軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九十六話「連環の計、血脈」

文久元年、初夏。

江戸に立夏の風が吹いた。

一橋上屋敷の奥御殿。中庭に張り出した縁側の障子は、夏に向けてすでに半ば外され、簾に替えられている。簾の隙間からは、青々とした楓の若葉と、池の水面で跳ねる鯉の背中が、ちらちらと見えていた。

部屋の中は、暑いというほどではない。江戸の夏の入り口は、まだ朝夕に冷たさが残る。しかし、畳の縁に手をつくと、ほんのり湿った熱を感じる——そういう、季節の境目の温度だった。

糸子は、その奥座敷の上座に坐っていた。

いつもの白の小袖に、薄萌黄の打掛。御簾はあるが、半分巻き上げられている。今日の客人は、御簾越しでは話せぬ相手だからだった。

文机の上に扇子と湯呑みと、それから墨と筆と——そして、まだ広げられていない、大きな風呂敷包みが一つ。

風呂敷の結び目は、江戸の高級店のものではなく、土佐風のごつごつとした結び方をしていた。

障子の向こうから、葵の声がした。

「姫君様。中岡様、ご到着でございます」

「お通しなさい」

簾と簾の隙間から、二人の男の影が、廊下を歩いてくるのが見えた。

一人は、長身で、骨のがっしりとした男。日に焼けて、頬骨が少し尖っている。腰には、二刀。

もう一人は、それよりさらに大柄で、太刀を背負った力士のような男だった。

二人が縁側で正座した。

「中岡慎太郎、たった今戻りましたき」

土佐の言葉が、低く部屋に響いた。

「姫様、ご無事のようで、何よりでございます」

その後ろで、もう一人が頭を下げた。

「旭狼衛、榛名宗介、ただいま戻りましてございます」

声が低い。腹の底から響くような、重たい声だった。

「お二人とも、お入りなさい」

糸子が短く言った。

二人が膝を進めて、奥座敷に入った。

榛名宗介は、座敷に入ると、そのまま部屋の隅に下がって、太刀を脇に置いた。中岡の動きを邪魔しない位置である。

糸子は榛名にちらりと目をやり、頷いた。

「榛名殿。長旅、ご苦労様でした」

「ははっ」

榛名は、それだけ短く返した。豪快な性格の男だが、糸子の前では言葉数が少ない。

「中岡殿が無事に戻ってこられたのは、榛名殿のおかげですね」

「いえ——」

榛名はわずかに頭を掻いた。

「中岡様こそ、強うございました。山道を歩く脚も、人と話す腰も。我ら旭狼衛は、ただ後ろでぼうっと突っ立っていただけでして」

「謙遜は要らんちや、榛名殿」

中岡が苦笑して振り返った。

「会津の山中で野盗に絡まれた時、お前さんが太刀を一振りしただけで、奴ら全員が逃げて行ったがを忘れたかえ。あれ、わしひとりじゃったら、地図ごと身ぐるみ剥がされちょったきに」

「あれは……たまたま太刀の柄が見えただけで」

「太刀の柄が見えただけで野盗が逃げる、ちゅうのが、お前さんの腕の証ぜよ」

榛名は、本当に困った顔をした。糸子が口元を、少しだけ緩めた。

糸子が、扇子を膝の前で軽くひらいた。

「中岡殿」

「はい」

「お約束は、三ヶ月でしたね」

「……」

中岡の喉仏が、わずかに動いた。

「申し訳ござりませぬ。三ヶ月で帰る、と申し上げて出立しましたが——結局、二ヶ月以上、遅れてしもうた」

中岡は、畳に手をついた。

「言い訳は致しませぬ。じゃが、ひとつだけ、お聞きいただけますか」

「何でございましょう」

「東国の探索より、中岡慎太郎、たった今戻り申した。津まで足を伸ばし、そこから西国へ回った折、薩摩の入りで土地の者に話を聞き直さねばならぬことが起こり申した。

当初、わしの調べは『誰が何を考えちゅうか』を聞き集めるつもりじゃったが、途中から、『誰と誰が、どう繋がっちゅうか』という線を引かにゃあいかんことに、気づきましたきに。」

「……繋がりの線、でございますか」

「はい。人ひとりの考えだけ書き取っても、地図にはなり申さん。あれとこれが繋がっちゅう、ちゅう線が見えて、初めて地図になるがです。

それで、最初に巡った藩を、もう一度戻って聞き直さねばならんようになり申した。……この『線』こそが、これからの天下を動かす道筋になると睨んでおりますき」

中岡は深く頭を下げた。

「……勝手な振る舞いにて期限を破った詫び、改めて――伏して申し上げまする。」

糸子は、扇子を、ぱちりと閉じた。

「中岡殿」

「はい」

「お顔をお上げください」

中岡が顔を上げた。

糸子の視線が、まっすぐに、中岡を捕らえていた。

「お詫びは要りませぬ」

「……は」

「期限を破ったことは、確かに、惜しゅうございました。

なれど、二ヶ月余分にかけてでも、繋がりの線を引いて帰ってきてくださったのなら——わたくしは、そちらをはるかにありがたく思いまする」

「姫様……」

「人は、点では動きませぬ。線で動きまする。そして、線が織りなす面で、初めて、世の中になりまする。それを最初の一回で見抜けたのは、中岡殿ご自身のお力でございます」

中岡は、もう一度頭を下げた。今度は、詫びる頭ではなかった。

礼を尽くす頭だった。

「もったいなき、お言葉でございます」

糸子は、視線を、中岡の後ろの風呂敷包みに移した。

「では——拝見してもよろしいでしょうか?」

「とうぞ」

中岡は風呂敷の結び目を解いた。

中から、和紙の束が、ぞろりと現れた。大判の、ぶ厚い、八枚組。

糊で繋いだ折り畳み式である。一目で、ただの書状ではないと分かるものだった。

中岡は、それを丁寧に、座敷の中央に運んだ。

畳の上に、一枚、二枚、三枚——と、広げていく。

最後の八枚目を広げ終わった時、座敷の畳の半分以上が、和紙で埋まっていた。

糸子は一瞬、息を呑んだ。

それは地図、というよりは、絵だった。

日本の輪郭が、丁寧に墨で描かれている。輪郭の内側に、無数の点。赤、黄、黒の三色で塗り分けられている。

点と点の間には、細い線が引かれていて、その線が、誰と誰を繋いでいるのかを示している。線は、太いものと細いものがあった。

さらに、点のいくつかには、小さな札が貼られていて、藩の名と人物の名が、几帳面な字で記されていた。

「区域ごとに、分けてございます」

中岡が、左から右へ、地図を指で示した。

「東国、東海、西国その一、西国その二、中央——五枚に分けて、それぞれの区域の人物地図。

残りの三枚は、索引、人物詳細表、それから——関係線図でございます」

糸子は、立ち上がった。御簾を完全に巻き上げて、地図の脇に膝をつき、しゃがみこんで、地図を間近で見た。

葵が後ろで「姫君様……」と恐縮したが、糸子はそれに答えなかった。

地図の上に、視線を、ゆっくりと走らせた。

「朱が使える者、黄が様子見、黒が注意の要る者でございます」

中岡が静かに説明した。

糸子は、しばらく無言で、地図を見つめていた。

左手の指の先で、近畿の辺り——江戸と大坂——の赤い点を、そっと撫でた。

それから、視線を北へ動かして、東国の会津のあたりに止まった。

会津のところに、太い、明らかに他より大きな黒い点が、一つ。

その横に、小さな札がある。

札には——「松平容保側近・西郷頼母 ×」と書かれていた。

糸子は、しばらく、その黒い点を見つめていた。

それから、ふっと、息を漏らした。

「……中岡殿」

「はい」

「この地図——美しいですね」

中岡が、少し驚いた顔をした。

「美しい、でございますか」

「日本の血脈が、見えます」

中岡は、しばらく黙っていた。

「……そうやって見たことは、これっぽっちもなかったですきに」

声が、わずかに掠れた。

「わしは、これを『調査の仕事』じゃと思うて、出立しましたぜよ。

しかし、全国を歩いて、戻って、もう一度歩き直して――気づいたら、これは単なる調べじゃのうて、この国の全てを初めて見る作業じゃったがです。

姫様が、この地図を持って、この国をどこへ連れていくつもりか――わしには、まだその全ては見え申さん。」

中岡は、姿勢を正した。

「……じゃが、わしは、この仕事を続けたい。腹の底から、そう思うちょります」

糸子は、地図から目を離さぬまま言った。

「お頼み申しまする」

短い、しかし、揺るぎない声だった。

糸子は、地図を一枚一枚、丁寧に読んでいった。

中岡が、横に座って、補足の説明を加える。

「東国は、特に難しゅうございました」

中岡が、東国の地図を指でなぞった。

「……ここ、水戸は攘夷の出所じゃが、少々過激がすぎますきに。藤田東湖の遺志を継ぐ若手が何人もおりますが、今のあやつらは、血の匂いが強すぎる。

これでは、姫様の『計画①・無血』とは、どうしても相容れ申さん。今は『黄印』にしておりますが、龍馬の手で接触させるんは、ちっくと保留にすべきと考えます。あいつを出すには、まだ時期が早うございますき。」

「同感です」

「会津は、もはや赤になる見込みがあり申せん」

中岡の声が、低くなった。

「松平容保公――会津藩主は、恐ろしく頭のええお方じゃ。お側におる西郷頼母という男は、それに輪をかけて義理堅い。

あの藩は徳川家への忠義が、もう骨の髄まで染み込んじゅうがです。

真正面から道理を説いても、彼らは潔う腹を切るだけで、こちらの軍門に下ることなど、金頭にござりませぬ」

「……」

「米沢は、上杉家の実務担当が中立。……藩の財政が苦しいゆえに、動こうにも動けん。

庄内・弘前・盛岡も、似たような状況にございます。

東国は総じて、徳川への義理か、あるいは日々の糊口を凌ぐに精一杯で、天下をどうこうという気概は、まだ眠ったままじゃ。

……あちらをいくら歩いても、この国を根こそぎ変えるような『熱』は、どこにも見当たりませんでしたきに」

「東海は、いかがでごさいましたか?」

「尾張は、藩主・徳川慶勝公の側近に、見込みのある方々が数名おります。

御三家の中で、一番、大政奉還の後の絵が描ける藩でございますきに。

一橋慶喜公との連携次第では、必ずや動きますろう。ここは勝海舟様の工作対象として、一番の『有望株』と見ております。

……勝先生のあの口八丁なら、尾張の腹を括らせることもできましょう」

中岡は、地図の越前のあたりを指した。

「越前は、別格でございます」

「中根雪江殿、ですね」

「ご存知でいらっしゃいましたか」

「父からの書状で、お名前だけは」

「……中根殿は、四十五。松平春嶽公の補佐をしておられ、横井小楠殿の影響を強う受けちょられる。 驚いたことに、あの御仁は『公議政体』という言葉を、すでにご自分の口で使うちょられるがです。 ……あの方は、ただの家臣ではございません。天下の形が、幕府という器では収まりきらんことを、腹の底で分かっちょられる。越前の『脳髄』は、あの中根殿にございますき。」

中岡の声に、わずかに熱がこもった。

「……越前は、わしが回った中で、姫様の『計画①』の理念に、最も近い藩でござりました。

あそこなら、龍馬のあの型破りな考えも、真っ向から受け止める器がございます。

坂本龍馬を、あの中根殿や春嶽公へ、直接、接触させるべきと推奨いたしまする。

……あいつを越前の風に当てれば、この国の地図は、一気に書き換わりますろう。」

「赤、ですね」

「はい、迷わず赤」

糸子は、頷いて、西国の地図に目を移した。

「長州は――もうお分かりかと存じますが、桂小五郎殿が、要でございます。

あのお方は、荒ぶる長州の志士たちを、その身ひとつで束ねる、静かなる『芯』にございます。 桂殿がおればこそ、長州は崩れ申さん。

……じゃが、あの方はあまりに慎重で、かつ『長州』という藩を背負いすぎちょられる。そこをどう解きほぐすかが、わが計画の成否を分けることになりましょう。」

「桂殿でございますか…」

「二十八歳。松陰先生の弟子じゃが、伊藤や山県とは、まったく違う考え方をされちょる。

実利と理念の、ちょうど真ん中で、釣り合いが取れちょる男じゃきに」

「攘夷の方法に、疑問を持っていると…?」

「左様。『異国を斬れば日本が守れる』とは、思うちょらん。その意味で、計画①と、最も親和性が高いと思うちょります」

「接触はどのようにお考えで?」

「松陰先生が一番早うございます。じゃが、姫様の存在を最初から見せるのは早すぎる。

久坂が長州へ帰った後、桂さんに会って、姫様の話を…と、においだけ嗅がせる——そういう手順がよろしかろうと思うちょります」

「同感でございます」

糸子は、唇のすみで、ほんの少しだけ笑った。

中岡は、地図の薩摩のあたりを指した。

「薩摩は、難しゅうございます」

「大久保利通様、でございますろうか」

「すでにお見抜きで」

中岡は、少し苦い顔をした。

「あの男は、頭の回転が速うて、目だけが計算しちゅう。話しちょっても、笑うちょっても、目だけは別の生き物のように、勘定をしちょる。近衛様の絵図に乗るかどうか、最後の最後まで、判断を保留する性質じゃ。最初に、わしは『×』にしようとしたぜよ」

「『×』ではなく、『×→▲』にされましたね」

「はい。理由は――あの男は、利が合えば必ず動く。逆に言やあ、利が合わんうちに動かそうとすれば、こっちが切られる。龍馬に薩摩を任せる際、まずは大久保に『利』を、はっきり見せにゃあならん」

「西郷殿は?」

「奄美におられます」

中岡の声が、わずかに沈んだ。

「西郷吉之助(のちの隆盛)殿は、今、奄美大島に流されちょります。三十四。本人の義侠心は、計画①と合う部分がある。

じゃが、流されちゅう間は動けん。我らが動かそうとしたところで、動けんがぜよ。今はただ、その時を待つしかあるまい」

「いつ、解かれますか」

「「読みでは、来年――文久二年の春には解かれましょう。それまでは動かさん。地図には『流刑解除後に再評価』と、注記を入れておきます」

「お願いいたします」

中岡は、続けた。

「薩摩で今、最も計画①に近いんは、小松帯刀殿。二十四歳。家老格の若手じゃが、開明的で貿易実務の話が分かる。勝海舟様経由で、貿易の話題から入るんが最速ぜよ」

「五代友厚殿は?」

「二十六歳。商才があって、利で動くお方。大坂展開の話を持ちかければ、すぐに乗ります。これは朱じゃ」

糸子は、佐賀のあたりを指した。

「大隈殿は、いかがでしたか」

中岡は、わずかに苦笑した。

「正直に申し上げますきに、大隈重信殿は、現時点ではただの学徒でございます」

「学徒?」

「藩の蘭学塾、弘道館におわす。二十三歳。実務にはまだ、まったく関わっちょりません。『藩の小役人』とは書けんかった。今すぐ動かす相手じゃのうて、三年か五年、目を付けておく相手と、わしは判断しましたぜよ」

「……それでも、朱と?」

「はい。いずれは、化ける男じゃ。今から、わしらの目の中に入れておきとうございます」

糸子は、地図の中央に視線を戻した。

「岩倉殿のところは——」

「ここが、一番、扱いに困りまする」

中岡は、地図の岩倉具視の名のところを、指で軽く叩いた。

「三十七。賢いがです。賢すぎて、計画の全貌を知らせたら、自分が主導者になりたがる性質を持っちょられる」

「父からも、似たような評価を聞きました」

「ですから、岩倉殿には『計画の目標』だけ伝えて、『手法』は絶対に見せん。道具として使うには、距離の管理が必要――わしの所感でございます」

「同意いたします」

糸子は、ほんの少し、目を細めた。

「中岡殿、人を見る目が——三月前より、深くなられましてございますね」

「……いえ、そんな」

「世辞ではありませぬ。これは、足で得た目でございます」

地図の説明が一通り終わった後、中岡は懐から、もう一枚の紙を取り出した。

「これは、わしから姫様への、一つ提案でございます」

「拝見いたします」

中岡は紙を広げた。

そこには、四つの段に分けた人物の分類が書かれていた。

「全国で、計画①に関わりうる人材が、現時点で確認できたんは、合計七十三名でございます。

じゃが、姫様、七十三名というのは、ただの数でございます。これだけじゃ、龍馬や久坂が動く時、誰から手をつけたらええんか、判断ができませぬ」

「……」

「ですから、わしは、こう分けまする」

中岡は、紙の上を指で示した。

「一等級。今すぐ動かせる、確度の高い者。八名。中根雪江殿、小松帯刀殿、越前の実務官僚――すでに姫様側と何らかの接触があり、利害が一致し、過激な真似はせん安定した方々」

「二等級」

「三ヶ月以内に接触できる、確度中の者。二十三名。前原一誠殿、品川弥二郎殿――もう商務語学所におりますが――、鴻池系商人、薩摩の実務担当層など。思想的に近うて、繋ぎの経路がある者」

「三等級」

「半年から一年で接触できる者。三十二名。土佐の後藤象二郎、各藩の中堅クラス。状況次第で動く可能性があるが、まだ経路が整うちょらん」

「四等級」

「これは――取り扱い注意の者。十名。会津の松平容保側近、水戸系過激派の残党など。計画①の完全な障壁。『接触不可、監視のみ』」

糸子は、紙を、じっと見つめた。

「中岡殿」

「はい」

「これは、地図そのものより、ずっと使えまする」

「畏れ多うございます」

「いえ、本当に」

糸子は、少し考えた。

「坂本と、久坂、高杉、ちゅう…吉田殿に渡す時には、この四段の分類を中心にお渡ししとうございます。

そして、お一人お一人、どの等級から手をつけるか——あなたと、わたくしで、相談しながら決めましょう」

「ははっ」

「それから、もう一つ」

糸子は、扇子の先で、四等級のところを指した。

「ここを、二つに分けてはいただけませんか」

「二つに、と申しますと」

「四等級の中にも、思想的に反対される方と、利権で反対される方がおられましょう。

前者は、何をしても、こちらの言葉は届きませぬ。後者は——『あなたの利権は、計画が進んでも守られる』という代替案を出せば、味方に変わる可能性がございます」

「……お見事でございます」

中岡が、深く頷いた。

「四等級を、四甲——思想的障壁、四乙——利権的障壁、と分け申しまする。四乙の方々には、利権を守る代替案を考える」

「お願いいたします」

中岡は紙の上に、すぐにその区分を書き加えた。墨が紙に染みていく音が、しずかに、座敷に響いた。

もう一つ、糸子は付け加えた。

「中岡殿。この地図は——大凡半年ごとに、書き直してくださいませ」

「半年ごと、ちや?」

「はい、人は、動きまする。考えは変わりまする。藩の内情も、揺れましょう。一度作って動かさぬ地図は、いずれ嘘の地図になります。あなたには、これを生きた地図のままに、保っていただきたいのでございます」

「……方法は重要と思われる箇所には中岡殿が、直接お回りいただいて、あとは中岡殿を頂点に、信頼できる人物を使って行ってくださいませ。すべての箇所を中岡殿が回ることは逆に非効率となりましょう」

「人を組織せえいうことですか?」

「はい」

「……承知したき」

「出張のご費用は、すべて天朝物産会所が負担します。情報収集のための路銀も、別途、十分に手配します。あなたが気を使うところでは、ありませぬ」

中岡は、黙って頭を下げた。

深く、頭を下げた。

その頭の中に、ほんの少し、温かいものが流れていた。

(わしは——根無し草の、土佐の脱藩者じゃと思うちょったきに。じゃが、姫様は、わしを仲間の一員として、扱うてくださっちゅう)

中岡は、頭を下げたまま、唇を噛んだ。

地図の検討が一通り終わった後、中岡は、ふっと一息ついて、肩の力を抜いた。

肩の力を抜いてから、しかし、すぐに糸子に向き直った。

姫様、一つだけ——お聞きしてもかまわんでしょうか」

「何でございましょう、中岡殿」

「龍馬は、今、どうしちゅうがですか」

中岡の声には、これまでの「報告者」としての硬さとは別の、わずかに柔らかい響きがあった。

糸子は、ふっと笑みを、漏らした。

「中岡殿。あなたの最初の問いが、坂本のこと、なのですね」

「あいつとは、土佐で旧知ですきに」

中岡は頭を掻いた。

「旅の途中、何度か『龍馬は今ごろ何をしちゅうかのう』と、思うちょりました」

「坂本は——お元気ですよ」

糸子は慎重に、しかし暖かく言った。

「ご一緒に商務語学所と、それからわたくしのもとで、三月余、特別なお勉強をされました。修了証書もお出しして、今は、それぞれのお役目で、動いていただいておりまする」

「動いちょる、と申されますと?」

「諸藩を、回っておられます」

糸子はそれ以上は、言わなかった。

薩摩攻略の本番のこと、近衛糸子の名を出す判断を坂本に委ねたこと——そこまでは、中岡には、まだ伝えない。

地図の作業者と、現場の動かし手は、情報の段差を保っておかねばならなかった。

中岡は、それ以上は問わなかった。問わぬ、ということが、彼の中の、糸子への信頼の形だった。

「諸藩を回っちょるか。あいつらしいわ」

中岡は、声に出して笑った。

「あいつ、机に縛り付けるんは、無理ぜよ。歩かしとった方が、生きとる」

「同感でございます」

「それを聞いて、安心しましたきに」

中岡は、もう一度、深く頷いた。

糸子はその頷きを、優しい目で受けた。

話が、再び、地図の方に戻った。

糸子は、扇子を閉じて、東国の地図の、会津の黒い点を、もう一度、軽く叩いた。

「中岡殿」

「はい」

「会津——この『×』のことを、もう少し、詳しくお聞かせください」

中岡の顔が、わずかに引き締まった。

「会津、でございますな」

「ええ。四甲ランクでしょうか、四乙ランクでしょうか」

「四甲でございます」

中岡の声には、迷いがなかった。

「あの藩はな、利権ちゅうもんじゃ動かん藩ぜよ。徳川様への忠義が、藩の存在理由になっちゅうき。藩主の松平容保様は、まだ二十六歳。

じゃが、早や、あの方の思想は、岩みたいに固まっちゅう。側近の西郷頼母様は、さらに輪をかけて、骨太なお方じゃ」

「西郷頼母殿は、どのような方ですか」

「家老格ぜよ。年は四十二、三。頭がええ。義理堅い。何より、武士の『誠』ちゅうもんを、心の真ん中に据えて生きちゅうお方じゃ」

中岡は、わずかに目を伏せた。

「わしも、会津に滞在中、何度か、西郷殿のお側に近づこうとしましたぜよ。土佐の脱藩者として、ちっと違う角度から接触すれば、聞いてくださるかもしれん、と思うた」

「結果は?」

「叶わざった」

中岡は苦笑した。

「あのお方は、こちらの素性を、最初の眼差しで見抜くようなところがある。

わしらあみたいに『朝廷側で動いちゅうもん』は、最初から、扉の中には入れてもらえんぜよ。話を聞く、聞かんの前に、扉が、堅うに、閉まっちゅうき……」

「……」

「正面から説いても、あいつらあは潔う腹を切るだけで、こちらの軍門に下ることらあ、ござらんぜよ」

中岡は、はっきりと言い切った。

「これは、わしの結論じゃ。何度回っても、同じ答えにしか、辿り着かんざった」

糸子は、しばらく、黙っていた。

扇子を両手の中で、ゆっくりと回していた。

簾の隙間から、夏の若葉の影が、畳の上に、揺れていた。

糸子の口元が、ふっと、上がった。

「中岡殿」

「はい」

「武士の心は、買えませぬ」

「……」

「なれど、彼らが守る『暮らし』の根元なら——案外、安く買い叩けるものでございますよ」

中岡の眉が、わずかに動いた。

「姫様……それは、どういう意味で?」

「会津のお侍方の心は、確かに、岩のようでございましょう。

なれど、お侍方も、物を食べ、お酒を飲み、夜には灯を点し、紙に文字を書きまする。

その『物』を支えているのは、心ではなく、銭の流れでございます」

糸子は、地図から少し顔を上げ、御簾の方角に目をやった。簾越しに、庭の青々とした楓が、風に揺れていた。

「会津藩の、銭の流れ——その、急所を見つければ、心を曲げずとも、藩の動きは、揺らぎまする」

中岡は、糸子の言葉を、ゆっくりと、咀嚼した。

「……銭の急所、でございますか」

「ええ」

「それは、何でしょう」

糸子は、薄く笑った。

「漆と、蝋でございます」

糸子は、文机の方に手を伸ばし、別の小さな帳面を取った。

帳面には、糸子自身の手で、几帳面な字で各藩の主要産品とその金高、出荷先、流通経路が書き込まれていた。

糸子は、会津の頁を開いた。

「会津藩の基幹産業は、漆とそれから、漆から取れる蝋——『会津蝋』でございます」

「会津蝋…」

「ええ。漆の樹に実が成ります。その実から、蝋が取れる。これが、ろうそくの原料になります」

「なるほど」

「会津蝋は、品質が、たいそうよろしい。火持ちが長く、煙が少なく、香りもえぐみがない。江戸の上等なお店、料亭、寺社、それから——大奥でも、使われております」

「大奥でも?」

「はい。会津蝋は、いわば『高級銘柄』でございます。江戸の市中に出回る蝋の、上から数えて何番目か——というほどの、特別な品でございます」

糸子は帳面を、中岡の方に少し滑らせた。

中岡が、覗き込む。

「ここに数字を書いてございます。会津藩の年間の蝋の収入は——おおよそ、藩の現金収入の、四分の一を占めまする」

「四分の一……」

「米でも、漆器でもなく、蝋ぜよ。この一品が、藩の財政の四分の一を支えちゅうがです。

さらに会津藩は、この蝋について、江戸市中で、ほぼ独占の権利を持っちょります。

会津から若松の荷受問屋へ、若松から江戸の『会津蝋専売所』へ、専売所から江戸市中の御用商人へ——という、太い流れが、固まっちゅう…」

糸子は、帳面の頁を、もう一枚、めくった。

「この流れのどこを、揺らせば良いか」

「……」

「揺らすべきは、藩でも専売所でも、若松の問屋でもありませぬ。江戸の最後の——買い手の、心でございます」

中岡は、糸子の指の先を、見つめた。

「買い手の心、ちゅうがですか……?」

「江戸の人々は、なぜ、会津蝋を買うのか。理由は、明るくて、長持ちするから。香りがよいから。値はそれなりにするが、それに見合う品質だから。——ここまでは、よろしいですね」

「はい」

「ならば、もしもっと明るく、もっと長持ちし、もっと価が安い、別の灯具が、江戸に出回ったら——どうなりまするか」

中岡は、しばらく、黙った。

黙ってから、ゆっくりと、口を開いた。

「会津蝋は、売れ残りまする」

「左様」

「売れ残れば、専売所には、蝋の山ができましょう。山ができれば、相場が下がる。

相場が下がれば、若松の問屋が、悲鳴を上げる。問屋が悲鳴を上げれば、藩の収入が減る。藩の収入が減れば——」

「藩政が、揺らぎまする」

糸子は、扇子を、ぱちりと閉じた。

「藩政が揺らげば、藩主の周辺の判断も、揺らぎましょう。判断が揺らぐ時、人は、外からの情報に、これまでより、頼りまする。頼った先の情報が、もし、わたくしどもの手で——」

糸子は、わずかに目を細めた。

「整えられていたら、いかがでしょう」

中岡の背筋に、ぞくりとしたものが、走った。

それは、寒気ではなく、感嘆だった。

「姫様……」

「もう一つの灯具が、もう、ございます」

糸子は、続けた。

「鯨油でございます」

「鯨……油?」

「異国——特に、メリケンの捕鯨船が、太平洋で、鯨を獲っておりまする。鯨の脂身を煮詰めて、油を取るのでございます。これが、向こうでは、ランプの燃料として、当たり前に使われまておりまする」

糸子は、扇子で、太平洋の方角を、ふわりと指した。

「メリケンの捕鯨船が、なぜ、日本近海まで来るのか、ご存知でありましょうか?」

「鯨を、獲るためですな」

「それも一つ、なれど、もう一つ。長い航海の途中、どこかで水と薪を補給する場所が、要るのです。

日本は、その補給地として、極めて都合がよい。ペリー提督が日本に来た理由の一つも、これです」

「……鯨を取る船のための、水と薪の補給地を、日本に求めた…と?」

「その通りでございます」

糸子は、扇子を膝の上に置いた。

「中浜万次郎様が、メリケンの捕鯨船と、長いお付き合いをされていることは、ご存知でございますね」

「おお、土佐の人間じゃ。漁師の出で、メリケンに渡って、戻ってこられた……」

「中浜様を通じて、メリケンの捕鯨船から、鯨油を安く、大量に、横浜に運び込むことができまする」

「……」

「明るさは、会津蝋の三倍。値は、会津蝋の半分。煙はやや出まするが、慣れれば気にならぬ程度」

中岡の喉が、ごくりと鳴った。

「これを江戸で、どっと売り出しまする」

糸子は、あっさりと言った。

「売り出す——だけでは、ござりませぬよね」

中岡が、慎重に聞いた。

「ええ。売り出すのと、同時に、いくつかの仕掛けを致しまする」

糸子は扇子の先で、文机の上の白い紙を、軽く叩いた。

「一つ。瓦版屋に、噂を流しまする。『これからは蝋ではなく、鯨油のランプ。明るさは三倍、値段は半分』」

「江戸の瓦版に」

「ええ。江戸の人々は、瓦版をことのほか好まれまする。読み売りの口上が、町々で響けば、流行は、一晩で広がりまする」

「二つ目」

「吉原の大店、日本橋の大商家、その他、江戸で『夜の灯り』を大量に使うお店へ、無料で、鯨油ランプを設置致します。一晩、使うていただいて、明るさを実感していただく。気に入れば、あとは、こちらが安い油を、安定して納めまする」

「無料で設置ちゅうは…」

「ええ。最初の一晩で、燭台を取り替えてしまえば、二度と、蝋には戻りませぬ。これは——南蛮の言葉で、『マーケティング』と申しまする」

中岡は、少し笑った。

「まーけてぃんぐ?、ですか。難しい言葉で」

「中浜様から、教わりました」

「で、三つ目は…」

「三つ目は——」

糸子は、わずかに目を細めた。

「会津蝋専売所のお取引先——江戸の御用問屋、十数軒。その方々の、奥の方を、少々、揺さぶりまする」

「ええ、揺さぶる、と申されますと」

「会津蝋を扱うておられる江戸の御用商人——彼らは、会津藩から、年々、上納金のお務めを背負うておられまする」

糸子は、別の帳面を開いた。

今度の帳面には、江戸の御用問屋の名と、その上納金の額、そして、それぞれの店の借財状況が、書き込まれていた。

「お店によっては、上納金のお務めが重うて、すでに、相当な借金をしておられる方々がございます。それでも、暖簾を守るために、必死で会津蝋を売りさばいておられる」

「……」

「鯨油が広まり、会津蝋の値が下がれば、その方々は、上納金を払えなくなりまする。借金が、雪だるまのように、膨れまする。暖簾が潰れまする」

「……可哀想に」

中岡が、思わず呟いた。

糸子は、そのまま続けた。

「そこへ善次郎が、参りまする」

「松屋殿が」

「ええ。善次郎は、天朝物産会所の名は、決して名乗りませぬ。ただの、江戸で評判のよい仕入れ問屋として、訪ねまする」

「そして」

「『お困りでしょう、お見受けいたします』。『うちが、お借金を、肩代わりさせていただきましょう』」

「肩代わり…ですか?」

「ええ。条件は、たった一つ。これからは、会津藩から江戸に届く、すべての書状、御用達への注文書、そして——藩主・容保公へ届けるお上書を、一度、わたくしどものところを、通していただくこと」

中岡の顔が、ぴくりと動いた。

「すべての情報を?」

「左様」

「それは——」

中岡は、絶句した。

「会津の、江戸の目と、耳を、こちらが握るということでございますか」

「お分かりが、早うございます」

糸子は淡々と、頷いた。

「お店は、潰れまする。家族も、奉公人も、路頭に迷いまする。そこを、わたくしどもが救う。救う代わりに、情報の流れに、関所を一つ設けさせていただく。

彼らは心では、会津藩に申し訳ない、と思いまする。なれど、家族と暖簾を守るためには、選ばざるを得ぬ」

「……」

「これは、彼らを責めることでは、ありませぬ。彼らに、生きていてもらうための、こちらの差し伸べた手でもござりまする」

「結果として、何が起こるか」

糸子は、扇子を膝の上に置いて、ゆっくりと言った。

「会津に戻った西郷頼母殿の、机の上に、江戸からの報告書が届きまする。報告書には、こう書かれてござりましょう」

糸子は自分の声で、その報告書を読み上げるようにして、続けた。

『——近頃、江戸市中にて、鯨油なる異国由来の油が、急速に流行り始めましてございます。値が安く、明るうて、長持ちする。お店の灯火が、次々に鯨油ランプへと入れ替わり、会津蝋のお売り行きは、芳しからず』

『——藩の財政に、深刻な影響が出ておりまする』

『——なれど、ご安心くださいませ。江戸には、天朝物産会所と申す、慈悲深い組織がござりまする。

彼らの手を借りて、お店の借財を整理し、新たな商いの道を、模索致しておりまする。彼らは、尊王の志、篤く、幕府をもお救い致したい、と申しております』

糸子はそこまで言って、中岡を見た。

「——これが、西郷頼母殿の机の上に、届く報告書でございます」

中岡は、しばらく、息を呑んでいた。

「姫様……」

声が、掠れていた。

「これは、嘘でしょうか」

「いいえ」

糸子は、即答した。

「すべて、事実でございます。鯨油は流行ります。会津蝋は売れ行きが落ちまする。借財は膨らみまする。物産会所は、お店を救いまする。物産会所は、尊王の志、篤うございます。事実、すべて事実」

「……」

「ただ——事実を、選んで、並べているだけでございます。書かれていない事実が、もう一つございましょう」

「それは……」

「鯨油の流行を、最初に仕掛けたのが、誰か——という事実」

「……」

中岡は、深い息を、ついた。

「西郷頼母殿は、あの頭脳とあの誠実さで、その報告書を、お読みになる。

お読みになって、合理的に判断を下される。その判断は、すでに、こちらの手で整えられた事実の上に、立っておりまする」

「西郷殿が、暗愚じゃから騙されるんやのうて——」

「賢明であるからこそ、整えられた情報を、信じて、判断を下される、ということでございます」

糸子はしずかに、しかし、はっきりと言った。

「これは、会津のお侍方の『誠』を、否定するためのものでは、ござりませぬ。

彼らの『誠』は、これからも、まっすぐに残りまする。

なれど、まっすぐな剣も、その先にある的が、わずかにずれていれば——刺すべきところには、届きませぬ」

中岡は、両手を膝の上に置いて、しばらく黙っていた。

黙ってから、ゆっくり、顔を上げた。

「姫様」

「はい」

「あなたは、会津の目と、耳を、油で塗りつぶしたのですか」

「中岡殿」

糸子は、視線を、地図の上の会津の黒い点に戻した。

「それは、塗りつぶす、と申すべきか、整える、と申すべきか——表現の問題でございます」

「……」

「なれど、わたくしには、わかっておりまする。これは、お侍方の『誠』に、横から、油を差すような仕掛けでござりまする。

お侍方が、ご自身の『誠』のために選んだ判断が、わたくしどもの整えた油の上を滑っていく。お侍方は、それに気づくこともなく、ご自身の判断を信じて、進まれる」

糸子は息を、ゆっくり吐いた。

「美しいとは、申しませぬ。これは、商売でございます」

しばらく、座敷に沈黙があった。

簾の向こうで、青楓の葉が、また、ふっと風に揺れた。葉と葉のこすれる、かすかな音。それから、池の鯉が水面を打つ、ぽちゃり、という音。

香炉の伽羅の香りが、糸子と中岡の間に、ふわりと、流れた。

糸子は、立ち上がった。

縁側まで歩いて、簾を少し上げた。

外の若葉の緑が、座敷の中に、流れ込んだ。

「中岡殿」

「はい」

「忠義で、お腹は膨れませぬ」

糸子は、外の楓を見ながら、言った。

「されど、油がなければ、夜は、闇でございます」

「……」

「西郷頼母殿が、どれほど賢明であられても、その前提となる『情報』が、歪んでおれば、下されるご判断もまた、歪みまする。

これは、賢明さの問題ではなく、情報の問題でございます。武力の問題でも、ござりませぬ」

中岡は糸子の背中を、見つめていた。

糸子の打掛の薄萌黄が、簾越しの陽の光に、わずかに透けていた。十三の少女の、小さな背中だった。

それでも中岡には、その背中が、ひどく大きく見えた。

「中岡殿」

「はい」

「会津の『×』は——」

糸子は扇子を、ぱちりと閉じた。

「いずれ、『●』に、変わりまする」

「……」

「お侍方の心を、変えるのではござりませぬ。お侍方の心が、踏み立つ地面を、こちらが、整えるのでござりまする。地面が変われば、心がそのままでも、足の運びは、変わりまする」

中岡は深く、息を吐いた。

「姫様」

「はい」

「わしは——姫君様を、お頼りしましたきに、ようございました」

声に、震えがあった。

「わし一人で、この国を変えられるはずがない。じゃが、地図を作ってお渡しすれば、誰かがそれをこうやってお使いになる。

わしは、誰の手でこれが活かされるんか、知っちゅう。じゃから安心して、また足を運べるぜよ」

糸子は振り返って、中岡を見た。

御簾を背負って立つその姿は、十三の姫君のものとも、二十一世紀のバイヤーのものとも、そのどちらでもないものに見えた。

「中岡殿」

「はい」

「あなたが、地図を作ってくださらねば、わたくしは、誰一人動かせませぬ。地図のない者は、商売ができませぬ」

「……」

「お礼を、申し上げるのは、わたくしの方でございます」

中岡は、もう一度、深く頭を下げた。

頭を下げたまま、言った。

「うけけ…と笑われますか、姫様」

糸子は遠い目になった。

「中岡殿、誰から…そのことお聞きになりましたか?」

「龍馬からです、噂で——『姫様は、何かを企てなさる時、独特の笑い声を漏らされる』、と」

糸子の内心。

(…わたくしの周辺にいる近藤殿たちならば、まだ理解できまするが)

(まさか坂本にまで、知られて…広められていたとは)

「——坂本は、お口が軽うてございますね」

「土佐の男ですきに…」

「あら、それでは中岡殿もお口が…?」

中岡をじっ…と、見つめる糸子。

段々と…汗が、止まらなくなってくる中岡。

「…………あっ!」

「いかん、間違えてしもうた。龍馬のやつぜよ。あいつは口が軽うていかんき!」

結局、圧に負け…必死で取り繕うしかなかった中岡。

「まぁ、それでは駄犬には、躾が必要でございますね…」

「主人が誰かをしっかり分からせる…厳しいきびしい躾が……」

糸子は扇子で、そっと口元を覆った。

覆った扇子の向こうから——

「ふふっ、ふふふふふ…腐腐腐腐腐腐腐腐腐……」

小さな笑いが、しばらく漏れていた。

中岡はその笑いを聞いて、背筋に冷たいものを感じた。

それから中岡は、心の中で必死に自己弁護をしていた。

(龍馬、すまん。思わず……おんしのせいにしてしもうた)

(そしてわしは…この姫様に、余計な話を伝えてしもうた。けんど、わしは龍馬から聞いた話をそのまま言うただけじゃき、わしは悪うないぞ)

(もうこれ以上は、近寄ったらいかんやつぜよ)

(龍馬……骨は拾うてやるきな!。安心して逝ってこい)

十一

西日の差し込む奥御殿は、息が詰まるほどに静まり返っていた。

張り詰めた空気のなか、御簾の向こうに座す糸子は、まとった絹の擦れる音さえさせない。

糸子がわずかの間、沈黙した。

張り詰めた糸をさらに引くような、静謐な間。

「では中岡殿——地図の更新以外で…新しい仕事をお願いしたいのですが」

「なんろう?」

中岡は短く応じ、低く太い声を喉の奥で転がした。その双眸が、薄暗い御簾の隙間へ向けられる。

「地図を——また広げてください。今度は全国ではなく、一点に絞って」

「どの点になりますろうか?」

「メリケンという国が、まもなく真っ二つに割れまする」

中岡の顎が、不意に跳ね上がった。

「その割れ目が——この日本に、一時の窓を開けまする。中岡殿にはその間、この国の人材を——一つの方向に向けていただきたいのでございます」

中岡の呼吸が止まる。メリケンの内戦。それがもたらすのは、異国からの圧力が奇跡的に途絶える「空白の期間」だ。

糸子は静かに、だが一切の迷いを持たない声で言葉を紡いだ。

「工作の正式名は『志士方向転換工作』。お仕事は全国の志士を『問い』と『情報』で揺さぶり、過激な『攘夷の熱』を『制度と経済』へ引き寄せることです。

正面から否定せず、相手の関心に絡めて自発的に気づかせる。まずは各地に種を蒔き、次に点と点を手紙で繋いで線にする。

そして暴走を数字の論理で引き留める。あなたを頂点に、主要都市の『使い 手(エージェント) 』と協力者で組む、三層の 情報網(ロビイング・ネットワーク) を敷いていただきます」

中岡の背中に冷たい汗が伝った。これは単なる連絡役ではない。各藩の『割れ(内部対立)』や『志士(草莽)』の動きを完全に把握し、裏から歴史の舵を回す、途方もない思想工作だ。

「……すぐには信じられんほど、太いもんですちや。」

中岡の声がわずかに震えた。

「わしのような一介の脱藩者に、それっぱあ重い絵図が描けましょうか。己の知らざるが恐ろしゅうございます。」

御簾の奥で、糸子の気配が優しく揺れた。

「だからこそ、ここで学んでいただきまする。これからの数日間、わたくしが直々に『集中授業』を行いましょう。

わたくしが教えた知識が、中岡殿の武器になりますよう、あなたの肚に叩き込みましょう。他藩の『大物』たちと対等に渡り合うための言葉を、ここで手に入れてくださいまし」

言外に込められた圧倒的な覚悟が、中岡の胸を突いた。姫様は、この日本の命運を、本当に限られた時間のなかに賭けようとしている。そして、その先頭に立つ者として、自分を指名したのだ。

迷いは一瞬で吹き飛んだ。全身の血が、熱い音を立てて巡り始める。

中岡が深く頭を下げ、畳に両手をついた。引き締まった背中が、一段と低くなる。

「わしみたいな一介の脱藩者に、それっぱあ重い絵図が描けるはずもなかろう。己の無知が恐ろしゅうございます」

その声には、もういささかの揺らぎもなかった。

十二

話が一段落して、中岡が下がった後、糸子は、奥の小書院へ移った。

小書院には、すでに一台、新しい灯具が置かれていた。

横浜から、善次郎の手で運び込まれた、鯨油のランプである。鈍い真鍮の台の上に、ガラス製の油壺と、芯と、それを覆う、薄いガラスの覆いがある。

日本の燭台とは、まるで違う形をしていた。

葵が、火打石で、芯に火を点けた。

最初、芯の縁が、橙に燃えた。

しかし、やがて芯の中央から、青白い焰が立ち上がった。

燭台の蝋燭の、暖かく揺らぐ橙とは、まったく違う光だった。

冷たく、しかし、はるかに明るい光。

部屋の隅々まで、影を、薄くした。

糸子は、その焰の前に、坐った。

「葵」

「はい、姫君様」

「綺麗ですね」

「……はい」

「綺麗ですけれど——少し…寂しい光ですね」

「……」

葵は何と返してよいか、分からなかった。

糸子は青白い焰を、しばらく、見つめていた。

焰の中に、糸子の小さな顔が、半分薄青く、染まっていた。

糸子の心の中で、いくつかの場面が、流れていた。

会津の山中、漆の樹を撫でる村の老人の手。

若松の問屋の番頭が、帳簿を前に絶句する顔。

江戸の御用商人の主人が、家族の前で頭を抱える背中。

そして、会津の城の奥書院の灯火の下で報告書をめくる、西郷頼母という男の——曲がらぬ背筋。

糸子は、ゆっくりと息を吐いた。

「忠義で、お腹は膨れませぬ」

誰にも聞こえない声で、自分に言い聞かせるように、もう一度、呟いた。

「されど、油がなければ、夜は闇でございます」

青白い焰が、わずかに揺らいだ。

障子の向こうで、葵が何も言わずに、控えていた。

葵はただ、糸子の傍にいた。

糸子の言葉も計画の中身も、葵には半分も分からない。なれど、姫君様が、今、何かをご自分の心の中で、抱えておいでであることだけは、分かった。

その「抱えていらっしゃるもの」に、葵は声をかけずに、ただ一緒にいた。

それが葵という侍女が、糸子に対してできる、たった一つの仕事だった。

糸子はふと、葵の方を振り向いた。

「葵」

「はい」

「お茶を、もう一杯、お願い」

「はい、ただいま」

葵が立ち上がって、お茶を淹れに行った。

その間、糸子は、もう一度、青白い焰を、見つめた。

見つめながら、わずかに、口元を緩めた。

「……ふふふふ腐腐腐腐腐」

ごく小さな声で、笑った。

笑った後でぱちりと、扇子を閉じた。

扇子の音が、青白い焰のそばで、しずかに消えた。

十三

深夜、近藤勇が、奥御殿の廊下を、ゆっくりと、歩いていた。

夜の見回りである。

糸子の私室の障子の前を通った時、まだ灯りが点いていた。

近藤は足を止めてしばらく、その灯りを見つめた。

障子越しに青白い焰が、わずかに滲んでいた。蝋燭の橙とは、明らかに違う、冷たい光である。

(——あれが、噂の鯨油の灯りか)

近藤は、心の中で呟いた。

(こんなに明るく、夜を照らす灯りが、あるんだな)

近藤はしばらく、その光を見ていた。

障子の中で糸子は、何か書きものをしているらしい。筆の音が、かすかに、聞こえる。

近藤は、ふと思った。

(姫君様は、夜のうちにたくさんのことを、進めてしまわれる)

昼間、中岡慎太郎が運んできた地図のことは、近藤も話の半分は耳にしていた。

会津の話、鯨油の話、御用商人の話、そして——情報を整えるという話。

近藤は武州の在で、ただ剣の腕一本で、生きていこうとしていた男である。

剣の世界に、こういう種類の戦はなかった。剣の戦は、刃と刃の、明け透けな勝負である。

勝つか、負けるか、生きるか、死ぬか——それだけだった。

しかし、姫君様の戦は違う。

刃を抜かない。

刃を抜かないままで、相手の足元の油の流れを、変えてしまう。

相手は、自分が斬られたことに、気づかぬまま、いつの間にか、立ち位置が変わっている。

(——これが、新しい戦だってのか?。いや、違うな。これは姫様なりの戦い方なのだ)

近藤は、少し息を吐いた。

吐いた息の中に、自分でも、はっきりとは言葉にできない、何かが混じっていた。

戸惑いと呼ぶには、もう少し、納得に近かった。

納得と呼ぶには、まだ、戸惑いに近かった。

(俺は、武士だ。剣でこれからも生きていく…)

近藤は自分に、言い聞かせるように、心の中で呟いた。

(だが、姫様の絵の中で、俺の剣は——振るうべきときは、来るのだろうか?)

(いや、俺の…旭狼衛の剣は守護の剣だ。振るうときが、来ないほうがいいに決まっている)

(…もし振るうときは、命を賭して振るう!)

(しかし、剣以外に…俺にできることは、何かあるのだろうか?。姫様のお役に立てるようなことが…)

その答えは、まだ、近藤の中にはなかった。

ただ、答えがないということを、近藤は認めた。それだけはできた。

(——ふふ)

近藤は、声に出さず笑った。

(俺には、まだまだ、わからないこどだらけだ。坂本殿のように…勉強してみるのも悪くないかもな)

近藤は足音を立てぬよう、廊下をゆっくり歩き出した。

障子の中の青白い焰の光は、近藤が立ち去った後も、しばらく、夜の中で揺れていた。

十四

翌朝、糸子は中岡が置いていった地図を、もう一度、座敷に広げた。

中岡は、その朝、もう一度、糸子のもとを訪れていた。

昨夜の話を、地図に書き加えるためである。

「中岡殿、東国の会津のところに——」

「はい」

「この『×』の、隣に、こう書き加えてくださいませ」

糸子は、筆を取った。

会津の黒い点のすぐ脇に、しずかに書き加えた。

「会津——油にて、目と耳、整え中」

「文久元年五月、施策発動」

「目標——文久二年内に、×→▲に降格」

中岡はその細い字を、しばらく見つめていた。

見つめてから、深く頷いた。

「承知しましたぜ」

「これを坂本、久坂、高杉、吉田殿、中根殿——お一人お一人に、何をどこまでお見せするか、わたくしとご相談いたしましょう」

「分かったき」

「すべてを全員の方に、見せる必要はありませぬ」

「……承知」

「特に、吉田総帥には——会津の施策の詳細は、伏せておいていただきとうございます」

「え、そっ、そうすい?は、性格が……」

「ええ。総帥のお心が痛みまする。総帥のお心が痛む施策は、ご存知ないところで、進めるのが総帥のためでございます」

中岡は、そっと頷いて内心で思った。

(姫様はなんで?先生のことを『そうすい』ち呼ぶんやろ。昨日の姫様のことがあるき、聞くに聞けんがよね。触るな!危険…)

頷いてから、地図の他の藩の点を、しばらく眺めていた。

「姫様…」

「はい」

「わしは、一つだけ、ようやく、分かったことがありまする」

「何でありましょう」

「姫様は、お一人で、戦をしておられると思うちょりました。じゃが、違いますきに…」

「……」

「姫君様は、大勢の人のそれぞれの『正しさ』を、それぞれの場所に置いていらっしゃる。

誰かが間違うんやのうて、誰の正しさも、生き続けるように——並べて繋いで、地図にしておられる」

糸子は、ふっと笑った。

「中岡殿はお言葉が、お上手ですね」

「わしは素直な男ですきに」

「口の軽い坂本とは、大違いでございますね」

「あ、あいつとは付き合いも長うございますが、わしとあいつは似ても似つかん、全くの別物ぜよ!」

「そうでこざいますね、ふふふ…」

「ははははは…」

二人は、互いに笑いあった。

…そして中岡は助かりたい一心で、坂本龍馬を、糸子に売った。

地図の上で、会津の黒い点の隣に書き加えられた、糸子の細い字が、朝の光に、淡く光った。

障子の向こうで、楓の若葉が、初夏の風に、揺れていた。

江戸の都の、夏の入り口の、しずかな朝だった。

文久元年、初夏。

立夏の風が、吹いていた。

糸子の地図の上で新しい線が、また一本引かれていた。

線の先で誰かが、まだ、何も気づかぬまま、いつもの一日を過ごしていた。

会津の山の漆の樹は、青々と葉を茂らせ、若松の問屋の番頭は、いつも通り帳簿を開き、江戸の御用商人の主人は、暖簾の前で、客に頭を下げていた。

会津若松城の奥、藩主・松平容保の側近、西郷頼母の机の上には——

まだ、何も置かれていなかった。

なれど、近いうちに。

夏が深まる頃には。

江戸からの最初の報告書が、その机の上に届くのである。

糸子はその日のことを、すでに見ていた。

御簾の中で扇子を、ぱちりと閉じた。

簾の外で初夏の楓の葉が、もう一度、ふっと揺れた。

第九十六話 了