作品タイトル不明
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◇◇◇◇
夜が明け、空がゆっくりと淡い橙色に染まっていく。
ハーヴェスト邸の厨房では、まだ朝靄が残る頃から温かな香りが立ちこめ、パンの焼ける音や鍋の煮える音が静かに響いていた。
使用人たちは無言のままも手際よく動き、慣れた朝の営みが始まっている。
その中でも一番早く目を覚ましたのは、やはりレオルドだった。
「……ふぅ、今日もいい天気だな」
レオルドは身支度を終えたあと、朝の鍛錬へ向かう。
一日のルーティンは早朝の鍛錬から始まるのだ。
朝の鍛錬が終わるとレオルドは軽く汗を流してから書斎へと向かっていた。
昨日のギルバートからの報告に関する続きを、今のうちに整理しておきたかったのだ。
――エリナの動向。
――クラリスの周囲。
――ジークフリートの変化。
どれも見過ごせない問題でありながら、現時点ではまだ明確な答えは出ない。
だが、情報が揃い始めた時――ゼアトは、次の決断を迫られる。
書斎の机に腰掛けたレオルドは、数枚の報告書を手に取り、ざっと目を通した。
その表情には焦りも不安もなく、ただ静かな決意だけがあった。
「……フリューゲル公爵との面談に加えて、ジークフリート達の勧誘か」
視線を窓の外へ移す。
今日もまた、日常の一日が始まろうとしている。
しかし、レオルドは確信していた。
この穏やかな朝が最後の静けさになるかもしれないことを。
朝の陽射しがカーテン越しに差し込み、ダイニングルームには穏やかな空気が満ちていた。
テーブルの上には、湯気を立てるパンとポタージュ、ふわふわのスクランブルエッグ、焼き立てのベーコンが並び、甘い果実の香りが鼻をくすぐる。
ハーヴェスト家の人々がゆっくりと席につき、穏やかな朝のひとときを過ごしていた。
「今日で帰るのね、レオルド」
パンを小さくちぎりながら、オリビアが少し寂しげに口を開く。
「……はい。休暇も終わりです。やるべきことが山積みですので」
レオルドはスープを口に含みながら、微笑みを返す。
「もっとゆっくりされればよろしいのに」
オリビアが言うとベルーガも頷いた。
「ふむ。だが、レオルドにも領主としての責務がある。家を離れる以上は、やるべきことを果たしてこそだな」
「父上……。はい、心得ています」
向かいに座るレイラは、少しだけ口をとがらせていた。
「寂しくなるなぁ……またすぐ帰ってきてくれる?」
「ああ。次の帰省はそんなに遠くない。約束するよ」
「ほんとに? 絶対よ!」
レイラが小さく拳を握ると、レオルドは笑って頷いた。
シャルロットも珍しく神妙な顔つきで、「嘘だったら、後が怖いわよ~」と脅すように声をかける。
「お土産、忘れないでね?」
「……それが本命か?」
「えへへっ!」
和やかな笑いがテーブルに広がった。
わずかな休暇ではあったが、笑いの絶えない食卓と家族の温もりは、レオルドの心に確かに灯をともしていた。
肩の力が抜け、ほんの少し――少年だった頃の記憶が蘇るような、そんな穏やかな時間だった。
やがて朝食が終わると、レオルドは荷物をまとめ、馬車の準備が整えられている庭へと出る。
門前で待っていたのは、家族全員の姿だった。
「それではまたお会いしましょう! あ、それからレグルスには元気でやれと伝えてください」
「分かった。レグルスが帰ってきたら、そう伝えよう」
レオルドが深く頭を下げると、ベルーガが大きく頷いた。
「ゼアトを頼んだぞ、我が子よ。――お前の背中は、もう立派に皆を導く者のそれだ」
「はい。……必ず」
オリビアは小さく手を差し出し、レオルドの手を包み込む。
「無理はなさらないように。……あなたは私たちの誇りです」
「ありがとうございます、母上」
「それからシルヴィアさん、シャルロットさん。レオルドのことをお願いね」
「はい。 義母(オリビア) 様」
「任せて~」
そして最後に、レイラが小さな足音を立てて駆け寄り、ためらいもなくレオルドの胸に飛び込んできた。
その腕の力は小さな身体からは想像できないほどに強く、彼女の寂しさと信頼がすべて込められていた。
「レオ兄様、いってらっしゃいっ!」
「行ってくる。必ず、また会おう」
家族の視線を背に受けながら、レオルドは馬車に乗り込んだ。
走り出す車輪の音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
馬車が曲がり角を越える頃には、家族の姿はもう見えなかった。
だが、胸の奥に残る温もりが、レオルドをまた“領主”へと戻していく。――待ち受けるのは、ゼアトという現実。
そして、静かなる戦いの幕開けだった。
王都にある転移魔法陣でゼアトへ帰還するレオルド一行。
数日ぶりとなるゼアトにレオルドはどこか懐かしさを覚える。
そんなに長い間、離れていたわけでもないと言うのに。
風の匂いが違う。
空気の温度も、風の流れも、肌に馴染む感触も――すべてが懐かしい。
「……ゼアトに戻ってきたか」
数日ぶりに踏みしめたゼアトの大地に、レオルドは自然と目を細める。
滞在期間はほんのわずか。
だというのに、胸に広がる感覚は懐かしさそのものだった。
王都の喧騒を離れ、見慣れた景色に囲まれる安心感。
青空の下に広がる城壁、遠くに広がる畑の緑、そして目に映る屋敷の尖塔。
そのすべてが、レオルドにとっては「帰るべき場所」だった。
「おかえりなさいませ、レオルド様!」
転移陣の周囲で待機していた騎士達が一斉に頭を下げる。
同時に、文官達もすでに到着しており、深々と礼を取った。
「留守の間、何事もなかったか?」
「ええ、概ね平穏でした。ただ……書類は山のように溜まりましたが」
文官達の答えに、レオルドは小さく頷く。
「それはあとで片付けよう。まずは屋敷へ戻るとしようか」
シルヴィアとシャルロットがその後ろに続き、ゼアトの空気を深く吸い込んだ。
「なんだか、妙に懐かしさを覚えてしまいますわね」
シルヴィアの言葉に、シャルロットが同意するように頷く。
「ええ。なんだか帰って来たって感じよね~!」
レオルドは歩き出しながら、ふと振り返る。
王都での数日間、確かに様々な出来事があった。
家族との再会、エリナの再決起、クラリスの存在、ジークフリートの沈黙――
だが、ここから先は領主としての時間だ。
私情ではなく、ゼアトという領地を守る覚悟をもって進まねばならない。
「帰ろう。俺達の家へ」
レオルドのその言葉に、周囲の騎士達の表情が引き締まった。
静かに、しかし確実に、新たな局面が始まろうとしていた。
ゼアト本邸の執務室――。
天井まで届く書棚と、整然と分類された報告文書。
重厚な長机には封を切られていない文書の束と、既に処理された書類の山が左右に分けて積まれている。
窓から差し込む朝の陽光が書類を照らし、紙の白さとインクの黒が交差しながら、レオルドの端整な横顔に影と光を映していた。
「ふむ……」
レオルドは静かにペンを走らせる。
目の前には財務、農業、軍備、治安、外交といった各部署からの報告――
どれも目を通さねばならない。数日離れただけでも、領主の机上には書類の山が築かれるのだ。
「――ギルバート、次だ」
「こちらは貴族院からの通達。帝国境沿いにおける警備体制の強化について。現地の対応が不十分との指摘が含まれております」
「帝国か……。一応は盟約を結んでいるが、あの国も一枚岩とはいかんからな」
書類を片手にレオルドは短く嘆息する。
ギルバートは頷きつつ、新たな封筒を差し出した。
「それと、クラリス嬢に関する動向です。イザベルからの予備報告が届いております」
レオルドはすぐに封を切り、内容に目を通す。
筆跡からして、イザベル自身が記した要点報告書だと分かる。
「……エリナ達との再接触は確認されずか。しかし、行動は明らかに活発化している。……間違いないな」
「先日の集会以降、内部で意志の統一が図られたと見てよろしいかと。接触こそ控えているようですが、水面下では何かが動いています」
「放っておけば戦力になる。だが、火種になるようなら……鎮めねばならん」
ペンの先を唇に当て、レオルドは一瞬だけ沈思黙考した。
だが、すぐに顔を上げ、机の上の地図へと指を伸ばす。
「……東部の集落と交易拠点の防備を一段階引き上げろ。情報網の強化も進めておけ。イザベルには必要な人員と予算を」
「承知しました」
「クラリスは――まだ動かすな。ただし、いざというときに備えて接触の布石は打っておけ。……時間をかけてもいい、慎重にな」
その指示には、私情の影が一切なかった。
語られる言葉は全て、領主としての判断。
もはやそこにいるのは、“家族を背負う長兄”ではない。
ゼアトの“盾”であり“刃”でもある男――レオルド・ハーヴェスト。
彼の静かな決意が、紙の擦れる音の中に確かに響いていた。
蝋燭の火が小さく揺れ、机上に落ちる影が、まるで迫り来る闇を予見しているかのようだった。