作品タイトル不明
第九十八話「連環の計、覚醒」
一 鏡川の泥
文久元年、仲夏。
節気でいう芒種を、わずかに過ぎた頃である。
四国・土佐の高知城下を流れる鏡川は、その朝、空のような色をしていなかった。
梅雨の入り間際で、空には鈍い灰雲が、いくつも厚く垂れこめている。風は南から吹いていた。湿った、生ぬるい風である。風の中に、川下の海から運ばれてきた、潮と魚の腐ったような匂いが、わずかに混じっていた。
鏡川の河原には、丸く磨かれた石が、ごろごろと転がっている。河原の上流側に、幾つもの筵が敷かれて、そこに、荷の見本——和紙の束が、白く山のように積まれていた。土佐和紙である。
その筵の周りに、男たちが集まっていた。
三十人近い、土佐の地場商人たちである。
着流しの裾を端折った者。雨を恐れて笠を被ったままの者。腕を組んで、河原の石を蹴っている者。みな顔つきが険しく、眉間に深い皺を刻んでいた。
彼らの話す土佐の言葉は低く、しかし、唸るような熱を帯びていた。
「岩崎の若僧は、まだ来んかえ」
「あいつ、また泥だらけで来るぞ。わしゃ知っちゅう」
「来ても、何ちゃ変わらん。あいつの言うことを聞いとったら、わしらの首が括られるぜよ」
その時、河原の下流側から、一人の男が、ざぶざぶと水を蹴って歩いてきた。
岩崎弥太郎である。
二十七。骨太でがっしりとした体躯。袴の裾はすでに膝の上まで泥にまみれ、足元の草鞋は、ほとんど色が分からないほど濁っていた。手には墨で書いた紙の束。脇にもう一つ、革紐で縛った帳面。
顔は相変わらず、太い眉と荒い口元と、深い泉のような目で出来ていた。三月前、江戸の語学所で渋沢栄一と「合本」を巡って言い争った時の…暗い火が、今は、そのままの形で目の奥に、しかし、より深く、燃えていた。
弥太郎は、河原の真ん中まで来て、足を止めた。
ぐるりと、商人たちを見回した。
「お待たせしたきに」
声は低かった。しかし、よく通った。
「岩崎じゃ。ご足労、感謝するぜよ」
商人の一人——中年の、額に白いものが混じり始めた男——が、最初に口を開いた。鏡屋の利兵衛と呼ばれる男である。
「岩崎の若僧」
「はい」
「おまんの言う『和紙の一本化』ちゅう話、わしゃ、もう一遍聞きとうない」
「……」
「わしらの和紙を、おまんの『天朝物産会所』ちゅうとこに、まとめて寄越せちゅう話やろ。それで、まとめて横浜に出すちゅう話やろ。生産者の取り分が増えるちゅう話やろ」
「お言う通りやき」
「そりゃ、絵としては悪うない。わしも聞いた時、ええ話じゃのうと思うた。じゃがな——」
利兵衛は、声を低くした。
「江戸や横浜に送る間に、嵐で船が沈んだらどねえするがぜよ」
河原の他の商人たちが、無言で頷いた。
「わしゃ、十年前、嵐で持ち船を一艘、沈めた。あの一艘で、一年分の儲けが、海の底ぜよ。家族と奉公人と合わせて十二人を、どうにか食わせるんに、五年かかった。借財を払い終えるんにもう三年かかった」
「……」
「わしの隣のあの源助は、二年前に、和紙を満載した船を土佐沖で失うた。その時、源助の女房は、首を括ったぜよ」
弥太郎の視線が、源助と呼ばれた、痩せた男の方に流れた。源助は目を伏せたまま、何も言わなかった。
「岩崎よ」
利兵衛が、続けた。
「おまんの言うちゅう『世界』とやらは、立派かもしれん。江戸の横浜の、その先の異国とやらに、ええ値で売れる、ちゅう話も嘘じゃないかもしれん」
「嘘じゃあ、ありませんき」
「じゃが——わしらにとっちゃ、その『世界』は博打ぜよ」
利兵衛は河原の石を、蹴り飛ばした。
石が、ぽちゃんと川に落ちた。
「わしらは、博打をもう何遍も打って、何遍も負けてきたきに。これ以上、博打は打てんがやき」
弥太郎は、しばらく無言だった。
河原の商人たちの顔を、一人ずつ見渡した。
みな、似たような顔をしていた。
怒りと諦めと、それから、その奥に深く、深く沈んだ——「もう何度も裏切られた」という、暗い疲れ。
弥太郎の中で、何かがぐっと来た。
彼は自分の父が、何の罪もなく投獄された日のことを、ふと思い出した。
藩の役人に無理矢理、家を踏み荒らされた日のことを、思い出した。
自分が田圃の畦で、虫の死骸を見て泣いた、十二の頃のことを思い出した。
(——わしらは、博打を打って負けたんじゃあない。最初から、博打しか、打たせてもらえんかったがぜよ)
弥太郎は、心の中で呟いた。
呟いてから、深く息を吸った。
「鏡屋の旦那」
「何じゃ」
「お言いゆうことは、ようよう分かりましたき」
弥太郎は、姿勢を正した。
「博打…やと」
弥太郎の口の端が、ふっと上がった。
それは笑いとも呼べぬ、もっと、凄みのある形だった。野良犬が、捕まえようとした手を、横目で見上げてにやりとする時の——あの目の光だった。
「博打ぜよのう。確かに博打じゃき」
「……」
「じゃが、わしは」
弥太郎は、ゆっくり続けた。
「わしは博打を、続けに来たんやのうて——」
弥太郎は、河原の石を踏みしめた。
「博打を、終わらせに来たがよ」
河原に、しんと…風が吹いた。
川面の上を灰色の雲が、ゆっくりと流れていった。
二 弥太郎の机の上
話は数週間前に…遡る。
江戸の湿り気を帯びた風が、一橋上屋敷の奥御殿を吹き抜けていく。
弥太郎は、糸子の前に恭しく平伏していた。
糸子は、語学所から提出された弥太郎の成績表と、自身の書き付けを見比べながら、静かに扇子を閉じた。
「岩崎殿。商務語学所での座学は、これにて一旦修了といたします。明日よりあなたは『実地研修』として土佐へ向かいなさい」
弥太郎は顔を上げた。
「実地研修…でございますかえ?」
「ええ。語学所の設立趣旨は、異国の言葉を覚えるだけではありませぬ。異国の『商法』を理解し、日の本の富を守ること。今、土佐で起きていることは、まさにその最前線でございます」
糸子は、文机の上に広げた「世界地図」の一点…イギリスのロンドン、そしてアメリカのニューヨークの街々を指差した。
「認知しなさい、岩崎殿。今後、メリケンの国では大きな戦が起こりましょう。そのせいで、あちらの製紙業は危機に瀕しまする。綿花の供給が止まり、異国の紙の主原料である『ボロ布』が完全に枯渇して、必ず壊滅致しまする。異国の新聞発行人や出版業者たちは、和紙がなければ路頭に迷う。今やあちらでは、紙は金銀にも勝る貴重品。だからこそ、異国のボロ布に頼らぬ我が国の『 楮(こうぞ) 』や『 三椏(みつまた) 』から成る和紙に、空前の商機が巡ってくるのでございます」
糸子の声が、不意に冷徹な響きを帯びた。
「土佐の商人たちは、その事実を知りませぬ。彼らは、これまでの相場で和紙を手放そうとするのでございます。異国の商人はその無知に付け入り、暴利を貪り、土佐の富を吸い尽くそうするはずです。これは商売ではなく、国富の略奪になりましょう」
糸子は、懐から一通の「語学所公認・土佐派遣下命」を取り出した。そこには、天朝物産会所の印とともに、藩の要路へ繋ぐための添え状が同封されていた。
「あなたの役目は三つ。第一に、バラバラに買い叩かれている土佐の和紙を、物産会所という名の『巨大な倉庫』に一本化すること。第二に、わたくしが教えた『海上補償』の理をもって、商人の恐怖を銭に換え、団結させること。そして第三に――」
糸子は身を乗り出し、弥太郎の目を真っ直ぐに見つめた。
「――土佐という国の『財布の紐』を、旧来の門閥家老の手から、あなたのその泥臭い両手へと奪い取るのです。
岩崎殿、和紙が海を越えて金に変われば、土佐は異国の借金に頼らずとも、自前の黒船を買えましょう。
日本のため、土佐のためと謳う理想家が武器を買いに走る前に、あなたがその原資を『和紙』で稼ぎ出し、土佐を『借金による属国化』から救うのです。
異国の商人が狙うのは、我が国の無知と負債。あなたが土佐の富を一本化し、その流通を掌握することは、藩の歪んだ利権を根こそぎ叩き潰し、土佐をひとつの『商社』へと変え、これからの荒波に耐えうる鋼の軍艦に仕立て直すことに他なりませぬ。これこそが、商務語学所があなたに託す、真の『実地研修』にございます」
弥太郎は、下命を両手で受け取った。
それは、単なる学校の課題ではない。異国という名の巨大な波から、郷里の…そしてこの国の土台を守り抜けという、重い「御用状」であった。
「……実地研修、しかと承りました。語学所の名に恥じぬよう、異国の都合に振り回される土佐の商売、この弥太郎が根こそぎ塗り替えてみせまする」
「期待しておりまする、岩崎殿。泥の中から、世界を睨みつけなさい」
糸子の内心
(今年、文久元年は西暦に直せば…1861年になる。海外での出来事は、ほぼ史実通りになることは、この前のロシア軍艦ポサドニック号事件で確認済み…)
(ならば土佐の和紙を、纏め上げることが出来れば…岩崎弥太郎、頼みましたよ………)
三日後。弥太郎は語学所の仲間たちに「実地の調査に赴く」とだけ告げ、江戸を後にした。
背中には、糸子から授かった「情報の差を銭に変える数式」が、重く、鋭い刃のように研ぎ澄まされていた。
その前夜——弥太郎は、城下の自分の借家の、薄暗い四畳半の部屋に坐っていた。
部屋には、行灯が一つ点いていた。
行灯の油は、安物だった。橙の焰が、しばしば、ちらちらと震える。震えるたびに、畳の縁の影が、ゆっくりと揺れた。
部屋の壁には、隙間風を防ぐために、何枚もの紙が、貼り重ねられていた。
机は低い文机。文机の上に何かが、二つ置かれている。
ひとつは、糸子の経済教科書の写しの束。
もうひとつは、弥太郎が独自に集めた、過去十年分の、土佐湾の海難事故の記録だった。
古い船宿の番頭から、酒を奢って聞き出した記録。年寄りの漁師に、米一俵を運んで聞き出した記録。藩の代官所の小役人に、こっそり拝ませてもらった記録。
それらを、弥太郎は、一冊の和綴じの帳面に、几帳面に書き写していた。
帳面の頁は、もう半分以上が、埋まっていた。
「……」
弥太郎は、半刻ほど黙々とその帳面を、めくっていた。
時々、紙の上に墨で、数字を書きつけた。
書きつけた数字を、しばらく見つめて、また別の数字を、書き加える。
そういう作業を、何十遍と、繰り返していた。
弥太郎の中である考えが、ゆっくり形を取っていた。
その考えは最初、ほんの霧のような、ぼんやりとしたものだった。
糸子の教科書の、第一巻——序章・幕末経済と国際環境の章を、最初に読んだ時、霧の中に何かの輪郭だけが、見えた気がした。
第二巻——商談実務・交渉術の章を読んだ時、その輪郭が、少しだけはっきりした。
松屋善兵衛のもとで、横浜の田中屋清兵衛に随行して、外国商人の動きを観察した時、輪郭が骨組みになった。
そして、土佐に戻って、海難事故の記録を集めはじめた時——骨組みに肉が、つき始めた。
弥太郎は、帳面を閉じた。
閉じてから、深く息を吐いた。
「……これは、要するにこういうことぜよ」
弥太郎は、行灯の前で自分一人に、語りかけるように呟いた。
「船は、沈む。確かに沈むぜよ」
「じゃが、十年で沈んだのは——百艘のうち、平均四艘」
「ちゅうことは、年に百艘あれば四艘」
「四艘の積荷の値を、残りの九十六艘の積み手で、薄う、薄う、頭割りに払うてもろうたら——」
「それぞれの商人が、自分の積荷の、たった三分を出すだけで、嵐で船が沈んだ時の損は、丸ごと補える」
弥太郎の目が、行灯の橙の中で深く光った。
「沈むかもしれん、ちゅう恐怖を——」
「三分の銭に変える」
「恐怖を銭に変える」
弥太郎の口の端が、ゆっくりと上がっていった。
「……これは商売じゃ」
「いやもう、商売を超えちゅう」
「これは——博打を終わらせる、仕掛けぜよ」
行灯の焰がもう一度、ちらちらと揺れた。
弥太郎の影が、壁の上で、わずかに伸びたり縮んだりした。
弥太郎はしばらく、その影を見つめていた。
見つめながら、別のことを考えていた。
(——姫様は教科書では、こねえなことは、何ちゃ書いておらんかった)
(じゃが、姫様の教科書は、わしがこねえなことを、自分で考え出すためにある)
(教科書は、答えやのうて、考える型ぜよ)
弥太郎は、深く頷いた。
頷いた、自分の動きが、自分でも可笑しかった。
誰も見ていない四畳半の中で、一人頷いていた。
ふっ、と声を漏らして、笑った。
笑いは、しかし、すぐに消えた。
代わりに別の感情が、胸の奥から、ぐっと上がってきた。
怒りと呼ぶには、もう少し深かった。
悔しさと呼ぶには、もう少し熱かった。
それは——「自分が長い間、知らなかったから、損をしてきた」という、その事実への、再認識だった。
糸子の教科書の最初の一文を、弥太郎は思い出した。
「知らなければ搾取される。知っていれば対等に戦える」
弥太郎は、その一文を最初に読んだ時、しばらく、頁を閉じることができなかった。
なぜなら——それは、自分が、長い間、自分自身に言いたかった一文だったからだ。
(おとう。おっかあ)
弥太郎は、心の中で亡くなった父と、健在の母に呼びかけた。
(わしらは、悪うはなかった。ただ、知らんかっただけぜよ。じゃから、いつも損をして、いつも踏みつけにされてきた)
(じゃが、もう終わりにするきに)
(わしが、知る側に回るぜよ)
行灯の橙が、もう一度揺れた。
弥太郎は、文机の上の墨をすり直して、新しい紙に書き付け始めた。
その紙の上に、書かれた言葉はひとつ。
「冥加金」。
その下に、小さな字で書き加えた。
「三分」。
それから、もう一つ、書き加えた。
「沈ませぬ仕組み」。
三 河原の朝、続き
弥太郎は、河原の真ん中で、商人たちを見回した。
脇に置いた帳面と紙の束を、ゆっくり足元に下ろした。
「鏡屋の旦那」
「何じゃ」
「源助殿」
「……」
「ほかのみなさんも、聞いてつかあさい」
弥太郎は、紙の束の一番上の一枚を取った。
その紙には、過去十年の土佐湾と土佐沖の海難事故の数が、年ごとに墨で書かれていた。
弥太郎は、その紙をまず、利兵衛の前に突きつけた。
「これを、見てつかあさい」
「……何じゃ、これは」
「土佐沖で、過去十年に嵐や、座礁で沈んだ船の数ぜよ。鏡屋の旦那の船も源助殿の船も、ここに書いてあるきに」
利兵衛が、紙を覗きこんだ。
他の商人たちも、覗き込んできた。
「年にばらつきはありますぜよ。一艘も沈まなんだ年もあれば、八艘沈んだ年もある。じゃが、十年を均しゃあ、一年あたり、百艘のうち——四艘」
「……四艘」
「四艘ぜよ」
弥太郎の声に、少しだけ熱が混じった。
「百艘のうち、九十六艘は、無事に横浜に着いちょります。沈んでない。沈んだのは、四艘。そこをようよう見てつかあさい」
「……それが、何じゃと言うがじゃ」
「鏡屋の旦那、もしも——もしもの話ぜよ」
弥太郎は、ゆっくり言った。
「百艘の積み手が、それぞれ、自分の積荷の値のたった三分。三分の銭を、岩崎の方に預けてくださるとしましょう」
「三分…」
「百艘ぶんの三分を集めれば、それは、おおよそ、積荷三艘ぶんの値になる。四艘沈んだら少し足が出るがぜよ。じゃが足の出た分は、わしが被る」
「……」
「沈まなんだ九十六艘の方々は、自分の積荷の三分だけ損したことになる。じゃが、嵐の心配なしに横浜まで、和紙を運ぶことができる」
「……」
「沈んだ四艘の方々は、自分の積荷の値、丸ごとわしの方から、お返しする。家族を路頭に迷わせず、奉公人を放り出さず、女房に首を括らせずに済ませられる」
河原に、沈黙が流れた。
風が、ふっと止んだ。
商人たちが、互いの顔を見合わせていた。
誰の顔にもすぐには、表情が出てこなかった。
なぜ、出てこなかったか。
話が、簡単すぎたからである。
簡単すぎて頭が、ついてゆかなかったのだ。
「岩崎よ」
最初に口を開いたのは、源助だった。
痩せた男が、河原の石の上に坐ったまま、ゆっくりと口を開いた。
「おまん、それは——本気で言うちゅうがか」
「本気ぜよ」
「沈んだ船の積荷を、丸ごと補うてくれるちゅうがか」
「丸ごとぜよ」
「……」
源助の目が、わずかに潤んだ。
すぐ目を伏せた。
源助は、何も言わなかった。
ただ河原の石を、ぎゅっと握りしめた。
握りしめた手の甲が、白く震えていた。
「岩崎」
利兵衛がしばらくしてから、唸るような声で言った。
「おまん…そりゃ、そねえな大金、どこから出てくるがじゃ」
「ええ質問ぜよ」
弥太郎は、紙の束の別の一枚を取り上げた。
「これは、わし一人の話じゃあなくて、天朝物産会所の『仕組み』ぜよ。物産会所の金櫃にゃあ、その大金をまかなえるだけの銭が、ちゃんと入っちゅうきに」
「物産会所…ちゅうても、所詮は、商人の寄合じゃろう」
「そうじゃあないき」
弥太郎は、はっきりと首を振った。
「のう、物産会所は御所御用達ぜよ。御所から後ろ盾をきっちり頂戴しちゅうきに、間違いはないがじゃ」
「……御所と?」
「ほうじゃ」
「いや、岩崎。御所が後ろ盾ちゅうても、それは話ぜよ。土佐の藩の領内で、これだけの仕組みを動かすには——藩の許しが、要るがやないかぜよ」
利兵衛の声には、まだ疑いがあった。
弥太郎は、にやりと笑った。
「そこも、抜かりはありゃせんき」
弥太郎は、懐から一通の書状を、取り出した。
書状には、土佐藩の家紋が、押されていた。
商人たちが、わずかに息を呑んだ。
「これは——」
「土佐藩、密約状ぜよ」
弥太郎は、低く言った。
「藩のお偉方とは、もう、話はついちょる。物産会所が藩の借財をいくらか肩代わりする代わりに、この補償の仕組みを藩が公認し、保証するがぜよ。容堂公のお印は、まだ正式にゃあ頂いちょらんが、内々の話は、すでに進んじゅうきに」
「……岩崎、おまん」
「……土佐藩の台所が、どうなっちゅうかは、おまんらあも知っちょる通りぜよ。紙一枚、一合の米にも困っちゅうがが、今の土佐の真実ぜよ。
藩は銭が要る。物産会所にゃあ、銭がある。両方の利がピタリと合うたきに、話はするすると進んだがじゃ。
だがの、和紙は一度濡れると商品価値がのうなってしまうぜよ。海を渡る間に嵐に遭えば、藩の再興という夢ごと海の藻屑よ。
だからこそ、いざという…備えが要るがじゃ。万が一の時、誰も路頭に迷わん仕組みを作らんと、誰も怖うて大事はできんきに!」
商人たちが、ざわめいた。
「……岩崎の若僧」
別の年若い商人が、声を上げた。
「もし——もし、本当にその仕組みが動くなら、わしらは、どねえに有り難いか、分からん。じゃが——」
「じゃが」
「『おまんが、ほんとうに最後の最後まで、約束を守るかどうか』、わしらには分からんのよ」
弥太郎は、その若い商人を見た。
その目に、責める色はなかった。
ただ純粋な、不安だった。
「分からんと仰るのは、当然ぜよ」
弥太郎は頷いた。
「わしは、まだ若僧ぜよ。親父は獄に繋がれた、わしも繋がれた、何ちゃあ、信用できる経歴のある男じゃあないき」
「……」
「じゃが信用は、これからわしと物産会所が、お見せする」
弥太郎は商人たちを、ぐるりと見回した。
「最初の一年は、お試しと思うてつかあさい。最初の積み荷で、もし船が沈んだら物産会所が、約束通り、丸ごとお返しする。一艘でも、約束を破ったら——その時はわしの首を、刎ねてもろうて結構ぜよ」
商人たちは、しばらく無言だった。
無言で互いの顔を、見合っていた。
四 梅雨の前の風
河原の議論は、その後も続いた。
利兵衛が、別の角度から突っ込んできた。
「岩崎よ」
「何ながぜよ」
「もう一つ、聞かせてや」
「和紙の値ぇっちゅうもんは、嵐たあ別に、毎月毎月、上がったり下がったりするき。今、異国が高う買うてくれちょる、言うたち、半年後にはどねえなっちゅうか分からん。
半年かけて横浜へ運んで、着いた時にはもう値が下がっちょった、っちゅう話ぁ過去にゃあ、なんぼもあるがぜよ」
「おっしゃる通り」
弥太郎は、待っていた、というように頷いた。
彼は、紙の束のまた別の一枚を取り上げた。
その紙には、横浜の和紙相場のここ数ヶ月の動きが、線として書かれていた。
「こらぁ、見てつかさい」
「……」
「ここのとこ、和紙の値が、ぐんぐん上がっちょります。なぜか?」
「なぜだ…」
「メリケンと、イギリス——異国の紙の原料が、戦でさっぱり届かんようになっちゅうきに」
「……紙の原料が戦で」
「『綿花飢饉』っちゅう、メリケンの戦争の影響ぜよ。横浜のオランダの商人から、わしが直接聞いた話やき。
異国の紙は、もう、おおかたまともな量が作れんようになっちゅう。じゃき、異国の新聞の刷り屋は、よその国の和紙を、死に物狂いで欲しがっちゅうがぜよ」
「……」
「清国の和紙は、品質にばらつきがある。日本の和紙は、品質がええ。じゃから今、日本の和紙が、異国で、銀の値で買われちゅうがです」
「ほう」
「じゃが——異国の戦の火が、いつ収まるか、わしにゃあ分からんぜよ。来年収まるかもしれん。再来年かもしれん。収まったら異国の紙が、また安う作れるようになる。ほうなったら、日の本の和紙の値ぇは、一気に下がるきに」
「……それが、わしらとどねえな関係があるがぞ」
「あるきに」
弥太郎は紙を、もう一枚取り上げた。
「物産会所は、皆様にもう一つ、お話を出しとうござります」
「もう一つ」
「『半年後の、固定、買取』ぜよ」
「……何じゃと」
「半年後の和紙の値が、上がっちょっても下がっちょっても——物産会所は、今の値で皆様の和紙を、買い取るぜよ」
河原が、またざわめいた。
「……岩崎、そりゃ本気か」
「本気ぜよ」
「半年後に、値が下がっちょっても、今の値で買うてくれるがか」
「左様」
「逆に、半年後に、もっと値が上がっちょっても——」
弥太郎は、ゆっくり頷いた。
「上がっちょっても、今の値で、買い取らせていただきます」
商人たちの中に、わずかに欲がちらついた。
「岩崎、異国の戦の火が、もっと長引いたら、半年後、値はもっと上がるぜよ。今の値で売ったら、わしらは、損をするきに」
「左様、その通り」
「……」
「じゃが——もし、異国の戦の火が、思いもよらんほど早う収まってしもうたら、一体どねえなりまするか」
「……」
「半年後の値は、今よりずっと下に落ちちゅう」
「……」
「皆様は、今、どっちが起こるか、分かりますかえ」
商人たちは、誰も答えなかった。
答えられる者は、誰もいなかった。
「わしは、こうお話しいたしまする」
弥太郎は、低く言った。
「博打がお好きな御仁は——どうぞ、ご自分で半年待ちつかさい。値ぇが上がったら、丸ごと儲けになる。下がったら、丸ごと損になる。そらぁ、お好きにせられればよろしい」
「……」
「じゃが、博打をもう終わりにしたい御仁は――物産会所に、今の値ぇで売ってつかさい。半年後の値が上がろうが下がろうが、皆様の懐に入る銭ぁ、最初から決まっちゅう。家族の食う米の数は、嵐や相場に左右されんようになるがぜよ」
「……」
「これを、わしは——『安心』と呼ぶぜよ」
弥太郎の声は、ゆっくりと低く響いた。
商人たちは、しばし無言だった。
無言の中で、それぞれ別のことを、考えていた。
誰の心の中にも、欲と安心の両方が、ぐらぐらと揺れていた。
弥太郎は、それを知っていた。
知っていて、最後の一押しを、加えた。
「ただし——」
弥太郎は、紙の束の、隅に小さく書かれた一文を、指で示した。
「もし、横浜の相場の値ぇが、取り決めた値の六割より下に落ちるっちゅう、よっぽどの異常事態が起きた時は――双方で、もう一遍、話し合わさせていただくっちゅう逃げ道だけは、書かせていただきまする」
「逃げ道を…?」
「左様。なしてかと言うたら、わしゃあ皆様の和紙を買い取って、必ずや異国や江戸へ回さねばなりませぬ。もし世界中の和紙の値ぇが半分以下にまで暴落するような、よっぽどの事態が起こったら――岩崎の側が潰れまする。岩崎が潰れたら、皆様への約束も果たせんことになるがぜよ」
「……」
「わしが生き延びてこそ、皆様への約束が生き延びまする。じゃき、ここの一行だけは、入れさせていただきたいがぜよ」
商人たちが、しばらく互いの顔を見合った。
利兵衛が、ゆっくりと頷いた。
「……それは、わしらにも分かるぜよ」
「ありがたいことやき」
「むしろ、その逃げ道を、おまんから、先に言うてくれたちゅうことが——」
「はい」
「岩崎の若僧、おまん、ようよう商売を知っちゅう」
利兵衛は深く、息を吐いた。
五 咆哮
河原の上にぱらぱらと、仲夏の小雨が落ち始めた。
梅雨の前の、走り雨である。
弥太郎は、雨を構わなかった。袴の裾が、また濡れた。商人たちも、構わなかった。
誰もその場を、離れようとしなかった。
弥太郎は、紙の束を慎重に、懐にしまった。
しまってから、河原の上で、ぐっと両足を踏みしめた。
踏みしめてから——商人たちをまっすぐに見た。
「みなさん」
「……」
「これからは『運』の時代じゃない」
弥太郎の声が、雨の中に響いた。
「『計算』の時代ぜよ」
商人たちは、無言で聞いていた。
「博打を打って、勝った負けたで家族の運命が、決まる時代——わしは、もうしまいにするき」
「……」
「嵐は来る。来るがぜよ。船は沈む。沈むがぜよ。値は上がる。下がる。ぜんぶ起こるがぜよ。じゃが——」
弥太郎は低く、しかし轟くように叫んだ。
「起こることに、値段をつけるんじゃ!!」
「……」
「起こることに、値段をつけて、頭割りにわけ合えば——わしらは、もう博打打ちじゃない。商人ぜよ。世界の商人ぜよ」
商人たちが、息を呑んだ。
「姫様が、教えてくださった『世界』ちゅうもんを——」
弥太郎の目が、雨の中で暗く光った。
「このわし、岩崎がこの土佐の海に、引きずり込んで見せちゃるきにのう」
雨がぱらぱらと、河原の石の上で跳ねた。
川面の上を一羽の鴎が、低く横切っていった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
最初に口を開いたのは、源助だった。
「岩崎よ」
「はい」
「わしは、首を括った女房に、もう二度と会えん」
「……」
「じゃが、これから別の女房を、首を括らせんですむ仕組みが、出来るがやったら——」
源助は、声を震わせた。
「わしは、おまん、賭けるぜよ」
「……」
「博打打ちが言うんも何やが、岩崎、おまん、賭けさせてもらうぜよ」
弥太郎は、源助の前にゆっくりと歩み寄った。
歩み寄って、深く頭を下げた。
「源助殿」
「……」
「わしは約束するがぜよ。二度と源助殿みたいな人は出さんように――」
「……」
「この命を懸けて、約束しちゃるき」
源助は、しばらく目を伏せていた。
伏せたままぼたぼたと、河原の石の上に、何かを落としていた。
誰もそれを、見ない振りをしていた。
利兵衛が、ぐっと前に出た。
「岩崎」
「はい」
「鏡屋の利兵衛、おまんの仕組みに乗るぜよ」
「まっこと、ありがたいことぜよ」
利兵衛が言うと、あとは、堰を切ったように商人たちが続いた。
「わしも乗る」
「鏡屋が乗るんやったら、わしも乗る」
「岩崎、わしの分も頼むぜよ」
弥太郎は、一人ずつ、頭を下げて応じた。
応じながら心の中で、また、別のことを考えていた。
(わしは――博打打ちを、商人にしてやるきに)
(じゃが、わしは、博打打ちの中の、最後の博打打ちながじゃ)
(最後の博打打ちが、博打を仕舞う)
(……なんちゅう皮肉な役目じゃろうか)
弥太郎は自分でも、気づかぬうちに笑っていた。
笑った口元に、雨が当たった。
六 藩への根回し
話の舞台は、河原から城下に戻る。
その日の午後、弥太郎は、土佐藩の勘定奉行所の脇にある、ある屋敷を訪れていた。
屋敷の主は、藩の財政担当の中堅役人である。表向きは平凡な役人だが、実際には藩の銀の出入りを 最も詳細に把握している男だった。
山内容堂公の側近の中でも、特に「銭の話」が分かる、数少ない一人である。
屋敷の客間は簡素だった。畳は新しいが、装飾は最小限。床の間の掛け軸は、容堂公直筆の「正直」の二文字。
弥太郎は客間の下座に坐り、脇には河原で商人たちに見せた海難補償の仕組み、そしてもう一束、別の書類を置いていた。
主の役人は、上座でその書類をめくっていた。しばらく無言だった。めくり終わってから、書類を文机の上にぽんと置いた。
「岩崎、おまん」
「はい」
「これを、自分で考えたがか」
「自分で考えちゅうがよ」
「江戸の天朝物産会所の方々の、ご指導ではのうて?」
「物産会所の教科書はもろうたがじゃ。けんど、この仕組みそのものは書いてないき。
わしが教科書を自分の中で煮詰めて、土佐の『和紙』いう商品が抱えちゅう弱点と突き合わせて、出てきた仕組みながよ」
「……ふむ」
役人はしばらく、弥太郎の顔を見ていた。見てから、深く息を吐いた。
「藩にゃあ、銭が要るぜよ」
役人は、率直に言った。
「殿様ぁ、ご自分でもよう分かっちょる。米の年貢ばあじゃあ、もう藩は持たん。今、藩が総力を挙げて取り組もうとしちゅうがは、和紙の増産と品質の統一ぜよ」
「おまんが今、その差配の一部を任されちゅうがも、その一環じゃ」
「重々承知しております。だからこそ、この書面を差し上げました」
弥太郎は、脇に置いていたもう一束の書類——『和紙集荷及品質改善策』を差し出した。
「藩が命じた増産。けんど、山から下りてくる紙の質はバラバラぜよ。薄すぎて破れるもの、色が濁っちゅうもの……これじゃあ異国商人は買いませぬ」
「わしは、藩の集荷所に届く前の段階で、村々の漉き場を回り、一級品だけを選別し、その場で買い取る権利を、わし個人に預けていただきたいがです」
「……岩崎。それは、藩の専売を横からかすめ取るちゅうことか」
役人の目が鋭くなった。弥太郎は不敵に笑った。
「滅相もございません。わしが弾いた二級品・三級品は、今まで通り藩が公定価格で買い上げ、国内へ回せばええがです。
わしは、横浜へ出す『一級品』の品質を保証し、その流通の隙間で、藩の代わりに汗をかこうと言うちゅうがです。その代わり——」
「条件は一つ。物産会所が、藩の借財を一部肩代わりする。……そうか?」
弥太郎は、懐からもう一通、書状を取り出した。
松屋善次郎の名で、糸子の押印のある内々の覚書だった。
「左様。藩には一文の損もさせませぬ。さらに、藩がわしのこしらえた『補償の仕組み(保険)』を公認し、藩の名で保証してつかあさい」
「藩の名で保証……?」
「殿様のお名前ぁ要りません。藩の勘定奉行所の名前でええがです。
万一の時には、藩が商人衆の損を、わしと一緒に背負うちゅう形にしていただきたい」
「……岩崎、それは藩にとって危のうないか。海で紙が沈めば、一巻の終わりぜよ」
「いいえ、そんなこたぁございません」
弥太郎は、はっきりと首を振った。
「和紙は一度でも水に濡れれば、その瞬間にただのゴミぜよ。乾かしても波の跡が残り、異国人は見向きもせんき。だからこそ、商人は怖うて大勝負ができんがです」
「……それを救うがが、この『保険』ぜよ。百艘のうち、沈むがはせいぜい四艘。商人衆から集める三分の冥加金で、おおよそ賄えます。
藩の名ぁ、ただの『安心の印』として貸していただくだけで、実際に藩の銭が出るたぁ、まずございません」
「まず、と言うがは——」
「万に一つ、年に十艘以上も沈むような、よっぽどの大嵐の年がありゃあ、わし一人じゃあ足が出るかもしれん。その時に、藩の名がものを言うがです」
「……けんど、わしゃあその時に藩へ銭を泣きつくがじゃあございません。来年の冥加金から、ゆっくり返させてもらう仕組みも考えちょります。
藩は『信用の盾』を貸すだけで、手元には物産会所からの融資と、質の安定した特等品の運上金が転がり込む……」
役人はしばらく、また無言だった。無言で弥太郎を、見ていた。
見てから、ふっと笑った。
「岩崎、おまん。藩の役人より、藩の財布のことをようよう知っちゅうだけでなく、その中身を増やすカラクリまで作りおったか」
「……おまんが漉き場を回って一級品を囲い込むがも、その『保険』の原資にするつもりじゃな?」
「おそれいり。質の悪い紙に保険はかけられんき。選別こそが、わしの仕組みの肝ながよ」
役人の声には、もう躊躇いはなかった。
「容堂公にゃあ、わしから伝えておく。殿様ぁ、賢いお方じゃ。
実の話なら必ず聞かれる。お受けになるじゃろう。正式なお印ぁ、十日のうちにお渡しできるはずぜよ」
「ありがたき幸せに存じます」
弥太郎は、深く頭を下げた。
頭を下げたまま、心の中でもう一度呟いた。
(これで——土佐は抑えた。藩の権威で一級品を囲い込み、その利益を保険の元手にする。
和紙が濡れてゴミになる恐怖を、わしが『銭』という安心に変えてやるがじゃ)
(次、横浜の田中屋。それから善次郎殿、姫様)
七 糸子のもとへ
仲夏。
江戸、一橋上屋敷の奥御殿。
糸子の私室にはその朝、土佐からの早船で運ばれてきた書状が、文机の上に置かれていた。
弥太郎の手による、長い長い報告の書状だった。
糸子は、簾を半ば巻き上げて、仲夏の風を入れた中で、その書状をゆっくりと読み始めた。
葵が後ろで、お茶を淹れていた。
書状の表題はこうあった。
「土佐沖海難および和紙価格変動に関する補償の仕組み導入の件 御報告」
糸子は、最初の頁を開いた。
弥太郎の太い、しかし几帳面な字が、紙の上に踊っていた。
——「姫様。岩崎弥太郎、土佐より御報告申し上げます。
六月初頭、土佐の地場商人衆三十名を集め、和紙出荷の一本化と、その前提となる補償の仕組みについて、合意を取り付け申しました。
仕組みは、二つでござります。
第一、海上補償。商人衆から積荷の値の三分を冥加金として頂戴し、万一、嵐や座礁で船が沈んだ折には、物産会所より積荷の値、丸ごとをお返しいたしまする。
第二、半年後の固定買取。物産会所が、半年後の和紙を、今の値で買い取る契約を、商人衆と結ばせていただきまする。
なお、第二の仕組みには、横浜の市場の値が契約値の六割を割る異常事態の折には、双方で再協議する、という逃げ道を、こちらから提示しておきましてございます。
これを言わずに後から問題が出るより、最初に明らかにする方が、信用が増しますゆえ。
藩への根回しも、すでに済ませてござります。藩は物産会所が借財の一部を肩代わりすることと引き換えに、本仕組みを公認し保証する、との内諾を十日以内に、正式書面でくださるとのこと——」
糸子は、書状の頁を、めくる手を止めた。
止めて、しばらく目を細めて、弥太郎の字を見つめていた。
それから、まためくり始めた。
——「姫様。一つ、お詫びを申し上げまする。
わしは、姫様の経済教科書、第二巻まで読ませていただいた折には、商売とは、要するに人と人との交渉と理解しておりました。
じゃが、土佐に戻って、海難の記録を集めはじめた時、別の考えが頭に浮かびました。
恐怖ちゅうもんは、計算できる。
計算できるなら、それはもう恐怖やのうて銭ぜよ。
計算できる恐怖を、銭に変えて頭割りにわけ合えば——
博打が終わる。
わしは、これを岩崎一人で、考えたつもりでござります。
じゃが、書状を書きながら、ふと気づき申しました。
わしが考えたんやのうて——姫様の教科書の、第一巻の最初の一文に、すでに書かれちょったがやないかと。
『知らなければ搾取される。知っていれば対等に戦える』
わしは、長い間知らなかった側でござります。じゃから、いつも、損をしてきました。父も母も妹も、わしもずっと、損をしてきた。
じゃが、知ることができれば、博打を終わらせることができる。
わしは、その『知る側』になりとうござります。
今後とも、岩崎弥太郎、姫様の絵の中の、ささやかな一筆として、お使いいただきとう存じまする。
文久元年 六月十日 岩崎弥太郎」
糸子は、最後の一行を読み終えてから、しばらく書状を、膝の上に置いていた。
葵が、お茶を糸子の前に置いた。
「姫君様」
「葵」
「はい、岩崎殿の書状でございますね」
「ええ、そうよ」
「お顔の色が、少し変わっておいでですよ」
糸子は、小さく笑った。
「そんなに変わっておりましたか」
「はい」
「そう、見えましたか」
「はい」
糸子はしばらく、湯呑みを両手で持った。
持ったまま簾の外の、仲夏の楓を見つめていた。
糸子の心の中で、いくつもの言葉が流れていた。
(教えたのは、第一巻の需要と供給の話だけ。あとは第二巻の交渉術。それだけ)
(保険なんて言葉、わたくしは教えていない)
(先物なんて、近代の金融の概念、わたくしは、まだ口にしていない)
(なのにこの岩崎は、自分一人で、そこに辿り着いた)
(土佐の海難の記録だけを頼りに…)
(家族を、食わせるために、必死で辿り着いた)
糸子は、湯呑みを口元に運んだ。
運んでから、少しだけ止めた。
「葵」
「はい」
「やっぱり、この男は——」
「はい」
「毒が、強すぎるわ」
糸子は、ぽつりと言った。
「毒…でございますか」
「ええ。毒よ」
糸子は、湯呑みを文机の上に戻した。
「うまく扱えば、この国の薬になる。なれど、扱いを誤れば、わたくしの絵そのものを食い破る毒にもなりうるでしょう」
糸子は簾の外を、もう一度見た。
見ながら自分の心の中に、奇妙な感覚が走った。
それは——危機感と呼ぶには、あまりに心地よかった。
恐れと呼ぶには、あまりに嬉しすぎた。
強いて言えば——
(——戦慄する…という感覚)
糸子は、心の中で自分自身に、その感覚の名をつけた。
(こういう、わたくしの想像をふいに、超えてくる人間が出てくる時——わたくしは、この幕末という激動の時代に生きている人たちの…凄さを、凄みを感じる)
(岩崎殿の毒は——わたくしの絵を、本物の絵に変える絵の具のようね)
糸子は扇子を、ぱちりと閉じた。
閉じた扇子の影で、ふっと笑った。
「葵」
「はい」
「善次郎に連絡を」
「はい、ただいま」
「土佐の和紙を、すべて横浜へ。ここまでは、岩崎殿の手筈通りに」
「はい」
「ただし——」
糸子は、扇子の先で、湯呑みの縁を軽く叩いた。
「価格は、岩崎殿が商人衆に約束した『保証価格』の——」
「はい」
「三倍で、外国商人にお売りなさい」
「……三倍でございますか」
「ええ。三倍です」
糸子は扇子の影で、もう一度笑った。
「岩崎様は、商人たちに「安心」を売りました。その安心の価値を一番よく知っているのは、異国商人ですよ。
彼らは、安定供給と品質、そして価格保証——この三つが揃った相手を必ず求めまする。
三倍の価格で売っても、彼らは買いましょう。なぜなら、彼らもまた、博打を終わらせたいからでございます」
糸子は、目を細めた。
「ふふふふ……」
ごく小さな、しかし、確かな笑いが扇子の影から漏れた。
葵は、姫君様の傍で、いつもの通りにこにこと控えていた。
(——姫君様が、お楽しそうでよろしゅうございます)
葵の心の中で、いつもの呟きが流れた。
八 弥太郎の夜、もう一つ
話の舞台は、また土佐に戻る。
その同じ夜、弥太郎は、自分の四畳半の借家に坐っていた。
部屋には、いつもの安物の行灯が点いていた。
文机の上には、糸子の教科書の写しが、相変わらず積まれていた。
その横に新しい紙が、一枚置かれていた。
紙の上に弥太郎は、新しい数字を書きつけていた。
「上海・香港・長崎」
「情報網」
「年、銀、五百匁」
弥太郎は、その三行を、しばらく見つめていた。
見つめてからぐっと、唇を噛んだ。
(——これはまだ、姫様には送らん)
(和紙の仕組みが、軌道に乗るまでは、姫様の頭を煩わせん)
(じゃがわしは、もう和紙だけでは、止まらん)
(次は上海と、香港と、長崎の情報を、わしの目と耳の網で繋ぐ)
(それができれば、横浜の値は、わしが決められるようになる)
弥太郎は、紙を丁寧に、文机の引き出しにしまった。
しまってから、行灯の橙の焰を、しばらく見つめていた。
弥太郎の心の中で、奇妙な感覚が流れていた。
(——昼間、河原で源助殿が、目を伏せて河原の石を握っちょった時。わしは源助殿の女房の顔を、見ちゃあせんがやのに、なぜか見たような気がしたぜよ)
(首を括った見知らぬ女の顔が、わしの頭の中に浮かんだ)
(あの顔をもう一度、見んですむための仕組みを、わしは作った)
(じゃが、わしは——本当に、源助殿の女房を思うて、作ったがじゃろうか)
(それとも、ただわしが、わしの中の悔しさに、決着をつけたかっただけじゃろうか)
弥太郎は、しばらく自問していた。
答えは出なかった。
答えが出ぬまま、弥太郎は、ふっと笑った。
(どっちでもええき)
(仕組みが、誰か一人の女房を首から解いて地に足をつけて、暮らしを続けさせるんなら——わしの動機が、何やったかはもう関係ない)
(仕組みは、仕組みで勝手に、動き出すきに)
弥太郎は、行灯を、ふっと消した。
部屋が暗くなった。
暗くなった中で、外の鈴虫の声が、夜気の中を流れてきた。
梅雨入りを目前にした、晩暑の夜だった。
弥太郎は、布団も敷かずに、しばらく暗い天井を見つめていた。
見つめていた目の奥で明日、また新しい人を、訪ねて回る、その算段が、ゆっくりとぐるぐると回り始めていた。
九 善次郎の二冊の帳面
江戸からの伝令で、糸子の指示は、即日、善次郎のもとへ届いた。
神田・松屋の奥座敷で、善次郎は、姫からの直書を受け取った。
善次郎は、書状を読み終えてから、しばらく、黙って文机の前に坐っていた。
糸子からの指示書を読む時だけは、善次郎は別人になる。眼鏡の奥の目が、細く深くなる。
書状を丁寧にたたんだ。
たたんでから、奥の小部屋へ移った。
小部屋には、二つの引き出しのある、文机が置かれていた。
善次郎は、上の引き出しから、表向きの帳面を取り出した。
次に下の引き出しに鍵を差した。
下の引き出しからは、もう一冊、別の帳面が出てきた。
善次郎は、二冊の帳面を机の上に並べた。
善次郎は、まず表向きの帳面に書きつけた。
「文久元年六月 土佐産和紙 横浜市場放出 保証価格の三倍にて販売予定」
次にもう一冊の、鍵のかかる帳面に書きつけた。
「文久元年六月 土佐経路完成 弥太郎による補償仕組み成立確認 三椏和紙・一千連 今後、外貨積立に大いに寄与の見込み」
善次郎は、二冊の帳面を、しばらく見比べていた。
見比べてから、深く息を吐いた。
(三椏和紙・一千連……これだけの量の和紙を、一体どこからあの男は掻き集めた?)
(…土佐の山中から、一帖残らず吸い上げた結果か?。あの、岩崎殿がねぇ…)
善次郎の心の中で、軽い驚きと深い感慨が、入り混じっていた。
(去年の今頃…深川で酒癖の悪い姿を時折、見せる時があった…若い土佐者だったお人が——土佐の和紙経路を、自分の手で組み上げた)
(土佐藩まで巻き込んでの、大仕掛けだ。これを姫様は、どこまで想定なさってたんでしょうかね)
善次郎は、二冊の帳面を、引き出しにそれぞれしまった。
しまってから立ち上がって、奥座敷をゆっくりと歩いた。
夜の風が、障子の隙間から流れ込んできた。
風の中に、横浜の方角の潮の匂いが、わずかに混じっていた。
(——姫様。あなた様は、本当に面白いお方でございますねぇ)
善次郎は、心の中で、姫君に話しかけた。
(あなた様は人間を四方八方に飛ばして、それぞれが、それぞれの場所で活躍していく仕組みを作っていらっしゃる。そして活躍したものたちを、最後の最後で、束ねて姫様の絵に、繋ぐおつもりなんでしょうね)
(おそろしいお方でございますよ)
(けど、おそろしいから…一緒に走らせていただいて、楽しゅうございます)
善次郎は、ふっと笑った。
笑ってから夜の月を、しばらく見上げていた。
十 弥太郎の母
その夜、もう一つの場面が、土佐の山のふもとの、別の小屋で起こっていた。
弥太郎の母——美和の住む小さな家である。
粗末な板間の部屋で、行灯の橙の下に白髪混じりの女が、坐っていた。手元には繕いかけのほつれた羽織。針仕事をしながら、何かを考えているらしかった。
障子が、外から軽く叩かれた。
「おっかあ」
弥太郎の声だった。
「弥太郎やない」
「うん」
「おはいり」
弥太郎が、戸を開けて入ってきた。
母はしばらく、息子を見ていた。
見てから、ふっと笑った。
「弥太郎」
「うん」
「あんた、なんだか顔が変わったねぇ」
「変わったろうか?」
「うん、変わった。前は、世の中を恨んでばっかりの暗い顔やった。
今夜のおまんの顔は……なんちゅうがか、世の中の首根っこを、ぐっと握っちゅう顔やね」
弥太郎は、ぽりと頭を掻いた。
「おっかあ。今日、わしは商人衆と、藩の役人を説き伏せたぜよ」
「ほうかえ」
「うん」
「何の話を、説き伏せたん」
「博打を、終わらせる仕組みの話ぜよ」
「博打を、終わらせるっちゅうこと?」
「うん。船が沈んでも、家族が、首を括らんですむ仕組みじゃ」
母は、針仕事の手を止めた。
止めてしばらく、息子を見ていた。
見てから、ぽろっと涙をこぼした。
「……おっかあ」
「いや、ええが、ええが」
母は、袖で目元を拭った。
「おまんの父上が生きちょったら、この話、聞かせてあげたかったねぇ」
「……」
「父上は、生きちょる間、ずっと博打のような世の中に苦しめられたもんね。誰が悪いんでもなく、ただ運が悪かったちゅうだけで、家族みんながどん底に突き落とされた。
あの時、誰かがおまんの言うちゅう仕組みを持っちょったら……」
母は、もう一度、目を拭った。
「おまんは、おまんの父上の敵を、討つような仕事をしちゅうがやねぇ」
「敵ちゅうほど、立派な話やのうて——」
「いや、立派な話やねぇ」
母はしずかに、しかし、はっきりと言った。
「おまんは、賢うなったねぇ……」
「……」
「岩崎家の家訓を、忘れんでおくれね」
「『正直なる商売は、千の知恵に勝る』ちゅうやつぜよなー」
「ほんまに、その通りやちや」
「忘れちょらんき」
弥太郎は、母の前にぺたりと座った。
座ってしばらく、母の手元の繕い物を見ていた。
母は、また針を動かしはじめた。
弥太郎は、その針の動きをしばらく、無言で見つめていた。
部屋の中の行灯の橙が、ゆっくりと揺れた。
外で、鈴虫が鳴いていた。
弥太郎の心の中で、その夜、最後の言葉が、しずかに流れた。
(——姫様。わしは、これから、もっと走るぜよ)
(わしの毒は強い。けんど、毒は使いどころで薬にもなるがじゃ)
(わしゃあ、姫様の薬の一つになるきに)
(……あるいは毒のまま、姫様をいつか超えるかもしれん)
(その時は、その時ぜよ)
弥太郎の口の端が、ふっと上がった。
母は、それを見ていなかった。
十一 御簾の中、結び
江戸、一橋上屋敷の奥御殿
糸子はその夜、簾を半ば下ろしたまま、文机の前で、もう一通の書状を書いていた。
書状の宛先は、坂本龍馬だった。
諸藩を回りながら動いている龍馬への定期の連絡である。
糸子は、文末にこう書き加えた。
「坂本。土佐にて、岩崎殿は和紙経路の役目を成し遂げられました。海上補償と半年後の固定買取を、藩のお名で保証する仕組みでございます。
岩崎殿はすぐ商務語学所に戻らず、しばらく土佐におりましょう。近いうちに坂本の道行に絡んで参ることが、あるやもしれませぬ。成長した岩崎殿は毒にもなりうるお方。なれど、扱い方を間違えなければ——坂本の強いお味方にもなられましょう。
お会いになる折には、坂本がお会いした時のように、土佐者同士の軽口から始められては、いかがでございましょう。岩崎殿は、心の奥に深い闇をお持ちのお方。その闇をこちらが軽う扱うと、毒がこちらに向きましょう。
毒を薬として、お使いくださいませ。あなたの直感を信じておりまする。
それから坂本、中岡殿から詳しい話を、お聞き致してございます。覚えておきなさいよ。
糸子拝」
糸子は書状を、丁寧に折りたたんだ。
たたんでから、簾をもう少しだけ巻き上げた。
外の夜の楓が、月の光をわずかに撥ねていた。
糸子は、扇子をぱちりと閉じた。
「葵」
「はい、姫君様」
「岩崎殿は、わたくしの想像の半歩先を、行かれましたね」
「左様でございますか」
「ええ」
「それは——お困りでございますか、姫君様」
糸子は、しばらく考えた。
考えてから、しずかに笑った。
「いいえ」
「……」
「困らないわ」
「……」
「想像の半歩先を行く方が、出てこなければ、生きた絵には決してなりませぬ。わたくしがこの国に、描こうとしているのは、この時代に生きる人々の…生きた絵でございまする」
「はい」
「死んだ絵を何枚並べても、世の中は変わりませぬ。生きた絵は絵の中の人物が、わたくしの想像を超える時に、初めて輝きを増すのでございます」
葵は、姫君様の言葉の半分も分からなかった。
けれど、姫君様の声が、嬉しそうに響いていることは、はっきりと分かった。
葵は姫君様の傍らで、にこにことしている自分自身に気づいた。
(——姫君様がお楽しそうで、葵も楽しゅうございます)
糸子は湯呑みを、両手でもう一度持ち上げた。
持ち上げて簾の向こうの、夜の空を見た。
空には半分かけた月が、白く浮かんでいた。
糸子は、月を見ながら、心の中でひっそりと声を漏らした。
「これが、時代を…日本を切り拓いた『志士』たちかぁ…」
扇子の影ではなかった。
ただ、姫君の唇の、ほんのわずかな動きの中だけで漏らした、ささやかな独り言だった。
月は空の上で何も知らずに、ただ静かに光っていた。
文久元年、仲夏。。
梅雨入りの直前の土佐では、走り雨が河原を濡らしていた。
梅雨入りの直前の江戸では、楓の若葉が月の光に白く透けていた。
梅雨入りの直前の横浜では、異国商人たちが、明日の取引のために自分の机の上で、上海の相場を計算していた。
その全部の上に——
糸子の生きた絵が、また一筆、深く加えられた。
絵の中で岩崎弥太郎という新しい色が、まだ誰にも気づかれぬまま、しかし確かに、にじみ始めていた。
その色は——
糸子の絵のもっとも深いところに、これから長く残る色に…なるのだった。
第九十八話 了