作品タイトル不明
第九十七話「連環の計、審美」
一 風の中の不安
文久元年、薄暑。
節気でいう小満を、わずかに過ぎた頃である。
江戸の空は青く、しかし、青いだけではなかった。風の中に、湿った重さが少しずつ混じり始めていて、それが梅雨の前ぶれだった。
一橋上屋敷の奥御殿、糸子の私室——簾はすでに夏のものに替えられている。
簾越しに庭の青楓を眺めると、葉の縁が、五月の光に透けて、薄黄緑の輪郭をひいていた。床の間には白い杜若が一茎、青磁の花瓶に活けられていた。香炉の伽羅の香りが、その朝はいつもより、わずかに薄かった。
糸子は、文机の前で、書状を読んでいた。
旭狼衛の隊士が集めた情報を、纏めた近藤勇からの報告書である。
書状には、対馬のことが書かれていた。
ロシア軍艦ポサドニック号、対馬・浅茅湾、芋崎を不法に占拠中。
艦長ビリリョフ、藩に租借を強要。
四月、島民との衝突あり、死者一名(松村安五郎)。
幕府、外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で派遣。五月七日、対馬到着。同十日より、ロシア艦長との直接交渉を開始した由——。
糸子は、書状を、ゆっくりと膝の上に置いた。
しばらく、何も言わなかった。
「姫君様」
障子の向こうから、葵の控えめな声がした。
「近藤殿と、小夜がご報告にあがりたいと申しております」
「お通しなさい」
近藤勇が廊下から入ってきた。
いつもの通り、どっしりとした体躯で、しかし、今日は、その肩のあたりに、わずかに重いものを背負っている。後ろから小夜が控えめに、いつもより少し早足で続いた。
二人は、座敷に入って、糸子の前に正座した。
「姫様」
近藤が、低い声で口を開いた。
「対馬の件、江戸の街中でも、噂が広がりはじめております」
「広がり方は?」
「瓦版屋が、書きあぐねております。書けば幕閣を刺激し、書かねば商売になりませぬ。
しかし、口伝てには、すでに広く回っております。『ロシアが、対馬に居座っておる』『幕府は、何もできずにいる』——その二つが、町々で囁かれております」
「町の人々は、どう感じておりますでしょうか」
「不安…でごさいます」
近藤は短く言った。
「不安と、それから怒りでございます。『公儀は何をしている』『国を守る気があるのか』——年寄り衆ですら、声を抑えられんほどです。志士の方々は、なおのこと——」
「火が、点きそうですか」
「点きかけております。まだ、燻っている段階ですが…」
近藤の隣で、小夜が小さく頭を下げた。
「奥向き、お女中方の間にも、噂は届いております」
小夜は、いつもよりも声が低かった。
「『公儀の威光が、ぐらついているそうな』『ロシアの艦が、いつ江戸に来てもおかしくない』——そのような、根のない話まで出ております」
「不安を煽る話が?」
「はい。中には、『朝廷の使者殿は、何かご存知ではないか』と、奥仕えの女房衆から、私に直に聞いてくる方も、おられました」
糸子は、短く頷いた。
「小夜はどのように言ったの?」
「『私のような末端の侍女には、何ひとつ存じませぬ』と、お答えしておきました」
「上手ね」
糸子は、小さく笑った。
「ありがとう存じます」
小夜は、もう一度頭を下げた。
糸子は、文机の上の書状を、もう一度軽く撫でた。
「葵」
「はい、姫君様」
「お茶を、淹れていただけますか」
「はい、ただいま」
葵が立ち上がって、廊下に出た。襖を閉める音がしずかに響いた。
糸子は、近藤と小夜を、改めて見据えた。
「お二人ともお顔に、不安が滲んでおいでですね」
「……」
「正直に申し上げてくださって、結構です」
近藤が、小さく息を吐いた。
「正直に申し上げます」
「はい」
「私は剣一本で、ここまでやって参りました。しかし——剣術が上達したからと言って、対馬のロシア艦には、何ひとつ届きませぬ。海の向こうから艦が来て、土地に居座る。そこに住んでいる人々を殺す。このような戦は、某の知らぬ戦でございます」
「そうでございますか…」
「某は、姫様にお仕えしているからこそ、町の不安に巻き込まれずに済んでおります。しかし、もし私が今も多摩におったら…別の場所にいたら——江戸の街の人々のように、あの不安の渦の一人でござりましたろう」
小夜も、頷いた。
「私は何も分かりません。けど、何も分からぬから、なお怖うございます」
二 糸子の見立て
糸子はしばらく、二人の顔を交互に眺めていた。
眺めながら心の中で、ひとつの確認をしていた。
(——大枠は、史実通りに進んでいる)
糸子は、自分の中で、ひそかに頷いた。
ポサドニック号事件のあらすじを、糸子はそっくり覚えていた。占拠の開始時期、艦長の名、芋崎という地名、小栗忠順の派遣、現地交渉の難航、最終的にイギリスの介入で退去——その大筋は、糸子の記憶と、ぴたりと一致していた。
大筋が一致しているということは、これから先の展開も概ね予測できる、ということでもあった。
糸子の内心
(近藤殿や坂本たちの運命は、私と出会ったことで確実に変わった。史実とは違う形で、井伊直弼はすでに亡くなった。
わたくしの影響力は、この国の形を変わり始めるほどに大きくなりつつある。……けれど、異国が絡む大きなうねりだけは別。海の向こう側の理までは、私の手では変えられない。外の世界だけは、これからも史実通りに動いていく――そう見て間違いない)
(……そうなるとアメリカの動きも、史実通りに動いて行くわね)
糸子は、視線を、近藤に戻した。
「近藤殿。おそらくですが——」
糸子は慎重に、一語ずつ置くように言った。
「これは一つの予想の話、と聞いてくださいませ」
「はっ」
「この度の対馬の件、小栗様の現地交渉は——おそらく、難航致しまする」
「……難航、と?」
「ロシア側は、軍艦で来ておりまする。武力を背に交渉に出ている相手に、刀も持たぬ使者の言葉だけで、退いてもらうことは、ほぼ叶わぬのです。
小栗様は、ご立派なお方だと聞いておりまする。なれど…立派さでは、艦砲は引っ込みませぬ。また、ロシアからしてみれば…同じ日本人であることに、なんら変わりはありませぬ」
「……」
「結果として、幕府は、自力での解決に行き詰まりまする。そして、行き詰まった先で、ある国の手を借りることになりまする」
「ある国、と申されますと?」
「イギリスでございます」
糸子の声に、迷いはなかった。
「イギリスは、ロシアが極東に拠点を作ることを、一番嫌うはずでございまする。彼らにとって、ロシアの南下は、自分らの清国・印度の利益を脅かす最大の脅威でございます。
ですから、イギリス公使オールコック殿は、必ずこう申し出ます——『ロシアの動きを止めるために、お力をお貸ししましょう』と…」
「……」
「イギリスが軍艦を派遣して、ロシアに圧力をかける。ロシアは、イギリスと直接、事を構えることは避けたい。最終的には、ロシアが退きましょう。
半年——いえ、もう少し短いかもしれませぬ。秋の風が立つ頃には、対馬は、解放されておるはずでございます」
近藤の喉が、ごくりと鳴った。
「姫様」
「はい」
「なぜ、姫様はそのように、お詳しいのでしょうか?」
糸子は何気ない顔で、扇子をひらいた。
「近衛家には、独自の情報網がございます」
「……独自の?」
「父からも、江戸、公家衆からも、それぞれの伝手で、断片の情報が届きまする。それを、わたくしの方で繋ぎ合わせて、絵にしておりまする」
「……」
近藤はしばらく、糸子を見つめていた。
糸子は扇子の先で、文机の角をぱちりと一度、軽く叩いた。それで話の流れを、滑らかに変えてしまった。
近藤の顔の中で、小さな違和感が、すっと後ろに退いた。
(——いや、よそう。これ以上、踏み込むのは、やめたほうがよい)
近藤の…武士としての勘が、そう言っていた。
近藤勇は、人の真意を読むより、刀を振るう方が得意だった。しかし、糸子のもとに来てから、彼の中の「真意を読む力」もまた、少しずつ育っていた。そして勘が教えてくれていた——「ここから先は、お聞きしてはいけないところだ」と。
「相変わらず、姫様は、すごいお方でございますなー」
近藤は努めて、いつもの口調で軽く笑った。
糸子は扇子の影で、わずかに微笑んでいた。
(転生前に、知っていたなんて…いくら何でも言えないもんねー)
糸子はそう思った。
そしてすぐに、その思考を、心の奥にしまった。
近藤の隣で、小夜が目を伏せていた。
小夜の心の中で、ひそかな声が流れていた。
(姫君様は——時々、頭がおかしいときがある。お話の最中にへんなことをおっしゃったり、おかしな行動をとられたり。けど、こんなふうに、誰も知らないようなことを、はっきりと予想なさることもあるなんて……)
小夜は心の奥で、ほんの少しだけ震えた。
(怖すぎます——本当に)
糸子の傍らで、葵が、お茶のお盆を運んできた。
葵の心の中では、別の声が流れていた。
(——さすがでございます、姫君様! 葵には何ひとつ分かりませぬが、姫君様が「多分」と仰る時は、いつも当たっておいでですもの)
葵は、ゆっくりと糸子の前に湯呑みを置いた。湯気が、座敷の中で、まっすぐ立ちのぼった。
糸子は、湯呑みを両手で受け取った。
受け取りながら、ふと心の中で——
(——これはますます、長州攻略は、是が非でも成功させねば、ならなくなりました。幕府の威光は、これから確実に削れていくことになる。
その削れた分を、誰が拾うか?——わたくしが拾わぬなら、暴発した志士か、イギリスが拾うことになる。それは絶対にさせては駄目だ)
糸子は、湯呑みを口に運んだ。
お茶の香りが、伽羅の香りと混ざって、座敷にゆっくり、ゆっくり満ちていった。
三 横浜、銀の海風
同じ薄暑の、ある一日の横浜。
文久元年の横浜は、まだ生まれて間もない。元町の山の手から、海に向かって、外国人居留地の旗が、いくつもたなびいていた。
居留地の通りは、神田や日本橋の通りとは、まるで違う匂いがした。
潮の匂いが、まず強い。波止場が近く一日中、潮風が街を吹き抜けている。その潮風の中に、馬の匂い、煙草の匂い、油の匂い、それから嗅いだことのない油菓子のような甘い匂い——西洋人たちが「バター」と呼ぶものの匂いが、混じっていた。
石造りの建物が、ところどころに建ち始めていた。木造の建物の間に、煉瓦色や白漆喰の角張った建物が顔を出している。屋根の上に、煙突がついている。煙突から、薄く煙が立っていて、その煙が、潮風に流されて、東の方角に消えていく。
通りには青い目の男たち、緑の目の女たち、それから——日本人。日本人はどこか、肩を縮こまらせて歩いている者が多い。慣れぬ街で慣れぬ匂いと、慣れぬ言葉に囲まれて、まだ自分の歩幅を見つけかねている。
その通りの一角に、「Tencho Trading House」と書かれた看板が掛かっていた。
松屋善次郎——天朝御用商務惣会所・江戸惣会所の総差配役——の、横浜出張所である。建物そのものは、和風の二階建てだが、看板だけは、村田蔵六の手によって英字で書かれていた。
その建物の二階の一室に、渋沢栄一と渋沢平九郎が、向かい合って坐っていた。
部屋は、十畳ほど。
窓を半分、開け放ってある。窓の向こうから、潮の匂いと、波止場の喧騒——荷馬車の車輪の音、外国人船員の笑い声、何かを売り込む日本人の口上——それらがない交ぜになって、流れ込んでいた。
部屋の真ん中に、長机が一つ。
長机の上に——浮世絵が並べられていた。
数十枚。いや、よく見れば、もっと多い。畳の隅にも絵の束が、いくつか積み上げられていた。
風景画が多い。富士。海。桜。そして、何枚かは——役者絵。少し奥に、別の山があり、そちらは、品質審査で「不可」とされたものの山だった。
栄一は、その絵の山の前で、帳面を開いていた。
帳面には几帳面な字で、いくつもの数字が並んでいた。
絵師の名、絵の題、外国商人の名、売値、売れた日付——そういう、栄一が一週間で組み上げた、輸出帳簿だった。
栄一は二十二。背は高くないが、表情が豊かで、相手の目を見て話す癖がある。今は、その目を、帳面の上に落としていた。
額に汗が浮かんでいた。
しかしその汗は、暑さの汗だけではなかった。
「平九郎」
「うん、兄貴」
「数字が合わねぇな」
「合わねぇって、どこがだい」
「ここだべ」
栄一は、帳面の一行を、指で示した。
「この、広重の弟子の手ぇによる『相州七里ヶ浜』。先月、イギリスの商人に、銀一匁五分で売ったんだ。ところがな、こっちの異人さん——フランスの商人は——、おんなじような題で、おんなじ刷りの絵を、銀三匁で買ってくれてるんだいね」
「倍だんべぇ」
「倍だ。おんなじ絵で、買い手によって倍も値がちがう。こいつぁ、ただ単に『フランス人は浮世絵が好きだ』っつうだけじゃ、片付けられねぇがんな」
栄一は、唸った。
「俺ぁな、この一週間、ずっと考えてんだんべぇ」
「ほう」
「なんで、こんなに値段がバラつくんかってよ。原価で考えてみりゃ、絵師に払う銭、版元から仕入れる銭、品質審査と包装の銭、横浜まで運ぶ銭——全部ひっくるめて、せいぜい、銀一匁三分から二匁三分だん。
これが俺たちの『仕入れ』だ。普通の商売なら、売値はその一倍半か二倍——銀二匁から四匁くれぇ、ってのが相場の上限だんべぇ」
「ほうほう」
「ところがよ、その上限の『四匁』を、フランスの商人は平気で超えそうな面してんだ。 『こいつぁもっと出してもいい』っつう面だ。
逆に、イギリスの商人は『ただの飾り』としか思ってねぇ。『こんくれぇの値で十分だんべ』っつう面で、銀一匁五分しか出さねぇんだいね」
栄一は額の汗を、手の甲で拭った。
「兄ぃ、俺ぁ思うんだんべぇ。こいつぁ『絵の値』を見てんじゃねぇんだいね」
「『絵の値』じゃねぇのかい」
「ねぇんだ。フランスの商人は、絵の向こう側に何かを見てやがる。イギリスの商人は、絵そのものしか見てねぇ。メリケンの商人は、土産物としか見てねぇ。
オランダの商人は、珍しいもんとしか見てねぇんだ。おんなじ絵が、見る人の頭ん中で、まっとう違うもんに化けてるんだんべ」
「兄ぃ、そいつぁ深ぇなあ」
平九郎が、感心して呟いた。
平九郎は、十五。背は六尺近い偉丈夫で、顔立ちは整いすぎているほど整っている。武州の田舎の少年とは思えぬほどの端正な顔である。なれど頭の中身は、まだ十五の少年だった。
「で、兄ぃは、どうすりゃいいっつって、考えたんだいね」
「うん——」
栄一は、帳面の頁をめくった。
「俺ぁ、一つ、結論を出したんだんべぇ。我らの浮世絵は、これからは、フランス人を一番、狙ってぐんべ」
「フランスを、一番かい」
「ああ。イギリスは数を裁く市場、フランスは値の取れる市場——そう、棲み分けるんだいね。それで、フランス向けの絵は、銀四匁から、もっと上——『御所御用達』の朱印を活かして、五匁、六匁、七匁、っつって上限を引っ張り上げるんだん」
「……あにぃ、銀七匁っつったら、そいつぁ、ふっかけすぎじゃねぇんかい」
「ふっかけ、なんかじゃねぇがん」
栄一は、目を上げた。
「向こうが、出してもいいっつって思ってる値のところまで、こっちが値を上げねぇんだったら、こっちの儲けは、向こうの懐に勝手に入ってくだけだいね。そいつぁ、こっちが損をしてんだんべぇ」
「……兄ぃ、そいつぁ俺ぁ、考えたことなかったいね」
「考えてくれ、平九郎」
栄一は、にやりと笑った。
「おめぇにも、近いうちに、これとおんなじ判断を、自分の口でしてもらう日が、来っかもしれねぇからな」
四 糸子の使者
その時、廊下から、慌ただしい足音がした。
障子が、軽く叩かれた。
「渋沢殿。姫君様からの使者が見えました」
善次郎の番頭の声である。
「通してやってくれ」
障子が開いた。
入ってきたのは、旭狼衛の隊士、神保 勘一だった。糸子から、横浜・江戸間の連絡役を任されていた。神保が一礼して、懐から書状を取り出した。
「姫君様より、お預かり致してまいりました」
栄一は書状を、丁寧に両手で受け取った。
糸子からの直書である。
封を切って開いた。
書状には、糸子の几帳面な、しかし、どこか柔らかい線の字で、こう書かれていた。
渋沢殿、平九郎殿。
日々、異国での御苦労、察するに余りある。
栄一殿が認めた輸出帳簿、善次郎を介して具に拝見仕った。
フランス人の顔色を鋭く穿った分析、実に見事。
「値を引き上げる」との策、このわたくしも異論は露ほどもない。
しかし、ここでもう一つ、賭けをしてはみぬか。
次は絵を「品物」としてではなく、「 物語(はなし) 」として売るのだ。
フランスの宮廷が真に飢えているのは何か。
それは「東洋」という名の、底の知れぬ未知である。
新興の皇帝・ナポレオン三世が築きし宮廷は、他国が持たぬ最新の贅、そして誰も見たことのない権威を、喉から手が出るほど欲しておる。
我らの絵を、その「飢え」に放り込んでやるのだ。
ついては、平九郎殿。貴殿に頼みがある。
フランス公使ロッシュの周辺に、近々「仕掛け」を作る。その座に、貴殿を送り込みたい。
いかなる絵を選び、いかなる物語を語るか。それは貴殿の「眼」に預ける。
私から授けるのは、ただ一つの理のみ。
――「物の値打ちは、元手に決まるのではない。貴殿の言葉が、相手の欲望をどこまで釣り上げたかで決まる」
これだけを胸に刻み、かの地で存分に舞ってこられよ。
栄一は読み終えて、平九郎を見た。
平九郎は、まだ、書状の中身を、知らない。
「平九郎」
「うん、兄ぃ」
「おめぇさん――フランスの公使様のところへ、行ってこいってんだと」
「……」
平九郎は、しばらく、まったく反応しなかった。
反応しないまま、ゆっくりと、首を傾げた。
「兄ぃ。それぁ、俺の聞き間違いだんべぇか」
「聞き間違いじゃねぇよ」
「聞き間違いじゃあ、ねぇんだな?」
「ああ、ねぇ」
「俺ぁ、武州の在の倅だぜ。剣の素振りなら、一日二千、平気で振れる。けどよ、フランスなんつう言葉ぁ、俺ぁ、たぶん地図の上で正しく指せやしねぇ。それで、いきなり、そのフランスの 偉(えれ) ぇお役人んとこに、行ってこいってんだい?」
「そうだ」
「兄ぃ、それぁ、無茶だんべぇ」
「無茶じゃねぇよ」
栄一は、書状を、丁寧に折りたたんだ。
「姫様ぁ、無茶を言うようなお人じゃねぇ。おめぇさんに行かせるって仰るっつうこたぁ、姫様ぁ、おめぇが行けるって見てんだよ」
「……」
「おめぇさんは、よぉ」
栄一は、弟分の顔を、まっすぐ見た。
「気づいてねぇだんべぇけどな、平九郎。おめぇさんは、人を見る目が、うんと良いんだ。横浜のこの店に来てからよ、おめぇが、異人の商人の動きを、黙って眺めてる時があんべぇ?」
「ある、けどよぉ」
「そのあとによ、おめぇ、ぼそって言ってたんだ。『あのイギリス人は、本気で買う気がある。あのメリケン人は、値切るだけで買わねぇ』ってよ」
「……そんなこと、言っただんべぇか」
「言ったんだよ。おめぇさんは、知らねぇうちによ、人の体の動きで、本気かどうかってのを見分けてんだ」
「そりゃあ、たまたまだんべぇよ」
「たまたまじゃねぇ。お前さんは、剣の組太刀で、相手の気を読み続けてきたから、人を読む目が、おのずから、育ってんだ」
栄一は、平九郎の目を、まっすぐ見つめた。
「平九郎。俺ぁ、数字で人を見る人間だ。おめぇさんは、人で人を見る人間だ。これからはよ、二人合わせて一人前だんべ。今度のフランスの用事ぁ――おめぇさんの目が、要る仕事なんだよ」
平九郎は、しばらく、無言で、栄一を見ていた。
それから、ゆっくり、ぽりと、頭を掻いた。
「兄ぃ」
「うん」
「俺ぁ、武士になりてぇって、思ってたんだべぇ」
「分かってるよ」
「武士の仕事じゃあ、ねぇやな、こりゃあ」
「武士の仕事じゃあ、ねぇかもしれねぇなぁ」
栄一は、苦笑した。
「けどよぉ、平九郎」
「うん」
「これからの『武士』ってなぁ、刀を抜くだけじゃあ、ねぇんじゃねぇんか」
平九郎は、しばらく考えた。
それから、ふっと笑った。
「ま、姫様の言うこったしな。やってみるんべぇか」
「やってみてくれや」
「で、何をどうすりゃあ、いいんだい?」
栄一は書状の最後の一行を、平九郎の前に指で示した。
「『物の値打ちは、元手に決まるのではない。貴殿の言葉が、相手の欲望をどこまで釣り上げたかで決まる』」
平九郎はその一行を、無言で見つめた。
五 絵を選ぶ目
その日の午後、平九郎は長机の前に坐って、何百枚もの浮世絵を、一枚ずつめくっていた。
善次郎が、店の奥の蔵から、選別前の絵の束を、運び込んできていた。
束は、五つ。
風景画、役者絵、相撲絵、美人画、それから——一括りには言いがたい、雑多な作品の束。
平九郎は、その束をゆっくり、ひとつずつ開いていった。
善次郎が、平九郎の脇に、立っていた。
「平九郎。これは、お役目です。お疲れだろうとは思いますが、しっかりと——」
「善次郎殿」
「はい」
「俺ぁ、まず、何を見たらいいんだんべぇか?」
「質問の言っている意味が?、もう少し、お教えてください」
「あっ、いや——」
平九郎は、絵を、一枚、目の前に持ち上げた。
「この一枚を、俺が手に取った時にゃあ、俺ぁ、何を考えりゃあいいんだんべぇか、ってことですだい」
善次郎は、しばし考えた。
商人言葉の中に、奥行きのある観察眼を隠している男である。彼は、商人として物心がついたときから、客を見てきた。客が買うか買わないかは、客の顔の、ほんの一瞬で見抜く目を持っていた。
「平九郎」
「はい」
「絵を見ては駄目です」
「……は?」
「絵を、見ても、何も分かりません。それは、絵描きや、絵の好きな旦那衆の、お仕事です。私ども商人にできるお仕事は、絵の向こうに、その絵を、いずれ手に取る『お客様の顔』を、見ることだけです」
「……お客様の、顔?」
「左様。フランスの貴族のお顔が、この絵をいつ、どう見るか。その絵を見た時、お顔の色がさっと変わるか、変わらないか。そこを平九郎、あなたが想像しなければ。そして『お顔の色が変わる絵』を選び取ることです」
平九郎は、しばらく、ぼんやり、その言葉を、聞いていた。
それからふっと、絵に視線を戻した。
平九郎の目には、最初絵は、ただの絵だった。
しかし、善次郎の言葉のあと、絵が少しだけ、別のものに見え始めた。
絵の向こうに——青い目の貴族たちの顔が、なんとなく、ぼんやりと浮かんできたのである。
平九郎の手が、止まった。
一枚の絵の前で、止まった。
葛飾北斎の、富嶽三十六景の一枚。
「神奈川沖浪裏」。
それは、何枚もある同じ題の刷りの中の一枚だった。けれど、その一枚は——他のものと、明らかに違っていた。
波の青が深い。
他の刷りの絵に比べて青の中に、わずかに紫が混じっているような気がした。重なる波頭の白との対比が、強烈で、見ているこちらの目が、引き込まれていくようなそんな青だった。
「善次郎殿…」
「はい」
「この青は——」
「『ベロ藍』ですね」
「ベロ藍?」
「西洋の言葉でたしか…『プルシアンブルー』という色だと聞きました。ぷろいせんの青と…」
「ぷろいせん……」
「異国の青色で、薬で作る青です。日本の藍とは違う色味ですね。北斎殿はこの異国の青を、いち早く、使ったのです。
フランスやイギリスの貴族の方々は、自国の絵の中で、この青をよくよく目にしておられます。しかし、それを——日本の絵が、これほど鮮やかに使っているとは、夢にも思うていらっしゃらない」
「……」
「平九郎、その青を見て向こうの貴族のお顔が、どう動くかを想像してみてください」
平九郎は、もう一度、絵をじっと見た。
絵を見ている平九郎の顔が、わずかに変わった。
絵の中に向こうの異国の、硝子張りの館の風景が、ぼんやり…しかし確かに、浮かんできたのである。
部屋中を照らす明るすぎるランプの下。
膨らんだ裾の異様な衣を纏う。
太い煙草を吹かす男が。
この絵を、ふと手に取る。
絵の青を見る。
目を見開く。
息を呑む。
——そういう一連の動きが、なぜか?平九郎の頭の中に、絵のように見えた。
平九郎は、その絵を長机の中央に、丁寧に置いた。
置いて自分の心の中で、ゆっくり、ひとつの言葉を組み立てた。
(——俺ぁ、絵を選んでんじゃねぇんだ)
平九郎は思った。
(——向こうの貴族が、息を呑む、その 面(つら) を選んでんだ)
それから、平九郎は、絵を選び続けた。
歌川広重の遺作の、海と松の絵を一枚。
もう一枚、広重の弟子筋の手になる、桜と富士の絵を一枚。
それから、北斎の別の構図の、波と岩の絵を一枚。
それぞれの絵を、平九郎は、長机の中央に、並べた。
全部で、五枚。
「善次郎殿…」
「はい」
「これだけにすんべぇと、思います」
「一人の貴族に、お贈りするのは…これだけでよろしいのですね」
「いいんだい。たぶん、これ以上ぁ、要らねぇんじゃねぇかと思うんですだい」
「他は、どうしますか?」
平九郎は、しばらく、考えた。
ほかの絵の山を、見渡した。
考えてから——心のどこかで、ぐっと唇を噛んだ。
「(——姫様ぁ、こう仰ったんだ。『出すもんを、絞れ』と。『値打ちを、釣り上げろ』とな)
「善次郎殿」
「はい」
「ここのフランスさん向けの分。さっきの五枚より外ぁ――焚き付けにしちまってくんなせぇ」
「……平九郎」
善次郎が、わずかに、目を見開いた。
「それは、ほかの絵が、悪いというわけでは——」
「悪かねぇやな」
平九郎は、低く言った。
「悪かねぇからこそ、燃やすんだい」
「……」
「悪い絵ならよ、燃やしたって惜しくもねぇやな。良い絵を燃やせるからこそ、選ばれた五枚に命が宿るんだんべぇよ」
平九郎は、自分でも口から、そんな言葉が出たことに驚いていた。
驚きながら——同時になんとなく、納得もしていた。
(——これが、姫様ぁ仰る、『審美』っつうやつなんだんべぇか)
善次郎はしばし、平九郎の顔を見つめていた。
見つめてから、頷いた。
「分かりました」
その一言は、ただの「承知」ではなかった。
「商人として、平九郎の判断を、認める」という意味の「承知」だった。
善次郎は、選ばれた五枚を、慎重に絹布にくるんだ。
くるんでから、漆の桐箱に納めた。
桐箱の蓋には、糸子から預かった極秘の朱印——天朝物産会所の、選別済を示す印——が丁寧に押された。
そして、一番下の桐箱の隅に、控えめにもうひとつの印が押された。
それは、近衛家の家紋である。
すぐには見えない位置に。
けれども、目を凝らせば、確かに見える位置に。
その朝、善次郎が一人、奥の小部屋で二冊の帳面を開いた。
一冊は店の表の帳面。
もう一冊は、鍵のかかる引き出しの中の別の帳面。
善次郎は、選別された五枚の絵について、表の帳面に「贈答用・五枚・贈答先:フランス公使周辺」と、几帳面に書き付けた。
それから鍵のかかる引き出しを開け、中の別の帳面にこちらは小さな文字で、「外貨積立・候補案件・第七番・平九郎担当」と書き付けた。
善次郎の手から、引き継いだ二冊である。
二冊の数字の意味を、この部屋で知っているのは、善次郎と、そして…糸子だけだった。
善次郎は、深く息を吐いた。
二重の帳面の重さを、身体の奥で、しずかに噛みしめた。
六 付け焼刃のフランス語
その夜、平九郎は、商務語学所の村田蔵六のもとに走った。
神田お玉ヶ池まで、横浜から早馬を仕立てて、夜遅くに駆け込んだのである。村田は、いつも通り行灯の下で、自分で作った蘭和の辞書を整えていた。
「平九郎殿。何ぞ…ご用ですかな?」
村田の細い目が、わずかに上がった。
「先生」
「なんでしょう」
「俺ぁ――フランス人と、しゃべらなきゃあならねぇことに、なっちまっただんべ」
「……ふむ」
村田は辞書から、ゆっくりと顔を上げた。表情は微塵も動かなかった。
「平九郎殿の語学の進度では、長い会話は、無理でしょうね」
「そりゃあ、知ってるよ」
「ですから、長い会話は、要りませぬ」
「……は?」
「短い言葉を、いくつか覚えなさい。あとは目と間と姿勢で、伝えるのです」
「目と、間と、姿勢」
「左様。武士は、本来、長広舌で人を動かす者ではございませぬ。間で、人を動かすものです。その伝手を、フランス人にも使いなさい」
村田は、それから紙に、いくつかのフランス語を書き付けた。
Bonsoir ボンソワール(こんばんは)。
Je vous en prie ジュ・ヴ・ザン・プリ(どうぞ)。
Pas à vendre パ・ザ・ヴァンドル(売り物ではない)。
Non, monsieur ノン・ムッシュー(いいえ、旦那様)。
Merci beaucoup メルシ・ボクー(誠にありがとう)。
それから、最も大事な一文。
Ce n'est pas à vendre.
ス・ネ・パ・ザ・ヴァンドル。
「これは、売り物ではない」。
「これだけ、覚えなさい」
「これだけで、いいんだんべぇか?」
「これだけ、で、十分だと思います」
村田は、淡々と言った。
「平九郎殿の役は、商人の役ではありませぬ。武士の役です。武士は、安易に商売の言葉を吐かぬ。武士の沈黙が、相手の値を釣り上げる。フランス語を多く話すほど、商人に成り下がる。気をつけられよ」
「……はい」
「あとは、お辞儀。これは、日本式の深いお辞儀を、そのままでよろしい。フランス人も、最近、日本式のお辞儀の意味を、理解しはじめておる。深く下げれば、敬意を示し、軽く下げれば、対等を示す。それを使い分けなさい」
「対等を、示す——」
「相手が公使本人ならば、深く。随員程度の方々ならば、軽く。決して、随員に深く下げてはなりませぬ。下げれば、こちらの主が、軽く扱われる。我らの背後には、御所が控えておるのですからな」
村田の細い目が、ふと平九郎を深く見た。
「平九郎殿」
「はい」
「平九郎殿は、若い…」
「はい」
「若さは武器である。なれど、若さに溺れるな。今宵、姫様から預かった役を、軽う見るな。平九郎殿が動かす絵の一枚は——後の世の、フランスの宮廷の、一画を揺らすかもしれぬ」
「……」
「他人事のように聞こえるやも知れぬが、これは本気で言っています」
七 夜会、桐箱の隅
数日後、横浜・山手の異人館の一室で、ささやかな夜会が開かれていた。
この時期、フランスの代表は、まだ「公使」というよりは、「総領事」格の任にあった人物である。
後年、レオン・ロッシュが派遣されるが、その先代の周辺の随員たちが、現地に滞在していた。糸子は、その「先代周辺の随員」たちに、糸子側の人脈を通じて、ささやかな夜の招きを取り付けた。表向きは、「日本の若い役人見習いに、フランスの文化を見せる」という名目だった。
異人館の客間は、日本家屋とは、まるで違っていた。
床は、板敷きを白漆喰で塗り固めたもの。
壁には、油絵の額が、いくつもかかっていた。
部屋の中央に、大きなテーブル。テーブルの上で、銀の燭台が、二つ燃えていた。蝋燭の橙の光が、銀の表面で、ちらちらと反射している。
部屋の奥に、暖炉。
暖炉の前で、洋装の男たちが、葉巻を片手に、立ち話をしていた。
平九郎は、その部屋の片隅に坐っていた。
日本式の正座ではなく、椅子に腰掛けていた。腰を折る角度が、やや浅かった。村田の言いつけ通り、「随員程度には、軽く下げる」を、忠実に守っていた。
平九郎の脇に、桐箱がひとつ、置かれていた。
絹の布に包まれている。蓋の角が、ほんのわずか覗いている。
フランスの随員の一人——三十代の、髭の長い男——が平九郎の前に、椅子をひいて坐った。
通詞——日仏の言葉を繋ぐ役——が間に入った。
"Êtes-vous un jeune apprenti fonctionnaire japonais ?"
「あなたは、日本の若い、お役人見習いですか」
通詞が訳した。
平九郎は、軽く、お辞儀をした。
「はい。渋沢平九郎と申します」
「渋沢——」
随員は、その名を舌の上で、二度転がした。
"Monsieur Shibusawa. Qu'est-ce que c'est que cette boîte... que vous avez là ?"
「渋沢殿。あなたが、お持ちの——その箱は何ですかな」
随員の目が、平九郎の脇の桐箱に、すっと流れた。
平九郎は、その視線を感じた。
感じてから——わざと桐箱を、自分の体の方に、ほんのわずか引き寄せた。
随員の目が、その動きを追った。
「これは——」
平九郎は、ゆっくり言った。
「Ce n'est pas à vendre.(ス・ネ・パ・ザ・ヴァンドル)」
通詞が瞬きをした。
「『売り物ではない』、と申しております」
「Pardon?」
(もう一度言ってください)
随員の眉が、少し動いた。
「Ce n'est pas à vendre.(ス・ネ・パ・ザ・ヴァンドル)」
平九郎は、桐箱の絹布の端を、ほんの少しだけずらした。
ずらしたところから——朱色の極秘印と、その横の近衛家の家紋の隅が、ちらりと見えた。
随員の目が、一瞬で、そこに釘付けになった。
"Et... qu'est-ce que cela représente ?"
「……それは、何の印で?」
「これは——」
平九郎は、わずかに、声を低くし言った。
「我が国の御所の、ある御方より、貴国のお皇帝陛下への、ご友情の証として内密にお運びしたものでございます」
"C'est un gage d'amitié, apporté en secret de la part d'une certaine personne du Palais Impérial de mon pays, pour Sa Majesté l'Empereur de votre nation."
通詞が訳した。
随員の表情が、見る間に変わった。
平九郎は、それを見ていた。
随員の頬が、わずかに紅潮した。瞳孔が、わずかに開いた。葉巻を持つ手の動きが、止まった。
(——あ)
平九郎は、心の中で呟いた。
(——兄貴が言ってた『本気で買う気』の面だんべ)
平九郎は、そこで、慌てなかった。
慌てずに桐箱の絹布を、もう一度、丁寧に戻した。
桐箱の中身を、見せなかった。
随員が、わずかに、身を乗り出した。
"Monsieur Shibusawa..."
「ムッシュー渋沢」
「はい」
"Serait-il... possible d'en voir le contenu ?"
「その——中身を、拝見することは可能で?」
平九郎は、しばらく、間を取った。
たっぷり、五呼吸ほど間を取った。
その間平九郎は、ただ、随員の目を見ていた。
「Non, monsieur(ノン、ムッシュー)」
平九郎は、静かに言った。
通詞が、息を呑んだ。
"Il vous répond que ce n'est pas possible."
「『いいえ』、と申されておりまする」
「……Pourquoi——なぜ?」
「Sa valeur n'est pas comprise par tout le monde.(ス・ヴァルール・ネ・パ・コンプリ・パ・トゥ・ル・モンド)」
平九郎は、村田から仕込まれた一文を、慎重に口にした。文法は、村田が組み上げた付け焼刃のもので、おそらく不格好ではあった。けれども、意味は伝わった。
通詞が訳した。
「『この価値が、お分かりにならぬお方には——お見せするわけには、まいりませぬ』」
随員が、息を止めた。
止めてしばらく、平九郎の目を見つめた。
平九郎の目は——揺らがなかった。
揺らがなかったのは平九郎が、すでに、武士の目を持っていたからだった。十五の少年の身体に、しかし、剣の組太刀で鍛え上げた、相手の気を、まっすぐに受け止める目が宿っていた。
随員はゆっくり、葉巻を灰皿の縁に置いた。
"Monsieur Shibusawa..."
「ムッシュー渋沢」
「はい」
"Vous êtes bien jeune."
「あなたはお若いですね」
「はい」
"Malgré votre jeunesse... votre maître semble être un homme fort intéressant."
「若いのに——あなたの主は、面白いお方のようだ」
「はい、……ありがたきお言葉」
随員は、椅子を立った。
"Je le dirai au Ministre."
「公使に、伝えます」
「公使に?」
"Oui. Monsieur le Ministre entretient, ces derniers temps, une correspondance régulière avec Son Excellence le Duc de Morny, cousin de Sa Majesté l'Empereur. Le Duc de Morny est..."
「はい。公使は、近頃、皇帝陛下の従兄弟であらせられる、モルニー公爵殿との、定期的な書簡のやり取りがありまする。モルニー公爵殿は——」
随員は、目を細めた。
"C'est un homme qui aime, par-dessus tout, « le nouveau luxe encore inconnu des autres cours d'Europe »."
「『他のヨーロッパの宮廷が、まだ知らぬ、新しい贅沢』を、何より好まれるお方でございます」
通詞がその言葉を訳しながら、平九郎の顔をちらりと見た。
平九郎は、表情を変えなかった。
心の中で、しかし——
(——きやがった!)
と呟いていた。
八 価値が転換する瞬間
数日後の、午後である。
フランスの総領事(便宜上、ロッシュ公使と呼ぶことにしよう…)が、平九郎を、自分の館に呼んだ。
ロッシュは、四十代半ばの、中肉中背の男だった。背丈はそれほど高くないが、目が鋭く、口の端に、知性と、わずかな野心が滲む人物だった。
彼は、応接室の大きな机の上に、桐箱を置かせていた。
平九郎が運んだ、あの桐箱である。
桐箱の中身は——ロッシュの判断で、すでに開かれていた。
絹布をロッシュ自身の手で、外したらしかった。
彼の前で、五枚の浮世絵が並べられていた。
北斎の「神奈川沖浪裏」が、中央に。
その左右に広重の遺作と、その他の絵が四枚。
ロッシュはその絵を、しばらく、見つめていた。
見つめてから、平九郎を呼び寄せた。
"Monsieur Shibusawa..."
「ムッシュー渋沢」
ロッシュの声は、少し震えていた。
"Je vous en prie, asseyez-vous."
「どうぞお座りください」
通詞が訳した。
平九郎は椅子に、軽く腰を下ろした。背筋をまっすぐ、保っていた。
"Je suis ..."
「私は——」
ロッシュは、机の上の絵を、指先で、わずかに撫でた。
"J'ai longtemps contemplé les peintures des cours d'Europe."
「私は、長く、ヨーロッパの宮廷の絵を、見てきました」
「……」
"Nous, peintres d'Europe, avons longtemps tiré le bleu d'une pierre précieuse : le lapis-lazuli. C'était une matière fort rare et d'un prix excessif. Mais depuis peu, nous avons acquis un nouveau bleu issu de la chimie, le bleu de Prusse. Cela a apporté une véritable révolution dans notre monde de la peinture."
「我らヨーロッパの絵描きは、青を長い間、貴重な石——ラピスラズリ——から取っていた。それは、たいへんに、貴重で値が張る。近年、私たちは新しい、化学から作る青——プルシアンブルー——を手にしました。これが我らの絵の世界に、革命をもたらしました」
「……」
"J'ai vu ce bleu-là dans des centaines de peintures de mon pays. Cependant..."
「私は、その青を自国の絵で、何百枚と、見てまいりました。なれど」
ロッシュの声が、わずかに上ずった。
"Mais... comment se fait-il que ces peintures d'Orient se soient ainsi approprié notre bleu, avec une telle profondeur et une telle maîtrise ?"
「この、東洋の絵が——なぜ、我らの青を、ここまで、深く、自分のものとして、使いこなしているのか」
ロッシュは、北斎の波頭の青を、指でそっと撫でた。
"Je suis pris de tremblements... C'est..."
「私は、震えております。これは——」
彼は、ゆっくりと、平九郎を見た。
"C'est un bleu qu'aucune cour d'Europe n'a jamais contemplé."
「これは、ヨーロッパの、どの宮廷も見たことのない、青だ」
平九郎は、無言で頷いた。
頷くだけだった。
言葉は、村田の言いつけを守って出さなかった。
"Monsieur Shibusawa..."
「ムッシュー渋沢」
「はい」
"Franchement... je voudrais vous poser une question."
「率直に——お尋ねしたい」
「どうぞ」
ロッシュは、震える声で、しかし、商人としての顔も覗かせて訊いた。
"À cette œuvre... à cet art si merveilleux... quel prix les Japonais lui donnent-ils ?"
「この、素晴らしい——芸術に。日本人は、いくらの値を、付けるのだ?」
通詞が訳した。
平九郎の心の中で、栄一の声が響いた。
(物の値打ちなんつうなぁ、原価が決めるんじゃあねぇ。おめぇさんの言葉がよ、相手の欲望をどこまで釣り上げたかで決まるんだんべ)
平九郎の心の中で、糸子の声も響いた。
(これは商品ではなく、物語としてお売りなさい)
平九郎は、ゆっくり椅子の中で、姿勢を整えた。
整えてから——わずかに、口の端を、上げた。
不敵に笑った。
武州の田舎の少年の、十五の顔ではなかった。
その瞬間、平九郎は——「日本の若い役人見習い」を超えていた。
「公使閣下」
「はい」
「値など、ございませぬ」
"Monsieur le Ministre."
"Cela... n'a point de prix."
通詞が訳した。
ロッシュの目が見開かれた。
「これは——」
平九郎は、ゆっくり続けた。
「『文明』そのものでございます」
「……Civilization、と」
「左様」
平九郎は、机の上の絵を、指で軽く示した。
「これと、引き換えに、お願い申し上げたきことが、ひとつございまする」
「……」
「我が国は、これから自らの言葉を、自らの手で印刷する技術が、必要でございます。文字を活字に組み、紙に何百枚と同じ言葉を刷る技術。フランス国の、最新の活版印刷機を、我らの『天朝物産会所』にご融通いただきたく」
ロッシュの口元が、ゆっくりと緩んだ。
"Apportez-nous... des presses à imprimer."
「印刷機を、と」
「はい」
"En échange... des peintures de l'Empereur d'Orient."
「東洋の帝の——絵と引き換えに」
「左様」
ロッシュは、しばらく無言だった。
無言のまま、平九郎の顔を見つめていた。
それか、ふっと、肩の力を抜いた。
力を抜いてから笑った。
笑い声は低く、しかし、楽しげな響きを持っていた。
"Monsieur Shibusawa."
「ムッシュー渋沢」
「はい」
"Votre maître est, en vérité, un homme fort singulier."
「あなたの主は、本当に、面白いお方だ」
「かたじけなく存じます」
"C'est une affaire qui n'est point mauvaise pour notre pays non plus."
「我が国にとっても、悪くない取引でございます」
ロッシュは、机の上の絵を、もう一度撫でた。
"Monsieur le Duc de Morny, cousin de Sa Majesté l'Empereur, en frissonnera sans aucun doute."
「皇帝陛下の従兄弟、モルニー公爵殿は間違いなく、これに——震えるでしょう」
平九郎は、深くお辞儀をした。
今度のお辞儀は、村田の言いつけ通り「公使本人」に対する、深いお辞儀だった。
深く下げた頭の中で、平九郎の心は、まだ震えていた。
(——俺ぁ、今、何をやりやがったんだんべ)
平九郎は、自分の心に訊いた。
(――俺ぁ、紙の束をよ、たった五枚、向こうに渡しただけだ。だのに、向こうさんぁ、見たこともねぇ最新の機械を、こっちにくれるっつってるんだんべ)
(紙っ切れがよ、機械に化けちまった)
(――こいつが、姫様の仰ってたことなんだな)
平九郎は頭を、深く下げ続けた。
下げ続けた頭の下で、目だけが、わずかに震えていた。
九 帰り船
数日後、平九郎は、横浜から江戸に戻る船の上にいた。
夕刻である。
夕日が、海面の波の上に、橙色の光を、無数に散らしていた。
船上で、平九郎は、栄一と、二人で肩を並べていた。
二人とも、潮風に顔を撫でられながら、しばらく、何も言わなかった。
「兄貴ぃ」
平九郎が、ぽつりと言った。
「うん」
「俺の手ぇ――震えてるんだんべ」
平九郎は、自分の右手を、目の前にかざした。
よく見ると確かに、わずかに震えていた。
「いつから震えてんだい?」
「公使様の前からよ、ずうっと震えてんだ。だんけど、向こうにいるうちはよ、何だか震えてねぇような面をしちまったんだい。船に乗ってからぁ、もう止まらねぇんだよ」
「……平九郎」
「兄ぃ…」
「おめぇさん、立派だっただんべぇ」
「ほうかねぇ」
「俺ぁ、まだ、向こうの言葉っつうもんを、聞いただけでしかないけどな。おめぇさん、何か、向こうのお 偉(えれ) ぇさんを、ぐっと揺すぶったんだんべ?」
「……かもしれねぇやな」
平九郎は、震える手を見つめながら、ゆっくり言った。
「俺ぁ、今日、ただの紙っ切れの束でよ、フランスの最新の機械を分捕ってきたみてぇだんべ」
栄一が、しばらく絶句した。
絶句してから、ぱっと平九郎の肩を叩いた。
「平九郎、おめぇ——」
「兄ぃ」
「うん」
「これが――『商売』っつうもんなんだんべぇか」
栄一は、しばらく答えなかった。
答えずに、夕日を見ていた。
見てから、ゆっくり口を開いた。
「……それが、たぶん、姫様ぁ仰る『商売』っつうもんだんべ」
「……」
「俺たちがよ、藍玉を近所の藍農家から仕入れて、紺屋に売る――あれも商売だ。だんけどよ、姫様の商売ぁ、別もんだ。同じ言葉っつったって、まるで別もんなんだよ」
「兄ぃ」
「うん」
「「俺ぁ、武士になりてぇって、思ってたんだべぇ」
「分かってるよ」
「だんけどよ、今日のこたぁ、剣じゃあ到底できねぇ仕事だったよ」
「うん」
「武士の刀じゃあ、フランスの機械は分捕れねぇやな。俺ぁ紙の束でよ、そいつを分捕ってきたんだ」
平九郎は、夕日に目を細めた。
「こいつぁ、こいつで――なんだか、おかしな感じだけんどよ、悪かねぇ仕事だったんべと思うんだい」
栄一は、笑った。
「平九郎」
「うん」
「おめぇは、これから、変わるだんべぇよ」
「変わる、かい?」
「変わる。だんけど、平九郎は平九郎のまんまだ。おめぇさんの、その真っ直ぐなところぁ、これから先もよ、絶対ぇ捨てんじゃねぇぞ」
「……うん」
平九郎は、深く頷いた。
頷きながら、ふと心の中で——
(——俺ぁ、姫様に、お会いしてぇだんべ)
と思った。
(——姫様ぁ、たぶん……お屋敷で、お笑いになってるだんべなぁ)
十 御簾の中の笑い
その同じ夕刻、江戸、一橋上屋敷の奥御殿で、糸子は横浜からの早馬で届いた、善次郎からの書状を開いていた。
書状には、平九郎の交渉の経緯が、簡潔に、しかし、細部まで記されていた。
糸子は、書状を読み終わって、しばらく無言だった。
無言で扇子を、ぱちりと閉じた。
ぱちりと、もう一度、開いた。
ぱちり、ぱちりと、扇子が鳴る音が、座敷の畳の上を、ゆっくり流れた。
「葵」
「はい、姫君様」
「平九郎殿は——よくやってくれたようでございます」
「……」
「平九郎殿の中に、このような力が眠っていたとは。渋沢殿のおっしゃる通り、あの方は、人を見る目が、とてもおありのようでございます」
「左様でございますか」
「ええ。あの方は、これから、わたくしの大切な、もう一人のとても大切な協力者になりましょう」
糸子は、書状を丁寧に、文机の上に置いた。
御簾の向こうの空が、ゆっくりと、夕焼けに染まっていた。
簾の隙間から、夏の風が流れ込んだ。
風の中に、潮の匂いはない。江戸、空気である。なれど、なぜか糸子の頬には、横浜の潮風が吹いているような、錯覚があった。
糸子は、ふっと扇子で、口元を隠した。
扇子の影で唇の端が、ゆっくり上がった。
「……ふふふふふふふふ」
ごく小さな、しかし、確かな笑いが、扇子の影から漏れた。
葵は、その笑いを聞いて——いつも通りにこにこと、姫君様の傍に控えていた。
御簾の向こうの夕日は、ゆっくり、江戸、山並みの向こうに沈んでいった。
糸子の心の中で、いくつかの絵が流れていた。
平九郎が、桐箱の絹布を、ほんの少しだけずらしたその瞬間。
ロッシュの目が震えた、その瞬間。
そして、いずれ、パリの宮廷のどこかの広間で、北斎の波の青を初めて手に取った貴婦人が、息を呑む——その未来の瞬間。
二十年後、ジャポニスムが、欧州を席巻する時。
その「最初の、たった一枚」を、誰が誰の手で運んだのか。
その記録が、善次郎と善次郎の二冊の帳面の中に、しずかに、しかし、確かに残されていた。
糸子は、扇子を閉じた。
文久元年、薄暑。
対馬では、ロシアの艦が、まだ居座っていた。
幕府は、揺らぎ始めていた。
江戸と江戸、街では、不安と怒りが、燻り始めていた。
その間に——
糸子の手の中で、また一本、新しい線が伸びていた。
会津に、油の線。
フランスに、青の線。
長州に、火の線。
薩摩に、利の線。
越前に、理念の線。
線はまだ、すべて細い。
なれど、線は確かに引かれていた。
御簾の中で糸子は、もう一度、扇子で口元を隠した。
「…ふふふ腐腐腐腐腐腐腐腐腐」
葵はにこにこと、姫君様を見ていた。
夏の夕暮れの風が、簾をもう一度揺らした。
一橋上屋敷の奥御殿に、しずかな夜が降りはじめていた。
第九十七話 了