作品タイトル不明
第3話 悪女の証言
レイヴン公爵邸の客室。
処刑台の冷たさが、まるで悪い夢だったように遠い。
それでも手首の包帯を見るたび、胸の奥が縮む。
縄の痛み。罵声。
忘れられるはずがなかった。
「具合はどうだ」
私は椅子に腰かけたまま振り返る。
「大丈夫です」
そう答えた声は、自分でも頼りなかった。
公爵は向かいの椅子に腰かけた。
黒い手袋を外し、机の上に置く。
その指先が、思ったより白くて長い。
剣を握る手。
私の縄を切った手。
思い出しただけで、手首がじんと熱くなる。
「今日は、聞きたいことがある」
ついに来た、そう思った。
助けられたからといって、過去が消えたわけではない。
私はまだ、殺人未遂の罪を着せられた女。
「事件の日のことですね」
「無理なら、今日はやめる」
即座に返ってきた言葉。
冷酷な死刑執行人。
そう呼ばれる人なのに、私の声の震えひとつ見逃さない。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
「話します」
言わなければ。
あの日のことを、私の口で。
「リリアが我が家に来たのは、母が亡くなって一年ほど経った頃でした」
「父の弟夫婦が事故で亡くなり、ひとり残されたリリアを、父が引き取ったのです」
小さな声。
伏せられた睫毛。
すぐに涙ぐむ瞳。
父はそんなリリアを、壊れ物のように扱った。
「母がいなくなってから、家の中はずっと静かでした。だから私は、できるだけ父を困らせないようにしていました」
刺繍も、慈善会の手伝いも、屋敷の細かな用事も。
誰かに褒められたかったわけではない。
ただ、家族のために何かができればいいと思っていた。
「けれど……私が何かを褒められるたびに、リリアは泣くようになりました」
最初は、小さなものだった。
慈善会の子どもたちにもらったプレゼント。
私のお気に入りのハンカチ。
リリアが欲しがって泣くと、父はいつも困った顔をした。
――姉なのだから、譲ってやりなさい。
姉なのだから。
その言葉は、いつも私を黙らせた。
「私が譲れば、父は安心した顔になり、リリアも泣き止みました。だから、それでいいのだと思っていました」
それが、少しずつ大きくなっていった。
「私が慈善会のために仕上げた刺繍が、リリアの作品として紹介されたことがあります。孤児院へのプレゼントを作った時も、リリアが贈ったことになっていました」
言葉にするほど、胸の奥がチクチクする。
それでも、嫌だとは言えなかった。
私が騒げば、父が困る。
リリアが泣く。
家の空気が悪くなる。
だから、笑っていた。
私さえ我慢すれば、丸くおさまると思えたから。
「いつの間にか、私が何かを持っていること自体が、リリアを傷つけることのように扱われていました」
公爵は何も言わない。
ただ、聞いている。
それだけなのに、胸の奥が熱くなる。
さえぎられない。
疑われない。
それがこんなにも心地良いなんて、知らなかった。
「エドガー様も、最初は私の婚約者でした」
胸の中に、古い痛み。
薄くなったと思っていた傷が、また血を滲ませる。
庭園の記憶。
エドガー様と並んで歩いた、穏やかな季節。
彼がくれた白い花。
その花を見たリリアが、涙を浮かべて言った。
――お姉様ばかり、ずるい。
それから彼女は、何度も私たちの間に入ってきた。
泣いて。
倒れて。
怯えて。
そしていつの間にか、エドガー様はリリアを守るようになった。
日に日に冷たくなっていく、私を見る目。
「私が嫉妬しているのだと、言われました」
「本当に、そうだったのかもしれません」
ぽつりと漏れた声。
「私は、リリアが羨ましかったのだと思います」
「でも、それ以上に……悔しかった」
「誰も私が傷ついていることに気づかなかったから」
私は続きを話す。
手の震えを、膝の上で押さえ込む。
「事件の日、リリアに部屋へ呼ばれました」
「謝りたいことがある、と」
あの日の廊下。
夕暮れの赤。
扉の隙間から漏れる、甘い薔薇の香り。
「部屋に入ると、リリアは泣いていました。」
「私が近づくと、彼女は机の上の花瓶を床に落として……」
音を立てて割れる花瓶。
割れた破片の方へ手を伸ばしたリリア。
その時に気づくべきだった。
リリアの細い腕を伝う血と、口元に一瞬だけ浮かんだ、笑みに。
「そしてリリアは叫んだのです。お姉様に殺される、と」
声が震える。
手のひらに爪が食い込む。
「私は何もできませんでした。すぐに使用人たちが駆け込んできて、リリアが泣いて、私の手には血のついた破片があって」
「あの時、私は確かに破片を持っていました」
「リリアが拾おうとしたものを、危ないからと代わりに拾ってしまったから……」
それが証拠になった。
私が彼女を傷つけた証に。
「エドガー様が来て、私を見ました」
「その目が……もう、私を人として見ていませんでした」
「彼は言いました。お前のような地味な女が、リリアを妬むのは当然だと。化けの皮が剥がれたな、と」
「父は……何も言いませんでした」
そこに触れた瞬間、涙が落ちた。
「私を見なかったのです」
沈黙。
公爵は何も言わない。
けれど、空気が重い。
冷たい怒りが、部屋の隅々まで満ちていくようだった。
公爵はそれに気づき、すぐに息を落とした。
「すまない。君に怒ったわけじゃない」
静かな声。
それでも、彼の瞳の奥には冷たい炎があった。
誰かが私のために怒る。
そんなこと、いつ以来だろう。
「それで、判決まで何日あった?」
「……三日です」
「早すぎる」
公爵の手が、考え込むように口元に寄せられた。
白くて綺麗な指に思わず目を奪われる。
「証人は?」
「リリアの侍女と、エドガー様。それから……父が、私には以前から嫉妬の傾向があったと」
最後の言葉は、ほとんど息だった。
公爵の瞳が暗く沈む。
「君の側の証人は?」
「……いません」
答えた瞬間、自分の声が軽すぎて驚いた。
いません。
そんな一言で済むほど、私は孤独だった。
「誰も、私の話を聞いてくれませんでした」
その言葉を最後に、喉が塞がった。
公爵は、すぐには何も言わなかった。
ただ、その沈黙が、さっきまでの怒りとは少し違って聞こえた。
まるで私の無実だけでなく、無実になった後の何かまで見ているようだった。
公爵が立ち上がる。
それから、机の上の黒い手袋を取る。
「アリシア・ベルフォード」
名前を呼ばれ、私は顔を上げた。
「王都へ戻る」
息が止まった。
王都。
あの人たちとまた会う。
胸の奥がぎゅっと掴まれる。
「私も……ですか」
公爵はすぐには答えなかった。
「現場を確かめるには、君にしか分からないことがある」
「だが、君を晒し者にするためではない。記録を洗い直し、証言を取り直すためだ」
公爵の黒い瞳が、まっすぐに私を見る。
「行くかどうかは、君が決めろ」
正直に言うと怖い。
また罵られるかもしれない。
また、あの目で見られるかもしれない。
父に、また目を逸らされるかもしれない。
けれど、このまま屋敷にいても、胸の奥に積もったものは、きっと消えない。
「……行きます」
声は震えていた。
でも、確かに出た。
公爵は小さく頷く。
「わかった」
それだけだった。
褒めもせず、急かしもせず。
ただ、私の選んだ言葉を受け取るように。
「無理はさせない」
「……はい」
「怖くなったら、合図をしろ。すぐに止める」
その言い方があまりに当然で、胸の奥が揺れた。
「調査は、君を追い詰めるためのものではない」
「不確かな罪で、君を裁かせないためのものだ」
公爵は扉へ向かう。
「支度をさせる。外は冷える。厚い外套を」
「はい」
「それと、朝食を用意させる」
私は目を瞬く。
「今からですか?」
「空腹で倒れられると調査が遅れる」
真顔だった。
優しさを隠すみたいに、そんな言い方をする。
それが少しおかしくて、ほんのわずかに笑みがこぼれた。
黒い瞳が、私を見る。
驚いたように、ほんの一瞬だけ。
「……どうかしましたか」
「いや」
公爵は目を逸らした。
「支度と朝食が済むころに、迎えに来る」
扉が閉まる。
部屋に静けさが戻った。
私は窓の外を見る。
雨上がりの空。
雲の隙間から、細い光が差している。
まだ怖い。
それなのに、その奥に別の熱がある。
――行くかどうかは、君が決めろ。
その言葉が、何度も胸の中で揺れていた。
怖さは、消えない。
それでも、私は、私の意志で王都へ戻る。