軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九十二話「中間試験——四人の現在地」

文久元年——。

その年号が世間に告げられてから、江戸の町はわずかにざわめいた。

万延元年が、終わった。

しかし、改元の華やぎは——表面的なものに過ぎなかった。

幕府の足元では、井伊直弼の死後、政の中心は老中首座の堀田正睦が回していた。しかし、安藤信正が老中として京と江戸の間で行き来していた。攘夷と開国の議論が、各藩の若者の血を、熱く滾らせていた。

古い時代が、終わろうとしていた。

新しい時代が、始まろうとしていた。

そして——その新旧の境目で、若き志士たちは、それぞれの道で刀を研ぎ続けていた。

一橋上屋敷の奥御殿。

その朝、奥御殿の御座所には——いつもの教場とは違う、特別な空気が満ちていた。

部屋は、十畳。

昨日まで、四人がそれぞれの場所で修練を積んでいた、その間、糸子は奥御殿に戻り、本日のための準備を、葵と共に整えていた。

北側の床の間には、相変わらず「経世済民」の掛け軸。これは松陰が初日に訳した四文字。

その下に——本日は、新しいものが、置かれていた。

黒い漆塗りの台に、四枚の白い紙。それぞれの紙には、四人の名前が、丁寧に書かれていた。

「吉田松陰」

「高杉晋作」

「久坂玄瑞」

「坂本龍馬」

四人それぞれの、本日の試験のための席札であった。

席札の下には、それぞれの試験の道具が、整然と並べられていた。

松陰の前には——黒板と白墨。

高杉の前には——商談用の文机と、田中屋清兵衛が座る座布団。

久坂の前には——三日三晩で書き上げた建白書を、糸子と善次郎が検分するための、検分台。

龍馬の前には——薩摩志士に語りかけるための、対座の場。

すべてが、試験のために、整えられていた。

部屋の南側には、御簾。

しかし——本日、糸子は、御簾を使わない。

すでに四人は、糸子の姿に慣れていた。本日は御簾なしで、糸子が四人の試験を、直接見届ける日であった。

部屋の片隅には、村田蔵六と、松屋善次郎が、それぞれ座っていた。村田は松陰の試験の聴衆役、善次郎は久坂の建白書の検分役として、特別に呼ばれていた。

葵は御座所の正面の、糸子の席を整えていた。

葵は扇を、糸子の席の前に丁寧に置いた。

そして、振り返って、奥に控えている糸子に、深く一礼した。

「姫様——準備が、整いましてございます」

葵の声が響いた。

奥の障子の向こうから、糸子の声が返ってきた。

「葵——おおきに」

糸子はゆっくりと、御座所に出てきた。

本日の糸子の着物は——深い紫の表に、薄紅の重ね、襟元から白絹がのぞく、清楚な装い。袖の縁には、銀糸で文久元年の梅が刺繍されていた。葵が、改元の朝に合わせて選んだ、特別な装いであった。

糸子は、御座所の中央に座った。

そして四つの席札を、見渡した。

糸子の内心。

(——本日が、四人を測る日)

(今までの修練が、どれだけ実を結んだか)

(その答えを本日、見させてもらいますよ)

糸子は、葵に頷いた。

葵が立ち上がり、廊下に向かった。

「皆様——」

葵の声が、廊下に響いた。

「お入りくださいませ」

障子が開いた。

四人が並んで、御座所に入ってきた。

左から——龍馬、高杉、久坂、松陰。いつもの並び順。

しかし、四人の様子は——今までとは、明らかに違っていた。

松陰の眼に、確信が宿っていた。教える側の眼になっていた。

高杉の眼に、観察の鋭さ、戻っていた。武士の眼でありながら、商人の眼も併せ持つ眼。

久坂の眼に、徹夜明けの隈があった。しかし、その眼の奥には、揺るぎない理詰めの光があった。

龍馬の眼に——いつもと変わらぬ、しかしどこか深まった達観の色があった。

四人は、糸子の前で深く一礼した。

「姫様——本日は、よろしくお願い致しまする」

糸子は頷いた。

「皆様——本日が、中間試験にございまする」

糸子の声に、いつもの優しさはなかった。試験官としての厳しい声であった。

「これより、四人それぞれに試験を課しまする」

「順番は——」

糸子は、扇を軽く動かした。

「吉田殿、高杉、久坂殿、龍馬殿——の順にござりまする」

「では、吉田殿から」

松陰が深く一礼してから、立ち上がった。

松陰の前に、聴衆として——糸子、村田、葵が座った。善次郎は、久坂の試験の準備のため、そのまま検分台の方に控えていた。

松陰は、聴衆の前に立った。

松陰はしばらく、無言であった。

深く息を吸って——そして、ゆっくりと口を開いた。

「諸君——」

松陰の声は、聴衆を「藩士」と想定したものになっていた。

「本日、私は、お主らに、ある問いを、投げかけたい」

松陰は——懐から、銀貨と小判を取り出した。

そして、無造作に——畳の上に、放り投げた。

ちゃりん、と硬質の音が響いた。

一分銀三枚と、小判一両が、畳の上で、不規則に止まった。

「諸君、この銀貨三枚が、なぜ日本という国の、喉元を締め上げているか——わかるか?」

松陰の声が、響いた。

糸子の眼が、わずかに見開かれた。

糸子の内心。

(——へー、こういう切り口で来るか、中二総帥)

(いきなり、銀貨を畳に放り投げる演出。これは聴衆の意識を、一気に掴む手法だわ)

(しかも抽象論ではなく、具体的な物——銀貨から始める)

(吉田は教育者として、進化している…)

松陰は、続けた。

「お主たち、最近、米の値段が高くなっておるとは、思わぬか」

松陰は、想定の聴衆に問いかけた。

「百文で買えた米が、今は二百文、三百文を出さねば、買えぬ」

「お主たちの妻が、子どもが、食うに困っておる」

「これは、なぜか」

松陰は、続けた。

「『開国のせいだ』『幕府のせいだ』——そう思うておるであろう」

「されど、それは——結果に過ぎぬ」

「真の原因は、ここにある」

松陰は、畳の上の銀貨と小判を、扇で示した。

「この銀貨と、小判の——交換の比率にある」

松陰は、筆を取った。

そして、畳の上に書き始めた。

「日本 金一 : 銀五」

「異国 金一 : 銀十五」

松陰の声が、低くなった。

「諸君——この差が、何を意味するかわかるか」

松陰の聴衆——糸子、村田、葵は、深く頷きながら聞いていた。

松陰は、続けた。

「異国の商人は、銀を持って日本に来る」

「日本で銀を、金に交換する」

「金を、異国に持って帰る」

「すると——銀十五枚が、銀四十五枚になる」

「三倍に、増えるのじゃ」

松陰は、畳の上に、図を描いた。

「これを、お菓子とビー玉の交換で考えてみよ」

松陰は、わずかに笑った。

「異国の商人が、ビー玉十五個を持って、日本に来る」

「日本では、ビー玉五個で、お菓子一つが買える」

「だから、ビー玉十五個で、お菓子三つを買う」

「そのお菓子三つを、異国に持って帰る」

「異国では、お菓子一つが、ビー玉十五個」

「だから、お菓子三つは、ビー玉四十五個」

「——増えた、ビー玉三十個」

「これが、何もせずに、ただ船に乗せて運んだだけで、得られる」

松陰の声が、低く、重く響いた。

「これが、奴らの『商売』だ」

松陰は、聴衆を見渡した。

糸子の内心。

(中二総帥、なんか格段に上手くなりすぎていないか?)

(金銀比率の歪みを、子どもでもわかる『お菓子とビー玉』に例えてる)

(これは、わたくしが教えていない教え方だ)

(吉田が、自身で工夫したんだ。誰でも分かりやすいように…)

(——教育者として、超一流と言っても過言じゃない。さすが吉田松陰は伊達じゃない…か)

(これなら隕石が落ちてきても、押し返してくれそうだわ…)

松陰は、続けた。

「では、お主たちに問う」

「これによって、日本から、どれだけの金が流出したか」

松陰は、扇で、空に大きく書いた。

「五十万両」

松陰の声に、悲しみが宿った。

「八箇月余で——五十万両」

「これは、最新鋭の蒸気軍艦『咸臨丸』、七十一隻分に相当する」

「もしこの金が、日本に残っておれば——」

「我らは、海岸線を全て守る軍艦を、揃えられたのじゃ」

「メリケンも、イギリスも、押し寄せてくれば撃退できたのじゃ」

「それが——銀貨の入れ替えだけで、消えていったのじゃ」

松陰の声が、震えた。

「それだけではない」

「お主たちの妻、子ども、——彼らが、毎日切り詰めて暮らしている裏で国の命が、ドブに捨てられていたのじゃ」

「『町人の娘が、嫁入りのために、何年も貯めた一分銀』」

「それが、異国の商人の前では、価値が三分の一になる」

「親が、嫁入り道具を買いに行く」

「『これでは足りませぬ』と、商人に言われる」

「親は頭を下げて、もっと銀を出す」

「されど——銀そのものが、価値を失っているとは思いもよらぬ」

松陰の眼に、涙が滲んだ。

しかし、それは、いつものような感動の涙ではなかった。

悲しみと、覚悟の涙であった。

「これが、現実じゃ」

松陰は続けた。

「ここで、私はお主たちに、一つの真実を告げる」

松陰の声が、変わった。

「奴らは——悪ではない」

みなの眉が動いた。

松陰は、続けた。

「奴らは、ただ『合理的な商売』をしているだけなのだ」

「奴らから見れば、日本の決まりが、おかしいのだ」

「『金一に、銀五』という比率は、世界の中で異常なのである」

「奴らはその異常を、利用しているだけ」

「悪…とは言えない」

松陰の声が、低く響いた。

「問題は——そのルールを知らずに、土俵に上がった我々の慢心にある」

糸子の眼が、わずかに見開かれた。

糸子の内心。

(吉田——『我々の慢心』とまで自省された)

(これは、わたくしの想定を超えた深さになっている…)

(自省を含む論理は、単なる煽動ではなく、覚醒の物語にもなる)

松陰は、続けた。

「ゆえに、私は、声を大にして申し上げる」

松陰の声が、力強く響いた。

「知識なき正義は、ただの無能じゃ」

「我々が学ぶべきは、経典の文句ではない」

「異国が世界を支配している、『決まりの正体』だ」

「立て、諸君!」

松陰は、扇を高く掲げた。

「刀を、学びに変え——」

「この不平等の鎖を、知識で断ち切るのだ!」

松陰は、深く一礼した。

部屋に、長い沈黙が流れた。

糸子は——深く頷いていた。

糸子の内心。

(吉田殿、お見事!)

(聴衆を惹きつける演出、子どもにもわかる例え、自省を含む論理、最後の覚醒の呼びかけ——)

(伝道者として、完璧な構成なんじゃないかな?)

(これならば、他藩の藩士たちを必ず動かせる)

糸子は、立ち上がった。

「吉田殿——」

「は、はい」

「合格にござりまする」

「お見事でござりまする」

松陰は、深く一礼した。

松陰の眼にようやく、涙が流れた。

しかし、それは、達成の涙であった。

村田もまた、深く一礼した。

村田の口元に、わずかな微笑みが浮かんでいた。

次は——高杉晋作の番であった。

糸子の合図で田中屋清兵衛が、部屋に入ってきた。

田中屋は——本日のために、商家の正装を整えていた。

深い藍の羽織、白足袋、銀の煙管入れ。三十歳の働き盛りの商人らしい、引き締まった姿。横浜で外国商人と渡り合ってきた男の、自信が、所作の隅々から滲んでいた。

田中屋は、深く一礼してから、高杉の前の座布団に座った。

高杉の前には、商談用の文机が置かれていた。

文机の上には、白い紙、墨壺、筆——商談に必要な道具が、整然と並んでいた。

糸子は、少し離れた場所に座っていた。

審判のような姿勢で、二人の対決を、見届ける構えであった。

糸子の内心。

(高杉——ここまでの三回、田中屋に負けた)

(しかし、四回目以降、徐々に勝ち始めた)

(最後に勝った商談は、見事だった)

(本日が、高杉の到達点を見せる、最大の機会だね)

(高杉、見せて見ろ——お主の学んで変わった姿を)

部屋には独特の緊張感が、満ちていた。

松陰の演説が終わった後の、知性の余韻が、まだ部屋の空気に漂っていた。

しかし、これから始まるのは——別の種類の戦い。

知性ではなく、駆け引き。

論理ではなく、心理戦。

正攻法ではなく、観察と機知。

高杉は、文机の前で姿勢を整えた。

深く息を吸って——息を整えた。

高杉の眼、観察姿勢の光が、完全に作動した。

田中屋は、微かに笑った。

商人の、柔らかな笑みであった。

「高杉様——本日は、よろしくお願い申し上げまする」

「うむ、田中屋の。よろしゅう頼むっちゃ」

高杉は姿勢を正した。

眼がすでに、観察姿勢に入っていた。

商談の設定は——田中屋が、長州藩の独占品である「蝋」の、買い取り価格を提示する場面であった。

田中屋は、ゆっくりと口を開いた。

「高杉様——」

「うむ」

「長州藩の蝋を、わたくしどもが、ぜひとも買い取らせていただきたく、参った次第にござりまする」

「うむ」

「価格でございますが——」

田中屋は、わずかに微笑んだ。

「『百斤、銀八匁』で、いかがでござりましょうか」

部屋の空気が、わずかに軋んだ。

高杉は——動かなかった。

しかし、内心では、即座に判断していた。

高杉の内心。

(——百斤、銀八匁)

(これは、相場の半分以下っちゃ)

(市場相場は、百斤、銀十六から二十匁じゃ)

(田中屋はわしを、商売を知らん若侍と見くびって揺さぶってきちょる)

(『武士の短気』を誘っちょるんじゃ)

(——が、わしはもう、そねーな男じゃあない)

高杉は、——黙って、田中屋を見つめた。

沈黙。

一秒、二秒、三秒——。

部屋の空気が、伸びていった。

田中屋の眉が、わずかに動いた。

糸子の内心。

(——見事…高杉。沈黙の使い方が、上手い)

(七原則の二つ目——『沈黙は最強の返答』)

(高杉はこれを、完璧に体得したな)

高杉は田中屋の顔を、観察していた。

観察姿勢が、完全に作動していた。

高杉の内心。

(田中屋の指先が、わずかに震えちょる)

(茶を啜る間が、いつもより早っちゃ)

(眼が、わしの出方を、必死に読んじょる)

(——焦っちょる)

(なぜ、焦っちょるんじゃ?)

(市場相場の半分以下を提示してきたんは、どういう理由なそ?)

(普通の商人なら、まず無難な値を提示するはずっちゃ)

(半分以下を提示するんは——よほど『焦り』があるに違いねぇ)

高杉の脳が、高速で回転していた。

高杉の内心。

(待てよ——)

(蝋の市場相場は、最近、上海で需要が増えちょる)

(清国の商人が、蝋を大量に買いたがっちょるんじゃ)

(じゃが、田中屋が、それを知らんはずぁねぇ)(むしろ、知っちょるからこそ——)

(自分の店に、蝋を溜め込みすぎちょるんじゃなかろうか)

(過剰在庫を、抱えちょる)

(その過剰在庫を、吐き出すために、新しい仕入れを、安う済ませたいんじゃ)

(——これが、田中屋の、真の動機じゃな)

高杉の眼に、確信が宿った。

高杉は——口を開いた。

しかし、値段交渉ではなかった。

「田中屋殿——」

「は、はい」

「あんたが、この値を付けたんは——商売が下手じゃからじゃあない」

高杉の声が、低く響いた。

「——裏で抱えた『過剰在庫』を、吐き出すための、焦りじゃ」

田中屋の眼が、見開かれた。

糸子の内心。

(——お見事、高杉!)

(七原則の七つ目——『最後に相手が良い取引をしたと思えるように』、その前段階として)

(相手の『裏の事情』を看破する)

(これは田中屋の逃げ道を、完全に塞いだ)

高杉は、続けた。

「田中屋殿、あんたの店には、蝋が——おそらく、五千斤以上、貯まっちょる」

「上海への輸出を、見込んで仕入れた蝋じゃ」

「されど、何らかの理由で、その輸出が、止まった」

「在庫が、減らせん」

「ゆえに、新しい仕入れを、安う済ませたい」

「『百斤、銀八匁』は、あんたの、苦肉の策じゃ」

田中屋は——深く息を吐いた。

そして、わずかに頭を下げた。

「……お見事でございまする、高杉様」

「ご明察の通りにござりまする」

部屋に衝撃が走った。

糸子は、密かに頷いた。

(高杉、ここで——史実の幕末で名を遺した、その片鱗を見せてきたわねー)

高杉は、続けた。

「——田中屋殿」

「はい」

「わしは、あんたを、追い詰める気ぁない」

「あんたが損をせんギリギリの、かつ長州藩に最大限の利益をもたらす、『共生』の値を、提示したいんじゃ」

高杉は文机の上に、紙を取り出した。

そして、紙に書き始めた。

「『百斤、銀十四匁』」

「ただし、長州藩は、上海への輸出経路を、独自に持っちょる」

「あんたの過剰在庫を、長州藩の輸出経路で、引き取ってもええ」

「その代金は——別途、銀百貫で買い取る」

「これにより、あんたの店は過剰在庫を解消し、現金を手にできるっちゃ」

「長州藩は、市場相場よりやや安う蝋を仕入れ、なおかつ、上海輸出で追加の利益を得られる」

「これが、わしの提示する『共生』の値じゃ」

「どうかの?」

田中屋は——深く、深く頭を下げた。

しばらく、何も言わなかった。

ただ、頭を下げ続けた。

そして——ゆっくりと、顔を上げた。

田中屋の眼から、涙が一筋流れていた。

「……高杉様」

「うむ」

「もはや——ただの武士と侮る者は、この下関にはおりませぬ」

「お見事——お見事にござりまする」

田中屋は、また深く頭を下げた。

部屋に、長い沈黙が流れた。

高杉の眼に——勝利の余韻はなかった。

代わりに、別の感情が宿っていた。

高杉の内心。

(——田中屋殿)

(あんたは、わしより、ずっと多くの戦をしてきた人じゃ)

(金という数字の裏に、血と汗が流れちょる)

(わしはそれを、知らんかったっちゃ)| 武士は、商人を見下しちょった)

(『卑しい』『汚い』——そう思うちょったんじゃ)

(じゃが、この戦いは、武士の戦よりずっと深い)

(情報、心理、駆け引き、信頼——すべてがぶつかり合う)

(——わしは田中屋の。に、感謝せにゃあいけん)

高杉は文机の前で、姿勢を正した。

そして深く——深く、頭を下げた。

武士が商人に、頭を下げた。

糸子はその光景を、静かに見つめていた。

高杉の声が、響いた。

「田中屋殿——」

「は、はい」

「教えていただいて、かたじけない」

「わしは、今まで——金という数字の裏に、あんたらが流す血と汗があることを、知ろうともせんかった」

「武士の傲慢じゃった」

「お見事——にござったのは、あんたの方じゃ、田中屋の。」

田中屋は、頭を下げたまま、声を絞り出した。

「……高杉様……」

「もったいなきお言葉……」

田中屋の肩が、震えていた。

糸子は二人の光景を、見つめていた。

糸子の内心。

(——これは武士と商人の、新しい関係だわ)

(武士が商人に、頭を下げる)

(これは史上、ほとんどなかったこと)

(高杉、お主は——時代を変えると思うわよ)

(後の奇兵隊で、身分を越えた組織を作る——その萌芽がここに見える…ような気がする)

(『新しい時代を生きる者として』、対等に接する姿勢)

(これがお主の、学んだ後の姿なのね…)

(本質はマゾなんだけどね…)

糸子はゆっくりと、立ち上がった。

高杉と田中屋の方に、歩を進めた。

二人の前で、立ち止まった。

「高杉——」

高杉が、顔を上げた。

「なんそ、姫様」

糸子の眼が優しく…しかし力強かった。

「見事でござりました」

高杉の眼が、わずかに潤んだ。

しかし、高杉は武士であった。涙は流さなかった。

高杉は——わずかに笑った。

「姫様——」

「わしは、変わったっちゃ」

糸子は黙って聞いていた。

(えっ?、どマゾになってしまったとか??)

高杉の声が、軽やかに響いた。

「刀一本で変えられん世も——この『算盤』がありゃあ、面白うおかしく変えてみせるっちゃ」

糸子は——わずかに微笑んだ。

(あーびっくりした。かなりまともになったみたいだ…)

無言の、肯定の微笑み。

糸子は何も言わなかった。

ただ微笑んだ。

その微笑みが、高杉を一人前の男として認める、無言の宣言であった。

(これで安心して…休みなく死んでしまうくらいに、使い倒せるわね)

高杉は、深く一礼した。

糸子も、わずかに頭を下げた。

田中屋はその光景を、深く頭を下げた姿勢のまま、見ていた。

次は——久坂玄瑞の番であった。

糸子は、自席に戻った。

そして、検分台の前に座った。

善次郎が、検分台の脇に控えた。

久坂が、文机から立ち上がり——分厚い書類の束を、両手で丁寧に持ってきた。

書類の表紙には、こう書かれていた。

「某藩財政再建建白書(仮想)」

「久坂玄瑞・拝」

久坂の眼の下には、深い隈があった。

三日三晩、不眠不休で書き上げた、その痕跡であった。

久坂は、深く一礼してから、書類を、糸子の前に差し出した。

「姫様——」

「はい、久坂」

「不眠不休にて、書き上げ申した」

「ご検分のほど、よろしゅうお頼み申し上げまする」

糸子は書類を、丁寧に受け取った。

善次郎も糸子の脇から、書類を覗き込んだ。

糸子は表紙を捲った。

最初の頁——。

「序——藩の現状」

「銀数万貫の借金。歳入の実態。隠れた資産」

糸子の眼が、頁を追っていった。

久坂は、緊張しながら、糸子の表情を見ていた。

糸子は、ゆっくりと、頁を捲っていった。

しばらく——糸子は、何も言わなかった。

ただ、読んでいた。

善次郎もわずかに眉を寄せながら、書類を覗き込んでいた。

糸子の指が、ある頁で止まった。

糸子は、その頁を、声に出して読み上げた。

「『藩の借金、銀数万貫』」

「『これを、ただの負債と見るから絶望する』」

「『されど、この負債の相手は誰か——大坂の商人だ』」

「『彼らにとって、わが藩が潰れれば、貸し金は紙屑』」

「『ならば、これを逆手に取り——』」

「『交易の独占権を担保に、利息の支払い停止と、元金の百年賦——実質的な棒引き——を呑ませる』」

糸子は書類から、顔を上げた。

久坂を見つめた。

糸子の眼に驚きが宿っていた。

糸子の内心。

(——久坂も見事だわー)

(『負債を、逆手に取る』——これは、21世紀の財政理論で言うところの、『債務交渉』の発想だ)

(しかも、『相手が困る』ことを、こちらの交渉カードに転換している)

(これは、わたくしが教えていない発想…)

(久坂は自分で、ここまで考え抜いたんだ)

糸子は続けて、読み進めた。

「『藩主の贅沢品(資産)を、売却可能物件として、冷徹に仕分けしている』」

「『茶器、刀剣、屏風——これらをもはや「権威の象徴」ではなく「現金化可能な資産」として位置づける』」

「『下関の荷積み料(売上)の、計上漏れを暴いている』」

「『年間銀二百貫もの売上が、表の帳簿に乗っていない』」

「『これを複式簿記で正確に計上すれば、藩の歳入は一気に増える』」

糸子は書類を、ゆっくりと閉じた。

善次郎が隣で、深く息を吐いた。

「……お見事ですね」

善次郎の声が響いた。

「久坂様……一介の商人である私が言うべきことではありませぬが、これは藩首脳と、対等に議論できる水準であると…私には思えるのです」

「いえ、ひょっとすると対等以上かもしれません」

「数字という『言霊』で、古い形式の単式帳簿で誤魔化してきた藩首脳を、沈黙させることが、おそらくできると…予想出来ます」

久坂は、深く頭を下げた。

「ありがたいお言葉っちゃ」

糸子は、続けて頷いた。

「久坂——」

「はい」

「『保守主義の原則』も、貫かれておりますね」

久坂が、わずかに目を上げた。

糸子は続けた。

「最悪の事態を想定して、計上しておられる」

「米の先物取引の暴落、商人の取り立て、藩主の急逝——」

「全ての悪い可能性を、計算に入れた上で、なお黒字化の道を示しておられる」

「これは、本物の財政分析にござりまする」

久坂は、深く一礼した。

久坂の眼の下の隈が、わずか、緩んだ。

糸子は笑った。

「久坂——」

「はい」

「要するに——」

糸子はわずかに、いたずらっぽく笑った。

「お小遣い帳を誤魔化してきた藩を、徹底的に暴いたということですね?」

部屋に、わずかに、笑いが起きた。

久坂も、わずかに笑った。

「は、はい——そねーにござりまする」

糸子は、深く頷いた。

「久坂、合格にござりまする」

「お見事にでした」

久坂は、深く頭を下げた。

久坂の眼にようやく、涙が滲んだ。

しかし、それは達成の涙であった。

糸子の内心。

(久坂、お主は藩首脳を、論で動かせる男になった)

(これは、長州攻略の要になるかもしれない)

(周布政之助を、お主が必ず説得するのです)

(あれだけわたくしをネチネチといじめ倒したのですから…)

(今回は三日三晩、不眠不休だったらしいけど、超ー頑張れば七日七晩…)

(いや、二十四時間、三百六十五日、不眠不休でもいけるでしょ?)

(高杉同様に使い倒してあげますよ!。安心してくださいまし、久坂殿…)

最後は——坂本龍馬の番であった。

龍馬はにこりと笑いながら、立ち上がった。

糸子の前に対座の場が、用意されていた。

糸子は、薩摩志士の役を演じる予定であった。

葵は、聴衆の役。

糸子は、わずかに姿勢を変えた。

糸子の表情が、薩摩の藩士のような、わずかに頑なな表情になった。

糸子の内心。

(——薩摩の若き志士として…演じる)

(薩摩の若き志士のイメージは「猪突猛進・酒豪・超熱血・超脳筋」のトラブルメーカー…こんな感じかしら?)

(とりあえず…チェストー!)

(坂本、お主の言葉が、わたくしを動かせるか…)

(さあ——勝負です。チェストー!!)

龍馬は、糸子の前に座った。

糸子の表情が、薩摩藩士特有の頑なで、どこか殺気立ったものへと変化する。彼女は、龍馬を射抜くような視線で見据えた。

「坂本殿。おいは、あんま理屈は好かんで。異国が攻めてくるなら、この太刀で首を跳ね飛ばすだけじゃ」

「じゃっどん、おいは納得がいかん」

「なぜ異国は、わざわざ海を越えて、この小さな日の本を狙う? なぜ奴らは、我らの誇りを踏みにじってまで開国を迫るとな?」

「まことの言葉がなけりゃ、ここいらでチェスト――!おいのごっつぁんの錆にしてくっぞ」

糸子の内心。

(どうだろうか?自分としては割と薩摩藩士に成り切れていると思うんだけど…)

「……ほほう」

傍らで見守る高杉晋作が、面白そうに目を細めた。

「姫様、ええ面構えしとりますぞ。薩摩の芋侍の『におい』がしちょるぞ。のう、久坂」

久坂もまた、腕を組んで頷く。

「ああ。坂本殿、おんしゃあ、どう答える。この熱き『薩摩の魂』を納得させられんようじゃ、天下の事など語れんぞ」

龍馬は、糸子の――いや、薩摩志士の迫力を真正面から受け止めた。

彼は少しだけ困ったように鼻を掻いたが、その瞳には、深い洞察の光が宿っていた。

「……薩摩の御仁。おんしの怒りは、よう分かる。じゃが、奴らは決して『悪さ』をするために来ちゅうわけやない。いや、奴らにとっちゃあ、これが『正義』ながよ」

龍馬は落ち着いた、それでいて腹に響く声で語り始めた。

「まず、おんしに聞きたい。なぜ異国は、あんなに巨大な蒸気船を動かせると思う? あれは『産業革命』いう、魔法のような変化が向こうで起きたきぜよ」

「機械が物を吐き出すように作り、生産力が爆発した。……そうなると、何が起きるか。おんしも商売を考えれば分かる。物が余るがじゃ」

龍馬は指を一本立てた。

「余った製品を売るための『出口』、言うたら市場が要る。そいて、機械を動かし続けるための『原材料』が、いくらあっても足らんがやき」

「世界を巨大な胃袋に見立てれば、異国はその胃袋を満たすために、血眼になって獲物を探しちゅう。その航路の先に、日本があった。ただそれだけのことながよ」

糸子の薩摩志士は鼻で笑った。

「市じゃと? 我ら武士に、あきんどの真似事んしっみろち言うとか!」

龍馬が語る。

「そう熱うなりなや。もっと切実な理由もある。今の動力は『石炭』じゃ。太平洋を渡る蒸気船にとって、日本は最高の『石炭補給所』……つまり、海を走る籠屋の休憩所ながやき」

「そこにな、メリケンのような後発の国が、清国いう巨大な市場に割り込もうと必死になって飛び込んできたがやき」

「彼らにとっちゃ、日の本を開かせることは、天から与えられた使命じゃ。キリストの教えを広め、未開の地を『文明化』してやるのが自分らの正義だと、本気で信じちゅう。これが一番厄介ながぜよ」

「メリケンだけやない。イギリス、フランス、ロシア……皆、狙いが違う」

龍馬は懐から世界地図を取り出し、床に広げた。

「イギリスは産業革命の覇者。インドを食らい、清国を叩き、今や自由貿易の旗を振って日本へ迫っちょる。フランスはナポレオン三世の下、国威発揚とキリストの布教を武器に食い込もうとしちゅうがやき」

「ロシアは、北の凍らん港を求めて、常に南下を狙っちょる。……そしてオランダは、長崎での独占権を失うのを恐れて、先に恩を売ろうと開国を勧めてくるがぜよ」

龍馬の言葉が、一段と熱を帯びる。

「おんしは『万国公法』いう言葉を知っちゅうか? 万国の対等な法と言うが、あれは嘘じゃき」

「奴らは、キリスト教を信じんばあ国を対等なパートナーとは認めん。だから、無理やり『不平等条約』を押し付けてくるがぜよ」

「外国人が人を殺しても現地の国の法で裁けん『領事裁判権』。その国が自分の身を守るための税を決められん『関税自主権の欠如』。……これこそが、国を中から腐らせる毒ながよ」

龍馬は、糸子の目を見据えた。

「もう一つ、おんしの知らん恐ろしい事実を教えちゃる。今、日本から『金』がどんどん流出しちゅう」

「なぜか分かるか? 外国の銀と日本の金の価値の比率が、世界と日本ではぜんぜん違うきよ」

「日本で銀を金に替えるだけで、奴らは座ったまま三倍の利益が得られる。この『経済の格差』こそが、奴らが日本を狙う、もう一つの大きな理由ながよ」

その言葉に、糸子は内心で驚いていた。

(……すごい。ただの知識になっていない。きちんと坂本らしく、自分の言葉で考え直して話している。理解力が凄まじいわ)

龍馬の語りは、ついに核心へと向かう。その声には、微かな震えが混じっていた。

「おんしは、清国の『アロー戦争』の話を聞いたか? わずか数年前のことぜよ」

久坂が身を乗り出した。

「……清の役人がな、イギリスの旗を掲げちょる船を調べたっちゅうだけで、あんな大国が火の海にされたっちゅうことっちゃ」

龍馬の語り続けた。

「そうじゃ。イギリスとフランスの連合軍は、広州を占領し、北京まで攻め込んだ。そいて徹底的に破壊し、略奪し、灰にしたがやき」

「清国は巨額の賠償金をむしり取られ、九龍半島を割譲させられた。それだけやない、国民は奴隷のように異国へ売り飛ばされるようになった……。これが、万国公法を掲げる奴らのやり方じゃ!」

龍馬は、ぎゅっと拳を握りしめた。

「日本が結んだ不平等条約を覚えちゅうか?。ハリスは日本を脅したんじゃ。『イギリスやフランスが、次はこの日本に攻めてくるぞ。その前に、温和なアメリカと手を組め』とな」

「……これは、真っ赤な嘘やない。実際に清国が滅びゆく様を、日本は風説書で知っとった。武力で抗うことが、いかに不可能か。それを突きつけられたがよ」

龍馬は、ふっと力を抜いて笑った。

「薩摩の御仁。おんしが叫んで斬りかかる。その気概は尊い」

「じゃが、竹槍で大砲には勝てん。清国の灰を見て、我らは学ばにゃいかん。植民地にされんためには、奴らと同じ土俵に立ち、奴らの論理を知り、その上で独立を保つ……それしか道はない」

「……わしが目指すがは、日本が異国の食い物にならんための、新しい仕組み作りじゃ。苦渋を力に変えて異国に対抗するために、あえて異国から学ぶがやき」

「おんしと一緒に、その未来を創りたい。……どうじゃ?」

静寂が講堂を、支配した。

糸子は、圧倒されていた。薩摩志士としての役を忘れ、目の前の「坂本龍馬」という存在に、魂を揺さぶられた。

(すごいわねー。おもわす、お願いします…と言いそうになってしまった)

糸子は、ゆっくりと表情を崩し、笑顔を見せた。

「……お見事です。坂本。あなたの話、しかと胸に響きました」

「わっはっは! 龍馬、おんしゃあ、相変わらず口がうまいのお」

高杉が、膝を叩いて笑う。

「じゃが、理屈だけじゃない。その『熱』こそが、人を動かす。久坂、お主はどう思うた?」

久坂は少し悔しそうに、しかし清々しい顔で言った。

「……経済の論理を、国家の存亡に結びつけて語るとはな。さすがっちゃ」

吉田は、満足げに頷いた。

「龍馬。お主の語る『異国の理』は、まさに今の日本が必要としているものだ。学問とは、書物の中にあるのではなく、今この瞬間を動かすためにあるべきだ」

糸子は、龍馬を見つめた。

そこには、飄々としたいつもの龍馬がいた。だが、彼の背後には、荒れ狂う世界の荒波を見据える、 漢(おとこ) が見えるようだった。

(坂本は、天才の片鱗を見せ始めている。……ううん、もう既に目覚めているんだわ)

糸子は、自分の胸が高鳴るのを感じていた。

これから始まる彼の物語は、きっと…想像を絶する熱量を持つことになるんだろう。

(ふふふふふふ……)

(これならば…想像以上にしっかり働いてくれそうで、安心致しました)

糸子は立ち上がった。

薩摩志士の演技を解いて、本来の糸子に戻った。

「坂本——」

「なんぜよ、姫様」

「合格にござりまする」

「お見事でござりまする」

龍馬は、にこりと笑った。

「こじゃんと、ありがたいぜよ」

糸子は、四人を見渡した。

四人はそれぞれの席に戻り、糸子の総評を待っていた。

糸子の眼が優しく、しかし力強かった。

「皆様——」

「四人とも、合格にござりまする」

四人の表情に、安堵が広がった。

「中間試験は、これにて終了にござりまする」

糸子は続けた。

「次は——統合の段階」

「四人で、連携することを、学んでいただきまする」

「最終試験を、課しまする」

糸子の声にわずかな、わくわくとしたものが宿った。

「最終試験の代表は——坂本」

「想定は——以前話した薩摩藩です」

「わたくしの前で、薩摩藩を計画に協力していただけるように、模擬交渉を実演していただきまする」

龍馬な項垂れる

「やっぱり薩摩じゃろか」

「直前で変わることを期待しちょったに」

「姫様、まっこと勘弁してほしいがやけど…」

部屋にわずかな、笑いが起きた。

高杉が、にやりと笑った。

「龍馬、お主の本領発揮じゃろうが」

久坂も苦笑した。

「坂本殿、頑張りね」

松陰はにこにこと、頷いていた。

「龍馬、お主ならできる」

龍馬は、頭を抱えた。

「皆——わしを煽るんじゃないぜよ」

糸子は四人を改めて、見渡した。

四人の表情は——安堵と、新たな緊張で混ざり合っていた。

中間試験を乗り越えた喜び。

最終試験への覚悟。

そして——三月の修練の、最終局面への決意。

松陰は内心で、自らに言い聞かせていた。

(私は姫様に導いていただき、ここまで来た)

(されど、これからが本当の修練)

(諸藩藩士たちに、この演説をできるよう——)

(さらに、磨きをかけねばならぬ)

高杉は——内心で田中屋に、感謝していた。

(田中屋殿、お主のおかげで、わしは変われたっちゃ)

(次の戦いは——藩内の俗論派との、論争じゃ)

(あの時の経験を、活かさにゃあいけん)

久坂は、——内心で、自らの建白書を、思い返していた。

(三日三晩、書き続けた、あの建白書)

(あれを、本物の藩首脳へ——見せる日が必ず来るっちゃ)

(その時わしは、わしの論で…藩を動かしてみせる!)

龍馬は——内心でにこにこと、笑っていた。

(いきなり、難問じゃ)

(けんど、わしゃ楽しいぜよ)

(姫様の前で、薩摩を口説く——これほど面白い試験はないぜよ)

糸子は四人の表情を、見つめていた。

糸子の内心。

(——四人とも、ここまで来た)

(中二総帥は、教える側として)

(高杉は、商談者として)

(久坂殿は、財政分析官として)

(龍馬殿は、外部エージェントとして)

(——計画の第一歩になる…四人の協力者が揃った!)

糸子は、深く頷いた。

「皆様——本日は、お疲れ様にございました」

「明日からは、第三段階——統合と実戦準備に入りまする」

「四週間後、最終試験」

「皆様、最後まで——よろしくお頼み申しまする」

四人は、深く一礼した。

「畏まりて、ござりまする」

四人の声が揃った。

四人は、順番に、退室していった。

最初に龍馬が、笑いながら退室した。

次に久坂が、深く頭を下げてから退室した。

次に高杉が、田中屋と共に退室した。田中屋は何度も、深く頭を下げていた。

最後に松陰が、感極まった表情で、何度も平伏してから退室した。

障子が、静かに閉じた。

糸子は退室する姿を、静かに眺めていたのだった。

糸子は、深く息を吐いた。

肩の力が、わずかに抜けた。

葵が糸子の方に、微笑みかけた。

「姫様——」

「葵」

葵の声に、優しさが宿っていた。

「四人とも、ここまで、来ましたね」

糸子は、頷いた。

「左様にござりまする、葵」

「四人とも本日、お見事ございました」

葵は深く、頭を下げた。

「姫様——お見事にござりましたね」

「これはすべて、姫様のお導きの賜物だと思います」

糸子は、わずかに、首を振った。

「いえ、葵」

「四人が、自分の力で、ここまで来たのでござりまする」

「わたくしは、その道筋を示しただけ…」

「歩いたのは、四人にござりまする」

葵はまた、深く頭を下げた。

「姫様らしいお言葉だと思います」

糸子は、ふと——文机の上に目を向けた。

そこに、葵が、こっそりと用意していたものが、置かれていた。

白い包みがあった。

糸子の眼が、わずかに輝いた。

「葵——」

「はい、姫様」

「こっ、これは——」

「お疲れの姫様にとおもいまして……」

「ご用意致しました」

「お饅頭にござりまする」

糸子の眼が、一気に輝いた。

糸子は思わず子どものような声を、上げそうになった。

「お饅頭——!」

糸子は、すぐに姿勢を整えた。

しかし、口元が緩んでいた。

「葵——」

「はい」

「おおきに」

糸子は白い包みを、丁寧に開けた。

中から、紅白の饅頭が、出てきた。

改元を祝う、紅白。

葵が改元の後に、特別に用意したものだった。

糸子は、一つ手に取った。

そして、口に運んだ。

ほのかな、甘さ。

小豆の優しい味わい。

和菓子職人の、丁寧な仕事が伝わってきた。

糸子の表情が——ふっと緩んだ。

眼がわずかに、細められた。

口元になんとも言えない、幸せな微笑みが浮かんだ。

まるで十三歳の少女の、本来の姿が、ようやく顔を出したかのような——。

そんな無防備な、幸せそうな笑顔。

葵はその糸子の表情を、見つめていた。

葵の胸に——温かいものが広がった。

葵の内心。

(姫様……)

(いつもは、千年の家格を背負い、幕末の重みを背負い、多くの人々を導いておられます)

(その姫様の本来のお姿…)

(無防備な微笑み)

(——これを、見られるのは、今は葵だけにございます)

(葵は本当に、幸せ者にござりまする)

葵は深く、頭を下げた。

そして、心の中で誓った。

(姫様——葵は必ず姫様の道を、最後までお支え申し上げまする)

(姫様のこの笑顔を——守り続けまする)

糸子は饅頭を、二つ、三つと頬張った。

幸せそうに、しかし、品を保って。

葵はその光景を、温かい眼差しで見守っていた。

しばらく——糸子は、お饅頭を楽しんでいた。

そしてようやく、口を拭いた。

「葵——」

「はい、姫様」

「美味しゅうござりました」

「おおきに」

葵は、深く一礼した。

「もったいなきお言葉にございます」

糸子は、立ち上がった。

そして、障子を開けた。

夕暮れの庭が、広がっていた。

庭の冬梅は——本日、また…わずかに新しい蕾がほころんでいた。

紅と白の花が夕暮れの光に、控えめに、しかし確かに咲いていた。

糸子は、の梅を、しばらく見つめていた。

糸子の内心。

(——あと一月余)

(あと一月余で、四人を送り出す)

(吉田、高杉、久坂、坂本——)

(皆様、それぞれの戦場で、活躍してもらいますよ)

(計画の第一歩として、四人の協力者として…)

(この四人には…容赦なく馬車馬のように働いてもらわなければ、使い倒さなければ…)

(絶対にやる!わたくしはやると決めたら、やるおなごなのでございます)

(御門様へのご報告も忘れてはおりませぬからね…)

(ふふふ…腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐腐………)

夕暮れの風が、わずかに吹いた。

梅の枝が、揺れた。

紅白の花が、わずかに震えた。

糸子の眼に、次の戦いの、覚悟が宿った。

(残り一月——)

(皆様、しっかり育ってくださいませ……)

第九十二話 了