作品タイトル不明
429
テスタロッサの正式な配属が決まってからすぐのこと。
政務室には騒がしさが広がっていた。
「え……えぇ!? テスタロッサ様が政務官!? うそでしょ!?」
「いやいや、戦術顧問でもあるって書いてあったぞ。政務と軍部の両方って……」
「……え、つまり……うちにも来るってこと?」
文官たちがざわつく中、テスタロッサ本人は既に政務室の廊下に姿を現していた。
騒がしさに気付いたシルヴィアが即座に対応し、場を鎮める。
「静粛に。テスタロッサは本日付で正式配属されました。以後は我らゼアトの仲間です。余計な詮索や私語は控えるように」
「は、はいっ!」
騒ぎが収まった頃、執務室に通されたテスタロッサは、既に作業机の前にいた。
「こちらが貴女の担当する政策草案一覧です。特に、回復薬制度と自動車輸送規格の整備は優先度が高いので、こちらから手をつけてくださいな」
「了解しました。必要な場合、ギルバート殿かマルコ殿に連絡を?」
「ええ。あとは……民衆向けの教育制度についても、次回の執政会議で議題に上がりますので、意見をまとめておいてくださると助かります」
短いやり取りの中にも、明確な信頼が宿っていた。
王女と公爵令嬢でありながらも、そこには対等な仕事仲間としての距離感がある。
それからしばらくして、今度は軍部方面へ。
魔導兵器の研究棟では、白衣姿のフローラが顔を輝かせてテスタロッサを迎えた。
「テレサ先輩! いえ、テスタロッサ様! まさかこんなに早くいらっしゃるなんて!」
「勤務初日ですので、まずは全体の流れと装備の種類を把握しておきたいの。案内をお願いできるかしら?」
「は、はいっ!」
構内の視察を終えるころには、研究員の大半が彼女の記憶力と洞察に舌を巻いていた。
兵士の間にも「とんでもねぇ人が来たぞ」と噂が回り始める。
「久しいな、テレサ」
「久しぶり、キャロちゃん。元気にしてた?」
「ご覧の通りだよ。のびのびとやらせてもらっている」
フローラと同じように白衣に身を包んだキャロラインが、軽口を叩きながらテスタロッサに歩み寄る。
この街では珍しく、彼女に臆することなく話しかける数少ない人物のひとりだった。
「ふふ、手紙で聞いた時は驚いたけど、今なら分かるわ。キャロちゃんがここを選んだ理由が」
「まあね。友人からのお誘いを断るのは忍びなかったが、公爵家で上手くやっていける自信がなくてね。そういう点ではゼアトはいい場所さ。性別も出身も関係なく、実力で評価してくれる。閣下には頭が上がらないよ」
「それは確かに、レオルド様の器量ね」
「とはいえ、好きにやらせてもらってる半面、結果を出さなければ評価は下がり、降格、減給、果てには処分だ。のびのびとしていると言ったが、内心では毎日ビクビクしてるさ」
「冗談ばっかり。キャロちゃんの顔を見ればわかるわ。本当に毎日が楽しいんでしょうね」
「おっと、私としたことが顔に出ていたか」
照れくさそうに笑うキャロラインに、テスタロッサもつられて微笑む。
彼女たちの会話は短く、他人から見ればただの雑談にすぎないかもしれない。
けれど、そこには確かな信頼と、再会の喜びがにじんでいた。
研究棟の片隅で交わされる、かつての旧友同士の何気ない会話。
だがそれは、この街で新たに根を張り始めた一人の女性にとって、何よりの安堵だったのかもしれない。
「テレサ、お互い、もう昔の肩書きで見られる立場じゃない。ここでは、結果がすべてだ。だからこそ、面白いんだけどね」
「ええ。面白い街だわ、本当に」
キャロラインは冗談めかして言ったが、その瞳は真剣だった。
テスタロッサも微かに表情を崩す。
「俄然、やる気が出るというものよ」
「だからか。お前がここに来た理由」
「ええ。せっかく得た立場だもの、存分に使わせてもらうわ」
二人の間に、しばし沈黙が流れる。
だがそれは気まずさではなく、信頼に満ちた静けさだった。
そしてふたりは再び、それぞれの仕事へと戻っていく。
背筋を伸ばし、前へ進む者たちの背中には、確かに誇りが宿っていた。
研究棟の奥で交わされるこの会話は、他の研究員たちにとって衝撃的だった。
テスタロッサと気軽に話せる人間がいるなど、想像もしなかったからだ。
「ねえ……キャロラインさんって、テスタロッサ様と旧知の仲なの?」
「うわー……あのキャロラインがちゃん付けされてるの初めて見たんだけど」
「ルドルフ様にキャロライン様だけじゃなく、テスタロッサ様まで加わるの……? ただでさえ、レオルド様にシャルロット様までいるっていうのに……。私たちの平穏は何処へいったの!」
視線を送る者、密かに動揺する者、変に納得する者。
研究棟に、またひとつ新たな噂が芽吹きはじめていた。
日が落ち始め、ゼアトの街並みに魔光灯がぽつぽつと灯り始める頃。
テスタロッサは研究棟での視察を終え、文官の護衛とともに領主館へと戻っていた。
薄く紅が残る空を見上げながら、彼女はひとつ、小さく息を吐く。
「……思った以上に、やることが多いわね」
昼の政務、午後の視察、研究棟での旧友との再会。
すべてが刺激的で、学びに満ちていた。だが、それ以上に疲労も確かに存在している。
領主館に戻った彼女を出迎えたのは、イザベルだった。
控えめな笑みを浮かべながら、静かに一礼する。
「お疲れ様です、テスタロッサ様。浴室をご用意しております。軽食も準備しておりますが、どうされますか?」
「……ありがとう。今夜は部屋で一人にさせてちょうだい」
「承知しました。何かございましたら、お呼びください」
イザベルが立ち去ると、テスタロッサはその背を見送るように廊下を歩く。
静かな足音が、広い館内に心地よく響いた。
案内された客間に入り、椅子に腰を下ろすと、肩から緊張がすっと抜けていくのを感じた。
「ふぅ……」
部屋には香のほのかな匂いが漂っていた。
机の上には、控えめな夜食のプレートと熱い紅茶。
そして、窓の向こうには、ゼアトの夜景。
まだ街の規模は王都には遠く及ばない。
だが、そこには確かな光があった。
生きる人々の営み。秩序。進歩。そして、希望。
「……いい街ね、本当に」
ぽつりと零れた言葉は、誰のためでもない、自分自身のための呟きだった。
壁際に立てかけられた剣に視線をやる。
今日、試しに振ってみたそれは、かつての自分の戦いを思い出させるものだった。
戦い、政務、戦略、秩序――
そのどれもがゼアトという街の中にあり、そして自分は、そこに居場所を得た。
今の彼女は、もう王都で公爵令嬢と呼ばれるだけの存在ではない。
ここでは、自分の足で立ち、自分の手で結果を出す必要がある。
そして――それが、心地よい。
紅茶をひと口含み、ふと、思い浮かぶ顔がある。
「……彼、本当にすごいわね。なんで今まで……もっと早く来なかったのかしら、私」
カップを置き、テスタロッサはそっと目を閉じる。
充実した一日の余韻が、身体の芯にまで染み渡っていく。
「今更ね……。後悔しても何も始まらないわ。今は一日でも早くゼアトの一員として認めてもらえるよう頑張らなくちゃ!」
その言葉には、かつての想い人への影はなかった。
あるのはただ、目の前の仕事に真摯に向き合う、一人の少女の決意だけ。
テスタロッサはゼアトでの経験を糧にし、いずれはフリューゲル公爵領で同じことが再現できないだろうかと頭を悩ませながら眠りに就く。
心地よいベッドの柔らかさと温もりが一日の疲れを癒してくれた。
ゼアトの夜は静かだった。
けれど、その静けさの中に、確かな鼓動があった。
明日を迎える者たちの、前に進むための鼓動が。