軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 献立ノートの行間

あの人が読んでいるだろう。八年分の、私の字を。

そう思ったのは、朝の厨房で玉葱を刻んでいる時だった。唐突に、何の脈絡もなく。

エルザから二通目の手紙が来ていた。

短い手紙だった。「旦那様が書斎を片付けていらっしゃいます。奥様がいらした頃の棚を、何度も見ておいでです」。

それだけ。

棚を見ている。私のノートがあった場所を。八冊分のノートの重みで少しへこんだ板の跡を。

グレン様は、あのノートを読んだことがない。八年間、一度も。

「献立ノート」という名前すら知らなかったかもしれない。妻が毎年表紙の色を変えて、新しいノートを買っていたことも。

一冊目は白、二冊目は薄い青、三冊目は若草色——。

でも今、ノートがない棚を見ているということは、何かの記録があったことに気づいたのだ。

気づくのが遅い。何もかも遅い。

手が止まっていた。玉葱が半分の位置で止まっている。

涙が出たのは、玉葱のせいだ。そういうことにしておく。

◇◇◇

——あの献立ノートの行間には、全部書いてあった。

「今日は胃が弱そうだったから消化の良い粥に」。

行間に書いてあるのは、「今朝、あなたの顔が少し青かったから心配した」だ。

「風邪気味だったので生姜を多めに」。

行間に書いてあるのは、「咳をしていたのを、寝室で聞いていた」だ。

「社交の前日は胃に負担をかけない軽い食事」。

行間に書いてあるのは、「あなたが社交界で恥をかかないように、私は陰から支えていた」だ。

八冊分の行間に、私は八年分の——何と呼べばいいのかわからない感情を書き込んだ。

愛情とも少し違う。執着かもしれない。意地かもしれない。でも確実に、一人の人間に向けた、膨大な量の感情だった。

献立ノートの三冊目、七十二頁。

「グレン様、今日は笑った。干し林檎を見て。理由不明。次回も出す」。

八年前の自分の字は、今よりずっと丸くて小さかった。

グレン様がそれを読んでいるなら——いや、ノートは私が持ち出した。

でもノートの「ない」棚を見て、何が入っていたかを誰かに聞いただろう。トマスが「奥様の献立ノートです」と答えただろう。エルザが「八冊ございました」と補足しただろう。

それを聞いて、あの人は何を思っただろうか。

想像するのはやめた。もう、あの人の食卓を想像する仕事は終わった。

◇◇◇

午後。食堂の客が途切れた静かな時間に、ルシアンが椅子に座って煙草——ではなく、麦茶を飲んでいた。

この人は酒も煙草もやらない。母親の介護をしている間にやめたのだと、先日ぽつりと言っていた。

今日は、もう少し踏み込んだ話をしてくれた。

「母は、最後に——シチューを食べたいと言った」

八時間煮込む、母の味のシチュー。ルシアンが子供の頃から作ってくれていた味。

「間に合わなかった。八時間煮込む時間がなかった。母は、その前に——」

言葉が途切れた。ルシアンは麦茶を一口飲んで、続けた。

「だから店を続けている。あの味を出し続けるのが——まあ、意味があるのかはわからん。ただ、やめる理由がない」

ルシアンの横顔が、夕方の光の中で静かだった。

この人も、料理を通じて誰かに繋がろうとしていたのだ。もう会えない母に、スープの味で繋がろうとしている。

「食べたい」。

その一言がどれほど重いか、私にはわかる。

グレン様は「美味い」を一度だけ言った。最後の朝食で。八年間で一度だけ。

あの一言がもう少し早ければ——いや。もう少し早くても、結果は同じだっただろう。ナディアがいる以上、あの食卓はどのみち壊れていた。

でも——もし。

もし一年目に「美味い」と言ってくれていたら。毎朝「美味い」と言ってくれていたら。

私は、意地ではなく喜びで台所に立てただろうか。

◇◇◇

気づいた。

「意地で台所に立ち続けた」の本当の理由。

意地ではなかった。

食卓だけが——あの人と繋がれる、唯一の場所だったのだ。

新聞の向こうにいる夫に、唯一手が届く場所。スープの温度で、オムレツの半熟で、蜂蜜の量で、「私はここにいます」と伝え続けた。八年間。

声では届かなかったから、味で伝えようとした。

それは意地ではなく、祈りだった。

毎朝毎晩、小さじ半分の蜂蜜に込めた、声にならない祈り。

——そしてその祈りは、届かなかった。新聞の向こう側には、届かなかった。

◇◇◇

夜。食堂を閉めた後、裏口の階段でぼうっとしていた。

ルシアンが来た。また手にスープを持っている。この人はいつもスープで話しかけてくる。

でも今日は違った。

スープを置いた後、隣に座った。普段は座らない。立ったまま「冷める」と言って去る人だ。

しばらく無言だった。波の音だけが繰り返されている。

「……ここにいろ」

ルシアンの声だった。低くて、素っ気なくて、でも——少しだけ震えていた。

「……え」

「厨房に人手がいる。それだけだ」

それだけじゃないでしょう、と思った。でも言わなかった。

この人は、言葉で感情を表せない人だ。「ここにいろ」が、この人の精一杯なのだ。

「……少し、考えさせてください」

一歩引いた。

引かなければならなかった。まだ、あの食卓の祈りの残響が胸の中で鳴っている。新しい場所に立つ前に、古い祈りを——きちんと、手放さなければ。

◇◇◇

翌日、グレン様からの手紙が届いた。

朝、食堂の入口に配達人が立っていた。封蝋を見た瞬間にわかった。ヴァルフォートの紋章。そしてグレン様自身の字で宛名が書いてある。

初めて見る字だった。

考えてみれば当然だ。八年間の婚姻中、夫が私に手紙を書いたことは一度もなかったのだから。

署名なら見たことがある。公文書の力強い字。でも宛名の「マリアージュ」の字は、それとは違っていた。少し不揃いで、インクが滲んでいる箇所があった。

急いで書いたのか、手が震えていたのか。

手紙を裏返した。封を切らなかった。

八年間、一度も手紙をくれなかった人が、今になって何を書いたのだろう。

「戻ってきてほしい」だろうか。「説明させてくれ」だろうか。それとも——「味が、違う」とでも書いてあるのだろうか。

どちらでも構わない。もう、その封を開ける指は、ここにはない。

配達人に返した。

「送り主にお返しください」

未開封のまま。

八年分の行間を読むのが遅すぎた人への、私からの最後の返事だ。

もう、書き足すことはない。