軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 味が、違う

市場の三叉路で、私は十五分立ち尽くしていた。

右に行けば魚介の競り場。左に行けば青果の露店。正面に行けば——どこに出るのか、もう三回来ているのにわからない。

ルシアンに「鱈と蛤と、セロリを二束」と言われて買い出しに来たのが三十分前。鱈は買えた。蛤も買えた。

セロリの露店に辿り着けない。

通りすがりの子供が不思議そうな顔で私を見ていた。

「ねえ、おばちゃん、迷子?」

おばちゃん。二十六歳でおばちゃん。まあ、港町の基準ではそうかもしれない。

「セロリを売っているお店は、どちらかしら」

「あっち。まっすぐ行って、井戸を右」

まっすぐ行った。井戸を右に曲がった。八百屋があった。セロリがあった。買えた。

帰り道がわからなくなった。

来た道を戻ればいいだけなのに、一度曲がると方角を失う。

料理の手順は百でも暗記できるのに、道は覚えられない。自分の頭の中がどういう構造になっているのか、時々不思議に思う。

◇◇◇

「……また迷ったのか」

ルシアンが市場の入口に立っていた。腕を組んで、呆れた顔をしている。

エプロンをしたまま来たらしい。厨房の油の匂いがした。仕込みの途中で出てきたのだ。

「すみません。セロリは買えました」

「鱈と蛤は」

「持っています」

「三十分前に出たのに、まだ市場にいるのか」

「……道が、複雑で」

ルシアンがため息をついた。大きなため息だった。

でも怒ってはいなかった。この人のため息には二種類ある。怒りのため息と、呆れのため息。今のは後者だ。二週間の観察で、それくらいはわかるようになった。

「地図を描いてやる」

食堂に戻ってから、ルシアンが紙切れに地図を描いてくれた。

正直なところ、私の献立ノートより読みにくい字と絵だった。魚の絵は妙に上手いのに、道の線がぐにゃぐにゃで、「北」と書いてある方角が怪しい。

「この地図の北は、どちらですか」

「……海の方だ」

「海は、どちらですか」

ルシアンが額を押さえた。

◇◇◇

その日の午後、仕込みをしながら、ルシアンが聞いてきた。初めてのことだった。

「……あんた、前は何をしていた」

手が止まった。セロリの筋を取っている途中だった。

「……料理を作っていました。ある屋敷で」

「屋敷」

「ヴァルフォート伯爵家です。八年間」

言ってしまった。隠しておくつもりはなかったが、自分から言う予定もなかった。

でも、この人に嘘をつきたくなかった。嘘をつかれる側の気持ちは、よく知っているから。

ルシアンは黙っていた。しばらく鍋をかき混ぜていた。火加減を確認して、味見をして、塩を少し足して。

それから、振り向きもせずに言った。

「……伯爵の厨房でも、玉葱は足元にあったか」

笑った。

可笑しかったのではなく——安心したから笑った。この人は、肩書きではなく玉葱の位置で人を見る。

「いいえ。ちゃんと棚に入っていました。種類別に分けて、ラベルを貼って、在庫管理もして。この食堂とは大違いです」

「……余計なお世話だ」

少しだけむっとした声だった。でも鍋をかき回す手は止めなかった。

それ以上、何も聞かなかった。

伯爵家の事情も、離縁の理由も、なぜ港町にいるのかも。この人の優しさは、聞かないことで表される。質問しないことが、この人の思いやりなのだ。

代わりに、まな板の上に鯛を一尾置いた。

銀色の鱗がまだ湿って光っていた。今朝の水揚げだ。

「三枚おろしにしてみろ」

試されている、と思った。料理人として。元伯爵夫人としてではなく。

包丁を握った。嫁入りの時に母がくれた、八年使い込んだ包丁。

刃を鯛の頭の後ろに当てる。一刀目で頭を落とし、腹に刃を入れて内臓を出す。背骨に沿って刃を滑らせる。

この感触。魚の骨と刃が擦れる微かな振動が、指先に伝わってくる。

三枚おろしが終わった。身は均一な厚さで、骨に身がほとんど残っていない。

ルシアンが見ていた。

「あなたの料理は、食べた人を大事にしている味がする」

——え。

「三枚おろしでわかる。骨に身を残さない人間は、食べる人の口当たりを考えている。刃の入れ方が丁寧だ。……技術の話じゃない。姿勢の話だ」

目が熱くなった。

八年間。八年間ずっと、こういう言葉が欲しかった。

私の料理を見て、「上手い」ではなく「大事にしている」と言ってくれる人が。

「……ありがとうございます」

声が少し揺れた。でも泣かなかった。代わりに、鯛の身を丁寧に皿に移した。

◇◇◇

——同じ頃。ヴァルフォート伯爵邸。

これは私の想像だ。でも、きっとこうなっている。

グレン様の前に、夕食が並んでいる。新しい料理人——トマスではなく、王都から呼んだ腕のいい料理人が作った食事。

形は整っている。盛り付けも悪くない。銀の食器も磨かれている。食堂の燭台も灯されている。

何も変わっていないように見えるだろう。

でも。

一口食べる。スープを含む。飲み込む。もう一口。

「——味が、違う」

たった四文字。

でもその四文字の中に、八年間の蜂蜜の量が、卵の割り方が、鱒の焼き加減が、全部詰まっている。

違う。何が違うかわからないけれど、違う。以前と同じ食材を使っているはずなのに、何かが決定的に足りない。

スープの温度も違うだろう。

私はグレン様が食堂に来る時間に合わせて、五分前に火を止めていた。猫舌のグレン様がスプーンで一口目を掬った時に、ちょうどいい温度になるように。

新しい料理人は、そんなことは知らない。

オムレツの半熟加減も違うだろう。パンの焼き色も。干し林檎の甘さも。

全部が少しずつ違って、その少しずつが積み重なって、食卓の空気ごと変わっている。

グレン様はきっと、その「何か」の正体がわからないだろう。

わからないまま、もう一口食べて、また「違う」と思うだろう。

ナディアに「味が変だ」と言っても、ナディアには何が変なのかわからないだろう。わかるはずがない。八年間、毎朝顔色を見て献立を変えた人間にしか、わからないことだ。

そして、いつか——書斎の棚の奥に、かつて白い表紙のノートがあった場所を見つけるだろう。

ノートは私が持って出た。でも「ない棚」に気づくだろう。何かがあったはずの場所に、何もないことに。

棚には八年分のノートの跡——紙の重みで少しへこんだ板——だけが残っている。

——もう遅い。全部、八年分、もう遅い。