰も比べない。
誰も、亡き奥様に似ているなどと言わない。
誰も、アリシアこそが本当のベルフォードの娘だという目で見ない。
なのに。
「レイヴン公爵さえいなければ、あの女は死んでいた」
部屋の中を歩き回っていたエドガーが、苛立った声で吐き捨てる。
リリアは鏡越しに彼を見た。
「そんな言い方はおやめになって。お姉様が悪いのですもの」
可憐な声。
けれど、その目は笑っていない。
「私はただ、怖かっただけ。傷つけられたのも、怯えたのも、私ですわ」
そう言えば、いつだって周りは味方になった。
それが当たり前だった。
「ですが、このままでは面倒です」
リリアはゆっくりと包帯の結び目を撫でる。
「侍女も、薬師も……今日の尋問で、少し余計なことを言いました」
エドガーの目が暗くなる。
「なら、黙らせればいい」
「乱暴ですわね」
リリアは小さく笑った。
「そんなことをしたら、ますます疑われてしまいます」
「ではどうする」
リリアは扇を広げた。
白い扇の影が、唇に落ちる。
「お姉様には、もう一度、悪女になっていただきます」
エドガーが眉をひそめる。
リリアは鏡の中の自分を見つめた。
傷ついた令嬢。
可哀想な妹。
守られるべき被害者。
その顔を、いつものように整える。
「お姉様が差し出した杯を、私が受け取る」
「……何をするつもりだ」
「倒れるのです。皆の前で」
リリアは微笑んだ。
「お姉様に怯えながら、それでも仲直りを願う健気な妹。そんな私が、お姉様から受け取った杯で倒れたら……皆、何を思うでしょう」
エドガーの表情が変わる。
「まさか、自分で毒を」
「死ぬような真似はいたしませんわ」
リリアは扇で口元を隠した。
「少し苦しんで、少し血の気を失って、涙を流せばいいのです。あとは周りが勝手に、お姉様を悪女にしてくれます」
それは、今まで何度も繰り返してきたことだった。
リリアが泣けば、誰かがアリシアを責める。
リリアが震えれば、誰かがアリシアから奪う。
リリアが倒れれば、誰もアリシアの言葉など聞かない。
「誰が杯を選んだかなど、あとからどうとでもなりますわ」
リリアは鏡の中の自分に向かって、儚げに微笑んだ。
「お姉様は、また間違える。優しい顔をして、私に手を伸ばす。その手を取った瞬間、今度こそ終わりです」
窓の外で、雲が月を隠す。
夜が、いっそう深くなる。
アリシアはまだ知らなかった。
妹の涙が罠を運んでくることを。