作品タイトル不明
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オリビアが焼き始めたバタークッキーの香ばしい香りが、厨房いっぱいに広がる頃――。
「積み込み班、準備完了です! 馬車の方も問題なし!」
イザベルが誇らしげに報告する。
しかし、レオルドは眉をひそめて問い返した。
「……ふざけてはいないだろうな?」
「流石に弁えております。オリビア様やレイラ様がおられるのですよ?」
「その言い方だと俺とシルヴィアの場合はふざけてもいいように聞こえるが?」
「違うのですか? なんだかんだお二人はいつもお許しになってくださるので」
「否定できないのが悔しい……!」
レオルドは頭を抱えたが、もう誰にも止められない勢いだった。
一方、シルヴィアはシャルロットと二人でピクニック用の食器やクロスのチェック中。
「シルヴィア、グラスの数と、フォークの本数は大丈夫?」
「はい。人数分揃っていますわ。予備も含めて完璧です」
「うん、さすがね~。やっぱり貴女がいると準備が早いわ」
「ふふ、ありがとうございます。……でも今朝はちょっと、手元が狂いましたけれど」
「レオルドのせいよね~?」
「……それは否定できませんわね」
二人が顔を見合わせて笑い合う中、レイラが果物の入った籠を手に慌ただしく駆け込んでくる。
「最後のリンゴ、詰め終わりましたーっ! あとは皆、乗り込むだけです!」
「お疲れさま、レイラ。よく頑張ったわね」
オリビアがタオルを差し出すと、レイラは「ありがとうございます」と言って顔の汗をぬぐった。
「ふふ……なんだか遠足前の小学生みたいです、私」
「それでいいのよ。大人になっても、ワクワクする心は大切だから」
オリビアの言葉に、皆の顔がふと穏やかになる。
厨房から中庭へ出ると、白く磨かれた馬車が二台、並んで待っていた。
一台は荷物運搬用、もう一台は座席にクッションが敷かれた特別仕様。
「では、出発しましょうか!」
レイラがにっこりと笑いながら声を上げた瞬間――
「ああ。気を付けていってこい」
見送りに出てきたベルーガが手を振る。
しかし、出発しようとした馬車が停止した。
「ん? どうした? 何か忘れ物でもしたか?」
「お父様は何故、乗らないのですか?」
「いや、私はいい。みんなで楽しんできなさい。それに私のような者がいるとつまらないだろう?」
「レオ兄様、レグルス兄さん! お父様をひっ捕らえてください!」
「任せろ!」
一人だけ屋敷に残ろうとしたベルーガをレオルドは馬車から飛び降りて、呆然としていたところを押さえた。
「ぬわーっ!? 父に何をする気だ!」
「可愛い妹の頼みです! 観念してください、父上!」
「レオ兄様、悪ふざけはダメですよ」
物凄い気持ちのいい笑顔でベルーガを押さえつけるレオルド。
そこへレグルスも加わり、ベルーガは成す術もなく、馬車へ強引に連れて行かれた。
最後まで賑やかなまま、全員が馬車に乗り込み、扉が閉まる。
パカラッ、パカラッという馬の蹄の音が、城門を越えて広がっていく。
風は穏やかで、空は青く、木々の葉は陽を受けてキラキラと輝いていた。
「よし……! 今日はのんびりと過ごそうか」
レオルドがそう呟くと、横にいたシルヴィアが小さくうなずいた。
「ふふ。きっと素敵な一日になりますわ」
こうして、ハーヴェスト家の小さな旅路――
笑顔と愛情が詰まった、特別な一日が、いよいよ始まろうとしていた。
馬車は王都の外れにある森を目指し、なだらかな丘を越え、小道を抜け、やがて目的地である湖畔の野原へとたどり着いた。
空は澄み渡り、湖面は陽の光を受けてきらきらと揺れている。そよ風が草の香りを運び、鳥たちのさえずりが心地よく耳をくすぐった。
「うわぁ……! 見てください、あの水の透明度!」
レイラが馬車から飛び降りて、真っ先に駆けていく。芝生の感触を確かめるように、裸足になって小さく飛び跳ねた。
「足元に気をつけろよ、レイラ」
「はーい! でも気持ちいいですよ、兄様もぜひ!」
「俺はいい。芝に嫌われているからな。かゆくなる」
「それは、単に体質では……」
荷台の馬車からは、次々と荷物が運び出される。
イザベルとギルバートは手慣れた様子でレジャーシートを広げ、クッションやテーブルを並べていく。
「イザベル。そっちのバスケット、こっちのテーブルに」
「了解です! “イザベル式角度最適配置法”を駆使して――」
「やめろ、その“式”と名の付くものにはロクな前例がない!」
「ふふっ……いつものことですわね」
オリビアは荷物の整理をしながら、ベルーガの方に視線を送った。
「あなた、ちゃんと陽を浴びてる? 屋敷にばかり籠もってると、身体が固くなるわよ?」
「私は植物ではないのだが……」
「じゃあ、せめて人間らしく木陰でお茶でも飲みましょう。はい、これ持って」
「おいおい、まるで従者扱いでは――」
「従者扱いじゃありません。“夫”としての役目よ」
「……それは反論できん」
やがて準備も整い、全員が思い思いの場所に腰を下ろす。
風に揺れるレースの日除け。紅茶の香り。甘いクッキーと果物の酸味。
普段は背負いきれない責任や立場を忘れ、彼らはただ「家族」としてこのひとときを楽しんでいた。
「ねえ兄様、こういうのって……すごく幸せですね」
ふと、レイラが呟いた。
「……そうだな。こういう時間は、何よりの贅沢かもしれない」
「ふふ、このような時間はかけがえのないものですわ」
「ああ。永遠に続いてくれればいいんだがな……」
「今だけはのんびりと過ごしましょう、レオルド様」
思い悩むことは沢山あるが今だけはなにもかも忘れて、のんびりとまったりと、この幸せな時間を噛み締めよう。
レオルドは自分に寄り添っているシルヴィアの手をこっそりと握り締め、束の間のひと時を楽しむのであった。
◇◇◇◇
一方その頃、なんとかジークフリートを慕う友人達に有休を取らせ、一堂に集うことが出来たエリナは自身が持つ、あらゆる権力を行使してとある酒場を貸し切りにしていた。
何せ、ジークフリートを慕う女性は数が多い。
学生時代に出会った者に加えて騎士になってからも増えていた。
とはいっても、中にはもういない人物もいる。
その代表として帝国の皇女であるローゼリンデ、聖女のアナスタシア、フリューゲル公爵家のテスタロッサ。
ただ前の二人は立場上、どうしても顔が出せないだけでジークフリートへの思いはまだある。
テスタロッサだけはすでにジークフリートへの思いは断ち切っているので今回の集まりには参加していない。
酒場の個室に、いくつかの笑い声と、いくつもの沈黙が交錯していた。
「……あの頃は、まっすぐだったよね。ジークフリート様の剣筋を一目見ただけで惚れ込んじゃって」
そう言って笑ったのは、平民出身で今は文官として働く女性だった。
朗らかな表情とは裏腹に、その声にはどこか“過去形”の重みがあった。
「今も忘れられないよ。でも、だからこそ……もう、踏み出すことにしたの」
「お見合い相手、悪くない人でさ。お堅いけど、将来のことを真剣に考えてくれるの」
そして別の貴族の令嬢が口を開く。
「……私なんて、父上に“今年中に決めないと家の取り潰しもある”って脅されてるのよ」
「ジーク様を想ってる時間すら贅沢になってしまうなんて、本当に皮肉よね……」
テーブルに沈む沈黙。
けれどその中には、もう戻らない過去への郷愁と、これから向き合わねばならない現実への苦さが詰まっていた。
別の友人は、ジークへの想いをすでに“昔話”に変えていた。
「私はもう大丈夫。あれは初恋だったんだなって、今は素直に思えるもの」
「……すごく、苦くて、でも綺麗な記憶よ」
「でも、これからもジーク様とは会う機会あると思うし。友達としてなら……普通に笑って話せると思う」
淡く微笑む彼女の目には、もう未練の色はなかった。
「今更、言うのもなんだけどさ……。私、騎士団では虐められてるんだ。ジーク君のことについてもだけどエリナ達と関わってるだけで平民の癖に生意気だって、それが辛いの。今日はいい機会だから言うね。私はそんなに強くないからさ、もう終わりにしようと思うの。ジーク君への思いも、エリナ達との関係も」
その言葉には重みがあった。
そして、抗えないものがあった。
エリナは何も知らなかったのだ。
表面上は仲がいいと思っていたが実は裏では虐めがあったことなど。
学園の中では身分など気にせず、誰もが笑って過ごせていたが、現実はそう甘くはないのだ。
学園の頃から貴族と平民の間には溝があった。
それを理解し、世渡り上手な平民もいれば、出来るだけ面倒事を避けるように貴族を敬遠していた平民もいる。
しかし、ジークフリートを慕っていた彼女達はそのことを理解していなかった。
その結果、騎士団へ入団してからは勘違いや誤った常識により貴族から疎まれ、同じ平民からも避けられていたのだ。
学園は確かに身分の差など無く、平穏に暮らせていたが実は小さな社会図だったのだ。
そこで世の中の仕組みを彼女達は学ばなかったのである。
否、学べなかったのである。
眩しすぎる存在がいたゆえに。
ジークフリートという強烈で、鮮烈で、甘美な男に現を抜かしてしまった彼女達は現実を直視することが出来なかったのだ。
残酷であるが平民の彼女達の多くは辛い現実に耐えられなかった。
これ以上、今の関係を続ければどうなるかは分からない。
エリナをはじめとした貴族の令嬢が友達としているが、いつまでも学生気分ではいられないのだ。
「そ、そんな……! なんで言ってくれなかったの?」
「言えなかった、言えなかったんだよ……! 言ったら何をされるか分からない! 私だけならいいけど、家族にまで被害が及ぶって考えたら……耐えるしかないじゃない」
「わ、私が守るわ!」
「庇護する対象になったちゃったら友達じゃいられないでしょ……?」
「そんなこと……」
ない、とは言い切れない。
もう学園から一歩出た時点で対等ではないのだ。
最早、彼女達を救う方法はない。
これ以上、お互い傷つかないようにするには彼女の言う通り、今の関係の清算くらいしかないだろう。
「……」
そして――エリナは葛藤する。
思い出すのは、学園の中庭での風景。
光の差すその場所で、どこまでもまっすぐに笑う彼を、すぐ隣で笑ってみていた自分。
皆で集まって笑い合っていた素敵な時間。
たった一人の男を思い、お互いに牽制しながらも楽しく過ごしていた日々。
「……私は、まだ……終わらせられないの」
エリナがようやく口を開いた時、その声は静かだった。
「夢見がちだって思ってくれて構わない。子供じみてるって笑ってくれてもいい。でも……私は、あの人を見て変われたから」
ジークフリートを想って強くなれた自分。
見返したくて、誇りたくて、努力を続けた自分。
そのすべてを否定してしまったら――今の自分が、空っぽになる。
「だから……私は、もう少しだけ、足掻くつもりよ」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
だが、やがて一人が静かに呟いた。
「……応援は、できないかもしれない。でも、笑って送り出せるようにはなりたいかな」
「……それだけ、すごい人だったってことだもんね。ジーク様って」
乾杯の音も、騒がしい笑いもない。
けれどこの日、この集まりは――それぞれの心が“次へ進むための節目”となっていた。