作品タイトル不明
第九十五話「知恵の序列、雪解けの号令」
一 お玉ヶ池の沈黙
万延元年も押し詰まり、万延二年が始まろうかという頃である。
神田お玉ヶ池の界隈は、北からの風がまっすぐに吹き抜ける土地であった。日本橋の喧騒からは一里と離れていないのに、ここに来ると風の音が違う。井戸端の桶に張った氷の薄皮が、踏まれぬまま朝から夕まで残っている。
その一画に、見た目はごく普通の旗本屋敷を改めた建物が立っていた。
『商務語学所』と看板がかかっている。看板の墨は新しく、文字は丁寧に書かれていた。
墨の周りに、ほんの僅かに金粉が散らされていて、よく見れば近衛家の家紋が透かしのように浮かぶようになっている。
気づく者は気づく、気づかぬ者は気づかぬ——そういう設えだった。
建物の中に入ると、廊下の板敷きが氷のように冷たい。
土間の脇には、足軽から豪農の倅、果ては土佐の郷士に至るまで、種々雑多な草履と下駄が、行儀よく並んでいる。
並べているのは、毎朝早くに来て掃除を済ませる年少組の者たちだった。
その奥の大広間が、語学の講堂である。
北向きの障子から差し込む冬の光は、白く乾いていた。畳ではなく板敷きに机を並べてあり、それぞれの机には、村田蔵六が監修した分厚い教科書が一冊ずつ。机の上の墨壺と、筆と、紙束。
それから、机の縁に貼られた小さな木札に、各塾生の名が几帳面な字で記されている。
その朝、講堂の真ん中で立ち上がっていたのは、伊藤俊輔——後の博文である。
「Good morning, Mr. Murata. Today, I would like to propose——」
伊藤は得意の英語で、声を張った。十九。小柄で眼光の鋭い、肌の浅黒い若者である。
山口弁の訛りはもちろん抜けきってはいないが、しかし発音は、この建物の中では群を抜いて滑らかだった。
机に向かう時間より、人の懐に飛び込む時間の方が長い男である。
耳がいい。模倣がうまい。語学はそうした性質の者から先に伸びる——というのは、糸子の見立てでもあった。
その伊藤の前に、机を一つ挟んで、村田蔵六が座っていた。
村田蔵六、年の頃は三十半ば。風采は上がらない。額は禿げ上がり、目は細く口は薄い。
およそ志士と呼ばれる連中のような熱が、外側にはまったく出ない男である。
今日は商人の役を演じている。机の上に商品見本——絹の小切れと、絵入りの説明書——を並べて、伊藤の口上を聞いていた。
いや、聞いていた、という表現は厳密でない。
村田は、聞いていなかった。
伊藤が一節を語り終えるまで、まったく相槌を打たなかった。
視線を伊藤の顔にも当てなかった。眼鏡の奥の細い目は、机の上の絹の織り目を、淡々と眺めていた。
「This silk is, you see, made by skilled workers in Kiryu. The quality is, eh, very high, and——」
伊藤の英語が、わずかに震えた。
沈黙——というものが、こんなに重いとは思っていなかった。
松下村塾で松陰先生に向かって意見を述べる時、先生はいつも頷いた。
「うむ」「左様」「もっと言え」と、声の合いの手を入れてくれた。江戸の商人の前でも、彼らは礼儀として頷きを返した。
沈黙のまま聞き続ける、ということを伊藤は知らなかった。
村田の前の沈黙は、空気の温度を下げるようだった。
講堂の後ろの方で、それを観察している者がいた。
山県小輔——後の有朋。二十二。痩身で姿勢がよく、坐っているだけで背筋に物差しを差し込まれているような威圧感がある。
机の上には複式簿記の教科書、そして、語学所内の備品台帳が広げられていた。
山県は伊藤の英語に半分耳を傾けながら、半分は備品台帳の数字を、墨の細い筆で確認している。
(俊輔の声が、上ずってきよる)
山県は心の中で呟いた。山県のいま住んでいる山口弁は、長州の山深い土地のもので、冷たい鈴のような響きを持つ。
(あれは沈黙に焦っちょる声じゃ。もう三呼吸もすれば、値を下げる)
「So, the price would be……eh, ten ryo per ten tan, but——considering our long term, ehm, our long term——partnership——nine ryo. Nine ryo per ten tan」
伊藤の声が下げた。
その瞬間、村田蔵六は初めて顔を上げた。
目は、相変わらず細い。しかし、声には、ほんのわずかに刃が混じった。
「……貴公の『周旋』は、ただの安売りでござる」
日本語に切り替えた。商人の役を、すっと脱いだのである。
「沈黙という弾丸を持たぬ者に、交渉の資格はない。沈黙とは、待つことではござらぬ。
相手の中に、こちらの値を浸み込ませる時間でござる。貴公はそれに耐えられず、相手のためでもなく、自分のために値を下げた。
それは、貴公一人の値ではない。貴公の後ろに連なる、絹を織った桐生の女たち、買い付けた商人、運んだ船子——すべての者の、汗の値段でござる」
講堂の空気が、しんと冷えた。
伊藤の頬が、見る間に赤くなった。耳の縁まで赤い。
「……っ、申し訳ござりませぬ」
「謝るところではござらぬ。覚えるところでござる」
村田はもう一度、机の上の絹に目を落とした。
「最初の一手で値を下げた者は、最後の一手で値を取り戻せぬ。座学百遍の後、もう一度演習する。
次は、沈黙の中で何を考えるべきか、頭の中で言語化しながら座っていなさい」
「はっ……」
伊藤は深く頭を下げて、自分の席に戻った。
その帰り際、伊藤の目が、ほんの一瞬、講堂の隅にある掛け軸に向いた。
掛け軸には、糸子の指示で誰かが書き付けたものが下がっている。
「知らざれば搾取され、知れば対等に戦える」
伊藤はその文字を、視線でなぞった。
なぞりながら、胸の内で別のことを考えていた。
(先生は今、上屋敷で、姫様じきじきに教わっとられる。高杉さんも、久坂さんも。沈黙の真意ちゅうもんを、わしらは教科書で習うが、あの方々は、姫様の口から——直接、その息遣いごと、教わっとってんじゃ)
胸の内に、火花が散った。
悔しい…という感情の輪郭が、はっきりとした。
憧れ、嫉妬、焦り、それから、ほんの少しの誇り——「先生たちは、あそこにおる」という誇り。
それらが、ぐちゃぐちゃに混じった火花だった。
伊藤は唇を噛んだ。
「……俊輔」
隣の席から、低い声がした。山県小輔である。
「お前の英語は群を抜いとる。じゃが、英語が上手いだけで、交渉に勝てると思うとっちゃ駄目じゃ。語は、刀じゃ。刀は、抜きどころを間違えりゃ、自分が斬れる」
「分かっちょります」
「分かっとらん」
山県は冷たく言った。
「分かっとったら、九両に下げる前に、三呼吸数えとった」
伊藤は黙った。山県の言葉は、いつも痛いところに刺さる。痛いところに正確に刺さるから、振り払えない。
「……山県さんは、何で気づいたんですか。沈黙に、わしが負けることが」
「お前の喉仏が、二度動いた」
「……」
「商談中の喉仏は、心の値札じゃ。動いたら値を下げる前触れじゃ、ちゅうて、姫様の教科書、第二巻の十七節に書いてある」
「……読んじょります」
「読むだけじゃ駄目じゃ。覚えるんじゃ」
伊藤は苦笑した。
山県小輔という男は、二十二にしてすでに「教師の顔」を時々見せる。後年の「国軍の父」の片鱗である。
二 帳簿の前の知恵熱
講堂の隣に、もう一つ広間がある。
こちらは、もう少し小さい。十二畳ほどの部屋で、机が四列、壁に近い側に「入方」、廊下に近い側に「出方」と墨書された木札が貼られている。
算術と帳簿の部屋だった。
その日、その部屋の主役は、渋沢平九郎だった。
十五歳。背は六尺に近い。当時としては偉丈夫である。肩幅が広く、首が太く、顔立ちは実に整っていて、現代でいえば俳優のような美形だった。
彼が部屋に入ると、年少組の少女のような顔の者たちが、一瞬視線を上げて、また帳面に戻る——そういう種類の存在感があった。
その平九郎が、顔を真っ赤にしていた。
目の前に置かれた帳簿——複式簿記の演習問題——に、両手で頭を抱えている。
「分っかんねえ……まるっきり、これっぽっちも分っかんねえだんべぇ」
武州の言葉である。北関東のごつごつとした、しかし芯のある響きを持つ。
「兄貴ぃ、ちょっとこいつぁ、見てくれ」
「分かった、分かったよ、平九郎」
その隣で、渋沢栄一が苦笑して帳面を覗き込んだ。
栄一は二十二。背はそれほど高くないが、顔立ちが整って、表情が豊かである。
藍玉の商売で鍛えた目つきは、十代の頃から「数字を見て笑う」という、当時としては珍しい癖を身につけていた。
「ああ、こいつぁなんだ。おめぇさん、入方と出方をあべこべに書いちまってんだよ」
「あべこべにぃ?」
「おうよ。おめぇは『荷を売って金が入った』と思って、金を出方に書いちまってるが、こいつぁ入方だんべぇ。金が『入った』んだから、入方。逆に、その荷の元値は、こっちにいったん『出方』として立てて、後で精算するんだ」
「……兄貴ぃ、その日本言葉、もう一度ゆっくり頼むべぇ」
「日本言葉はおんなじだんべぇ」
「……だってよぉ」
平九郎は頭を抱えた。
平九郎の頭の中では、太刀筋の図ならいくらでも描ける。試衛館での組太刀の流れも、目を瞑って再現できる。剣の動きは、彼にとって「見える」ものだった。
しかし、帳簿は見えない。
数字が、紙の上で勝手に動き回るような気がする。入方と出方が、どこかで悪さをして、自分を笑っているような気がする。
「平九郎」
栄一が、年下の従弟に向かって、少しだけ声を低くした。
「こいつぁな、剣と同じなんだんべぇ」
「剣と同じ……だべぇか?」
「おうよ。おめぇ、組太刀やるとき、自分と相手の動きを、別々によそ見しちゃあいねぇだろ。自分がいっ歩出りゃあ、相手が半歩引く。
その両方の動きが、いっぺんに紙の上へ残る——それが帳簿ってぇもんだ。おめぇが金を出した分ぁ、必ず、どっかの誰かに金が入ってやがる。動きが、いつも『対』になってんだよ」
「対……」
「『対』だ。剣も、商いも、この世の中もよぉ、片方だけじゃあ動かねぇんだ。出方がありゃあ、必ず入方がある。
入方がありゃあ、必ず出方がある。おめぇの体でいうなら、息を吐いた分だけゃあ、必ず吸うんだ。……おんなじだんべぇ?」
平九郎は、顔を上げた。
ほんの一拍、目を瞬いた。
「……兄貴ぃ」
「んだ」
「もしかして、そいつを真っ先に言ってくんねぇと、俺ぁ分っかんねぇだんべぇ」
「言ったべぇ」
「言ってねぇよ、天地がひっくり返ったって言ってねぇ」
「俺の腹の中じゃあ、言ったことになってんだよ」
「そいつぁ、言ったうちに入んねぇべ!」
平九郎が大声を出した。
部屋の隅で、別の机に向かっていた飯田俊徳が、ふっと顔を上げて笑った。
飯田俊徳。十三歳である。少年らしいあどけなさを残しているが、眼差しだけは、十三には見えない。
机の上には、村田蔵六が秘蔵から持ち込んだ蘭書——西洋の物理学の入門書——の、図解の頁が広げられていた。蒸気機関の断面図である。
「渋沢殿」
飯田の声は澄んでいた。山口の訛りに、年少らしい甘さが混じる。
「平九郎さんに、複式簿記を剣で教えるんは、ええ譬えじゃと思うちょります」
「そうかい、坊主」
「じゃけど、最初に『入方と出方は対になる』ゆうことだけ、紙の真ん中に大きく書いてあげてくださりゃ、平九郎さんも分かりやすかったかと」
「……坊主、お前さん、十三だんべぇ?」
「はい」
「俺より教え方が上手ぇじゃねぇか」
平九郎が、ぐったりと机に突っ伏した。
「神童……」
「神童じゃありませんど」
飯田は静かに笑った。
「ぶち、平九郎さんの困っちょる顔を見りゃあ、何が分かっとらんかは見えるんちゃ。それだけのこと」
「いや、それが神童だっつうんだよ」
栄一が苦笑して、飯田の頭をぽんと叩いた。
飯田はその手を、少し嬉しそうに受けた。
飯田の机の上には、複式簿記の教科書ではなく、件の蘭書があった。
糸子から「俊徳には、これも併せて読ませてやれ」という指示が、村田を通じて来ていた。
年少組の中で、語学の進みが特に早い者には、語学所のカリキュラムを少しはみ出させて、本人の興味の向く方向に伸ばす——糸子は最初からそう計画していたのである。
飯田の指が、蒸気機関の図解の上を、そっと撫でた。
(…… これがありゃあ、人の力を要らずに、車輪が回るんちゃ。水を汲み上げる。船が走る。糸を紡ぐ。……ぶち、凄かろうが)
少年の胸の中で、何かが膨らんでいた。
政治のことはまだ分からない。御所のことも、近衛家のことも、薩摩や長州の駆け引きも。
しかし、この鉄の塊が動き出した時、世の中の何が変わるか——その風景だけは、なぜか、はっきりと頭の中に絵として浮かぶのである。
(産業の革命。村田先生は、そう仰せじゃった。革命は、剣でも、議論でものうて、この鉄の中から始まるんじゃなかろうか)
飯田は、自分のその思いつきを、誰にも言わなかった。まだ十三である。
言葉にすれば、笑われるか、あるいは大人たちに重く受け止められすぎる——どちらも嫌だった。
ただ、図解の上の指は、もう一度、ゆっくりと、輪郭をなぞった。
三 規律という新しい武
昼過ぎ、山県小輔は、語学所の備品台帳と格闘していた。
台帳は、彼が自ら設計したものである。
一方の頁に「入方」——本日入った筆、墨、紙、薪、米、味噌の量。
その対面の頁に「出方」——本日消費された量、塾生に貸し出された量。
糸子が言うところの「複式簿記の最も簡素な形」を、語学所の備品管理に適用したのである。
山県の前に、年少組の一人——杉山松助、二十二——が、頭を下げて立っていた。
「すまんかった。墨を一本、出方に書き忘れた」
「一本」
山県の目が、台帳から杉山の顔に上がった。
「一本じゃ、ない」
「ほうじゃが、わしが書き忘れたんは一本——」
「お前が書き忘れた瞬間、台帳の数字は、合わんようになる。合わん台帳は、もはや台帳ではない。意味のない紙切れになる。一本ではない、台帳全体がぶち壊れたんじゃ」
「……すまんかった」
「謝罪は要らん。書き直せ。日付と、本数と、お前の名を書いて、判を押せ」
「はい」
杉山が黙々と書き直し始めた。
その様子を、伊藤俊輔が部屋の隅から眺めていた。山県小輔の几帳面さは、塾生の中でも有名だった。
情で動かない。私情を一切挟まない。一本の墨でも、規律を曲げない。
(有朋の野郎、相変わらず冷たいのう)
伊藤は心の中で笑った。しかし、笑いの底に、認めるものがあった。
松下村塾で、自分たちは「至誠」を教わった。誠を尽くせ、と。それは魂の問題だった。
しかし、糸子の語学所で、山県が体現しているのは、別の種類の——「規律」という、形のある誠だった。
心が誠であっても、台帳の数字が一本ずれれば、米も墨も、いずれは消えていく。心ではなく、数字が、組織を救う。
山県小輔は、それを誰よりも早く理解した。理解して、自分の体に染み込ませた。
「(情で動くから、長州の軍は脆いんじゃ)」
山県は、台帳に小さな印を押しながら、心の中で呟いた。
「(入方と出方を一分でも違えぬ、この規律こそが、新しい国の形よ)」
筆の音が規則正しく、紙の上を走った。
四 猛虎と農民
夕刻。
商務語学所の表向きの授業が引けると、塾生たちはそれぞれの「夜の役」に散っていく。
松下村塾出身者の多くは、長州藩の江戸藩邸に戻る者と、語学所の宿舎に残って自学する者と、半々である。
年長組——前原一誠、入江九一ら——は、江戸市中の商家を回って「貿易勉強会」の根回しをする。
渋沢栄一は、神田の松屋善次郎の店に向かう。
岩崎弥太郎は、深川の松屋善兵衛の店に向かう。
二人の道は、ある町角で交わる。
その日、その町角で、弥太郎と栄一は鉢合わせた。
いや、鉢合わせ、というのは正確ではない。栄一が、わざと弥太郎を待っていたのである。
「岩崎さん」
「……渋沢か」
弥太郎は、骨太でがっしりとした体躯を、どっかと町角の柱にもたれかからせていた。
二十七歳。土佐脱藩——とはまだ正式にはなっていない、正確には「土佐藩から半ば追い出された下士の倅」である。
父が投獄され、自身も投獄を経験し、人生のどん底をくぐった顔をしていた。眉が太く、口元は荒く、目だけが、暗い泉のように深い光を持っている。
「弥太郎さんよ」
栄一は武州弁で、はっきりと言った。
「今日の岩崎さん、授業中ちっと険しい顔してたんべぇ。なにかしら、引っかかってんのかねぇ」
「……ほんなこと、お前さんに関係ないがぜよ」
土佐弁が、低く唸るように出た。
「関係なくはねえべよ。同じ語学所で、同じ教科書を読んでる仲間だんべ」
「同じ仲——か」
弥太郎が、ふっと笑った。笑った、というより、口の端を歪めた、という方が近い。
「お前さんは、豪農の倅じゃ。藍玉で蔵を建てるほどの家の倅じゃろう。わしは、土佐の郷士の家の、それも下の下の倅じゃ。同じ仲、と気安う言うてくれるな」
栄一の眉が、一瞬、ぴくりと動いた。
「岩崎さん。そりゃあ、ひきょうな言い草だんべ」
「卑怯——か」
「家の格を持ち出されちゃあ、こっちは何も言えねぇべ。けどよ、ここは語学所だ。姫様の語学所なんだんべ。 あすこじゃあ、足軽の俊輔さんも、神童の俊徳坊主も、土佐の岩崎さんも、武州の渋沢も、同じ机に向かうんべぇ。それが姫様の流儀じゃねえんべぇか」
「姫様の流儀——」
弥太郎の目が、暗く光った。
「『合本』ちゅうやつかえ。銭を出し合うて、手柄を出し合うて、平等に分け合う——」
「ああ、合本だべぇ」
「……銭を出し合うて、平等に分け合う? そんな綺麗事で、この弱肉強食の世界を、生き抜けるかえ!」
弥太郎の声が、町角に響いた。
「親父が獄へぶち込まれた時、平等に助けてくれた奴が、おったかえ?わしが牢に放り込まれた時、合本で銭を出い合うてくれた奴が、おったかえ?ありゃせん。誰一人、おらんかった!助かるんは、自分の腕で這い上がった者だけじゃ。情けは、強者のする慈善じゃ。弱者がそれに頼ったら、永遠に弱者じゃ」
「弥太郎さん——」
「合本など、強者が弱者を抑え込むための、新しい鎖よ。『みなで一緒に』と聞こえはええが、結局は、銭を出した順、口の達者な順に並ぶ。並びの最初におる者が、最後まで全部持っていく。違うかえ!」
栄一は、しばし黙った。
黙ってから、ゆっくり、しかし強く、言った。
「……一人で勝っても、国は立たねぇんだんべよ、岩崎さん」
「ほう」
「あんたが言ってるのは、勝者の話だんべ。勝った者が一人で全部持ってっちまう話だ。けどよ、その下に、何人の負けた者がいる? 藍玉の商売やってきて、俺は嫌っていうほど見てきたんだ。
一人の大商人が儲けりゃ儲けるほど、その下の百姓は痩せ細っちまう。そうやって積み上げた富は、ある日、ぽきりと折れるべ。そうやって、いくつもの大商人が消えてったんべぇ」
「……」
「民草の力を、一つに束ねるんが、これからの商いだんべ。一人で勝つんじゃねぇべ。皆で勝つんだ。皆で勝てる仕組みを作るんが、合本だ。鎖じゃねぇ、束だんべ。一本の藁は折れるが、百本の藁は折れねぇべ」
「ふん」
弥太郎は、鼻を鳴らした。鼻を鳴らしてから、しかし、しばらく黙った。
しばらく黙って、それから、低い声で——
「……綺麗事じゃ」
しかし、その「綺麗事じゃ」は、最初に言った時とは、ほんの少し、響きが違っていた。
二人の脇を、渋沢平九郎が、無言で素振りをしながら通り過ぎた。
いや、通り過ぎた、ではない。
そこに留まって、二人の話を聞きながら、ひたすら、木刀を振っていた。
平九郎の素振りは、剣士の素振りである。雑念を振り払うための素振りではない。
一振りごとに、自分の体軸を確かめる、丁寧な素振りだった。
「……平九郎」
栄一が、弟分に呼びかけた。
「おめぇは、どっち側だんべ」
平九郎は、素振りを止めた。
額に汗を浮かべて、しばらく考えてから、言った。
「兄貴ぃ……俺はよ」
「うん」
「両方、捨てがてぇべ」
「両方?」
「おう。岩崎さんの言うとぉりだんべ、強くなきゃ生き残れねぇべよ。これは、剣も同じだんべ。弱者は斬られちまう。だから強くならにゃ、いけねぇんだ。けどよ、兄貴の言うとぉり、一人で強くなったって、振るう先がなきゃ意味がねぇべ。守るべきもんがなきゃ、剣はただの鉄だんべ」
平九郎は、木刀を肩に担いだ。
「だからよ、俺ぁ、岩崎さんと、兄貴と、両方の話を、もうちっと、聞きてぇんだんべ。今は、決められねぇべよ」
「……」
弥太郎が、初めて、平九郎の方を見た。
まじまじと、見た。
それから、ふっと、口の端を緩めた。
「面白い坊主じゃのう」
「面白くねぇべよ。本気だんべ」
「いや、面白い」
弥太郎は、町角から体を起こした。
「お前さん——名は、なんちゅうたかえ」
「渋沢平九郎」
「平九郎か。覚えとくきに」
弥太郎は、栄一に背を向けて、深川の方角に歩き出した。
歩きながら、誰にも聞こえぬように、ぼそりと呟いた。
「……銭を出し合うて、平等に分け合う…か。ふん」
その呟きは、町角の風に消えた。
しかし、消えた呟きの後ろに、確かに残ったものがあった。
弥太郎の中に、栄一の言葉が、刺さっていた。刺さって、抜けないでいた。
(後で、見ちょれ)
弥太郎は、心の中で誰にともなく言った。
(綺麗事なら、綺麗事のまま、利を生む仕組みに変えてやる。「合本」を、わしの手で、わしの利益に変えてやるきに)
五 地下水脈の勉強会
その夜、神田の一画にある、ある商家の二階に、二十名ばかりの男たちが集まっていた。
商家は表向き、紙問屋である。襖は厚く、廊下にも人を立たせて、声が外に漏れぬように設えてあった。行灯が四つ、四隅に置かれている。
明かりはやや暗く、人の顔の半分に影を落としていた。
上座に座っているのは、前原一誠——二十五である。松下村塾の年長組で、長州藩士としては既に一定の格を持つ。
彼の前に、糸子の教科書第一巻と、村田蔵六が手書きで作った地図——日本列島と、その周りの海路を描いた地図——が広げられている。
「ええか、皆」
前原の声は低く、しかしよく通る。
「今夜、お話しすることは、商業の理屈の体裁を取っちょるが、その実は――日本という国が、これからどう生きていくか、という話なんちゃ。」
集まっている者たちの顔は、雑多だった。
長州藩士が三人。土佐藩士が二人。江戸の中堅商人が五人。旗本の三男四男が四人。あとは、肥前と福井の若い藩士が一人ずつ。
全員、糸子が「ここなら漏れぬ」と判断した、選び抜かれた人選である。
前原は、地図の上に指を置いた。
「まず、この日本という国の形を、見てもらいたい。山がちで、田畑の取れる土地は限られちょる。じゃが——周りを、海が囲んじょる」
「海……」
「そう、海じゃ。海は、塞ぐものではない。繋ぐものじゃ。海を恐れる国は、海に殺される。海を使う国は、海で生きる」
前原は、地図の上を、英国から始めて、清国を巡り、日本に至るまで、指でなぞった。
「イギリスは、海洋国家として世界を支配しちょる。彼らの強さは、軍艦ではない。
海路を商いに変える知恵じゃ。インドの綿を英吉利に運び、イギリスで布に織り、その布を清国に売り、清国の銀を吸い上げて、イギリスに持って帰る。一回の航海で、三度、利を取る。これが、海洋国家の商いじゃ」
「……」
「日本も、海洋国家になれる。なるしかない。畑だけで食うとる時代は、もう終わりじゃ」
部屋の壁際で、二人の男が、腕を組んで、立っていた。
近藤勇と、伊東甲子太郎である。
近藤は、いつもの通り、どっしりとした体躯で、正面に立っている。
伊東はその隣で、腕を組んでいた。
近藤は、前原の話を聞きながら、半分は目で部屋全体を見回している。
誰がどこに座って、誰の表情がどう動いているか——それを記憶している。
糸子が後で「あの夜の集いで、どの者が一番熱心であったか」と問うた時に、淀みなく答えるためである。
伊東は違った。
伊東は前原の話そのものに、引き込まれていた。
(……海洋国家、か)
伊東は心の中で、その言葉を反芻していた。
(私は、元より、常陸の藩士の嫡男だ。筆を執り、皇国を想って、尊王の志ゆえ真の士へと至った。
だが、武士の理において、利のみ追うは卑俗。義士は利を口にせず。それが至誠であると、私は信じていたのです。天下を正す、その大義の為ならば……)
伊東の唇が、わずかに動いた。
(しかし、この御方の論を聞けば……いや、姫君様の説く道を見極め確信した――利は…卑俗なものではない。
利こそ、天下の根幹そのものだ。民の営みを知らぬ武士は、皇国を守る大義を掲げて、その実、国を滅ぼす過ちを犯しかねぬということか)
近藤が、伊東の脇腹を、軽く肘で突いた。
「伊東」
「……はい」
「お前、入り込んでねえか」
「いや、入り込んでなどいませぬ」
「目がいってるぞ」
「気のせいです」
近藤は薄く笑った。
「我々、旭狼衛の本分を忘れるなよ。伊東…」
伊東は頷きながら答えた。
「わかっています。そこだけは、ブレないつもりです。近藤殿…」
近藤勇という男は、剣の腕は立つが、人を読む目は土方ほどには鋭くない。しかし、旭狼衛の隊士のことだけは、誰より注意深く見ていた。
(伊東は、変わるかもしれねえな)
近藤は心の中で思った。
(姫様のところに来てから、伊東の中で、何かが変わり始めてるのかもしれん。剣だけで世を渡る時代じゃねえと、薄々勘づいているのかもなぁ。伊東は賢いから、変わる時はぐっと変わるぞ。
しかし、我々のすることは今も、これから先も変わらない。姫様、近衛家を守護することこそが、本懐だ。そこだけは決して間違えちゃならねぇ。それだけは俺が間違えさせない)
前原の声が、続いていた。
「最後に、ひとつ。ここで申し上げたことは、この部屋の外じゃあ、語っちゃあいけん。
これは秘密じゃあなか。ぶち、口にする時期と、口にする相手を、皆が選ばんにゃあ、せっかくの種が、雪に押し潰されてしまうけぇ。
今は、根を張る時っちゃ。芽を出すのは、もう少し春が来てからじゃ。」
部屋の男たちが、無言で頷いた。
六 別れのライセンス
数日後の、朝である。
その朝、商務語学所の講堂は、いつもよりやや早く、塾生たちが集まっていた。
誰も口には出さないが、皆が知っていた——今朝、あの三人が、姿を見せる、ということを。
吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞。
三月余、糸子の一橋上屋敷で、姫様じきじきの個別特別授業を受けてきた、三人。
その三人が、特別終了課程修了証書を懐に、長州一時帰還の前に、語学所に挨拶に来る——という。
障子が開いた。
冬の朝の、白く乾いた光が、廊下から流れ込んだ。
最初に入ってきたのは、吉田松陰だった。
松陰の身なりは、相変わらず質素である。麻の小袖に、地味な羽織。しかし、目だけは、変わっていた。
以前は、目から狂気が溢れ出していた。今は——溢れ出さず、奥に沈んでいた。沈んだまま、確かに燃えている。
それが、より深く、より静かに、しかし以前より、はるかに広い範囲を照らす光になっていた。
次に、高杉晋作。
着物は、相変わらず崩した着こなしで、袖口を少しだけまくっている。涼やかな面立ち。口元には、いつもの、何を考えているのか読みづらい笑み。
しかし、その笑みの輪郭が、三月前より、少しだけ、澄んで見えた。
最後に、久坂玄瑞。
一点の崩しもない身なりで、髷も襟も、整っている。眉は濃く、眼光は鋭く、口は固く結ばれている。
三月前と変わらないように見える。が、よく見ると、立ち姿の重心が、変わっていた。前のめりではない。地に、しっかりと、根を下ろしている。
三人は、講堂の中央に進んで、それぞれの懐から、紙を取り出した。
糸子の署名が入った——特別終了課程修了証書。
近衛家の家紋の、淡い透かしが入っている。文字は、糸子自身の筆だった。
その紙を見た瞬間、講堂が、しんと静まり返った。
誰も声を出さなかった。出せなかった。
その紙の重みを、全員が、体で感じていた。
松陰が、まず、口を開いた。
「諸君」
澄んだ声だった。狂気の鋭さは、もう、ない。代わりに、深い静けさがある。
「この三月余、私は姫様のもとで、多くを学び申した。何を学んだか、ということは、ここでは申しませぬ。
それは、私一人の血肉となるべきものであり、語って減らすものではないからである」
「……」
「ただ、一つだけ、諸君に伝えておきたいことがある」
松陰は、塾生たちを、ゆっくりと見渡した。
「この国を知りなさい。異国を知りなさい。そして——己の限界を知りなさい」
「……」
「焦るな。焦って動いた者は、必ず、己と仲間を傷つける。諸君らの居場所は、必ず、姫様が用意してくださる。
それまでに——この語学所で習う一字一字を、自分の血肉と為しておきなさい。血肉となった知恵だけが、本番で、諸君を支える」
松陰の声には、押し付けがましさは、なかった。
ただ、祈りのような響きがあった。
次に、高杉晋作が、進み出た。
高杉は、修了証書を、ひらりと一度、手の中で回してみせた。
その所作には、いつもの、人を食ったような余裕があった。
しかし、目は、笑っていなかった。
高杉は、まっすぐに、講堂の前列に座っている伊藤俊輔の前に立った。
立って、修了証書を、伊藤の鼻先に、すっと突きつけた。
「俊輔」
「……はい」
「お前にゃ、まだ早いか」
伊藤の頬が、わずかに、こわばった。
「じゃが――この紙一枚で、わしは、長州の兵糧を、十倍にしてみせる。見ちょけ。」
「……っ」
「お前の周旋の腕は、わしも認めちょる。じゃが、お前の腕は、まだ、刀っちゃ。刀じゃのうて、糧道にせえ。刀は、糧道のあるところでしか振れんのど。」
伊藤は、唇を噛んだ。噛みすぎて、血の味がした。
「……はい」
「ええ返事じゃ」
高杉は、にやりと笑って、修了証書を懐に戻した。
最後に、久坂玄瑞が進み出た。
久坂は、修了証書を懐から出さなかった。
代わりに、両手を、後ろに組んだ。背筋を伸ばして、塾生たちを、厳しく見渡した。
「皆」
声は低い。
「歯がゆかろう」
「……」
「ここに残された者は、皆、歯がゆかろう。先輩三人だけが、上屋敷で、姫様じきじきに学び、修了証書を頂いて、お役目を授かって、長州へ発つ。残った者は、ここに残って、座学を続けるしかなか。悔しゅうて、たまるまいが。」
講堂の何人かが、目を伏せた。伊藤も、山県も、目を伏せた。
「じゃが——」
久坂の声が、ほんの少し、柔らかくなった。
「その悔しさが、知恵を研ぐ砥石になるんちゃ。砥石がのうて、刀は研げん。今、お前たちが感じちょる悔しさは、お前たちの刀を、これから誰よりも鋭くする砥石じゃあ。捨てるな。胸に抱いて、ここで爪を研げ。姫様を、信じよ。」
「……」
「姫様は、かならーず、おまえら一人一人の場所を、見ちょる。見ちょるからこそ、急がせはらせんのよ。じっくり、深く、根を張れ。根を張った者から、姫様が、声かけちゃる。それまでは——耐えちょれ」
久坂は、頭を、深く下げた。
残された塾生たちが、それぞれの場所で、頭を下げ返した。
三人が講堂を出ていく時、誰も声をかけられなかった。
ただ、廊下で、平九郎だけが、ぼそりと言った。
「……立派だ」
心からの言葉だった。
七 残された者たち
三人が去った後の講堂は、奇妙な静けさに包まれていた。
松下村塾出身の若者たちは、それぞれの席に戻っていたが、誰も筆を執らなかった。
伊藤俊輔は、机の前で、両拳を膝の上に置いていた。膝の上で、拳がじりじりと震えていた。
彼の頭の中で、高杉の声が、繰り返し鳴っていた。
「お前にゃ、まだ早いか」
悔しい——というだけではなかった。
その悔しさの底に、もう一つ、別の感情があった。
(あの方々の背中に、かならーず、追いつく。いや、追いつくだけじゃあ足らんと。追い抜いて、見ちょれよ)
追い抜く、と心で言った瞬間、自分の小ささが、改めて見えた。
(じゃが、追い抜くためには——何が要るか)
伊藤は、自分の問いに、自分で答えた。
(沈黙じゃ。村田先生が、わしに教えた、沈黙じゃ。沈黙いう弾丸を、わしは、まだ、一発も持っとらん)
伊藤は、机の上の教科書、第二巻を、ゆっくりと開いた。
山県小輔は、自分の机で、台帳を整えていた。
筆を握る手に、いつもより力が入っていた。筆軸が、ぎりっと音を立てた。
(俺は、長州の軍を、鉄の規律で固める)
山県は、自分に言い聞かせた。
(高杉さんは、銭で長州を強くする。久坂さんは、論で長州を動かす。じゃったら俺は——軍で、長州を変える。情で動かん、入方と出方を一分でも違えん、そんな軍を)
筆軸が、もう一度、ぎりっと音を立てた。
手が震えている、ということを、山県は、認めた。
岩崎弥太郎は、語学所の片隅、薄暗い場所に立って、講堂を出ていく三人の背中を、じっと見ていた。
弥太郎の手の中には、まだ、修了証書はない。
彼は、長州ではない。土佐から流れてきた、名もなき郷士の倅である。
それでも、糸子は、彼を語学所に入れた。それ自体が、一つの恩義だった。
しかし、恩義だけでは、弥太郎の心は、動かない。
(あの紙切れ一枚で、藩が変わるんかえ)
弥太郎は、心の中で呟いた。
(紙一枚で、人の格が変わる。紙一枚で、銭の流れが変わる。紙一枚で、藩の兵糧が十倍になる、と高杉が言うた。あの男は、空言を言う性質じゃないぜよ。あれは、本気じゃ)
弥太郎の目に、暗い火が灯った。
(面白い。わしも、必ず、掴み取ってやる。あの紙切れ一枚を。いや——あの紙切れ以上のもんを)
渋沢栄一と、平九郎は、互いの肩を、ぽんと叩いた。
言葉は、要らなかった。
「兄貴ぃ」
平九郎が言った。
「おれたちも、こん江戸で、根ぇ張んねぇとあんにゃーな」
「あーよ」
栄一は、短く返した。
「平九郎、やるべ」
「やるよ、兄貴」
飯田俊徳は、机の上の蘭書を、そっと閉じた。
閉じた表紙の上に、両手を置いて、しばらく、目を瞑った。
飯田の頭の中で、未来の地図が、少しずつ形を取り始めていた。
藩が変わる。国が変わる。それは、剣でも、議論でもなく——鉄の塊が動き出す日に、本当の意味で、変わる。
その時のために自分は、今、何を学ぶべきか。
飯田は、目を開けた。
目を開けて机の脇に積んであった、村田蔵六の手作りの蘭和辞書を、自分の方に引き寄せた。
八 春光の唱和
門出の、陽光の中である。
江戸の空は、高く澄み渡っていた。
北の空に、白い雲が、淡く流れていた。
門前の方から、砂利を踏む足音が、六人分、響いてきた。
吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞。
そして護衛の土方歳三、斎藤一、結城誠一郎。
長州への旅装である。
先ほど、糸子たちに見送られ、三人は晴れやかな面持ちで、自分たちの足で、西国の方角へ、歩き始めていた。
三人は、振り返らなかった。
振り返れば涙が零れる、ということを、三人とも知っていた。
その同じ陽光の下、商務語学所の講堂には、いつの間にか、塾生たちが集まり始めていた。
誰が呼びかけたわけでもない。
松下村塾の出身者たちは、中庭から、ぱらぱらと講堂に入ってきた。伊藤、山県、入江、前原、品川、山田、飯田——年長から年少まで。
渋沢栄一が、内から、静かな熱を帯びながら入ってきた。後ろに平九郎。
最後に、岩崎弥太郎が、深川から歩いてきて、土間で草履を脱いだ。
誰も、何も言わなかった。
誰かが、教科書の第四巻を開いた。
第四巻——海運・物流・リスク管理の巻。
坂本龍馬の現場の声が、活字になって入っている章。
最初の頁の冒頭に、太い字で、こう書かれていた。
「順風なら十日、逆風なら二十日」
誰が最初に、それを声に出したのか、誰も、はっきりとは覚えていなかった。
ただ、気づいた時には、講堂の中で、低く、しかし力強い声が、唱和になって、響いていた。
「順風なら十日、逆風なら二十日……」
「順風なら十日、逆風なら二十日……」
武州の訛りも。山口の訛りも。土佐の訛りも。江戸の言葉も。
全部が混じった声だった。
混じったまま、しかし、一つの調子に寄っていく声だった。
初春の朝の柔らかな光と、墨の匂いと、梅の香りの残る風の中に、その唱和が、低く、低く、染み込んでいった。
障子の外で、高く昇った陽が、庭を、鮮やかに、照らし始めていた。
九 優雅な午後
松陰たちが旅立った翌日の昼過ぎ、一橋上屋敷の奥御殿の、糸子の私室は、別の風景の中にあった。
部屋は、暖まっていた。
火鉢の炭が、ほうじ茶色に熾きていて、部屋全体に、柔らかい温度を回していた。
床の間には、紅梅が一枝、活けてある。香炉から、伽羅の香りが、薄く立ちのぼっている。
糸子は、その部屋の中央で、座布団の上に、ちょこんと坐っていた。
白い小袖に、桜色の打掛。髪は、まだ朝の早い時間ということもあって、簡素に結われている。
膝の前には、小さな漆塗りの折敷があり、その上に、湯気の立ちのぼる新茶と、季節の干菓子——梅花の形を象った白い練切——が並んでいた。
糸子の右手の指が、その梅花の練切を、上品につまみ上げた。
一口、口に運んだ。
ほんのわずか、目元が緩んだ。
「……んん」
糸子は、小さく息を漏らした。漏らしてから、もう一口。
葵が、その様子を、わずかに離れた場所から、にこにこと見ていた。
障子の向こうから、近藤勇の声がした。
「姫君様。よろしいでしょうか」
「お入りなさい」
近藤が、廊下で正座のまま、障子を開けた。
近藤の後ろに、小夜の影が見える。小夜は、糸子の侍女の一人で、控えめだが耳と目のいい娘である。語学所の動静を、葵が手配する形で、小夜が定期的に観察し、報告していた。
「ご報告に上がりましてございます」
「はい」
近藤が、語学所の様子を、淡々と報告した。
伊藤俊輔が村田蔵六の沈黙に屈して値を下げ、その後悔しさで第二巻を読み返していること。
山県小輔が備品台帳を一分の狂いも許さず管理していること。
飯田俊徳が蘭書の蒸気機関の図解に夢中になっていること。
岩崎弥太郎と渋沢栄一が町角で「合本」を巡って言い争ったこと。
渋沢平九郎が両者の間で素直に「両方捨てがたい」と言ったこと。
前原一誠の貿易勉強会が静かに広がっていること。
伊東甲子太郎がその勉強会に、熱心に耳を傾けていたこと。
そして、旅立つ前日の朝、松陰、高杉、久坂の三人が、講堂で塾生たちに別れの言葉を残したこと。
糸子は報告を、ゆっくり頷きながら聞いていた。
聞きながら、もう一つ、練切をつまんだ。
「……高杉と、久坂と、中二総帥は、無事、旅立って行きましてございますね」
「はっ」
「これで——少しは、平和になって、少しのんびりでれば…とおもいまする」
糸子は、小さく息を吐いた。
その息の中に、心からの安堵があった。
「それから姫君様、伊東のことで少々……」
近藤は糸子の前で静かに頭を下げた。
「伊東は今、前原殿の説いた『海洋国家』の覚え書きを、穴が開くほど読み返しております。
あやつは気づいてしまったのですな。武士が銭を卑しみ、剣の理屈だけで国を語る時代は終わったのだと。
銭の流れこそが国の血脈であり、それを知らぬ者は、国を守るつもりが逆に国を売ることになる……。あいつの目には今、そんな危機感が宿っております」
近藤は少し寂しげに、しかし誇らしげに目を細めました。
「伊東は賢い男です。姫様の影響を受け、いずれ剣を捨て、算盤や地図で国を動かす側へ変わるやもしれませぬ。
古き武士の夢を追う私としては少々寂しくもありますが……あいつが新しい国の形を夢見るならば、私はその影となり、邪魔立てする者をこの剣で斬り伏せるのみ。それが旭狼衛としての、私の本懐にございます」
伊東の知性の変容を認めながらも、自分は不動の盾として生きる。
その近藤の話に、糸子は静かに耳を傾けるのだった。
(伊東甲子太郎って、たしか史実では…新選組を去んだっけ?。御陵衛士を結成…単なる離脱とかじゃなく、近藤や土方の『幕府への忠義』と、伊東の『皇国への至誠』が、同じ器には収まらないと悟ったから。
己の志を貫くため、同志に背を向ける道を選んだ…ということだったな、たしか……)
…そして糸子は近藤に、小声で言った。
「伊東殿のこと、これから注視しておいてくださいませ」
近藤は静か頭を下げるのだった。
「御意」
高杉の機知も、久坂の論理も、松陰の至誠も、それぞれに大切な力である。
しかし、三月余、毎日、あの三人を一橋上屋敷に集めて、自分の言葉で削り出すように教え込み続けた、その重さは、糸子の中に確かに、堆積していた。
その堆積が、今朝以降、ふっと軽くなった。
「葵」
「はい、姫君様」
「お茶、もう一杯お願い」
「はい、ただいま」
葵が、丁寧な手つきで、糸子の湯呑みに、新しい茶を注いだ。
糸子は、湯呑みを両手で受け取って、香りを嗅いだ。鼻先で、ふっと、笑みがこぼれた。
「……それにしても、皆、切磋琢磨しているのですねぇ」
「はい」
「伊藤殿は悔しがり、山県殿は規律を整え、飯田殿は蘭書に夢中、岩崎殿は綺麗事を罵り、渋沢殿は綺麗事を貫き、平九郎殿は両方捨てがたいと言う——」
糸子は、にこにこと笑った。
「皆、頑張ってるねぇ」
「はい」
「青春してるねぇ」
「はい」
「良きかな、良きかな」
糸子は、心から嬉しそうに、もう一口、お茶を含んだ。
お茶の温度が、舌の上で、ゆっくりと、ほどけていった。
糸子の傍で、葵が糸子を見て、にこにこしていた。
葵の心の中で、声に出さない呟きが、流れていた。
(私は、姫君様の幸せそうなお顔が見られて——良きかな、良きかな、でございますよ)
火鉢の炭が、一つぱちりと、小さく爆ぜた。
障子の外で、紅梅の香りが、わずかに揺れた。
近藤勇は報告を終えた後、廊下で深く一礼して、障子を閉めた。
閉めてから、隣に控えていた小夜と、目を合わせた。
小夜が首を傾けて、声を出さずに、唇だけで言った。
(姫君様、お幸せそうですね)
近藤は、頷いた。
頷いてから廊下を、ゆっくりと歩き出した。
歩きながら、心の中で呟いた。
(——ふむ、姫様の御笑みは、いつもおきれいで、おやさしいのだが……なんと言うか、以前よりも、笑いに不気味さが増したような?)
近藤は、慌てて、自分を戒めた。
(まぁ、腹黒さは以前からからあったが…今度は姫君様の御笑みに……不気味さ、などと…)
しかし、それでも——
(今回は、気のせいか?ずいぶん、深い笑いだった)
近藤の足音が、廊下の板敷きの上を、規則正しく、響いた。
奥御殿の障子の向こうで、糸子は、もう一度、練切をつまんでいた。
干菓子の白い梅花を、ぽとりと舌に置いて、ゆっくりと溶かした。
甘さが、口の中に、広がった。
目を、細めた。
目を細めたまま、ふっと、誰にも聞こえない声で——
「……ふふふふ、腐腐腐腐腐腐腐腐」
と、小さく漏らした。
漏らしたというより、にじみ出たという方が正しかった。
糸子はすぐに、表情をいつもの優雅な微笑みに戻した。
戻して湯呑みを、両手で上品に持ち直した。
お茶の湯気が、糸子の頬の前で、白く揺れた。
文久元年の、初春である。
江戸の方々で、若者たちが、それぞれの机に向かい、それぞれの剣を握り、それぞれの帳簿を開き、それぞれの夜明けを迎えていた。
その総和を糸子は、奥御殿の温かい部屋から、ただ一人、優雅にお茶を啜りながら、静かに見守っていた。
書状が届いたのは、そんなゆったりした…ときだった。
警護に当たっていた、旭狼衛の隊士、一ノ瀬隼人が書状を運んできた。
「姫様、失礼致します。中浜殿からの急便でございます」
一ノ瀬隼人は元中津藩脱藩浪士。理心流に馴染むのが早く、沖田の補佐として、普段は若手の指導にあたっている人物である。
「一ノ瀬殿、おおきに」
糸子が書状を、受け取り開いた。
万次郎の文字は達者ではない。しかし、書かれている内容は——
糸子が書状を読み終えた時、しばらく動かなかった。
火鉢の炭がもう一度、ぱちりと爆ぜた。
その音だけが、しばらく部屋の中に残った。
第九十五話 了