作品タイトル不明
第九十四話「そして…それぞれの戦いへ」
一
文久元年、初春。
夕刻
神田橋の内側に構えられた一橋上屋敷の奥御殿は、表向きは静まり返っていた。だが、その静寂は動き出す刻を待つ熱い鼓動を孕んでいる。
庭の黒松が夕日に焼け、ときおり乾いた風が枝を揺らす音が、静寂を鋭く切り裂く。
縁側の向こうには小さな池があり、沈みゆく陽の光がその水面に赤々と、燃え盛る道標のように映っていた。波紋一つない、穏やかな水面だ。
奥御殿の小部屋は、母屋の喧騒からほんの少しだけ離れた場所にあった。
廊下を一つ折れて、庭に面した縁側を渡った先。
普段は客人を迎える正式な広間ではなく、糸子が書状を認めたり、ごく少人数で密談を重ねたりするときに使う、八畳ほどの慎ましい部屋である。
壁は漆喰の白。柱は経年で深い飴色に変じている。床の間には、葵が朝のうちに活けたのだろう、紅白の梅の小枝が一本だけ素朴な竹筒に挿されていた。
香炉から細い煙が一筋立ちのぼり、伽羅の香りがほのかに漂っている。障子を閉め切っているせいで、外の風の音すら遠かった。
二
その部屋に吉田松陰が一人、入ってきた。
糸子は文机の前に座っていた。机の上には、四つの巻紙と、小さな漆塗りの箱が一つ。それから墨痕鮮やかな書きつけが幾枚か、行儀よく重ねられていた。
松陰は障子を後ろ手に静かに閉めると、糸子の正面に進んで正座した。両手を畳について、深く頭を下げる。
その動作が、以前と全く違っていた。三月余前、初めてこの屋敷に通された時の松陰は、礼の作法こそ整っていたものの、目の奥に「自分の方が話すべきことを多く持っている。姫様のお力になれるのは、自分だ」という確信で燃えていた。今はそれがない。代わりに、深い静けさがある。
「吉田殿」
糸子の声は柔らかかった。
「この三月余、お勤め、まことにあっぱれにございました。此度の勉学はいかがでございましょうや?」
松陰は顔を上げた。少しの間、言葉を選ぶように沈黙してから、ゆっくりと口を開いた。
「はい——知らぬことが多く、大変勉強になり申した」
声に、いつもの鋭さはない。代わりに、低く落ち着いた響きがあった。
「正直に申し上げまする。三月余前の私は、自分のことを、ある程度ものを知っている人間だと思うておりました」
「志があり、気概があり、書物も人並み以上には読んでおると。ですが——姫様のもとで一日学んだだけで、その自負がいかに薄いものであったかを、思い知らされ申した」
「吉田殿……」
「銀の流れ、為替の理、貿易の仕組み——私はそれらを、今までは『商人の領分』として、武士の学ぶべきことではないと、心のどこかで蔑んでおったかもしれませぬ」
「しかし、今は違います。これらこそが、国の血脈そのものであった。この血脈を理解せぬ武士が、国を守るなどとは——傲慢にも程があったと、深く恥じ入っておりまする」
松陰は一度言葉を切って、深く息を吸った。
「姫様より頂戴した『血肉に変えよ』というお言葉を、わしは三月の間、毎晩、寝る前に思い返しておりました」
「読んだだけでは知ったことにならぬ。書き写したからとて分かったことにならぬ。自分の言葉として語れて、初めて己のものになると…」
松陰は微かに笑った。
「今のこの松陰は——以前よりも言葉が重くなったと、自分でも感じております」
「軽々に大義を口にできなくなりました。一つの言葉を口にする前に、その言葉の裏に何があるかを、考えるようになりました」
「これならば——姫様のお役に、必ず立てましょう」
糸子は微笑んだ。それは普段の含みのある涼しい微笑みではなく、年相応の、嬉しさが素直に滲んだ微笑みだった。
「それは吉田殿ご自身が、頑張られたに他なりませぬ。わたくしは、ただ書物と問いを差し上げただけのこと」
「それを血肉に変えられたのは、吉田殿の覚悟でございます」
「いや、姫様」
「なれど」
糸子は穏やかに続けた。
「そう思うていただけたことは、ようございました。本当に、嬉しゅうございます」
松陰の胸の奥が、温かいもので満たされた。それは三十一年生きてきて、滅多に味わったことのない種類の温かさだった。
誰かに認められた、というだけではない。自分が変われたのだ、という実感が、姫の言葉によって確かなものとなった——その温かさだった。
松陰は、目元が熱くなるのを必死で堪えた。武士たるもの、たやすく涙を見せるものではない。
糸子は文机の上から巻紙を一つ取り、両手で松陰の前に置いた。
「吉田殿。本日はもう一つ、お願いがございます」
「何なりと」
「萩へ——一時、お戻りいただきとうございます」
松陰の眉が、わずかに動いた。
「萩へ……?」
「はい、長州のご藩士の方々が、今、大切な分岐点に立っておいでです」
「長井雅楽様の航海遠略策と、若いご藩士たちの攘夷の声と——藩の向かう先が、ぐらぐらと揺れておりまする」
「このまま放っておけば、いずれはどちらかに倒れる。倒れてからでは、もう戻れませぬ」
糸子の声が、少しだけ低くなった。
「そこで、吉田殿のお言葉が要るのでございます。わたくしが申し上げるより、藩外の論客が書状を送るより——吉田殿のお言葉の方が、はるかに、はるかに、深く届きましょう」
「……」
「ここで学ばれたことを、是非、長州の方々にお聞かせくださいまし」
「真の敵は異国であること。内戦こそが日本を滅ぼすこと」
「異国は長州と薩摩を戦わせて、その間に国富を奪おうとしておること——これらを、吉田殿のお言葉で、吉田殿の情熱で、お話しいただきたいのでございます」
松陰の目が、見る間に変わっていった。
穏やかに伏せられていた瞳の奥に、火が灯った。三月余前のような、内側から弾けて飛び出しそうな炸裂ではない。深く、低く、しかし確かに燃え盛る、地下の熔岩のような火だった。
「……姫様」
松陰の声が、震えた。
「萩には——若い者がたくさんおります。久坂や高杉だけではない。私の教えた者、私を慕うてくれる者が、今、藩内のあちこちで悩んでおる。何をすべきか、誰に従うべきか、何を信じるべきか——」
「はい、存じております」
「その者たちに、わしの今の言葉を届けることができれば——」
松陰は両手を畳について、深く頭を下げた。
「謹んで、お受け申し上げます。命を懸けて、果たしましょう」
「お命までは、頂きませぬ」
糸子はやや慌てて言った。
「吉田殿には、まだまだ江戸でしていただきたいことが、山ほどございますゆえ。萩でのお役目は、長くて夏の終わり頃まで。秋にはまた江戸にお戻りくださいまし」
「……夏の終わりまで、でございますか?」
「はい。長すぎてはなりませぬ。短すぎてもなりませぬ。火を点けて、その火が広がる前に、一度引かれませ。あとは久坂と高杉が、その火を上手に育てましょう」
松陰は少し考えた。それから、ふっと笑った。
「姫様は——本当に、火の扱いがお上手ですな」
「火傷をしたくないだけでございますよ」
「いやいや、お見事でございます」
松陰は巻紙を恭しく押し戴いた。
部屋の障子の外で、葵が小さく咳払いをした。次の客人を案内する合図だった。
松陰は深く一礼して、立ち上がった。障子に手をかける直前、振り返って言った。
「姫様」
「はい」
「私は——三月余前、ここに参った時、自分は何かを教えに来たつもりでおりました。今、ここを去る時には——何かを学んで帰る者になっております」
「吉田殿…」
糸子は静かに言った。
「教える者と学ぶ者の境がなくなる時、人は本当に強うなくなるのだと思いまする。先生は、強うなられました」
松陰は黙って頭を下げ、障子を閉めた。
廊下に出てから、誰にも見られぬよう、袖でそっと目元を拭った。
三
次に部屋に入ってきたのは、高杉晋作だった。
三味線は持たず、手ぶらだった。それだけでも、いつもの高杉とは少し違っていた。
「お疲れ様」
糸子が短く声をかけた。高杉は正座して、糸子を真っ直ぐに見た。
「姫様」
「はい」
「はなっからおまんに『経済学を学びねぇ』言われた時は、正直、なしてそねーなもんを武士が学ばにゃあいけんのかと、思うちょりました」
「はい、存じております」
「葵殿が見ちょっちゃったんですか?」
「高杉殿の御顔に、はっきり書いてございました」
「……顔に書いとりましたか」
「太字で」
「太字で、っちゅうことですか」
高杉は思わず笑った。低く、短く、しかし確かに笑った。
「今でありゃあ——経済学を学ぶ理由が、姫様の最初に言われちゃったことが、なんとなしに分かりまする」
「いや、なんとなしじゃあない。ちゃんと、分かるんじゃ」
高杉は一度、自分の手のひらを見た。それから、糸子に視線を戻した。
「金の流れが分からんで、国を動かそうなんちゅうんは、海の図面を持たんと舟を出すようなもんじゃ」
「今までのわしは、勘と度胸で舟を漕ぎ出しよった。運がよかったけぇ沈まなんだ」
「じゃが、運だけじゃあ、いつか必ず沈む。そのことが、ようよう分かりました」
高杉は深く頭を下げた。
「姫様には、感謝しちょります」
ぶっきらぼうな、しかし誤魔化しのない言葉だった。
「あなたのお頑張りが、ご自身を変えたのです」
糸子は穏やかに言った。
「わたくしはただ、扉を開けてさし上げただけでございます。そこを通って向こう側に行かれたのは、高杉殿でございます」
「……いやはや」
高杉は頭を掻いた。
「姫様に褒められると、どねえも調子が狂いますん。怒られるんと褒められるんと、わしはどっちか言やぁ、怒られる方が慣れちょるけぇ」
「では、後ほど少々怒っておきましょうか」
「いや、そりゃあ結構ですん」
二人が小さく笑った。
糸子の表情が、ふと、引き締まった。
「高杉。本日は、この後の動きについて、はっきり申し上げまする」
「はい」
「無血近代化計画——これはすでに、高杉にもお話しした通りでございます。なれど、その計画の中で、長州を『最初の柱』に据える、ということは、まだはっきりとはお伝えしておりませんでした」
高杉の目が、わずかに光った。
「……やっぱり、そねーなことじゃったんか」
「お分かりでしたか」
「いや、分かっちょったわけじゃあない。じゃが、姫様がこの三月余り、長州の事情ばっかり聞きたがったり、長州の人間ばっかり集めたりしちょるんを見て、ぼんやりとは思うちょりました」
「ご明察でございます」
糸子は文机から、もう一つの巻紙を取り上げた。
「長州攻略を、本格的に動かします。これは——無血近代化計画の中で、『公議政体』を確立するための、第一歩でございます」
「御門様を頂きにいただきながら、有力な諸藩が合議で日本の行末を決める体制。その第一歩を踏み出す藩として、わたくしは長州を選び申しました」
「……」
高杉はしばらく無言だった。
それから、いきなり膝を叩いた。
「ぶちおもしろい!」
声が大きかった。糸子が驚いたほど大きかった。
「あ、すみませぬ。じゃが——ぶちおもしろい、姫様! 我が長州を、その第一歩に選んでくれたとは! ありゃあ——ありゃあ長州の男冥利に尽きるっちゅうもんじゃ!」
「お声を、もう少し」
「あ、……はい。すんません」
高杉は咳払いをして、声を落とした。しかし目の奥の輝きは、抑えようがなかった。
「姫様。長州は確かに、今、ぐらぐらしちょります。長井派と攘夷派で藩論が割れて、藩主の毛利公も、どっちつかずでおられる」
「じゃが——じゃからこそ、今が好機なんじゃ。倒れる方向さえ間違わせなんだら、長州はこの国の新しい背骨になれる」
「その通りでございます」
「全力でやらせてもらう。命懸けで、やらせてもらいます。わが長州を、姫様の描きんさった絵の、最初の一筆にいたしましょう」
「忝う存じます」
糸子は一拍置いて、続けた。
「具体的には、高杉には、松陰先生・久坂とご一緒に、長州へお戻りいただきます」
「ほう、三人で」
「はい。ただし、お役目はそれぞれに違いまする」
糸子は丁寧に説明した。
松陰は思想の伝道師として、藩内の若手中堅、特に「論理ではなく師の情熱で動く者」たちに直接語りかける。
久坂は書状の名手として、周布政之助、桂小五郎、長井雅楽といった藩首脳・要人への論理的アプローチを担う。
「そして、高杉には——藩内の若手・中堅層を動かしていただきとうございます」
「なるほど、姫様は初めからわしの役回りは考えなついちょったわけじゃ」
「はい」
「藩の最上層に直接働きかけるには、高杉はまだお若い。失礼ながら、今のお歳のあなたに、直接、毛利公に物申せと申し上げるのは、流石に酷でございましょう」
「いや、ようご存じでありますん」
「されど、若い藩士たちを動かす力は、高杉殿が随一だと思いまする」
「同じ世代の者たちが、誰の言葉で動くか——それは、同じ世代の中の、最も突き抜けた者の言葉でございます。藩内のその役は、高杉にしかできませぬ」
「分かりました」
高杉は短く頷いた。それから、少し首を傾けた。
「姫様、一つだけよろしいか」
「はい」
「松陰先生のことじゃが——」
「お察しの通りでございます」
糸子は静かに言った。
「松陰先生を、長州に置き続けてはなりませぬ」
「……やはり、そねーなことになりますか」
「吉田殿は、火を点けるお力が強すぎます。点けた火が広がるまでは、先生がおられた方がよい」
「なれど、広がり始めたら、吉田殿を一旦、その場から引かねばなりませぬ。そうでなければ、火は止まらぬところまで燃え広がりましょう」
高杉は深く頷いた。
「先生は、過激な弟子に取り囲まれると、ご自身も過激な方に引っ張られるところがあられちゃったけぇのう」
「ご存知でしたか」
「弟子じゃけえ、一番ようく知っちょります」
「ですので、夏の終わりには、必ず江戸へお戻ししとうございます。その間、吉田殿のおそばで——熱を上げすぎぬよう、上手に手綱を引いていただきとうございまする」
「承知しちょります」
高杉はにやりと笑った。
「先生を御するんは、わしと久坂が一番慣れちょる。お任せちょって」
「お頼み申しまする」
「はい」
「久坂と二人で先生をお守りする、ちゅうことは——わしと久坂で、また喧嘩する羽目になるっちゅうことじゃ」
「吉田殿のため、と思うてくださいませ」
「先生のためでありゃあ、まあ、喧嘩も少しは控えますん」
「少しは、でございますか?」
「全部は無理じゃ。あいつ、腹立つこと言うけえ」
糸子は少しだけ笑った。
高杉が下がっていく時、障子のところで一度立ち止まった。
「姫様」
「はい」
「わしが三月余前、二度ほど荷物を玄関まで持っていったんを、旭狼衛から聞かれちょると、修了式で言われましたな」
「申しました」
「ありゃあ、本当は三度なんじゃ」
「……三度でございましたか」
「旭狼衛が見落としたんが一度ある。夜中に庭づてに門まで行きましたん。じゃが、門を開けようとしたら、そこに先生が立っちょられた」
「吉田殿が?」
「『どこへ行く』と聞かれた。わしは『厠』と答えた」
「夜中に、門のところで?」
「そうなんじゃ。先生は『厠は反対側じゃ』と言われた」
「……それで?」
「それで、わしは引き返しました」
高杉は笑った。
「先生は、わしが逃げようとしちょるんを、最初から知っちょりんさった。じゃが、何も仰らんかった。ただ『厠は反対側じゃ』とだけ」
「先生に、ようやっと、報いる時が来た気がするんよ。今度はわしが、先生を御する番じゃ」
糸子は静かに頷いた。
「お頼み申しまする」
高杉はにこやかに頷いた。
「お任せを」
四
次に入ってきたのは、久坂玄瑞だった。
いつも通り、髪は几帳面に結われ、襟は一分の乱れもなく、手には自分の作った計算書の控えを抱えている。
しかし顔つきが、入ってきた瞬間に、わずかに揺れた。
「お疲れ様」
「……はい」
「ご自身では、いかがでしたか。この三月余」
久坂はしばらく、答える言葉を探していた。机の脚の木目を見つめて、少し考えてから、ゆっくり口を開いた。
「正直、言わせてもらいますが」
「はい」
「ちょっと——名残惜しいなっちゃったね」
糸子の目が、少しだけ大きくなった。
久坂玄瑞という男の口から、まさかその言葉を聞くとは、糸子も予想していなかった。
「この度は、ぶち大変じゃったね。寝る間も惜しんで計算して、辞書をにらみながらオランダ語の頁をめくって、姫様の問いにゃあ毎日のように頭を抱えて——三月前のわしに『これからこれをやれ』と言うたなら、速攻で断っちょったろうね」
「であろうと存じます」
「じゃが——毎日が、ぶち、充実しちょりました」
久坂は控えめに、しかし確かに笑った。
「学ぶことが、こねーにおもしろいもんじゃったかと、ようやく思い知り申した。経済学は、まだ全部を習うたわけじゃあないんじゃろう?」
「とんでもございませぬ。わたくしがお教えしたのは、ほんの入り口に過ぎませぬ」
「……ほんの、入り口、ありゃあで?」
「入り口にもなっておらぬかもしれませぬ。引き出しの隅にある、入り口の見取り図、くらいのものでございます」
「それは大変じゃ」
久坂はやや本気で唸った。
「ありゃあ、いつか、ちゃんと勉強してみとうございます。今はまだ、お役目があるけぇ、できんのじゃが——いつか、時が許す日が来たら」
「いずれ、ご自身の時間もできましょう」
糸子は微笑んだ。
「その時は、遠慮なくおっしゃってくださいませ。久坂なら、いくらでも融通をきかせましょう」
その微笑みを、久坂は真っ直ぐ受け止めてしまった。
受け止めて、固まった。
糸子の微笑みは、いつも涼しい。涼しいまま、人の胸の奥を一突きしてくるところがある。
十三歳の姫の微笑みであるはずなのに、なぜそれがこれほど胸に効くのか、久坂は自分の理屈で説明できなかった。
「……」
「久坂?」
「あ、いや、その…」
久坂はわずかに耳の先を赤くした。
普段の冷静な彼からは想像もつかない素の表情が、ほんの一瞬、零れた。
「姫様の——先生役も、悪うはございませんでした。またいつか、教えてつかあさい」
言ってしまってから、自分でもややぎょっとしたらしい。久坂はすぐに咳払いをした。
「あ、いや、その…本心であります。お世辞じゃあございませんけぇ」
「まぁ、久坂殿はお上手ですね」
糸子はくすくすと笑った。
「お上手なんかじゃあございません……ほんまに……」
「分かっておりまする。からこうただけでございます」
「姫様も、人が悪うございますねぇ」
「少しは、ね」
久坂は咳払いをもう一度した。耳の赤いのを誤魔化すように、計算書を撫でた。
糸子は、本題に移った。
「久坂。長州攻略決めました。本格的に動きます」
久坂の顔が、ほんの一瞬で引き締まった。先ほどまでの照れた色は、跡形もなく消えた。
「無血近代化計画の中で、『公議政体』を確立する、第一歩。長州を、その最初の藩と致しまする」
「………承知いたしました。心得なした」
久坂は両手を畳について、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せに存じます。誠心誠意、ここで習うたことを活かして、務めさせていただきます」
「具体的には…」
糸子は続けた。
「久坂には、論理担当をお願い致したく」
「論理担当?」
「ええ。久坂の書状の力は、わたくしも聞いております。長州各地の志士に膨大な書状を送られ、書状一通で人を動かすと…」
「人聞きが、わやですよ」
「褒めておりまする」
「……ありゃあ、まあ」
糸子は丁寧に説明した。まず村田蔵六から書状による紹介を取り付け、その上で周布政之助に接触する。
周布は今、長井雅楽の航海遠略策と、急進攘夷派の間で引き裂かれている。久坂の論理が向いている相手だ。
「周防殿には、こう申し上げてくださいませ」
糸子は文机から、自分が下書きした文案を取り出した。
「『真の敵は、異国を憎んでいるからではございませぬ。真の敵は、日本国内で争うておる我々自身でございます。薩摩と長州が内で争えば、その間に異国がこの国を食い物にする」
「公議政体——藩が合議で日本の方向を決める体制——こそが、外国に負けない日本を作る唯一の道でございまする』——大意はこのようなものと…」
久坂は文案を受け取り、目を走らせた。読み終えてから、しばらく考えて、それから言った。
「……ありゃあ、長井雅楽様の航海遠略策を、否定せん書き方になっちょりますな」
「お気づきになりますか、さすがでございます。」
「『公武合体』も『開国』も、長井殿のお考えと、根っこは同じであります。違うのは、その先——薩摩や他藩を巻き込んで、合議で動かすか、長州一藩で先んずるか——その一点じゃ」
「左様でございます」
糸子は穏やかに頷いた。
「長井殿を排除するのではござりませぬ。長井殿のお考えを、より大きな枠組みに吸収する。長井殿にとっても、その方が藩内での立場が安定致しましょう」
「……お見事なもんじゃ。恐れ入り申した」
久坂の目に、純粋な感嘆が浮かんだ。
「敵を作らん。味方の数を増やす。その上で、自分らの目指す方向に、全体を引き寄せる——これが、真の意味での『戦わずして勝つ』いうことでありますか」
「久坂の仰る通りでございます」
「……承知つかまつりました」
久坂はもう一度、深く頭を下げた。
「周布様、桂様、長井様——それぞれに、書状を送り申します。一通で動かんのなら、十通。十通で動かんのなら、百通。書き続けまする」
「百通は書きすぎでございます。ご無理なきよう」
「いや、わしは文を書くのは苦になりゃあしませんけぇ」
「それでも、お体は一つでございますよ」
「……配慮致します」
糸子は、もう一つだけ確認した。
「それから、久坂。吉田殿のことでございまするが」
「先生のことで…?」
「吉田殿は、長州にお戻りになると、必ず、過激な方々に取り囲まれましょう。その時、吉田殿のお考えが、わたくしの方針の枠を超えぬよう——」
「分かっちょります」
久坂は静かに言った。
「先生がはみ出しそうになったら、わしと高杉で、引き戻します。夏の終わりまでには、必ずや先生を江戸へお返し致します」
「忝う存じまする」
「それと、姫様」
「はい」
「あの……高杉と二人で先生をお守りする、ちゅうのは——」
「高杉も、同じことを仰っていました」
「あいつも、そう言うちょりましたか」
「『また喧嘩になる』と」
「……喧嘩はせんように、努力致します」
「久坂らしゅうない発言でございますね」
「先生のため、であります」
「先ほど高杉は『腹立つことを言うから全部は無理だ』と仰っていましたが」
「あいつぁ、ほんまに……」
久坂は深い溜息をついた。
久坂が下がっていく時、廊下で擦れ違いざまに高杉の声が聞こえた。
「お、終わったんか」
「お前、何で待っちょるんじゃ」
「茶ぁ飲んじょったら時間が経った。お前さん、耳のぶち赤いぞ」
「……寒いからじゃ」
「春先じゃがね」
「だまちょれ!」
障子の外で、二人の小声の応酬を、糸子は聞いていた。
聞きながら…今度は声を立てずに、口元だけで笑った。
五
最後に入ってきたのが、坂本龍馬だった。
龍馬は障子を開けるなり、いつも通りの大柄な体を屈めるようにして、にこにこと笑いながら部屋に入ってきた。
それから、もったいぶって正座した。
「お疲れ様。いかがでございましたか?」
「いやー、最初に話を聞いた時は、『ええ……これからずっと、机の前で勉強しなあかんがか』思うて、こりゃ困ったぜよと、正直、頭を抱えちょりましたきに」
「存じております」
「誰か見ちょったがですか」
「葵も見ておりましたし、わたくしも見ておりました」
「ええ、姫様まで」
「坂本の頭を抱える音が、廊下まで響いておりました」
「頭抱えちゅう音いうがは、聞こえるもんながやろか?」
「あなたの場合は聞こえまする」
「…………そりゃあ、まっことすごいですき」
龍馬は笑った。
「じゃが、姫様がうまいこと考えてくれたおかげで——三日に一度は外に出してくれて、先生方や久坂や高杉と話す機会も山ほどあって、ただ机に向かうだけの勉強じゃのうて、人と話して頭を回す勉強じゃった」
「それで、わしみたいな頭の悪いもんでも、おもしろく学ぶことができたぜよ」
「坂本は、頭が悪うはございませぬ」
「いや、わしはまっこと、本を読むんが苦手で……」
「ご自身の頭の使いどころが、本の上にないだけでございます。人の上に、世の上に、海の上に——坂本の頭は、そこで初めて回るのです。それは、決して悪いことではございませぬ」
「……姫様」
龍馬は少し、黙った。
それから、ぐっと大きく息を吸って、太い声で言った。
「もう学んだことは、しっかりとわしの血肉になっちゅうがじゃ!」
「まぁ、坂本らしい」
糸子はくすくすと笑った。
「実に頼もしいですね」
「任せちょいてつかあさい!」
「くすくすくす……」
糸子は袂で口元を覆って、しばし笑い続けた。
他の三人の面談では、こうはならなかった。松陰の前では涙ぐむ場面があり、高杉の前では引き締まる瞬間があり、久坂の前では含みのある笑みを見せた。
だが、龍馬の前でだけ、糸子は素直にただおかしくて笑った。
龍馬は、それを少し嬉しそうに見ていた。
糸子の笑いが収まってから、本題に移った。
「さて、坂本。長州攻略を決めました。本格的に動いて頂きまする」
「……」
「無血近代化計画の中で、『公議政体』を確立する、第一歩。その第一歩の藩として、長州を選び申しました」
龍馬は何も言わなかった。
ただ、にやりと笑った。
「やっぱりかー」
「あら?」
「そんな気はしちょったぜよ、姫様」
糸子は、少しだけ目を細めた。
「やはり坂本には、分かっていたのですね」
「いやー、確証はなかったですき。なんとなくです。じゃが、姫様がこの三月余り、わしに薩摩の話ばっかり聞きたがる時と、長州の話ばっかり聞きたがる時が、はっきり分かれちょった。それがどうも、何かの順番に沿うちょるような気がしたがぜよ」
「へー……」
「長州を最初に動かして、その様子を見てから薩摩を口説くっちゅう順番じゃろうと、なんとなく思うたがぜよ」
「なんとなく…実に坂本らしくて、さすがとしか言えませぬ」
「いや、それっ端のことじゃないぜよ」
龍馬は頭を掻いた。
「先生があれだけ熱心に学んでおられたに、その先生を江戸に置き続けるんが姫様の絵だとは、わしは思えなんだぜよ」
「あの先生は、炎じゃき。炎は、炎を要する場所に運ばないかん。江戸でずっと燃やしちょっても、もったいないがじゃ」
「……」
「久坂も高杉も、長州のもんじゃ。三人とも長州じゃ。これで長州を動かさんとは、ちっとも考えられん。それで、何となく絵が見えちょったがぜよ」
「坂本は——」
糸子は少し感心した声で言った。
「やはり、ご自身が思うておられるよりも、ずっと頭が回っておられます」
「いや、勘ですき。まっこと、ただの勘ぜよ。」
「その『勘』の鋭さこそが、坂本の最大のお力でございますよ」
「そうかのぉ……」
龍馬は照れたように笑った。
糸子は、龍馬の役割を説明した。
「坂本は、長州の中には入れませぬ。長州人にとって、坂本は他藩の者でございます。長州内での説得力には、限界がございましょう」
「そうじゃろうと思うたぜよ」
「ですので、坂本は、長州の外で——長州の味方を増やす役をお願い致したく」
「長州の外、で」
「具体的には、薩摩、土佐、福井——坂本の動ける範囲を、全活用していただきます」
「ほうほう」
「この藩々を回って、こう、お訴えくださいませ。『長州や他藩が朝敵になるような事態になれば、日本が割れる』と。『真の敵は、日本国内で争うておる我ら自身ではない。海の向こうから来ておる異国じゃ』と」
「異国の代理戦争論……っちゅうがぜよな」
「ええ。そして、こうもお訴えくださいませ。『なぜ異国がこの国にやってくるのか。それは、この国の金が、銀を介して、毎日海の向こうに流れ出ちょるからじゃ。その流れを止めぬ限り、いずれ薩摩も、土佐も、福井も、骨まで吸い取られる』と」
「…その点は最早詳しく述べなくとも、今の坂本ならば理解し、上手くやれるでございましょう」
「分かったき、姫様の期待に応えるきね」
龍馬は深く頷いた。
「異国を悪者にして煽るんやのうて、『一致団結せにゃ全部潰される』ゆう話で、味方を増やしていけばええがやな」
「左様でございます」
「これは——わしの得意分野ぜよ。机に向かうんは苦手やったが、人に会うて話すんは、息するんと同じくらい得意ぜよ」
「存じております」
「任せてつかあさい! 薩摩を回って、土佐に顔を出し、さらには福井で松平春嶽公にお目通りして……」
「まずは、薩摩でございますよ」
「分かっちゅう」
「先ほどの予行演習の通り、まずは薩摩のお重鎮への根回しから。本番は、もう少し先になりましょう」
「了解じゃ」
糸子は姿勢を正す。
「それから…坂本。貴方には二点ほどお話がごさりまする」
「なんながですか?、姫様」
「まず一点目、あなたはこれから九州の地に赴きまする。以前、お話をお聞き致しましたが、今も長崎には…貴方のお仲間が、いらっしゃるのですよね?」
「近藤長次郎ちゅうやつと、沢村惣之丞ちゅうもんがおるはずじゃき」
「前に姫様から貰うた書状に書いてあった……長崎を中心とした貿易商人との接触、異国の商人と繋がりを持てる人間を捜せ、商売の種をさらえ……ちゅう件で、動いちゅうはずながです」
「そうでございましたね」
「それでは坂本、こちらを…」
糸子は脇に置いていた書状を一通、龍馬の前に差し出す。
「……この書状は、なんぞね?」
「道中に、お読みくださいませ」
「これから諸藩を巡るがとは、また別の用事かのう?」
「…お読みになればわかりまする」
「わかりました、姫様。道中に必ず読みますき」
「それから…二点目。もしあなたが誰の意向で動いているのかを、知らせなければならないときには、以前お渡しした『近衛家牡丹の紋の入った扇子』をお見せなさい」
龍馬は真面目な顔をする。
「あれは大切に扱って、しまってあるきに」
真剣な顔を見せる糸子。
「更に相手が、相応の人物で坂本の口から直接聞きたいと言われたら、『近衛家』の名を言いなさい」
「そして…相手が更に踏み込んできた場合、答える必要があると…坂本が判断したならば、わたくしの名を『近衛糸子』の名前を出しなさい」
「わたくしの名を出す判断は坂本、あなたに委ねまする」
驚く龍馬。
「が、がえっ? 姫様……そりゃあ、大丈夫ながぜよ?」
「いや、けんど……」
優しく微笑む糸子。
「坂本が心配することではありませぬ」
「わたくしもすでに覚悟は決めておりまする。今後は『朝廷の使者』『近衛家の姫』だけでは、厳しい場合もありましょう」
「わたくしは坂本、あなたを信じまする」
龍馬は姿勢を正し、糸子に深く平伏する。
「姫君様のお覚悟とお言葉、しかと胸に刻み申した」
「この坂本龍馬、姫君様の名を出すときは、最早これまでと覚悟した折にしか……出さぬことを、八百万の神に誓って、お約束仕る」
頭を下げる糸子。
「よろしゅうおたのみ申します」
六
葵が吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬の四人を再び一同に集めた。
糸子は四人の役割を、改めて整理して四人に伝えた。
「吉田殿は、思想の伝道師として萩へ」
「久坂殿は、論理担当として藩首脳へ」
「高杉殿は、藩内若手・中堅層を動かす役」
「坂本殿は、長州の外でお味方を増やす役」
「これが、これからの皆様のお役目でございます」
糸子は少し笑って、静かに立ち上がった。
座敷の入り口に、四人が再び顔を揃えていた。それぞれの覚悟が、その表情に宿っていた。
糸子がみなの前に出た。
「では、皆様…」
「はっ」
四人が揃って頭を下げた。
松陰が真っ直ぐに顔を上げて言った。
「思想伝道の役、命を懸けて果たします」
糸子が「お命までは結構でございますよ」と苦笑した。
高杉が続いた。
「藩内工作、機を見て動くけぇ」
「機を見るのは、高杉のお得意でございましょう」
「ほめられちょりますな、これは」
久坂が静かに言った。
「論理で要人を口説き落とすけぇ」
「お頼み申しまする」
龍馬が大きな声で締めた。
「諸藩を駆け巡りますきに!」
「お声を、もう少しお下げくださいませ」
「あ、すまんちや。つい、熱うなってしもうたぜよ」
糸子は四人を見渡した。
その視線には、涼しさと温かさが、不思議に混ざっていた。
「それでは皆様、この後、お任せするお役目を、しっかり果たしてくださいませ」
「あなた方ならば、必ずや無事にやり遂げることができましょう。お頼み申しまする」
四人の声が揃って、深く糸子に頭を下げた。
「ははー」
七
四人が下がった後、糸子は奥御殿のさらに奥、家令と隊長たちが詰める控えの間へと足を運んだ。
その部屋は、表向きは「家政の間」と呼ばれていた。糸子の身辺の事務と、屋敷内の警備を統括する場所である。
実際には、旭狼衛の中枢が動く部屋でもあった。
障子を開けると、近藤勇がすでに座って待っていた。隣に土方歳三、その後ろに沖田総司、斎藤一、結城誠一郎、高田陽三郎、小野寺順平——主要な隊士たちが、ずらりと並んでいた。
近藤がぱっと立ち上がろうとするのを、糸子が手で制した。
「そのままで」
「はっ」
近藤は座り直した。糸子は上座に座り、文机に四人の名前を書いた紙を広げた。
「四人を動かしまする」
糸子の声は、奥座敷で四人と話していた時とは、また違う響きを帯びていた。低く、簡潔で、隊長に対する主君の声だった。
「吉田殿、高杉殿、久坂殿の三人を、長州へ。坂本殿を、薩摩へ」
「それぞれに、護衛と、長州・薩摩等内での情報収集と監視を兼ねた、旭狼衛の隊士をつけまする」
「構いませんね」
「御意」
近藤は短く頷いた。
糸子は紙の上を指で示した。
「長州へ赴く三人には、土方殿を隊長として、斎藤殿、結城殿の三名を」
土方が一礼した。
「承りました」
斎藤がほんの少しだけ顎を引き、結城が無言で頭を下げた。
「土方殿を選んだのは、隊の規律と長州藩の諜報があるからでございます」
「吉田殿、高杉殿、久坂殿——いずれも個性の強い方々ばかり。隊士の方が振り回されぬよう、土方殿のお力で、隊全体を統御していただきとうございます」
「お任せください」
土方の声は、低く、無駄がなかった。
「斎藤殿は、隠密の動きを。結城殿は、それに同行して、見たこと聞いたことを、確実に持ち帰っていただきます。お二人とも、口の堅い方々ゆえ…」
「はっ」
「はっ」
斎藤と結城が、ほぼ同時に応じた。
糸子は続けた。
「坂本殿には、高田殿、小野寺殿の二名を」
高田と小野寺が前に出た。
「承りまする」
「承知致しました」
「高田殿は、坂本殿の身辺護衛を主に。坂本殿は人を惹きつけるお方ですが、それゆえに、敵も寄って来やすい。物理的な守りを、お頼み申します」
「高田殿は渋沢殿の件で、坂本殿と行動を共にしていたので、よくお分かりでありましょう」
「はっ」
「小野寺殿は護衛と兼ねて、お金の管理を。坂本殿の動きには、相応の路銀が必要となります。その出入りを、確実に押さえて、わたくしのもとに報告してくださいませ」
「ははっ」
小野寺が深く頭を下げた。元勘定方の子弟である。算盤の音と帳面の墨の匂いが、彼の背骨を作っている。
「皆様」
糸子は全員を見渡した。
「四人は、それぞれの場所で、それぞれのお役目を果たします。なれど、四人とも、まだ若う、熱に流されやすい方々でもあります」
「皆様のお役目は、四人を守ること——そして、四人が道を踏み外しそうになった時に、わたくしに知らせること。これが、両輪でございます」
「承知」
近藤が短く言った。
「我ら旭狼衛、四人を必ずや無事に、お役目を果たさせて見せまする。情報収集も滞りなく」
「お頼み申しまする」
「あと、くれぐれもご無理をしないように、あなた方隊士の命は、かけがえの無いものでございますれば」
糸子は深く頷いた。
八
文久元年、初春。
商務語学所の門前——天朝物産会所が開いている語学所の門の前は、その朝、少しだけいつもと違う空気に満ちていた。
空はよく晴れていた。
冬の名残の冷たさは、まだ朝の空気に残っている。なれど、陽は確かに春のものだった。光が柔らかく、淡く、地面に落ちる影がほんの少しだけ薄くなっていた。門の脇に植えられた梅が、ぽつぽつと白い花をつけ、わずかに香りを漂わせていた。風が一度吹くたびに、その香りが門前に運ばれてくる。
門の前に、四人が並んでいた。
松陰は、長旅用の地味な袴に、頭巾を被っていた。風呂敷包みを一つだけ背負っている。中身は、糸子から贈られた書物と、自分の蘭和の字引、それから、修了証書の入った文箱だった。
高杉は、いつもの通りやや派手めの着物で、しかし三味線は持っていなかった。「萩に置いてあるけえ、向こうで弾く」と、出立前に久坂に説明していた。腰に脇差。背に、軽めの行李。
久坂は、几帳面に整えられた身なりで、書箱を一つ抱えていた。中に、長州各地の志士に宛てた書状の下書きと、糸子から預かった紹介状の数々が入っている。
龍馬は、大柄な体に旅装を整え、刀を一本だけ腰に差していた。その横に、高田陽三郎と小野寺順平が控えている。少し離れて、土方歳三、斎藤一、結城誠一郎の三名が、長州組の後ろに立っている。
門が開いた。
糸子が、葵と護衛の近藤、沖田を伴って、門の外側から入ってきた。
白の小袖に、淡紅の打掛。髪は朝のうちに葵が丁寧に結ったらしく、簪が一本、控えめに揺れていた。
普段の奥御殿の姿そのままで、四人の前に立っていた。
四人とも、一瞬、息を呑んだ。
松陰は、糸子の姿を、改めてしっかりと見た。それから、目元が熱くなるのを感じた。
三月余前、初めてこの屋敷に通された時、松陰は御簾の向こうの姫の声しか知らなかった。それが今、こうして直接、目の前に立っておられる。
それは——三月余という時間が確かにあった、という、何よりの証だった。
松陰の目から、ついに涙が一筋、零れた。
「先生、お顔が…」
「いや、これは——花粉のせいでな」
「梅は珍しゅうありますな」
「春先は色々あるのだ…」
久坂と高杉が、小声で笑った。
久坂は、深く一礼した。一礼の角度が、いつもより少し深かった。
高杉は、一瞬糸子を見つめてから、ゆっくりと一礼した。何か言いかけて、結局は言葉にせず、ただ姿勢で礼を尽くした。
龍馬は、にこりと笑った。
あの大きな、人懐っこい、太陽のような笑顔だった。
「行ってきますぜよ、姫様」
糸子も、微笑んだ。
「あなたたちならば、大丈夫です」
その声には、わずかに——本当にわずかに、震えがあった。
「自信をもって、お行きなさい」
四人が、深く頭を下げた。
頭を上げて、それぞれの方向に向き直った。
松陰、高杉、久坂、土方、斎藤、結城——長州組の六人は、本州を突き進む経路で西へ。
龍馬、高田、小野寺——薩摩組の三人は、海路や九州を目指す経路で南へ。
梅の香りがもう一度、門前を流れた。
九
四人が見えなくなるまで、糸子は門前に立っていた。
葵が後ろで、何度か袖で目を拭った。
糸子は何も言わず、ただ門の外の道を見つめていた。
冬の名残の空気が、頬に冷たく触れた。
「姫君様」
葵が小さく声をかけた。
「お風邪を召されます」
「……そうですね」
糸子は、振り返った。
その時、葵は気づいた。糸子の頬に涙の跡が、わずかにあった。
奥御殿に戻った糸子は、自分の私室に入った。
葵を「少し、一人に」と下がらせて、文机の前に座った。
文机の上に、黒い帳面が置かれていた。
糸子の私的な計画帳である。普段は誰にも見せず、彼女自身も外には決して持ち出さない。
糸子は墨を磨り、筆を取った。
黒い帳面を開き、新しい頁の冒頭に、丁寧な字で書いた。
「三月余特別授業編・完了」
その下に、小さく書き添えた。
「四人、それぞれの戦場へ」
筆を置いた。
障子を開けて、縁側に出た。
庭の冬梅が、確かに咲き始めていた。
数日前まで蕾だった枝に、白い花が、ぽつぽつと開いている。春の始まりを感じさせる風に、その花がわずかに揺れていた。
糸子はその梅を、しばらく見つめていた。
それから、小さく息を吐いた。
ふっと、唇の端が上がった。
「ふふふふふ……」
声には出さなかった。胸の中で、確かに、響いた。
「ふふふふふ腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐…」
松陰先生は、思想の炎を萩に運んでいる。高杉は、藩内の若手を一人また一人と巻き込んでいく。久坂は、書状で藩首脳の心を絡め取っていく。
龍馬は、薩摩・土佐・福井を駆け巡って、長州の味方を増やしていく。
四人とも、自分が誰のために動いているのか、はっきりと自覚している。
しかし、四人自身が、今回の計画全体の中で「どの位置にいる」のかは、はっきりとは見えていないはず。
松陰には、長州を動かすための火種、という以上の役割は伝えていない。
しかし、彼らは馬鹿ではない。凡その動きは予想はするだろう。しかし、それも何ら問題はない。
高杉と久坂には、長州攻略の具体は伝えたが、その先——薩摩、土佐、肥前、福井、そして御所——という、無血近代化計画の具体案は、詳細には語っていない。
絵の輪郭をぼんやりと見ている。ぼんやりくらいで良い。輪郭が見えているくらいが、今後の動きに迷いを生まぬ。
糸子の指の先で、四人がそれぞれの戦場で、それぞれの役を、それぞれの情熱で果たしていく…
その総和が、無血のまま…この国を新しい形に変えていくだろう。
戦わずして、勝つ。
血を流さずして、世を変える。
糸子の中に、しずかに、しかし確かに、その絵が広がっていた。
「腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐………」
「……姫君様」
廊下から、近藤勇の声がした。
糸子は振り返らず、梅を見たまま応じた。
「何でしょう、近藤殿」
「お見送りはお済みになられましたか」
「はい。皆、無事に発ちました」
「左様でございますか」
近藤は廊下に正座して、頭を下げた。それから、ふと顔を上げて、糸子の横顔を見た。
糸子は微笑んでいた。
近藤はその微笑みを、しばし見つめた。
見つめてから、少しだけ、首を傾げた。
(…んっ?……はて!?)
近藤の頭の中に、ぼんやりと違和感が広がった。
(姫様の御笑みは、いつもおきれいで、おやさしいのだが——なにか…以前よりも、笑いに不気味さが増したような……??)
近藤は心の中で、慌てて自分を戒めた。畏れ多い。姫様の御笑みに不気味などと、不敬にも程がある。
しかし、それでも——
(今回はずいぶん、深い笑いだ)
近藤は静かに頭を下げた。
「お風邪を召されませぬよう」
「ええ。忝う存じます」
糸子は、まだ庭の梅を見ていた。
梅の白い花が、初春の風にわずかに揺れていた。
西へ向かった六人の足音は、もうここには届かない。
南へ向かった三人の影も、もう見えない。
しかし、糸子の胸の内には四人の姿が、はっきりと見えていた。
松陰の燃え上がる目。高杉のにやりと笑う口元。久坂の几帳面に整えられた襟。龍馬の太陽のような笑顔。
それぞれが、それぞれの戦場へ。
それぞれが糸子の絵の、欠かせない一筆として。
「さて、しばらくしたら…わたくしもお父上と御門様に書状を、お書きしなければなりませんね」
誰にも聞こえぬ声で、糸子は呟いた。
梅の枝が、もう一度、風に揺れた。
文久元年、初春——
無血近代化計画は、ついに本格的に動き始めた。
第九十四話 了