作品タイトル不明
第九十三話「最終試験、そして…」
一
文久元年、初春。
江戸の空は、まだ冬の名残を引きずっていた。
一橋上屋敷の敷地の北側——武家屋敷のどこにでもある、飾り気のない稽古場だった。もとは槍の稽古に使われていた広間だと聞いていたが、今は武器の代わりに書物と紙が持ち込まれ、幕末の四人の男たちが向かい合っていた。
天井は高く、柱は太く、床板は何十年もの足音を吸い込んで黒光りしていた。南向きの障子からは初春の陽光が差し込んでいたが、その光は暖かさというより、空気の透明さをさらに際立たせるばかりだった。庭の梅がようやく咲き始めていて、時おり風が運んでくる淡い香りだけが、この部屋に季節の訪れを伝えていた。
坂本龍馬。高杉晋作。久坂玄瑞。吉田松陰。
三月余前と比べれば、明らかに何かが違っていた。体つきでも、服装でもなく——四人の間に流れる空気の質だった。
かつてそこにあった、互いへの遠慮と、己の力量への焦燥と、方向の定まらない熱気——それらが、ことごとく削ぎ落とされていた。残ったのは、四つでありながら一本の芯で繋がったような、静かで深い緊張感だった。
「ええか」
久坂玄瑞が、板張りの床に大きな紙を広げながら言った。山口から江戸まで歩き通してきたような骨格の細さに似合わない、澄んだ声だった。紙の上には、薩摩藩の内部構造が緻密な文字で書き込まれていた。
「今日は最終確認っちゃ。薩摩の内部を、もう一回全部おさらいするけぇ。島津久光——国父。この人の動かし方を一つでも間違うたら、全部水の泡になるんよ。ええね?」
「わかっちゅう、わかっちゅう」
坂本龍馬が大柄な体を折り曲げて紙を覗き込みながら言った。いつもの人懐っこい笑みが浮かんでいる。しかしその目の奥には、普段より鋭いものが宿っていた。
「久光公は実利の人じゃ。面子の人でもある。そこを外したら、どんな正論も耳に入らんき」
「龍馬よ」
高杉晋作が部屋の隅から声をかけた。壁に寄りかかって腕を組み、傍らに三味線を置いている。稽古の合間に爪弾いていたらしく、弦がまだ微かに鳴っていた。
「久光公には、もう一つあるっちゃ。意地よ。薩摩の意地。あの藩は、下からものを言われるんを一番嫌うんちゃ。対等よりちょっと下から入って、気がついたら上を取っちょく。それが上手い交渉ちゅうもんよ。お前さんにはそれができる――わしにはできん」
「さすがは晋作だ」
吉田松陰が穏やかに言った。三月余前の、火山のような炸裂する熱量は、今はもう少し内側に収まっていた。それでも話す時の眼の輝きは変わらない。むしろより深く、より静かに燃えているようだった。
「しかし龍馬、論理は確かに玄瑞が用意した。しかし、論理は剣の刃だ。それを振るう腕がなければ、ただ重いだけの鉄の棒に過ぎぬ。お主の腕とは何かわかるか?」
「……まぁ、なんとなくは」
龍馬が頭を搔いた。その仕草は三月余前と変わらないが、言葉の前に一拍の間があった。考えてから答えるようになっていた。
「先生の言うは、言葉の熱のことですろうか。理屈を言うときも、人としての言葉で言えゆうことじゃ」
「左様」
松陰が頷いた。
「至誠。誠意は必ず天に通ずる。薩摩の久光公もまた、人の子だ。真の言葉は必ず届く。届かぬとしたら、まだ真ではないからだ」
「はぁ……先生はいつでも正しいのう」
高杉が三味線を一弾きして苦笑した。
「じゃが先生、正論だけじゃ腹は膨れんのよ。久光公の腹を膨れさせる数字を、久坂が用意して、龍馬が至誠で包んで届ける。これが今回の段取りっちゃ」
「晋作よ」
久坂が計算書から顔を上げた。
お前の言い方は毎回雑っちゃ」
「雑じゃないわ。要約ちゅうもんよ」
「雑な要約を要約とは言わん」
「ならなんと言うん」
「省略、っちゃ」
「……何が違うんよ」
「全然違う」
二人のやりとりに、龍馬がふっと笑いを漏らした。三月余前、この勉強が始まってから、この二人は同じ部屋にいるだけでぎくしゃくするときがあった。だが、今は違う。互いへの信頼が、喧嘩の形をとって表れている。
「ええか」
龍馬が立ち上がって、四人の中央に立った。
「整理するぜよ。薩摩は『実利』と『面子』の塊じゃ。そこを突くにゃあ、数字と情熱の挟み撃ちしかない。久坂の数字が右から打ち込むき、わしの言葉が左から包み込む。……これで行くぜよ!」
「そして」
久坂が続けた。
「数字を出す前に、感情で追い払われたら全部おしまいっちゃ。最初の一撃は必ず来る。それを受け止めた後で、初めて話が始まるんよ。その順番を間違うな。」
「わかった」
「もう一度言え」
「わかった」
「よし」
久坂は計算書をどんと龍馬の前に置いた。びっしりと数字と文字が書かれている。アロー戦争の賠償金の額。イギリスの清国への要求内容。銀の流出速度の試算。薩摩藩の借財の推計。
「晋作は?」
龍馬が振り返った。
「俺は予備砲っちゃ」
高杉が短く言った。
「龍馬が詰まったら合図せい。そこで俺が入るっちゃ。ぶち、そうなったら龍馬の負けよ。合図は出さんに越したことはないけぇね」
「こじゃんと、厳しいのう」
「当たり前っちゃ。本番で詰まったらおしまいよ。練習で厳しゅうしとかんでどうするん。」
「先生は?」
龍馬が最後に松陰を見た。
「私は……」
松陰は少し考えた。
「私は、龍馬の後ろに座って、見ておる」
「そればあですか」
「それだけだ。だが——一つだけ言っておく」
松陰は龍馬の目をまっすぐに見た。
「龍馬、お前が今日ここで成し遂げることは、お前一人の力ではない。この三月余の四人の力だ。そのことを忘れるな」
沈黙があった。
その静けさの中で、梅の香りがもう一度、障子の隙間から流れ込んできた。
龍馬は深く息を吸った。
「ようわかった。……なら、やるしかないにゃあ」
二
昼になった。
四人は稽古場の隣の小部屋に移り、昼餉を取りながら最終確認を続けていた。葵が運んできた膳は、いつもよりほんの少しだけ豪華だった。赤みがかった鯛の刺身がある。江戸の春の味がした。
「久坂、もういっぺん確かめさせてくれんかえ」
龍馬が箸を置いて言った。膳に向かっているのか書類に向かっているのか、わからないほど計算書ばかり見ていた。
「金銀比率の件じゃ。日本では金一に対して銀五じゃ。けんど、海の向こうじゃあ——」
「金一に対して銀十五」
久坂が即座に返した。飯を食いながらでも、数字は頭の中に入っている。
「つまり、日本に銀を持ち込んで金に換えれば——」
「それだけで元手が三倍に跳ね上がるっちゅうことっちゃ!」
高杉が口を挟んだ。
「異国の商人が日本に来るだけで、何もしちょらんでも三倍儲かる仕組みになっちょる。して、その金が外に出て行く。日本の国富が、音もなく溶けていきよるんちゃ」「そこを、どう薩摩に繋げるか、っちゅうことよ」
久坂が続けた。
「薩摩の財政は、調所広郷の改革以降、数字にはぶち敏感じゃ。この金銀比率の乖離が、薩摩の軍資金をじわじわ溶かしよることを、正確に示せ。感情じゃのうて、数字で示すんよ。そうすれば久光公の頭は動くっちゃ」
「わかった」
「もう一度言え」
「わかった、言うちゅうじゃないか」
「三回言え」
「……え?」
「大事なことっちゃ。三回言え。」
龍馬が苦笑した。
「わかった。わかった。わかった」
「よし」
久坂は満足そうに飯を一口食べた。
そこで高杉が三味線をすっと手に取り、一音だけ鳴らした。全員がそちらを見た。
「龍馬」
高杉の声は、普段の軽口とは全く違う調子だった。静かで、芯の通った声だった。
「お前さんの直感、信じちょけ。」
「……」
「理屈じゃ動かん山も、お前さんの馬鹿げた大風呂敷なら、案外ひょいと動くかもしれんけぇの。わしにはできんことが、お前さんにはできる。そこは――わしが認めるっちゃ」
高杉が普段このような言葉を言う男ではないことを、三月余一緒にいた全員が知っていた。だから誰も茶化さなかった。
「晋作……」
「一遍だけ言うっちゃ。二遍は言わんけぇね。」
「わかっちゅう」
「じゃあ頼むっちゃ。」
それだけだった。高杉は再び三味線に目を落とした。
久坂が喉を鳴らして言った。
「……わしからも言うっちゃ」
「え、珍しいの」
「一遍だけっちゃ」
「はいはい」
「ええね、論理はわしが用意したっちゃ。アロー戦争の賠償金、イギリスの狙い、銀の流出速度——相手が言い訳できんほどの絶望的な数字を、全部お前の手の中に入れたけぇ。後はお前が振るうだけよ。振るい方を間違うなよ」
「わかった」
「順番を覚えちょるか?」
「まず感情を受け止める。次に数字で頭を塞ぐ。それから言葉で心を包み込むがじゃ」
「よし」
久坂は短く頷いて、また飯に戻った。
松陰が穏やかな声で言った。
「龍馬」
「はい、先生」
「お前は天賦の才を持っている。それは人を繋ぐ力だ」
松陰は箸を置いて、真剣な目で龍馬を見た。
「我々がバラバラの珠であるなら——お前はそれを貫く紐なのだ。玄瑞の数字も、晋作の鋭さも、私の至誠も、お前の言葉を通じて初めて、薩摩の久光公の心に届く形になる。今日、お前は一人で薩摩に向かう。しかし…一人ではない。我々三人がお前の中にいる。そのことを決して忘れるな」
「先生……」
龍馬は一瞬、目を赤くした。
それからいつもの豪快な顔を作った。立ち上がって、天井に届きそうな声で言った。
「みんな、ありがとうぜよ!……よし、これで行くぜよ。薩摩の、いや、日本の夜明けを、わしらで切り拓きに行くがじゃ!」
「大声出すなっちゃ」
久坂が即座に言った。
「壁が薄いっちゃ」
「あっ、すまんすまん」
龍馬が小声で笑いながら続けた。
「わしが、この腐りかけた日本を買い取って、洗濯してみせるきに! 今日はその最初の一手を決めてくるぜよ!」
「大声で言いよるっちゃ」
「これは魂の声じゃき、小声じゃ伝わらんがよ」
「魂の声なら心の中で叫べっちゃ」
「……じゃあ心の中で叫ぶきに」
龍馬が口を閉じ、目を見開いて、心の中で何かを叫んでいる顔をした。
三人が顔を見合わせた。
それから堪えきれずに笑いが漏れた。
三
午後。
一橋上屋敷の奥御殿の一室が、その日のために整えられていた。
部屋の構造はいつもと変わらない。天井の梁は重く、柱は太く、板敷きの廊下は歩くたびに微かに鳴った。しかし今日は、その空間に普段とは明らかに異なる緊張感が漂っていた。
床の間には薩摩藩の家紋——丸に十字——を墨で描いた紙が一枚、飾られていた。
上座には深い黒の羽織が置かれ、下座には二つの座布団が並んでいた。障子は固く閉め切られ、初春の陽光は細く絞られた線となって差し込むのみだった。その光が、畳の目に斜めの影を作っていた。
善次郎が下座の一方に座って待っていた。
松屋善次郎——今は天朝物産会所の商人として江戸を中心飛び回っている男は、今日に限っては別の役を担っていた。小松帯刀。薩摩藩家老。実務家にして開明派の重鎮。その役のために、着物も改め、姿勢も改めていた。しかし顔はどこか強張っていた。
「……緊張してますね、善次郎殿」
廊下から龍馬が顔を覗かせた。
「当たり前でございます」
善次郎が低い声で返した。口調が、気圧されてやや裏返っている。
「私が小松帯刀様ですよ? 薩摩藩の重鎮ですよ? 私のような商人が…もう笑わないでくださいよ、坂本様!」
「笑っちゃおらんよ。似合っとるちゅうとるがよ」
「似合うかどうかの問題じゃないんです! 私の胆が……」
「静かにせえっちゃ」
久坂の声が廊下から飛んできた。
「姫様が来られるっちゃ」
廊下に、足音があった。
普段の糸子の足音ではない。少し重く、少し遅く、しかし確実に近づいてくる音だった。
糸子が、その部屋に入ってきた。
四人の息が、一瞬止まった。
糸子は深い黒の羽織を着ていた。いつもの白や薄紅の着物ではなく、沈んだ黒。帯は紺。髪は高く結い上げ、簪は一本だけ。余分な装飾を極限まで削ぎ落とした姿は、いつもの糸子と同じ顔をしていながら、全く別の人間のような重さを持っていた。
糸子は無言のまま、上座に進んで座った。
座った瞬間、部屋の空気が変わった。
島津久光がいた。
十三歳の近衛家の姫の顔が、そこにはなかった。一切の感情を削ぎ落とした、薩摩七十七万石を背負う国父の、冷静そのものの権威が、その小さな体に宿っていた。
廊下の向こうで、高杉が低く呟いた。
「……なんね?……本物みたいっちゃ」
久坂が押し込んだ。
「声を出すなっちゃ」
松陰は口を半開きにしたまま、動けなくなっていた。
「坂本を」
糸子が…久光が——短く言った。
声さえ、変わっていた。普段の丁寧で柔らかい声とは全く違う、低く押さえた、薩摩の言葉に似た重さを帯びた声だった。
「連れっ来んか」
四
坂本龍馬が部屋に入ってきた。
廊下で深呼吸を繰り返していたことは、高杉には見えていた。しかし扉を開けた瞬間、龍馬の顔は変わっていた。緊張を押し込めた、静かな顔だった。
龍馬は部屋の中央に進んで正座した。両手を畳につき、頭を深く下げた。
「土佐を脱藩した坂本龍馬にございます。このたびはお時間をこじゃんと賜りまして、まっこと――」
「余計なこちゃ言わんでええっちゃ」
久光の声が、容赦なく割り込んだ。
龍馬が顔を上げた。
その目に映ったのは、黒羽織の氷のように静かな糸子の顔だった。感情が読めない。
距離がある。その距離は、単なる位の差ではなく、もっと本質的な何か——「お前の話を聞く義理はない」という、無言の壁だった。
「……土佐の脱藩者風情が」
久光が言った。
「薩摩が何ゆえ、毛利の陪臣ごときっ手を組まんならんと。不愉快極まっ。」
龍馬の体が、一瞬、固まった。
(こりゃあ……こじゃんと、こたえるぜよ)
久坂の声が脳裏に蘇った。感情に飲まれるな。最初の一撃は必ずくる。それを受け止めた後で、初めて話が始まる。
龍馬は静かに、しかし確実に息を吸った。
「薩摩のお殿様」
龍馬は顔を上げ、久光を正面から見た。視線を逸らさなかった。
「不愉快と仰ることは、重々承知しちょりますき。じゃが――今日わしがここへ参ったがは、薩摩のためではありませぬ」
「ほう」
久光の目が、ほんのわずかに動いた。
「じゃっあれば、何のたっめに来た」
「日本のためですき」
短く言い切った後、一拍置いて続けた。
「薩摩のお殿様、よう聞いてつかあさい。今、異国が狙っちゅうがは、日本を戦場にすることぜよ。長州を潰し、その次に薩摩を潰す。イギリスとフランスの代理戦争を、この神州でやらせるわけにはいかんがぜよ!」
久光は動かなかった。
善次郎——小松帯刀が口を開いた。
「証拠はあるのか」
善次郎の声は、思いのほか落ち着いていた。役に入りきっているらしい。
「清国が、異国にどう無残に引き裂かれたか、その目でよう見てつかあさい!」
龍馬は懐から久坂の計算書を取り出した。
「安政三年より同五年に至るまで、イギリスとフランスが清国と戦うた。その結果、清国が支払った賠償金は——」
龍馬が数字を読み上げた。
「銀六百万両。当時の清国にとって、年間国家収入の何割かを一気に吐き出す額にございます。清国はこの賠償を払うために、国の財政を切り崩した。民が困窮した。各地で乱が起きた。今もその傷は癒えておらんがぜよ……」
「日本とは別な話じゃなか」
久光が静かに言った。
「いいえ、お殿様。……そうじゃあございません」
龍馬の声に、力が込もった。
「同じ話ぜよ。いや――日本にとっては、もっと深刻な話ですき。なぜなら、日本にはもう一つ、清国にはなかった問題があるがです」
「……続けっ」
久光の声が、ほんの少しだけ変わった。
聞いている。
龍馬は久坂の計算書の次の頁を開いた。
「日本の金と銀の比率にございます。日本では、金一に対して銀が五。じゃが、海外では金一に対して銀が十五。この差が何を意味するか――」
「裁定取引じゃっど」
久光が言った。
龍馬の目が、一瞬輝いた。
「そのとおりにございます! 薩摩の賢いお殿様に、回りくどい説明は要らんがです。異国の商人が銀を持って日本に来るだけで、何もせんでも三倍の金が手に入る仕組みになっちゅう。そして日本の金が音もなく、毎日、大量に外へ流れ出ちゅうがです!」
「知っちょっど」
久光は短く言った。
「じゃっが、そいが何ち言うとか」
「日本の金が流れ出ちゅうということは……」
龍馬は久光を見た。距離を詰めるように、声を落とした。
「薩摩の軍資金も、じわじわと溶けていきゆうということです。今は気がつかんかもしれん。じゃが五年後、十年後――異国と戦うために刀を抜こうとした時、その刀を買う金がのうなっちょったとしたら、どうなりますか」
久光は答えなかった。
「お殿様。異国は長州と薩摩を戦わせたいがぜよ。内側で殺し合いをしゆう間に、日本の国富を全部持っていくつもりながです。金を根こそぎ持って行って、最後に『助けてやろうか』と言うて、属国にする。清国がそうなったように……」
「……」
「わしは、それが嫌ながです」
龍馬の声が、静かになった。
「薩摩が嫌いじゃとか、長州が嫌いじゃとか、そんなことじゃない。わしは、日本がそうなってしまうがが嫌ながです。この国の子どもらが、異国の言いなりで生きていかなければならん世の中が、まっこと嫌ながぜよ。」
廊下の向こうで、松陰が無言で目を閉じた。
「薩摩が動いてつかあさらんと、日本は割れてしまいますきに……」
龍馬は続けた。
「長州は、今、動きゆうがです。御門様の大御心のもとに、中心として…準備が始まろうとしちゅうがぜよ。御門様をてっぺんに頂きながら、力のある藩が合議で日本の行く先を決める体制。薩摩が動いてつかあさらんと、その輪に穴が開くがです!」
「御門様の大御心のもとに、中心として…」
久光が言葉を噛みしめるように繰り返した。
「薩摩がそいに加わっ、何の得があっ」
「得?」
龍馬は少し笑った。その笑みは、畏まった場所には似合わない豪快なものだったが、今この瞬間は不思議と場に合っていた。
「お殿様、得の話をするなら――長うなりますぞ。まずは交易の利権ぜよ。主上様の綸旨を賜っている天朝物産会所を通じた国内外の商いに、薩摩が正式に加わることができるがです。次に、軍制改革の知恵。最新の軍事・経済の知見が、薩摩にも開かれる。そして――」
龍馬は一度言葉を止めた。
「薩摩が、この日本の建て直しの中心に立てるがぜよ!」
「……」
「長州が先に動いた。じゃが、薩摩が加われば、薩摩が日本の新しい仕組みの、もう一本の柱になる。長州の下に入るがではない。薩摩は薩摩として、独立した柱として日本を支える役割を担えるがです!」
部屋が静まり返った。
障子の外で、初春の風が一度だけ吹いた。梅の香りが、かすかに流れ込んだ。
それ以外は、何もなかった。
「……考えっ」
久光が言った。
たった三文字だった。
しかしその三文字の重さに、龍馬は畳に手をついたまま、深く、長く息を吐いた。
五
久光が——糸子が、姿勢を崩した。
それは小さな変化だった。肩から力が抜けて、背筋がほんの少し柔らかくなった。
しかしその瞬間に、部屋の空気が完全に変わった。島津久光が消えて、糸子が戻ってきた。
「合格でございます」
糸子が言った。
廊下でずっと息を詰めて聞いていた三人から、声が漏れた——高杉が「やったっちゃね!」と低く呟き、久坂が小さく息を吐き、松陰が「あああ、龍馬……」と感極まったような声を出した。
善次郎が「ふぅ」とその場に崩れ落ちた。
「善次郎」
糸子が言った。
「あっ、は、はい!」
善次郎が慌てて姿勢を正した。
「よくやってくださいました」
「も、もう二度とやりたくないですよ……私は商人でございます……」
「それは困ります。薩摩攻略には本番がありますから」
「えっ」
「続きますよ」
「えええっ!?」
「今日の経験を活かしてください」
「姫様……」
糸子は善次郎を一旦置いて、龍馬に向き直った。
龍馬はまだ正座したままだった。額に薄く汗をかいていた。それを拭おうとする仕草も、まだ動き出せずにいた。
「坂本」
「はい」
「一つ聞かせてくださいませ」
糸子の声は、試験官のものでも、島津久光のものでもなく、糸子本来の、静かで穏やかな声だった。
「もし——わたくしが今日、本気で反論をしたとしたら、どうなっていたとお思いか?」
龍馬は少し考えた。正直に考えた。
「……正直、半分は答えられんかったかもしれんぜよ」
糸子は何も言わなかった。
「じゃが、まっことそうなったとしたら……」
龍馬は続けた。
「わしは『商人』として薩摩を、説得し直すだけぜよ」
「久光公が『イギリスと手を組んで、薩摩が日本を支配する』と言うたとしても――それは一時の利益ですき」
「支配には人が要る。軍が要る。維持する銭が要る。貿易は――続ければ続けるほど、両方が豊かになる。支配より貿易の方が儲かるきに。そう言いますき!」
糸子は少しだけ、目を細めた。
「正直で結構」
静かに言った。
「坂本。あなたが『半分は答えられなかった』と正直に言えることが——実は今日の試験で一番大切なことでした」
「え?」
「薩摩の本番で、相手が予想外の反論をしてくる時は必ずありましょう。そのときに、知ったかぶりをして答えを捻り出すのではなく——『一度考えさせてください』と言える人間が、交渉を長く続けられる。粘り強く交渉がやれましょう。あなたにはそれができまする」
龍馬は少し考えて、それからゆっくり笑った。
「……つまり、わしの真っすぐなところがええところじゃ、いうことでございましょうか」
「弱点でもありましょう」
「そこは正直に言わんでもええがに……」
「わたくしは嘘は言いませぬ」
「姫様も大概……」
「大概、何ですか?」
「……な、なんでもないぜよ」
「ふふふふ…」
糸子が小さく笑った。
糸子の内心。
(おそらく薩摩との交渉には、粘り強さが重要になってくる。今回の最終試験は多少甘く、採点しましたが、粘り強さの大切さを坂本に伝えられたので、良しと致しましょう)
廊下から高杉の声が聞こえた。
「龍馬、やるのぉ」
久坂が言った。
「声が筒抜けっちゃ」
六
夕刻になった。
奥御殿の大きな座敷が、改めて整えられた。
床の間には、梅の枝が一本、素朴な花瓶に活けられていた。畳の上には、四つの文箱が並んでいる。それぞれに、近衛家の家紋が押された封蝋があった。西からの斜陽が障子を橙に染め、部屋の中に柔らかい光が満ちていた。
四人が並んで座っていた。
龍馬、高杉、久坂、松陰。
誰も口を利かなかった。それは不快な沈黙ではなかった。この三月余を…それぞれが胸の中で静かに振り返っているような、満ちた沈黙だった。
糸子が入ってきた。
今度は黒羽織ではなく、いつもの白い着物に戻っていた。それだけで、場の空気が一気に柔らかくなった。
糸子は四人の前に座り、文箱を一つずつ手に取った。
「それでは——三月余特別授業、修了の証をお渡しします」
まず、吉田松陰を呼んだ。
「吉田松陰殿」
「はい、姫様」
松陰が進み出た。
糸子は文箱を両手で丁寧に差し出した。
「商務語学所、特別課程修了証書。および、教育顧問委嘱状を合わせてお渡ししまする」
「……教育顧問?」
「はい。商務語学所の生徒に、志と思想についてお話しいただく役を、正式にお願いしたく存じまする」「吉田殿に話していただくことで、生徒たちの根の部分が育ちましょう。わたくし一人では、育てられないものがございますから」
松陰は文箱を受け取った。両手が微かに震えていた。
「……姫様」
「はい」
「私は——大変失礼ながら…正直に申し上げますと…三月余前、私はこの授業を…自分には必要な学問なのか?と考えておりました」
「はい…」
「けれども今は、そう思っておりません」
松陰は文箱を胸に抱くようにして続けた。
「至誠は——知識があってこそ、正しい方向に向かえる。この三月余、それを身をもって知りました。いけ、姫様が教えてくださった。私はずっと、知識より心が大事だと思っておりました。しかし——知識のない至誠は、時に刃となって、守りたいものを傷つける…そう知ることができました」
松陰の目が、少し潤んでいた。
「……恐悦至極に存じます、姫様」
糸子は静かに頷いた。
「よろしゅうございました。こちらこそ、お礼申します」
松陰が下がった。目が赤かった。
「次に——久坂玄瑞殿」
久坂が進み出た。いつもの冷静な顔だったが、耳の先がわずかに赤かった。
「商務語学所、特別課程修了証書。および、経済分析顧問委嘱状を合わせてお渡ししまする」
「……経済分析?」
「これからの…諸藩でのお話には、久坂の論理力が核となりましょう。書状の起草から、数字の整理まで、引き続きお力をいただきたく存じまする」
「承知したっちゃ」
久坂は文箱を受け取った。一礼して下がる途中で、小声で言った。
「……姫様」
「はい」
「わしは――この三月余、姫様の見立てに半分しか賛同できん時期があったっちゃ」
「そうでございますか」
「今は……失礼ながら、八割は賛同できるっちゃ」
「久坂らしゅうございます」
「残りの二割は、実績で判断させてもらうっちゃ」
「それで結構でございます。むしろそうであってください」
久坂は少し意外そうな顔をした。それから、静かに頭を下げた。
「高杉晋作殿」
「わしの番っちゃ」
高杉がやや軽い調子で進み出た。松陰が後ろから「晋作、場をわきまえんか」と言ったが、高杉は気にしない。
「商務語学所、特別課程修了証書。および、実務工作顧問委嘱状をお渡しします」
「藩内実務工作」
「諸藩の若手・中堅層を動かす役は、高杉が適任でありましょう。久坂が文官系を押さえ、高杉が行動派と呼ばれる人たちを抑える。この二人の連携が、いずれ行動の核となりましょう」
「ふむ」
高杉は文箱を受け取った。それをしばらく眺めて言った。
「姫様」
「なんでしょう?」
「わしは――正直に言うっちゃ。この三月余、何度か逃げ出したくなったっちゃ」
「報告は受けてございます。二度、荷物を玄関まで持っていったとか…」
「……見とったんですか」
「旭狼衛の隊士から報告を受けておりました」
「ぐっ……」
「それでも残ってくださった。後悔はございませんでしょう?」
高杉は少しの間、黙っていた。
それから普段とは違う、静かな声で言った。
「……龍馬が、残れと言うたんっちゃ」
「そうでしたか」
「あいつが言うんなら、まぁええかと思うたんよ。正直、それだけっちゃ」
「そうでございましたか」
糸子は龍馬を見た。
龍馬は「なんでもないぜよ」という顔をして目を逸らした。
「高杉、学んだことを生かすも殺すも…今後はあなた次第になりましょう。」
「しっかりおやりなさい」
「ええっちゃ、それくらい…」
高杉が下がった。
「坂本龍馬殿」
「はい!」
龍馬が元気よく進み出た。
「商務語学所、特別課程修了証書。および、外交顧問委嘚状をお渡しします」
「外交…?」
「これからあなたはいろいろな場所にいくことになりましょう。坂本が動ける範囲は、他の三人より広うございます。あなたならば、味方を増やすことができまする。これからも、その役を担っていただきたく存じまする」
「任せてつかあさい!」
龍馬は文箱を受け取った。そして、糸子の前で深く頭を下げた。
「姫様」
「はい」
「わしは――三月余前、姫様のことを正直ようわからんと、思うようになりました。なんで姫様はこれほどまでに知識がお有りながか? まっこと、これほどのことまで考えておるがか? と……」
「今は?」
「……今も、まっことようわからんがです」
「……正直ですね。坂本らしい」
「じゃが、ついていこうと思います。この姫様についていけば、間違いなく日本はようなる……」
「わしは、そう信じちょります」
龍馬は顔を上げた。
「姫様が向いちゅう方向が――わしの見たいと思っちゅう日本と、同じながです。じゃから――どこまでも、ついていきますき」
糸子は少しだけ目を伏せた。それから静かに言った。
「坂本、おおきに」
龍馬が下がった。
四人が再び横に並んだ。それぞれの手に、文箱がある。
「みなさま…」
糸子が四人を見渡した。
「三月余、本当によくやってくださいました。わたくしが思っていた以上に——いいえ、正直に申し上げますと、全員が形になるとは思っておりませんでした」
「姫様、それは失礼じゃありやせんか」
高杉がすかさず言った。
「最初から期待しちょらんかったっちゅうことですか?」
糸子は高杉を見た
「期待はしておりました。ただ、全員…とは、思っておりませんでした」
「どっちにしても微妙な評価っちゃね」
「高杉、よかったとして受け取れっちゃ」
久坂が言った。
「よかったと受け取っちょる。ただ言いたいだけっちゃ」
「わしも最初は信じちょらんかったしのぉ」
高杉は笑いながら話した。
龍馬が言った。
「姫様が信じちょらんかったがなら、これでおあいこじゃないかのう」
「おあいこ……」
(こいつらは素直にお世話になりました…とは言えんのか?)
糸子は少し考えて、
「まぁ、そうですね。おあいこ…にしておきましょう」
(こいつらの性根が変わっていないのは、よーくわかりました)
(もはや何の遠慮もなく、使い倒してやることに致しましょう!)
(腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐ーーー)
その瞬間、四人から笑い声が上がった。
松陰が「お前たち。姫様に失礼だろうが!」と言い、
高杉が「姫様も大概気の抜けた言葉を使われるっちゃのう」と言い、
久坂が「ほいでええ」と言い、
龍馬が「わはははっ」と大声で笑った。
「大声出さんで、せわらしい!」
と久坂が言い、
「魂の声じゃき」
と龍馬が返し、
「魂の声を壁のせいにしちゃいけん」
と久坂が言い、
また笑いが起きた。
笑いが収まってから、誰かが言った——高杉だった。
「……懐かしいのう」
「え? まだ今日の話ながですか……!?」
「三月余前の話じゃ」
高杉は修了証書の文箱を手の中で弄びながら言った。
「最初の授業の時——姫様の話を一向に聞かん松陰先生が、第一巻を三十分で読んで『分かった、次を寄越せ』言うた件、覚えちょるか」
「ああ!」
龍馬が笑い出した。
「そして姫様が、『先生、分かったと思うちょるがが問題ですき』て言うて――」
「先生があの、ぶちたまげた顔!」
「ありゃあ、忘れられんっちゃ!」
「笑い事ではない、あの時のわしは本当に衝撃だった」
松陰が言いながら、しかし自分でも笑っていた。
「玄瑞はあの最初の授業、ずっと腕組んで難しい顔しちょったのう」
「ありゃあ、お前が三味線を稽古場に持ち込んじょったけぇよ」
「授業中に弾いちょったわけじゃあないっちゃ」
「弦を爪弾いちょったろうが」
「……そりゃあ確かに、弾いちょった」
「認めたのう」
「まぁええじゃないか、結果的によかったがじゃから」
龍馬がまた笑った。
「わしは最初の週、善次郎殿のところへ毎晩、愚痴を言いに行っちょりました。善次郎殿はいつも黙って聞いてくれて……」
「善次郎殿は大変だったろうのう」
「この三月余、善次郎殿がおらなんだら、わしはここにおれんかったかもしれん……」
「善次郎殿は今日の試験でも、ぶち頑張っちょったのう」
「小松帯刀、よう似合うちょりました!」
廊下の向こうで「やめてくださいよ! 私は商人でございますよ!」という声がした。
善次郎がまだそこにいたらしい。
四人は一斉に笑い、糸子も小さく笑った。
笑いが収まると、また少し静かな時間が来た。
今度の静かさは、満ちているような静かさだった。
「姫様」
松陰が涙みながら言った。
「この三月余、かたじけなく存じます。龍馬も、晋作も、玄瑞も——よく動いてくれた。礼を言う」
「先生に礼を言われると、はにかむじゃないですか」
高杉が言った。本当に少し照れていた。
「じゃが、先生」
久坂が続けた。
「これからが本番じゃ。この三月余は、準備にすぎんっちゃ」
「左様」
松陰が頷いた。
「戦場は、これから先にある」
糸子が四人を見た。
「そのとおりでございます。皆さんには今日から、それぞれのお役目で動いていただきまする」
「ただ——その前に。一人ずつ、個別にお話しをさせてくださいまし」
「それぞれの具体的なお役目と、これから先の見通しについてでございます」
四人が頷いた。
「葵を通じて、お一人ずつお呼びします。呼ばれた方から、奥の小部屋においでいただけますか」
糸子は振り返った。
「葵、よしなにお計らいを」
「はい、姫君様」
葵が廊下から現れ、丁寧に一礼した。
四人が糸子に向き直った。
「ははー」
四人の声が、平伏しながら揃った。
七
個別面談の準備が整うまで、四人は座敷で待つことになった。
葵がお茶と菓子を運んできた。緊張の解けた四人は、再び思い出話に花を咲かせていた——主に互いへの愚痴の形をとった思い出だったが。
そこへ、廊下から別の足音がした。
葵とは違う、軽くて急いでいる音だった。
障子が開いて小夜が現れた。糸子の侍女の一人だったが、今日は少し息を切らせていた。
「姫君様。近衛忠房様より書状が届きましてございます」
その一言で、座敷の空気が一変した。
四人の視線が、一瞬で書状に集中した。
小夜が両手で差し出した書状を、糸子が受け取る。
その動作を四人が見ていた。
高杉の目が、わずかに細くなった。
(本気で主上様に言いつけちょったんか?)
その考えが、高杉の胸を走った。三月余前——確かにあの姫様は言っていた。
「御門様に、言いつけてやる…」と。
…あれは、本当に実行されたのか?
久坂の顔から、わずかに血の気が引いた。
(そねな……これからっちゅうときじゃったのに)
いよいよ自分たちが本格的に動こうとしようとしている……
その矢先に、朝廷から何らかの通達が来るとしたら——それは計画全体の崩壊を意味しかねない。久坂の頭の中で、最悪の可能性が次々に展開された。
吉田松陰は、小夜が入ってきた瞬間から体が固まっていた。今は両手を床について、微かに震えていた。
(あああ……我が弟子たちが……)
松陰は眼をつぶった。
晋作と玄瑞が—…長州藩が——朝廷から睨まれる事態になったとしたら。それはひとえに、弟子たちを導いてきた己の責任だ。
いざとなれば腹を切って……
坂本龍馬だけが、少し違う顔をしていた。
龍馬は糸子の顔を見ていた。書状を読み始めた瞬間の、糸子の表情の変化を。
「主上様に言いつけてやる」という書状が届いた後の反応としては、なんとなく——何か違う気がする。
(主上様に言いつけたにしては、ちっく反応が違うような……?)
受け取った父、忠房からの書状にはこう書かれてあった——
「御門様への奏上はうまくいった」
「御門様より仰せを蒙り候……」
「もし、何か朕の力が必要な時は——遠慮なく申せ」
「朕は、できる限りのことをしてやろう」
「あの子のためじゃ」
「朕も、糸子のことが心配じゃった」
「そなたが、こうして話してくれて、朕の心も安らいだ」
「あの子に伝えてくれ。『朕は、糸子の道を見守っておる』と」
——手紙を読んだ糸子は、心の底より安堵した…声を出した。
「御父上…」
「あぁ、ほんとによかった」
四人の動きが、止まった。
「——!!?」
糸子は書状を読みながら、目を細めた。その目に、うっすらと光るものがあった。
それから、書状をそっと胸に抱いた。
「御門様、御父上……糸子はお心尽くし、嬉しゅうございまする」
声に、涙があった。
四人は、しばらくその光景を眺めていた。
高杉は心の中で首を傾けた。
(俺らのことを言いつけたんが、そねーにうれしいんか? 言いつけた結果がうれしいっちゅうのは、どういう……いや待て、何かがおかしいっちゃ)
久坂はさらに深刻な方向に考えが向かっていた。
(まさか我らだけじゃのうて……長州藩そのものが!? 、藩全体への朝廷からの通達だとしたら……ありゃあ……とんでもないことになっちょるぞ……)
久坂の顔が、じわじわと青ざめていった。
松陰は畳に額をつける寸前だった。震えが止まらない。
(ああああああ……もはや私が腹を切って詫びるしか……)
一方、龍馬は糸子の表情と声を冷静に観察し続けていた。
喜んでいる。心から喜んでいる。
しかしあの書状の内容は、こちらを叱責するようなものには聞こえない。むしろ——
「姫様」
龍馬が静かに口を開いた。
「近衛様からの書状には、どのようなことが書かれちょったがですか?」
糸子が書状から顔を上げた。目元を軽く拭いながら。
「えっ? あぁ……御父上が御門様に新年のご挨拶をされに参内されたときに——」
糸子は少し照れたように続けた。
「御門様がわたくしのことを心配してくださったのと……」
一拍置いて、
「『朕は、糸子の道を見守っておる』とお言葉を残していただけたことが、書かれておりました」
少し恥ずかしそうに付け加えた。
「まぁ、要約すると…そのような感じの内容でございました。それがうれしくてつい……」
「そうやったがかー」
龍馬がゆっくりと頷いた。
「そりゃあこじゃんと嬉しい書状やねー」
「それがいかが致しましたか? 坂本……」
糸子は、龍馬の顔が何かを堪えているように見えることに気がついた。
つられて、糸子は横を向いた。
高杉が石のように固まっていた。顔が青い。
久坂が口を半開きにしたまま、何か言いかけた言葉を完全に飲み込んでいた。顔が青い。
松陰が——畳に手をついて、俯いて、全身を震わせていた。青いを通り越して白い。
「えっ?」
糸子の声が、少しだけ素になった。
「なんで吉田殿たちはあんなに絶望している?感じなのでありましょうや?」
龍馬が静かに、しかしどこか楽しそうに答えた。
「姫様の例の……『主上様に言いつけてやる』ちゅう書状と、どうも勘違いしちゅうらしいがです。」
糸子の目が、ぱちと瞬いた。
「あぁー」
糸子は短く言った。
「あれはまだ、出しておりませぬ」
「あっ、えっ……ま、まだながか??」
龍馬の声に、驚きが滲んだ。
「ゆうことは……まだあの三人は……」
「そうですね」
糸子が少し静かに言った。
「まだずっと……あの書状が出るのを待ちながら生きているということですね」
その言い方は穏やかだったが、どこか楽しそうでもあった。
「あれはあれで……少し面白いので」
糸子は小声で続けた。
「しばらくはあのまま、勘違いさせておきましょうか」
「えっ、あぁ……」
龍馬は一瞬固まり、それから肩を揺らして笑い出した。
声を殺して、しかし全身で笑った。
「姫様には……まっこと敵わんのう」
「ふふふ…」
糸子も微笑んだ。いつもの涼しい笑顔ではなく、少しだけ年相応の、茶目っ気のある笑顔だった。
「はははは……」
龍馬は笑いながら、横の三人を見た。
高杉は、まだ固まっていた。
久坂は、計算書を何も見ていない目で見つめていた。
松陰は、床に手をついた姿勢のまま、微動だにしていなかった。
三人の誰も、龍馬と糸子のやりとりを聞いていなかった。聞けるような状態ではなかった。
(まぁ……ちっくと、このままにしちょってもええかのう)
龍馬は心の中で思った。そして、お茶を一口飲んだ。
外は、もう夕暮れになっていた。
奥御殿の障子が、橙に染まっていた。
一橋上屋敷の庭の梅が、夕陽の中で白く光っていた。
三月余という時間が、確かにここにあった。
戦場は、これから先にある。
しかしこの座敷の中の、この夕暮れの時間だけは——どこか、のどかだった。
松陰の震えは、まだ続いていた。
久坂の顔は、まだ青かった。
高杉は、まだ固まっていた。
龍馬だけが、一人のどかにお茶を飲んでいた。
「わはははーーーっ」
龍馬の笑いが、大きく辺りに響いていた。
第九十三話 了
糸子さんのイメージイラスト…その③を試しに作ってみました!
いかがでしょうか?ヽ(゜∀゜)ノ♪