軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

408

◇◇◇◇

王都・ヴァンシュタイン公爵邸――

重厚な絨毯と銀の燭台が並ぶ応接間に、緊張と沈黙が満ちていた。

「……だから私は、ジークフリート以外との婚約など認めないわ!」

夜更けの空気を裂くように、エリナの声が響いた。

王都の名門、ヴァンシュタイン公爵家の一人娘として育った彼女が、こうして声を荒らげることは稀だ。

だがこの日ばかりは、貴族の娘ではなく、ひとりの少女として――恋する者として、親に真正面から想いをぶつけていた。

向かい合うのは、公爵家当主にして王国の重鎮たるエドワード・ヴァンシュタイン。

そしてその傍らで、やや顔を曇らせつつも娘を見守る夫人、フランチェスカ。

「エリナ、お前は何を言っているか分かっているのか?」

低く絞るような父の声に、エリナは頷く。

「分かってるわ。だけど、もうごまかしは効かないの。私は――ジークフリート以外の男を、夫として受け入れることはできない!」

「……お前の想いは、確かに本物なのだろう。だが、現実は違う」

父の声に温情はあれど、情熱はなかった。

それは政治の世界を知る男の冷静さであり、娘を護る者の現実だった。

「彼は出世したとはいえ、ただの子爵家だ。お前との家格差は歴然。結婚などあり得ん話だ。――お前がヴァンシュタイン家の名を背負って生きていくのならば、なおさらだ」

「家など……名前など、どうだっていいのです!」

エリナの声が震える。

悔しさに、怒りに、そして――なにより、どうしようもない無力感に。

「それでも、私はジークフリート様がいいの……彼は、私がどんな人間かを見てくれました。身分でもなく、家でもなく……私自身を!」

その声に、フランチェスカがハッと目を伏せた。

かつて自分も、似たような想いを抱いたことがある。

だが口にすることはできなかった。――娘のその気持ちが、痛いほど分かるからこそ。

「……分かっているのか、エリナ。ジークフリートの周囲には、王女殿下や皇女殿下に聖女様など、遥かに高位の女性たちが群がっている。お前が選ばれる保証など、どこにもない。それにだ、彼の周囲にはまだまだ女性がいるだろう? 特にヴァネッサ伯爵家のご令嬢など、誰が見てもお似合いではないか!」

「構いません。それでも、私の想いは変わりません!」

エリナの拳が、ドレスの裾を握り締める。

その瞳には、覚悟が宿っていた。

「もし、私に他の方と政略結婚しろとおっしゃるなら……私は、ヴァンシュタイン家の名を捨てます。貴族であることを捨てて、出家いたします」

部屋の空気が凍った。

エドワードの目が大きく見開かれ、フランチェスカは息を呑む。

娘が、本気。だと――その一言で全てを悟った。

「……エリナ」

「お願いです、お父様。どうか……どうか、ジークフリートとの未来を、否定しないでください」

そう言って深く頭を下げるエリナの姿は、誇り高き公爵令嬢ではなかった。

ただ――一人の少女の、切実な願いだった。

――そして、沈黙。

数拍ののち、エドワードは重く目を閉じる。

すでに、説得では止まらぬと悟っていた。

だが、感情だけではどうにもできないのが現実なのだ。

ヴァンシュタイン公爵家のためにもエリナにはジークフリート以外の男と結婚してもらわなければ困る。

公爵家を存続させるためには最低でも相手は伯爵家でなければいけない。

無論、欲を言えば王太子と結婚してもらいたい。

そうすれば次代の国母となり、ヴァンシュタイン家の発言力はさらに増すことになるだろう。

しかし、同時にこう思う。

娘の幸せを願ってやりたいと。

たら、ればの話になってしまうがジークフリートがレオルド同様に英傑であったならば諸手を挙げて祝福してやっていただろう。

だが、そうはならなかった。ならなかったのだ。

ジークフリートは帝国との戦争で活躍し、見事に子爵の位を得たが、それだけに過ぎない。

伯爵家のクラリス令嬢とようやく見合うくらいだ。

出来ることならクラリスと結婚し、早々に社交界からフェードアウトして欲しい。

今や、王国の情勢を簡単に変えることの出来るレオルドと因縁のある二人と関わりたくないのだ。

誰もが願っている。自分達は巻き込まれたくないと。

勿論、それはエドワードも同じ気持ちだ。

レオルドと敵対などしたくない。

単体で帝国守護神最強と謳われた炎帝を倒し、邪神に乗っ取られた教皇も倒した男だ。

それに加えて帝国戦争で見せた広域殲滅魔法に新兵器の数々。

領地こそ離れているが、もしも争うことになればどうなるかは容易に想像できる。

蹂躙だ。圧倒的で一方的な殺戮しか行われないだろう。

そして、何よりも国一つを簡単に滅ぼせるシャルロット・グリンデと懇意にしているのが一番の厄介な種だ。

彼女を怒らせたらどうなるかは、時の権力者が証明してくれている。

賢者は歴史に学び、愚者は経験から学ぶのだ。

エドワードは二の舞になりたくないと恐れている。

だから、どうにかエリナを説得しなければならない。

下手をすれば自分だけでない。

領地に住まう無辜の民まで巻き添えにしてしまうかもしれないのだ。

それだけは絶対にあってはならない。

「エリナ……。分かってくれ。私ではどうにもできんのだ。お前だって分かってるんじゃないのか? もうどうしようもないということくらい」

「……分かってる! 分かっているけど、だからって諦めたくないの! お父様! どうか、お願いです! お力を貸してもらえませんか!」

エリナとて馬鹿ではない。

自分たちの置かれている現状が厳しいことは承知している。

ジークフリートと結ばれることは絶望的だということも。

しかし、だからと言って諦められない。諦めたくないのだ。

この恋がたとえ、誰にも祝福されず、叶うことがないと決まっていたとしても――

「私は……あの人を好きでいたいの。たとえ振り向いてもらえなくても、それでも……見ていたいのよ……!」

声を震わせながらも、エリナの瞳は決して揺らがなかった。

泣いてなどいない。

ただ、必死に抗っていた。運命と、家と、父親と、そして――自分の弱さと。

エドワードは黙って娘を見つめた。

その姿に、かつて自分が失ったものを――そして、取り戻せなかった自由の面影を見てしまった。

「(……公爵家の当主として反対すべきだろう。しかし、私は――この子の父親だ。ああ、なんて愚かな……ご先祖様に申し訳が立たんな)」

頭では理解している。

この結婚が、家にとってどれだけ無益か。どれだけリスクでしかないか。

だが、それでも――

「……ふむ」

重く、静かに椅子を立ち上がる。

公爵家当主の顔ではない。ただの“父”の顔で、娘に背を向けたまま、呟くように口を開いた。

「……分かった。分かったよ、エリナ」

「……お父様?」

「お前たちが結ばれる方法は一つだけある。だが、それは危険な賭けになるだろう。そして、何よりもお前は屈辱に塗れることになるだろうが、それでも構わないか?」

エリナの息が詰まる。

それがエドワードの父としての譲歩だった。

決して甘くはない。

むしろ、首に縄をかけられたも同然の条件だ。

だがそれでも――希望は潰していない。

エリナは、震える手でスカートの裾を握りしめた。

「……はい。覚悟はできております! たとえ、どのような辱めを受けようとも私はこの想いだけは譲れません!」

「分かった。であれば、話は以上だ」

「ありがとうございます、お父様!」

「礼などいらん。私は――私なりに、お前を護る責任があるのだ」

背を向けたまま、それでも彼の声はどこか微かに優しかった。

話し合いが終わったエリナは部屋に入る時と打って変わって嬉しそうな顔をして出て行った。

「あなた、本当にあるの? あの子がジークフリートと結ばれる方法が」

フランチェスカ・ヴァンシュタインは、扉が閉まったあとも娘の足音が完全に消えるまで、黙って佇んでいた。

その声には責める色はない。ただ、母としての静かな不安と――女としての、淡い疑問があった。

エドワードは深く椅子に沈み込み、天井を仰ぐように吐息を漏らす。

「……ある。正直、あまりやりたくないがね」

「ええ?」

エドワードは、重たげな声音のまま、目を閉じて続けた。

「レオルド・ハーヴェスト辺境伯。彼に頭を下げる……それしかないだろう」

その言葉に、フランチェスカは眉をひそめることもなく、静かに頷いた。

エドワードの意図を、妻として――そして同じく政治の場に身を置いてきた女として、理解したのだ。

「……つまり、ジークフリートをレオルドの家臣として推挙するのね」

「ああ。ゼアトの騎士となり、彼の剣となれば……たとえ出自が子爵であろうと、立場は一変する。もはや、レオルドの名が力だ」

それはつまり、ヴァンシュタイン公爵家が格を重視せず、力に従うという表明でもある。

だが、王国の空気はすでに変わりつつあった。

レオルド・ハーヴェストの名は、貴族の序列を超えて時代そのものを揺るがす。

「……エリナは、きっとこの話を聞けば、怒るでしょうね」

「承知している。だが、もう言質は取った。どんな辱めを受けても構わないと、あの子は言った」

父親としての顔に、一瞬、苦渋の色が差す。

「私は娘を見捨てたくない。だが同時に、公爵家を傾けるわけにもいかん。せめて、この手で整えるしかない……」

「――あなたは、いつだって不器用ね」

フランチェスカは、そんな夫の手にそっと手を添える。

冷えた掌に、温もりが灯る。

「でも、だからこそ。あの子も、私も、貴方についていけるのよ」

エドワードは微かに目を見開き、そして、静かに笑った。

父親であり、公爵であり、そして――家族を守る男として。

「……さて、これより先は、私の仕事だ。――交渉のタイミングを見計らわねばな」

その言葉と共に、重々しく立ち上がるエドワード・ヴァンシュタインの姿は、もう父ではなく、公爵のそれであった。

そして夜は静かに、確実に――レオルドという名を中心に、王国を巻き込む嵐を孕んでいく。