作品タイトル不明
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その日の午前、ハーヴェスト邸の厨房は、ちょっとした騒がしさに包まれていた。
「ねえ、そこのパイはまだ焼けてないの!? あれは一番最後に積むって言ってたでしょ!」
「お嬢様、無茶を言わんでください……。これでも超特急で準備してるんですよ」
「レイラ、料理長をあまり困らせるな。少しは我慢しろ」
「でも、レオ兄様! 時間が!」
「そんなに慌てなくてもいい。こういう機会はいくらでもあるんだ」
「レオルド様の言う通りですわ。レイラ様が望むなら、私は何度でもお付き合いしますわ」
厨房に顔を出していたレオルドは、憤っていたレイラを穏やかに諭す。
隣にいたシルヴィアも、レイラの怒りを和らげるように優しく微笑んでいた。
二人に優しく言われては、レイラもそれ以上強く言えない。
そもそも自分がかなり無理な注文をしていることは理解している。
レイラは素直に料理長へ頭を下げた。
「ごめんなさい、料理長。我が儘ばっかり言って」
「いえいえ、いいんですよ。我が儘だなんてとんでもない。これくらい可愛いもんです。レオルド様の時に比べたら」
「……なぜ、そこで俺を引き合いに出す?」
「覚えてませんか? 飯が不味いと何度も直談判してきては、厨房で暴れてたでしょう?」
「……覚えてないな」
「嘘ですわね」
「嘘ですね」
「ぐぅ……。料理長、その節は大変申し訳なかった」
「では、謝罪として手伝っていただけますかな?」
「ふっ、それくらいはお安い御用だ」
料理長は内心、“さすがに不敬だったか”とヒヤヒヤしていたが、レオルドの快い返事にホッと胸を撫で下ろす。
レオルドが手伝うというならば自分も――と、シルヴィアも進んで厨房に加わった。
「シルヴィア。君は無理をせず、待っていてもいいんだぞ?」
「いえ、私もお手伝いさせていただきますわ」
「分かった。怪我だけはしないように気を付けるんだぞ?」
「はい。危ないところがあったら助けてくださいね」
「任せておけ」
二人のやり取りを見ていた料理長が、小さくぼやく。
「……厨房で惚気られるのは困るんですがね」
別に羨ましいというわけではない。むしろ、二人が仲睦まじいのは喜ばしいことだ。
だが、時と場所は選んでほしい――と、厨房の者たちは密かに嘆いていた。
未だ独身の者も多く、二人のやり取りは目に毒なのである。
厨房の一角、手伝い用の作業台に立つレオルドは、手際よく野菜の皮を剥き、一定のリズムで刻んでいく。
シュッ、トン、トン、トン――。
「……お見事ですな、レオルド様。昔、厨房にでもお勤めでしたか?」
「ゼアトに飛ばされて、しばらくはギルバート、シェリアの三人で過ごしていたからな。どうしても手が足りなくて仕方なくな」
無論、嘘である。
真人の記憶と体験をもとにレオルドは動いているだけだ。
もっとも、手際こそいいがプロとは言えない。
料理が出来る一般人レベルだ。
しかし、それでも貴族であるレオルドがそれだけ出来るのは異常なことでもあった。
「納得いきませんわ」
シルヴィアが苦笑しながら隣の作業台でフルーツの皮を剥いていた……が。
「――あっ」
ツルリと滑ったリンゴがシルヴィアの手から落ち、見事に床へ着地。
「……っ!」
思わず顔を赤らめて固まるシルヴィア。
すかさずレオルドがしゃがみ込み、滑ったリンゴを拾い上げた。
「ふむ。シルヴィアにしては珍しいな。ペンは握れても包丁は握れんのか?」
「包丁くらい……握れますわよ……。ただ、ちょっと……その、油断しましたの」
「ふっ、ではこの王女殿下に、俺が手ほどきをしようか」
「ま、負けませんわよ……!」
シルヴィアがむきになって包丁を構え直すが、構えだけやたらと凛々しくて、なぜか一同が緊張する。
レオルドは横からそっと近づき、その手元に自分の手を重ねた。
「こう持つ。左手は猫の手、包丁の刃は当てるように滑らせていくんだ」
「こ、こうですの?」
「違う違う、もっと肘を引いて――ほら、こうやって」
ぐっと身体が近づく。耳元で直接声をかけられたシルヴィアは、ふわりと頬を赤らめた。
「……ち、近いです、レオルド様」
「仕方ないだろ。離れたら指を落としかねん」
「うぅ……それは困りますわ」
二人の距離は手取り足取りどころか、もう肩が触れ合うほど。
――その様子を見ていた料理長は、ため息とともに静かに視線を逸らした。
「また始まった……」
周囲の料理人たちも黙々と手を動かしながら、ややうんざりしたような、しかしどこか楽しそうな顔をしている。
「よし、今のは完璧だな。さすが、飲み込みが早い」
「レオルド様の教え方が上手なんですのよ」
「ふっ、もっと褒めてもいいんだぞ」
「じゃあ……とても素敵でした、先生」
「やめろ、今“先生”って言い方がちょっと甘かったぞ! 料理中に集中を乱すな!」
「レオルド様が悪いのですわ!」
「俺か!?」
ごく短い沈黙。
そして――
「二人とも! 作業止まってます!!」
レイラの雷が厨房に轟いた。
「あと三品残ってるんですからね!? あとでイチャイチャ禁止令出しますよ!? 本当にもうっ!」
「し、してない! 俺たちは真剣にだな……!」
「してたわよね?」
「してましたわね」
料理長と周囲の料理人たちが揃ってうなずいたのを見て、レオルドとシルヴィアは顔を見合わせ、小さく笑った。
そんなこんなで、騒がしくも楽しいピクニックの準備は着々と進んでいくのであった。
「なるほど、なるほど……これはこれは、見事な“惚気厨房”ですこと!」
突然、背後から聞こえた陽気な声に、レオルドとシルヴィアの動きがピタリと止まる。
振り返れば、腰に手を当てて仁王立ちしているイザベルがいた。
その後ろからは、優雅な足取りでシャルロットとオリビアも続いて入ってくる。
「ごきげんよう、皆さま。なにやら楽しそうな気配に誘われて、つい来てしまいましたわ」
オリビアが微笑みながら厨房の様子を見渡す。
「ええ、扉を開けた瞬間から、甘ったるい雰囲気が漂ってきたもの。お砂糖かと思ったら惚気だったのね~」
シャルロットの言葉に、使用人たちはこらえきれずクスクスと笑い出す。
「ち、違う! 俺たちは真面目に手伝って――」
「真面目に手伝いながら、耳元で囁くように指導とは……器用なことね~」
シャルロットが紅茶でもすするような調子で返すと、レオルドはもはや反論の余地もなく、肩を落とした。
一方シルヴィアは恥ずかしさのあまり、さっと顔を背けて頬を押さえている。
「……からかわないでくださいまし」
「でも、とっても微笑ましい光景だったわよ~? ねえ、オリビア」
「ええ。本当にいい雰囲気だったわ。……ただ、ピクニックに間に合うかは別問題ね」
「そ、そろそろ本気で巻きでいきましょうか……」
レイラが泣きそうな顔で叫ぶと、イザベルが自信満々に前に出てきた。
「では私が指揮を執ります! ここからは“イザベル特製・高速パッキング術”の時間です!」
「頼むから余計なことはするな!」
「私が信用できないと!?」
「不安しかないんだよ!」
レオルドが顔を覆いながら嘆く一方、オリビアがくすくすと笑いながらレイラのそばに近寄った。
「レイラ、ここまで頑張ってくれてありがとう。あなたのおかげで、みんなの笑顔が見られたわ」
「い、いえっ、私はその、みんなが楽しいといいなって……」
「ふふ、それで十分。とても素敵な気配りよ」
オリビアがそう言ってレイラの髪を撫でると、彼女は嬉しさで顔を赤らめる。
そんな中、オリビアがふと思いついたように手を叩いた。
「そうだわ。せっかくだから、私も何か作っていこうかしら。こう見えても私はお料理が得意なのよ?」
「えっ、 義母(オリビア) 様がお作りになるのですか?」
「それは貴重ね~!」
「ぜひ、お願いします!」
全員が一斉に乗っかってくるその様子に、オリビアは苦笑しながらも袖をまくり始めた。
「ふふ、じゃあ張り切っちゃおうかしらね。……それにしても、この屋敷の厨房がこんなに賑やかになるなんて、何年ぶりかしら」
その言葉に、誰もが少しだけ手を止める。
静かに流れる一瞬の間。
けれど、それは決して沈黙ではなかった。
穏やかで、温かな“家族の音”。
やがて再び動き出す鍋と包丁と笑い声のリズムは、まるで音楽のように厨房を包んでいた。