軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 黒衣の公爵邸

柔らかな匂い。

乾いた花と、磨かれた木の香り。

憎しみも罵声も、ここにはない。

まぶたの裏が、淡く明るい。

私はゆっくり目を開けた。

薄い絹のカーテンに広すぎる寝台。

手首を動かすと、ずきりと痛む。

縄の跡を隠すように、白い包帯が丁寧に巻かれている。

助かった。

私は、まだ生きている。

そう思った途端、胸の奥がきゅっと縮んだ。

嬉しい、とは違うような気がする。

怖い、だけでもない。

足元のない場所にひとり置かれたような、頼りない感覚。

扉の向こうから、かすかな足音が聞こえた。

足音は扉の前で止まったが、すぐには、開かない。

静かな沈黙。

まるで中の気配をうかがっているようだった。

やがて、控えめなノックが二度響いた。

「起きているか」

私は反射的に身を引いた。

背中が寝台の柱にぶつかって小さな物音がでる。

私は答えられなかった。

声を出せば、また処刑台に戻されるような気がした。

ただ、シーツを握りしめる。

扉の向こうで、少し間が空いた。

「入っても?」

それでも私は、答えられない。

「……返事が難しいなら、開ける。嫌なら何か反応してくれ」

命令ではなく、確認のようだった。

ゆっくりと少しだけ扉が開く。

黒衣の公爵が、そこに立っていた。

カイル・ヴァン・レイヴン公爵。

「すまない……怖がらせた」

「ここはレイヴン公爵邸だ。君は丸一日眠っていた」

丸一日。

そんなに。

私は自分の手を見る。

白い包帯。まだ生きている手。

「……なぜ」

声が震える。

「なぜ、私を生かしたのですか」

公爵はわずかに目を伏せた。

「あの場で裁くには、不確かなことが多すぎた」

そんなはずがない。だって、私は……

「私は罪人です」

口から出た言葉。

もう癖になっていた。

何度も言わされた言葉。

自分に刻み込まれた烙印。

公爵の眉がかすかに寄る。

「違う」

また、その一言。

胸の奥がきゅっと痛む。

「でも……判決は下りました。父も、エドガー様も、皆が私を悪女だと」

「皆が言えば真実になるのか?」

静かな問い。

私は唇を閉じた。

答えられない。

自分でも、もうわからなくなっていた。

否定され、罵られ、嘘つきと呼ばれた。

最後には、私の記憶の方が間違っているのかもしれないと思った。

リリアを憎んでいなかったと言えば、嘘になる。

奪われて苦しかった。

比べられて悔しかった。

父に見てほしかった。

エドガー様に、私だけを見てほしかった。

でも、そのたびに飲み込んできた。

姉なのだから。

リリアは寂しいだけなのだから。

私が我慢すれば、きっとみんな穏やかでいられる。

そう言い聞かせて、笑って譲ってきた。なのに、その我慢まで、嫉妬と呼ばれた。

私は、いい娘でいたかっただけなのに。

いつの間にか、その全部が悪意だったことにされていた。

「……わかりません」

小さな声だった。

「もう、自分でも。私が、本当に悪い人間ではなかったのか」

公爵の手が動いた。

近づくのかと思って、肩が跳ねる。

けれど彼は、傍らの侍女に目配せしただけだった。

銀の盆。

湯気の立つ紅茶。

焼きたてのパン。

バターの甘い香りが、部屋にふわりと広がる。空腹を思い出した瞬間、お腹の奥が痛むように縮んだ。

恥ずかしくて、シーツを握る指に力が入る。

公爵は見ないふりをした。

「食べられるか?」

責めない声、急かさない声。

私は小さく頷いた。

侍女が近づき、膝の上に盆を置く。

琥珀色の紅茶。

そこから立ちのぼる香りは、蜂蜜と柑橘。

ひと口飲むと、温かさが喉を通って胸の奥に染みた。

自分でも気づかないうちに涙が出ていた。

公爵がわずかに息を止める気配。

私は慌てて袖で拭おうとした。

寝台の端に腰かけていたせいで、膝の上の盆が傾く。

「危ない!」

公爵の手が盆を支え、もう片方の腕が私の背に回る。

処刑台で抱き上げられた時と同じ匂い。

心臓が、ばくばくと鳴る。

「すまない。急に触れた」

公爵はすぐに手を離した。

距離を取る。

まるで、私の怯えを傷のように扱う人。

「逃げても構わない」

公爵が言う。

「ただし、屋敷の外へは出せない。君をもう一度、あの処刑台へ戻すわけにはいかないから」

閉じ込められているはずなのに、不思議と怖くなかった。

「なぜ……そこまで」

公爵はしばらく沈黙した

窓硝子を叩く、細い雨音がポツポツと聞こえだした。

「君の事件には、不自然な点が多い」

私は息を止めた。

「不自然……?」

「リリア嬢の傷。現場の花瓶。処刑が急がれた理由」

公爵の声は淡々としていた。

けれど視線は鋭い。

処刑台で剣を抜いた時のような、冷たい光。

「調べる必要がある」

「でも、皆はもう……」

「皆ではない」

彼が私を見る。

逃げ場のないほど真っ直ぐ。

「少なくとも私は、まだ君を悪女と断定していない」

胸の奥が熱くなる。

信じてくれる、と言ったわけではない。

助ける、とも言っていない。

それでも。

私の言葉を、嘘と決めつけない人がいる。

それだけで、胸の中の何かが崩れそうだった。

「同情ではない」

公爵は静かに続けた。

「罪が確かでない者を、裁くべきではない。それだけだ」

それだけ。

冷たいほど公平な言葉。

けれど私には、どんな慰めよりも優しく聞こえた。

「でも……」

「もし、本当に私が悪い女だったら」

声が震える。

「嫉妬していたのは、本当です。苦しかったのも、悔しかったのも、本当で……リリアを、少しも憎んでいなかったとは言えません」

「そんな私は、やっぱり……」

「アリシア・ベルフォード」

名前を呼ばれて、言葉が止まった。

公爵の声に責める響きはなかった。

「嫉妬したことと、罪を犯したことは違う」

「怒りを覚えたことと、人を傷つけたことも違う」

「君は、自分が傷ついたことまで罪だと思っている」

傷ついたこと。

私はずっと、それを醜い感情だと思っていた。

嫉妬で、弱さで、私が悪い証拠なのだと。

「……私は、怒ってもよかったのですか」

声が、ほとんど息になる。

「奪われて、悔しいと思っても。嫌だと思っても。私は……悪い人間ではなかったのですか」

公爵はすぐには答えなかった。ただ、私が言い終えるまで待っていた。

急かさず、遮らず、まるでその問いごと受け止めるように。

やがて、静かに言う。

「悪くない」

「君には、嫌だと思う権利がある。怒る権利も、拒む権利もある」

「我慢しなければいけないなどと、誰が決めた」

その瞬間、胸の奥で固く結んでいたものが、かすかにほどけた。

父の声。

姉なのだから、という言葉。

笑って譲るたびに、自分を少しずつ削っていた日々。

私は、いい子でいたかった。

愛されたかった。

見捨てられたくなかった。

ただ、それだけだったのに。

涙が落ちそうになって、私は慌てて俯いた。

「私は……ここにいてもいいのですか」

小さな問いだった。

口に出した瞬間、自分でも情けなくなる。

居場所を尋ねるなんて。惨めで、みっともなくて。

でも、聞かずにはいられなかった。

公爵は少しだけ間を置いた。

「ここにいろ」

命令のような言葉。

けれど、どこか優しい響き。

「君を再び処刑台へ戻すつもりはない」

「今は、眠れ。食べろ。傷を治せ」

「無実を証明するためではない。君が、これ以上壊れないためにだ」

私は顔を上げた。

公爵の表情は相変わらず読めない。

けれどその目だけは、私を罪人として見ていなかった。

「……ありがとうございます」

声は掠れていた。

公爵は何も言わなかった。

ただ、ほんのわずかに目を細める。

その視線が苦しくて、私は紅茶に目を落とした。

琥珀色の水面に、泣きそうな顔の私が映っている。

罪人。

悪女。

そう呼ばれた私。

もし許されるなら。

我慢するためではなく。

私自身のままで、もう少しだけ生きてみたい。