軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九十一話「久坂、数字に溺れる」

松の内の喧騒が去り、 万延二年の年明けも数十日を過ぎた。屋根にはまだ薄っすらと降った雪が残り、吐く息が白く凍てつく中、人々は急ぎ足で通りを過ぎていく。

二週間の集中講義が、終わろうとしていた。

一橋上屋敷の特別教場の、その十四日目の朝。

庭の梅は、最初に開いた一輪に続いて、二輪、三輪と、ほころび始めていた。淡い紅の花弁が、冬の終わりの光に控えめに照らされて、枝の先で静かに咲いていた。

部屋の中は、これまでと同じであった。座布団四つ、文机四つ、黒板、火鉢、床の間の「経世済民」の掛け軸——変わらぬ風景。

しかし、四人の様子は、最初の日とは、明らかに違っていた。

松陰は、糸子が現れる前から、すでに心を整えていた。両手を膝の上に揃え、姿勢を正し——糸子が現れるのを、敬虔な祈りに似た面持ちで、待っていた。

涙ぐむ瞬間こそ、まだあったが、初日のような号泣は、もうなかった。

久坂は、目を閉じて、二週間の授業内容を頭の中で整理していた。代理戦争論、海洋国家論、金銀比率、流出した小判、「日本人は断らない」——糸子が語った全ての言葉が、久坂の脳内で、整然と並べられていた。

高杉は、文机の上の書き付けを、何度も読み返していた。眉間には、相変わらず深い皺が寄っていた。しかし、初日のような「観察できぬ」という混乱は、もうなかった。糸子の知性を観察し、分析する——本来の高杉の戦闘姿勢に、戻っていた。

龍馬は、にこにこと笑いながら、文机の上の白い紙に、最後の整理を書き留めていた。「代理戦争論=四つの大罪」「海洋国家論=商いの網」「無血の精神=戦わずして勝つ」——龍馬のメモは、本日も簡潔かつ要点を完璧に押さえていた。

西側の障子が、静かに開いた。

葵が、先に入ってきた。

そして——糸子が、現れた。

本日の糸子は、淡い梅の色の着物を纏っていた。袖の縁には、銀糸で梅の枝が刺繍されている。庭の梅と同じ色合い。葵が、本日の口頭試問のために、特別に選んだ装いであった。

糸子は、四人の前に立った。

四人は、深く一礼した。

松陰は、わずかに涙ぐんだ。が、すぐに自分を立て直した。

久坂は、姿勢を整えた。脳が一瞬揺れたが、すぐに集中を取り戻した。

高杉は、目を伏せて、糸子の姿を「観察」した。観察できる。本日は、できる。

龍馬は、にこりと笑って、頭を下げた。

糸子は、四人を見渡してから——わずかに微笑んだ。

「皆様、おはようございまする」

四人の声が、揃った。

「姫様、おはようございまする」

糸子は、扇を軽く動かした。

「本日は、第一段階の最終日にございまする」

「これより——口頭試問を、行いまする」

四人の表情が、引き締まった。

糸子の眼が、講師の眼に切り替わった。

「本日は、二つの問いに、答えていただきまする」

「一つ——『代理戦争論を、自分の言葉で説明せよ』」

「二つ——『海洋国家論を、自分の言葉で説明せよ』」

糸子の声が響いた。

「合格するまで、第二段階には進めませぬ」

「順番に、お答えいただきまする」

「では——吉田殿から」

松陰が、深く一礼してから、姿勢を正した。

松陰の眼が、糸子をまっすぐ見つめた。

「姫君様——」

松陰の声は、震えていなかった。むしろ、いつも以上に、力強かった。

「代理戦争論——わたくしの言葉で、お話し致しまする」

松陰は、目を閉じた。

そして、ゆっくりと、口を開いた。

「仮に、日本国内が、諸藩連合と幕府に分かれて、戦うたと致す」

「諸藩の後ろ盾には、イギリス」

「幕府の後ろ盾には、フランス」

「両者が、武力で衝突致しまする」

「——その時、最も得をするのは…誰か?」

松陰の声が、強くなった。

「それは、勝った側ではございませぬ」

「異国になりましょう」

部屋に、わずかな緊張が走った。

松陰は、続けた。

「異国が得をする理由は、四つになります」

「第一に、武器」

「諸藩はイギリスから、幕府はフランスから、武器を買い続けることになりましょう」

「戦が長引けば長引くほど…」

「そしてその結果、日本の富は——」

松陰の声に、深い悔しさが宿った。

「毎日、毎月、毎年、異国に流れ続けるのです」

「日本は、その分痩せていく」

「異国は、その分肥えていく」

松陰は、目を開けた。

「我々が、ミニエー銃を一挺買えば——その代金は、イギリスの造兵廠を潤します」

「我々が、シャスポー銃を一挺買えば——その代金は、フランスの武器商会を太らせます」

「弾薬の一発一発が、『日本の欠片』を、異国へ放り投げているに等しいのです」

糸子が、わずかに頷いた。

糸子の内心。

(——お見事でござりまする、吉田)

(『日本の欠片』という言葉が、ご自身のものになっておる)

(具体的な銃の名前まで、記憶されておる)

松陰は、続けた。

「第二に、恩」

「後ろ盾についた異国は、勝った側の新政府に、恩を売ります」

「『お主たちが勝てたのは、我が国の支援があってこそである』と」

「『その恩を、忘れるなよ』と」

「新政府は、断れませぬ。建国の恩義にござります」

「すると——新政府の外交は、その異国に縛られます」

松陰の声に、警告が宿った。

「もし、幕府がフランスのナポレオン三世から全面的な軍事・資金援助を受けて勝ったとすれば——」

「横須賀の製鉄所の利権どころか、日本の関税自主権は永久に失われ——」

「実質的な『フランス領日本』が、誕生する結果でとなりましょう」

糸子の眼が、わずかに見開かれた。

糸子の内心。

(——『フランス領日本』!)

(吉田殿、わたくしが教えていない事例まで、ご自身で考えてた)

(これは、想定を超える理解の深さだなー)

(やっぱり吉田松陰は伊達じゃない…ってことかー)

(なんかチリチリ頭の某ニ◯ータイプが言ったようなセリフみたいだけど……)

松陰は、続けた。

「第三に、人」

「戦で——数多くの才能ある者たちが、死にまする」

「侍だけではござりませぬ。学者、商人、職人、農民——」

「日本の未来を作るはずだった者たちが、戦で命を落としましょう」

「彼らが生きていれば——どれほどの技師、教育者、官僚になったことか」

「日本が近代化を急ぐべき時に——その担い手を、自ら間引きしているのございます」

「異国にとって、これほど都合の良い『掃除』は、ござらぬ」

松陰の声が震えた。

「私の元には、未来ある塾生たちがいます」

「彼らが死ねば、日本は未来の宝を、失うのです」

松陰の眼に、涙が滲んだ。

しかし、松陰は、流さなかった。

堪えて、続けた。

「第四に、混乱」

「戦の後の日本は、混乱しているはずである」

「政の仕組みが変わる。法が変わる。藩が廃止されるかもしれぬ。武士の身分が消えるかもしれぬ」

「その混乱の隙を——異国は、見逃さないでしょう」

「商人、宣教師、技師、教師——あらゆる名目で、異国の人間が、日本に入り込むことになる」

「彼らが日本の隅々に、根を張る」

「気づいた時には——日本の中心に、異国の影響力が、深く食い込んでおるのでございます」

松陰は、目を閉じた。

「清国の租界を見れば、これは明らかである」

「太平天国の乱の混乱に乗じ、異国は軍を駐留させ、治安維持の名目で、土地を奪った」

「日本においても、横浜や神戸の居留地が——『治外法権』という名の飛び地と化しております」

「そこから、毒が回るように、日本の主権が、溶かされていくのでございます」

松陰は、目を開けた。

「ゆえに——」

「諸藩対幕府の戦は、日本人のための戦ではござらぬ。決して…けっして……」

「異国同士が、日本人を使って戦わせる、あやつり合戦と言っても過言ではない」

「日本人同士が、殺し合う中で——」

「最も高笑いをして得をするのは、異国の連中なのだ!」

「また、その事実を多くの日本人はしらないまま…戦で死んでいくのです。疲弊していくのであります」

「それでいいのかね?諸君!」

松陰の声が、低くなった。

「そして——勝った側の、新政府の中枢に座った連中は、自らの行いを正当化致す」

「『日本のため』」

「『近代化のため』」

「『異国に追いつくため』」

「——そう嘯いて、自らの手についた同胞の血を隠してしまうだろう」

「自分たちの都合の良いように、歴史を書き換えるのだ」

「そして…この松陰は、あえて言おう、日本は今、亡国の淵にあると!」

「諸君! 現実を見よ。メリケンなる蛮国の所業を、その目に焼き付けるがいい! 彼らは大砲という暴力で我らが神聖なる門戸を叩き割り、不平等という名の鎖で、この日出ずる国の手足を縛り上げた! これが奴らの言う『文明』の正体だ。富を貪り、誇りを踏みにじる、飢えた狼の論理に他ならない!」

「だが、真の危機は外にのみあるのではない」

「今この時も、国内で微温的な争いに明け暮れる、我ら自身の『無知』と『惰眠』……それこそが日本を死に至らしめる毒なのだ!」

「諸君、悔しくはないのか! 我らの先祖が築き上げたこの美しき山河が、異国の商人の計算高い天秤にかけられ、小判一枚が、あろうことか銀三枚で叩き売られているのだぞ! これは経済の敗北ではない。魂の敗北だ!」

「しかし、絶望するにはまだ早い」

「我々は今、苦渋という名の劇薬を飲み干さねばならぬ。戦う力なき者が吠えたところで、それは負け犬の遠吠えに過ぎん。今は耐え、学び、奴らの叡智を盗み、血肉とし、力へと変換するのだ!」

「立てよ、国民! 悲しみを怒りに変えて、立てよ日本国民よ!」

「一致団結し、この未曾有の国難を跳ね返すための『知の防壁』を築くのだ。日本が真に自立し、異国の国々と対等に渡り合えるその日のために!!」

松陰は、深く一礼した。

「これが——代理戦争論にございます」

「ジーク・ニッポン!!!」

扇を握りしめ片腕を突き上げて、立っている糸子がそこにいた…

…部屋全体に長い沈黙が流れた。

坂本、高杉、久坂の三人は、訳が分からず固まってしまっていた。

護衛として控えていた近藤は「無」と化していた。

沖田はにこにこと笑っていた。

葵は敢えて…受け流すことにした。

「はっ!」

「…し、失礼致しました」

糸子は、扇を膝の上に置いて——しぼむように小さく俯いてしまった。

耳の先まで真っ赤になっていた。

糸子の内心。

(思わず反応してしまった。はっ、恥ずかしーー)

(…しかし最後の演説は某総帥並みの熱量が籠った演説だった。恐るべし…中二病)

(けど、教えた内容を自分の言葉で、事例を加えて、再構築してくるとは…)

(しかも、わたくしが教えていない『フランス領日本』『清国租界』まで、自然に組み込んでいた)

(これは——もはや、わたくしの教えた代理戦争論ではありませぬ)

(吉田の代理戦争論になっている)

(恐るべし、吉田松陰.。いや、恐るべき…中二総帥……か?)

糸子は向きには、穏やかに微笑んで、何と取り繕ってみせた。

「お見事にござりまする、吉田殿」

「見事でございます。合格でございまする」

松陰の眼が、見開かれた。

「は、はい——ありがたきお言葉——」

松陰は、また涙ぐんだ。

しかし、本日の松陰は、すぐに自分を立て直した。

糸子は、続けた。

「では、続けて——海洋国家論を。よろしゅうお頼み申します」

松陰は、姿勢を正した。

「はい」

「では、海洋国家論とは——」

松陰の声に、力が戻った。

「日本は、四方を海に囲まれた島国にございます」

「これは、天然の要塞とも言えましょう」

「日本は、地理的に、海洋国家としてしか、存在しえぬのでございます」

松陰は、続けた。

「大陸国家とは、広大な国土を持ち、陸路で国境を接する国々のことにございます」

「清国、ロシア、フランスなど——これらは、常に隣国からの侵攻という恐怖に晒されております」

「ゆえに、巨大な常に陸の兵を維持し、内を強権的に統制せねばなりませぬ」

「境界線を守るために、さらに外側へと勢力圏を広げ続けねば、安心できぬ——『膨張の宿命』を背負っておるのでございます」

糸子の眼が、またわずかに見開かれた。

糸子の内心。

(——『膨張の宿命』)

(中二病、本当にすごい人物だ)

(地政学の核心を、漢学の言葉で表現されている)

松陰は、続けた。

「日本が、もし大陸に手を出せば——どうなるか」

「日本の国力では、大陸を支配することはできない」

「補給を続けながら、陸の強国と対峙する——これは、資源の乏しい日本にとって、国力を使い果たす自殺行為に他ならない」

「イギリスを、見れば明らかでありましょう」

「同じ島国でありながら世界を制したのは、大陸を征服したからではござりませぬ」

「『海上の要所』を押さえ、商いの網を広げたからにござりまする」

「日本もまた——大陸を『支配する対象』としてではなく、日本の品物を売り、資源を買う『巨大な市場』として、付き合うべきにございます」

松陰の声が、力強く響いた。

「もし、私の塾生たちのうち、誰かが——」

「『大陸に進出すべし』と、夢想致しましたなら——」

「私は、それを全力で止める」

「日本は、海の国であり…」

「海の国として、生きるが正道」

「大陸に手を出した瞬間、日本は、最強の盾である『海』を捨て、自ら『泥沼』に飛び込むことになりましょう」

松陰は、深く一礼した。

「——以上にございます」

糸子は長く、何も言わなかった。

ただ松陰を見つめていた。

糸子の眼にわずかに、感動の色があった。

糸子の内心。

(吉田……)

(あなたは、わたくしが教えた以上のものを、自分の言葉で語られた)

(『膨張の宿命』『最強の盾を捨てる』——これらは、わたくしが教えた言葉ではございませぬ)

(あなたがご自身の頭で、考えられた言葉です)

(——これは、教育者として、最大の喜びとなりましょう)

(もう吉田のことは中二病と呼んではいけないかもしれない…)

(敢えて言おう、吉田松陰は伊達じゃない!と…)

(わたくしも若さゆえの過ちを犯してしまったのかもしれませぬ…)

(…とりあえすここぞとばかりに、てんこ盛りにして言ってしまった!)

糸子は、外向きには、深く頷いた。

「吉田殿——」

「は、はい」

「素晴らしきお答えにござりまする」

「合格、にござりまする」

松陰の眼からついに、涙が一筋流れた。

しかし、それはいつもの感動の涙ではなかった。

達成の涙であった。

糸子は、続けて、高杉、久坂、龍馬の順に、口頭試問を行った。

高杉は、機知の利いた、独特の言い回しで答えた。

「代理戦争論、ぶち要点を言えば——」

「『日本人同士が殺し合う時、笑うちょるんは異国の商人』、ということっちゃ」

「イギリスのミニエー銃が一発撃たれるたびに、日本の年貢がイギリスの懐に消えていくんじゃ」

「これは——『死を売って肥える死の商人』のしわざっちゃ」

高杉の言葉に、糸子は感心した。

糸子の内心。

(『死を売って肥える死の商人』——なんと美味しい表現を、高杉は紡ぎ出した)

(高杉の機知は、こういう場面で輝く)

高杉は、続けた。

「じゃけど姫様。一つ、わしの考えを聞いてくれえませんか」

「はい、高杉。お聞かせくださいませ」

糸子は、頷いた。

「イギリスとフランスは、互いに対立しちょる側面があった」

「もしイギリスが諸藩を、フランスが幕府を支援しちょれば——」

「イギリスとフランスは、日本の中で、互いに代理戦争をしちょったわけじゃ」

「これは、イギリスとフランスにとっても、危険な賭けじゃ」

「彼らは、本当に、これを望んだんじゃろうか?」

糸子の眼が、見開かれた。

糸子の内心。

(——おっ、高杉、それは鋭い視点だ)

(『異国は一枚岩か?』という反論を、自分から提起している)

(これは、本日の口頭試問の、想定の範囲を超えているなー)

糸子は外向きには、深く頷いた。

「お見事な視点にござりまする、高杉」

「イギリスとフランスは、確かに対立している側面がありまする」

「されど——彼らの対立は、『どちらが日本を食うか』の争いでござりまする」

「『日本を守る』ための対立では、ござりませぬ」

「彼らにとって、最悪のシナリオは——」

糸子は、わずかに笑った。

「『日本が統一され、自立すること』にござりまする」

「ゆえに、内乱が長引くことは——彼らにとって、共通の利益でござりまする」

「『市場の拡大』と、『支配の容易化』を同時に意味しまする」

「彼らは、表向きは対立しておりますが——」

「裏では『日本を分裂させ続ける』という点で、利害が一致しておるのでござりまする」

高杉の眼が、暗い光を宿した。

高杉の内心。

(——なるほど)

(表で対立しちょっても、裏で利害が一致しちょるんじゃ)

(これが、異国社会の真の姿っちゃ)

(甘い見方を、しちゃあいけん)」

高杉は、深く頷いた。

「ぶち、恐ろしい話っちゃ」

「教えていただき、感謝いたしまする、姫様」

「海洋国家論については——」

高杉は、続けた。

「日本は、海の国っちゃ」

「イギリスが世界を制したのは、『面』ではなく『点と線』の支配じゃ」

「香港、シンガポール——これらは、面の支配ではない、点の拠点っちゃ」

「日本も、これに学ぶべきっちゃ(または『学ぶべきなんじゃ』)」

「面を支配しようとした国は、敗北し、莫大な損失を出すんじゃ」

糸子は、深く頷いた。

「お見事にござりまする、高杉。合格にござりまする」

次は、久坂であった。

久坂は、姿勢を正した。

「代理戦争論——」

久坂の声は、いつもの理詰めの声であった。

しかし、その理詰めの中に、新たな要素が加わっていた。

数字と、構造と、検証——。

「代理戦争論には、四つの構成要素がござりまする」

「武器の流出、恩義の鎖、人材の枯渇、混乱への浸食——」

「これらは、それぞれ単独で日本を弱めまするが——同時に、相互に作用致しまする」

「武器の流出が、人材の枯渇を加速し、人材の枯渇が、混乱を深め、混乱が、恩義の鎖を強くしちょる」

「四つは、絡み合いながら、日本を縛り上げるのでござりまする」

久坂の声に、確信が宿っていた。

「ゆえに一つでも、絡み合いを断ち切らんと、日本は救えん」

「最も効果的なのは、最初の段階——『戦をしない』ことにござりまする」

「それが日本の力を蓄えることになり、その力が異国と渡り合える力となり得るんじゃ」

糸子の眼が、見開かれた。

糸子の内心。

(——お見事、久坂殿)

(四つの要素を、相互作用として捉え直している)

(さらに、それを断ち切る最適点まで、論理的に導いているなー)

(これは、わたくしが教えた以上の、分析ですね)

「久坂殿、お見事にございりまする」

久坂は、続けた。

「海洋国家論——」

久坂は、ここから、財政の論理で語り始めた。

「日本が、もし大陸に進出致せば——必要な戦費は、年間二千万両以上と試算致しまする」

「これは、現在の幕府の歳入——年間およそ七百万両の約三倍にござりまする」

「日本の国力では、到底賄えませぬ(または『賄えんのです』)」

「結果——イギリスからの借款に頼ることになり、日本そのものが、イギリスの抵当に入ることになりまする」

「『百の富を得るために、千の戦費と、万の憎しみを買い続ける』——」

「これが、大陸進出の試算にござります」

久坂の声に、冷徹さが宿っていた。

「資源を得るための出費——輸送、護衛、反乱鎮圧——が資源そのものの価値を、大幅に上回ります」

「これを、『不採算大国』と申しまする」

「ゆえに、日本は——」

「決して、大陸に手を出してはいけませぬ」

糸子の眼が、また見開かれた。

糸子の内心。

(——久坂、まさかご自身で財政試算をされるとは)

(年間二千万両、幕府歳入の三倍——どれもわたくしがヒントでしか教えていない数字だ)

(自分でさらに試算したのか)

(理詰めの考えが、本日の前段の授業を、自分のものに昇華している)

糸子は、深く頷いた。

「久坂、まことにお見事にございまする」

「合格、でございまする」

久坂の頬が、わずかに紅潮した。

最後は、龍馬であった。

龍馬は、にこにこと笑いながら、姿勢を正した。

「代理戦争論——」

龍馬の声は、土佐弁であった。

「ぜよ、姫様。わしの言葉で言えば、こういうことぜよ」

「『日本人同士で殴り合えば、横で見ちょる異人さんが、お菓子をくれる』」

「お菓子は、武器ぜよ」

「お菓子もろうて、また殴り合う」

「殴り合えば殴り合うほど、異人さんは儲かる。けんど、お菓子もろうた両方とも、いずれ異人さんに頭が上がらんようになる」

「——これは、こじゃんと、阿呆な話ぜよ」

部屋にわずかに笑いが起きた。

高杉が、にやりと笑った。

久坂も苦笑した。

松陰だけは、真剣に頷いていた。

糸子も、わずかに微笑んだ。

糸子の内心。

(坂本、相変わらずだなー)

(『お菓子』という比喩で、構造を完璧に表現している)

(理屈ではなく、感覚で本質を掴んでいるのかー)

糸子は、外向きには頷いた。

「坂本、お見事な比喩にござりまする」

「合格にござりまする」

龍馬は、にこりと笑った。

「海洋国家論については——」

龍馬の声に、初めて、真剣さが宿った。

「日本は、海の国ぜよ」

「わしは、海運をやりたいきに、これは肌で感じる」

「海は——日本の最大の資産じゃ」

「海を制するもんは、世界を制する」

「イギリスが世界を制したんは、海を制したからぜよ」

「日本も、海の道を行くべきじゃ(または「行かねばならん」)」

「大陸に手を出せば、海の利点をのうなってしまうがじ」

「『海の門番』として、日本は、世界に商いの網を広げる——」

「それが、わしの夢ぜよ」

糸子は、深く頷いた。

「龍馬殿、お見事にござりまする。合格にござりまする」

糸子は、四人を見渡した。

「皆様——四人とも合格にござりまする」

「これにて第一段階は、終了にござりまする」

その日の午後から——第二段階が始まった。

四人は、それぞれの場所へと別れた。

松陰は、商務語学所の研究室へ。村田と対話しながら、今度は第一巻を「教える側」として再編する作業に入る。

高杉は、商談演習場へ。田中屋清兵衛との、模擬商談に挑む。

久坂は、善次郎の帳面が並ぶ…天朝物産会所の江戸拠点へ。複式簿記との長い格闘が始まる。

龍馬は、赤坂の勝海舟邸へ。海運と海軍の話を、勝と語り合うために。

四人がそれぞれの方角に旅立った姿を、糸子は奥御殿の障子越しに見送った。

糸子の内心。

(さて——ここからが、本当の修練でござりまする)

(皆様、それぞれの戦場で、それぞれの壁にぶつかられるでございましょう)

(特に、久坂の壁は——分厚いはず)

(複式簿記は、漢学の素養だけでは、越えられぬ壁です)

(理詰めだけでは、解けぬ壁になるだろうなー)

(——まあ、頑張れ…久坂)

(その壁をご自身で越えてください)

久坂玄瑞が、天朝物産会所の江戸拠点に通うようになって、三日が経った。

その部屋は、松屋善次郎の事務所の一室であった。

六畳間。

部屋の三方は、棚で埋まっていた。棚には、古い帳面が、ぎっしりと並んでいた。

善次郎が、何年も書き続けてきた、商家の帳面。一冊一冊が、何百枚もの紙を綴じた、分厚いものであった。

背表紙には背表紙には、年号と季節が書かれていた。「天保十二年・春」「弘化三年・夏」——そんな表記が、棚を埋めていた。

部屋の中央には、善次郎が普段使っている、漆塗りの大きな文机。文机の上には、現在進行中の帳面が、開かれていた。墨壺、筆、算盤——商人の道具が、整然と並んでいた。

その文机の隣に新しい文机が、もう一つ置かれていた。

久坂のための、文机であった。

久坂は、その文机の前に、座っていた。

文机の上には、善次郎が用意した、白紙の帳面。

そして、複式簿記の教科書——糸子が直接書き起こした、要点をまとめた小冊子。

久坂は、目の前の白紙を睨んでいた。

久坂の脳の中では、混乱が極まっていた。

久坂の内心。

(——なんちじゃ)

(漢学なら、なんちゃ分かるっちゃ、なして算術がこれほど分からんのん)

(『借方』『貸方』——なんちいう呼び方じゃ)

(金が手に入ったのに、なして『借方』なん)

(金を支払うたのに、なして『貸方』なん)

(——理屈が、通らんっちゃ)

善次郎が、隣の文机から優しく声をかけた。

「久坂様」

「はい、善次郎殿」

善次郎の顔は、いつものように、穏やかであった。

善次郎は、商家を背負う若き当主でありながら、糸子の腹心。糸子と同じく、深い計算と知恵を持つ人物——だが、その表情には、一切のいやらしさがなかった。

「お進みは、いかがでございますか」

久坂は、深く息を吐いた。

「……善次郎殿」

「はい」

「正直に申しまする」

「理屈は、わかるんでござる」

「『一つの取引を、二つの面から見る』——これは、わかる」「金で銃を買えば、金が減って、銃が増える。この二つの動きをいっぺんに書き留める——これも、わかる」

「されど——」

久坂の声が、わずかに震えた。

「なして、こねな呼び方をするんか」

「『借方』『貸方』——」

「金を支払うたのに、それを『貸方』ち呼ぶ理由がわからん」

「これでは、頭が、こんがらがるっちゃ」

善次郎は、わずかに微笑んだ。

「久坂様、それは——皆様が必ず、最初にぶつかる壁にございまする」

「それで、結構にございまする」

善次郎は、文机から立ち上がって、棚から一冊の古い帳面を取り出した。

そして、それを、久坂の前に開いた。

「これは、私の父——善兵衛の、帳面にございます」

「私は姫様から習い、そして私から父に教えたときに…」

「父も、最初は、同じ壁にぶつかっておりました」

久坂が、帳面を覗き込んだ。

最初の頁には、不器用な筆跡で、書き付けが残っていた。

「借方? 貸方? わからん」

「一晩、考えても、わからん」

久坂は、思わず笑った。

「善兵衛殿も、こうだったのでござるか」

「左様にござりまする」

善次郎も、わずかに笑った。

「父は、後にこう申しました」

「『これは、理屈ではない。型だ』と」

「『型として、手に覚え込ませよ。手が覚えれば、頭が遅れて、追いついてくる』と…」

久坂は、わずかに頷いた。

「型——」

「左様にござりまする」

善次郎は、文机に戻った。

「久坂様、複式簿記の本質を、もう少し詳しく整理致しましょう」

善次郎は別の白紙に、図を書き始めた。

「単式簿記と申しますのは、これまでの帳面にござりまする」

「『今日、米一石を一両で買った』——」

「これを、こう書きまする」

善次郎は、書いた。

「出 米一石 一両」

「これだけにござりまする」

久坂は、頷いた。

「うむ、これは、わしも知っちょる」

「されど——」

善次郎は、続けた。

「これでは、お金が出ていったことしか、分かりませぬ」

「『何のために、出ていったか』が、見えぬのでござりまする」

「複式簿記は、これを——『二つの目』で、見るのでござりまする」

善次郎は、別の頁に、書いた。

「借方 米一石(一両分)」

「貸方 現金 一両」

「左の『借方』には——『手元に来たもの』を書きまする」

「右の『貸方』には——『手元を離れたもの』を書きまする」

「米が、手元に来た。だから、左に米」

「現金が、手元を離れた。だから、右に現金」

「この二つを、同時に書く」

「これが、複式簿記の、肝にござりまする」

久坂は、目を閉じて考えた。

「それは——わかる」

「『一つの取引を、二つの面から見る』——その理屈は、わかるんでござる」

「されど——」

善次郎が、首を傾げた。

「されど、何でしょうか?」

久坂は頭を抱えながら言った。

「いざ書き始めると、わしは、こんがらがるんでござる」

「金が動く時、わしは、つい『金の動き』ばっかり追うてしまう」

「『左に何を書くべきか、右に何を書くべきか』が、すぐに浮かばん」

「そのうちに、左右が、入れ替わってしまうんでござる」

善次郎は、わずかに微笑んだ。

「それは、慣れにござりまする」

「父も、私も、最初は同じでござりました」

「久坂様、本日は、まず、最も簡単な取引から書いてみましょう」

「『一両で、米一石を買った』——これを、複式簿記で書きまする」

久坂は、善次郎の指示に従って、書き始めた。

最初の取引は書けた。

善次郎の言葉を、何度も繰り返しながら——「左は手元に来たもの、右は手元を離れたもの」——なんとか、書いた。

しかし、次の取引で、戸惑った。

「米一石を、一両二分で売った」

米が、手元を離れる。だから米は、右。

現金が、手元に来る。だから現金は、左。

ここまでは書けた。

しかし——。

売値の「一両二分」と、買値の「一両」の差——「二分」をどうするか。

これが、利益のはずだが、それをどう書くか、分からない。

久坂は、頭を抱えた。

善次郎が、優しく教えた。

「久坂様、それは『売上』として、別に書きまする」

「右の『貸方』に、『売上』として、二分を書きまする」

善次郎は、書いて見せた。

「借方 現金 一両二分」

「貸方 米一石(一両分) 売上 二分」

「合計、左右、一両二分で、揃いまする」

久坂は、目を凝らして、その記述を、見つめた。

「これは——『金が二分増えた』ことを、書いておるんでござりまするか」

「左様にござりまする」

「されど、左は『現金が一両二分』としか、書いておらん」

「これだけでは、利益が見えんのではござりませぬか」

善次郎は、頷いた。

「左様にござりまする、久坂様」

「これが、複式簿記の妙にござりまする」

「『現金が一両二分手元に来た』のは、事実」

「されど、その内訳は——『元手の一両』と、『利益の二分』に、分かれまする」

「右に書いた『売上 二分』——これが、利益の正体にござりまする」

「ですから、最後に、『売上』だけを集めれば——その期間の総利益が、分かるのでござりまする」

久坂は、深く息を吐いた。

「……理屈は、わかる」

「されど、これを実際に書こうとすると——」

「こんがらがるんでござる」

久坂は、書き始めた。

しかし——三日経っても、計算が合わなかった。

最終列の数字が、いつも、わずかにずれた。

一両、二両のずれ。

しかし、複式簿記では、その『わずか』が許されない。

借方と貸方は必ず、一文の狂いもなく、揃わねばならぬ。

久坂は、毎日、夜遅くまで、計算を続けた。

それでも合わなかった。

久坂の眉間の皺は、日に日に…深くなっていった。

三日目の夜。

久坂は、天朝物産会所の江戸拠点、善次郎の事務所の部屋に、一人でいた。

善次郎は、すでに屋敷に戻っていた。

ただ、久坂のために、燭台と筆と帳面が、置き続けられていた。

久坂は、文机の前に座って、帳面を見つめていた。

燭台の火が、揺れていた。

部屋の外では、冬末の風が、わずかに音を立てていた。

久坂の内心。

(漢学なら、なんちゃ分かるっちゃ、なして算術がこれほどか)

(玄瑞、お主は、こねな易い計算もできんのか)

(恥ずかしい——)

(しかし、ここで折れてはいけん)

(姫様は、わしを『理詰めの担当』として、お選びくださった)

(その期待に、応えにゃあいけん(応えにゃならん))

久坂は、また、計算を始めた。

また、合わなかった。

久坂は、深く息を吐いた。

筆を、文机に置いた。

久坂の眼が、燭台の火を見つめていた。

火が、揺れていた。

心も、揺れていた。

その時——。

部屋の外から、足音がした。

二人分。

軽く、しかし整然とした、女性の足音。

障子が、静かに開いた。

葵が、先に入ってきた。

そして——糸子が入ってきた。

御簾なし。

燭台の火に照らされた糸子の姿が、夜の闇の中に浮かび上がった。

昼の光の中で見る糸子とは別の姿。

燭台の火の柔らかな光が、糸子の白い肌を、淡く染めていた。

久坂は——慌てて、平伏した。

「姫様……!」

糸子の声が、優しく響いた。

「久坂、夜分に失礼致する」

「い、いえ——」

「進みは、いかがでしょう?」

久坂は、平伏したまま、声を絞り出した。

「……難航しております」

「左様でございますか」

糸子の声に、責める色はなかった。

糸子はゆっくりと、部屋に入ってきた。

葵は、部屋の入り口に、控えていた。

糸子は——久坂の隣の文机の前に座った。

久坂のすぐ隣であった。

文机一つ分の、距離。

久坂の考えが、また——揺れた。

久坂の内心。

(——近いっちゃ)

(姫様が、こねに近くに……)

(昼間は、教場の前の方じゃ。ちーと距離があった)

(けんど、今は——一尺もないっちゃ)

(姫様の着物の香りが、する)

(梅の香り)

(——いけん、集中せい、玄瑞)

久坂は必死に、自分を立て直した。

しかし、肩がわずかに固まっていた。

糸子、穏やかに、久坂の帳面を覗き込んだ。

糸子の眼が、帳面の数字を追っていった。

しばらく——糸子は、何も言わなかった。

ただ、見ていた。

そして——糸子は、文机の上に、白い指を伸ばした。

その指で、帳面の一箇所を軽く指した。

「久坂——」

「は、はい」

「ここの記し方が、まだ揃うておらぬ」

久坂は、慌ててその箇所を見た。

糸子が指したのは、四日前の取引の一行であった。

「『二両で、米二石を買った』——」

「ここで、貸方に『二両』、借方に『米二石』と、書かれておりまする」

「されど——『米二石』だけでは、金額が記されておりませぬ」

「複式簿記では、必ず、金額を記すのでござりまする」

「『米二石』ではなく、『米二石(二両分)』と」

「これが、抜けておるゆえ、後の計算が、ずれておるのでございましょう」

久坂の眼が、見開かれた。

久坂は慌てて、四日前の頁を確認した。

糸子の指摘は——的確であった。

久坂は、深く頭を下げた。

「……ご指摘、ありがたく」

「玄瑞、これほどの初歩の間違いに、気付かんかった(気付かざった)とは——」

糸子は、首を振った。

「気付かぬのは、当然にございましょう」

「複式簿記の眼は、慣れねば養えませぬ」

「初日から、すべてを見抜けるのは——わたくしの父、近衛家の当主くらいでございましょう」

糸子は、わずかに笑った。

糸子の内心。

(——というのは、嘘)

(父上は複式簿記などを知らない)

(けれど、こう言えば、久坂は安心するじゃろう)

(…それともネチネチといじめ倒してくれようか?)

(いや、早く使えるようになってもらったほうが、得でございますね)

久坂は、わずかに笑った。

「左様でございましたら——わたくしの精進が、足りんかったんでござりまする」

糸子は続けた。

糸子は久坂の隣で、しばらく帳面を見ていた。

そして——口を開いた。

「久坂」

「はい」

「あなたは——理屈で、考えすぎている」

久坂が、ぴくりと反応した。

「『なぜ借方と呼ぶのか』『なぜ貸方と呼ぶのか』——」

「これらの理屈を、考えておられるのではござませぬか?」

久坂は、唇を噛んだ。

「……はい」

「正直に申しまする」

「理屈で、納得できぬのでござりまする」

糸子は、優しく頷いた。

「久坂——」

「はい」

「これは——『型』として、捉えてくださいませ」

久坂が、首を傾げた。

「型——でござりまするか?」

「左様にござりまする」

糸子は、続けた。

「おぬしは漢学の素養が、極めて深い方」

「幼き頃『論語』を、声に出して読んだ、経験がありまするか?」

「もちろん、ありますっちゃ」

「最初は、意味も分からんで——」

「『子曰く、巧言令色、鮮なし仁』——と、何回も読んじょったはずっちゃ」

久坂は、頷いた。

「左様にござりまする」

糸子は、わずかに微笑んだ。

「されど——ある日、突然、その意味が、血肉となって理解できる時が、訪れたのではござりませぬか」

久坂は、目を見開いた。

「……はい」

「わたくしも、そうでござりました」

「素読の時には、ただ繰り返すだけ。されど…ある日、突然『あ、これは、こういう意味だったのか』と理解致しました」

糸子は、頷いた。

「複式簿記も、同じにござりまする」

「『なぜ借方と呼ぶのか』——理屈を考えるのを、一度お止めくださいませ」

「『左は手元に来たもの、右は手元を離れたもの』——」

「この型を、まずは疑わずに、手に覚え込ませるのでござりまする」

糸子は扇で、文机の上を軽く叩いた。

「型を手に覚え込ませれば——ある日、頭が追いついてくるのでござりまする」

「『あ、これは、こういう意味だったのか』と」

久坂の眼が、わずかに開いた。

久坂の内心。

(——『型』として)

(漢学の素読と、一緒っちゃ……)

(言われてみれば、わしは、複式簿記を、新しい『理屈』として捉えようとしちょった)

(ぶち、これは、新しい『型』なんじゃ)

(型として、まずは、手に覚え込ませる)

(そういえば善次郎殿も、そう言っちょった)

(——なるほど、これは、わしが知っちょった世界じゃ)

久坂は、深く頷いた。

「型として——そうか」

久坂の眉間の皺が、——ふと、緩んだ。

久坂の眼に、いつもの理詰めの光が、戻り始めた。

糸子は、続けた。

「もう一つ——」

「はい」

「型を体得すれば、自由に応用できまする」

糸子は、わずかに微笑んだ。

「剣術において、基本の型を外れた『乱杭』の動きができるのは、基本を極めた者だけでござりましょう」

「複式簿記も、同じにござりまする」

「型を身につければ、藩の財政が——『ただ金がないのか』、それとも『投資(軍艦など)にお金を変えただけなのか』が、瞬時に見抜けるようになりまする」

「これは——藩の財政状態を、動的に把握する力でござりまする」

久坂が、深く息を吸った。

「動的に——」

「左様にござりまする」

糸子は、続けた。

「久坂、これを習得すれば——」

「あなたは藩の借金を、恐れなくなりまする」

「『その借金が、将来の利益を生む大砲(資産)に化けているならば、それは正しい戦略だ』と、判断できるようになりましょう」

久坂の眼が、輝いた。

「それが——」

「これが、複式簿記の眼にござりまする」

「ただの計算ではござりませぬ」

「藩の運命を、正しく見抜くための眼にござりまする」

糸子の声に、力強さが宿っていた。

久坂は、深く頭を下げた。

「姫様、ご教示——ありがたく仕合せに存じ奉ります」

「この玄瑞——精進仕ります」

糸子は、わずかに微笑んだ。

糸子の内心。

(——よし、久坂に、扉が開いた)

(型として捉えれば、久坂の理詰めの脳がこれを処理できる)

(これからは、自分で、進めるだろう)

糸子は、立ち上がった。

「久坂——」

「夜更けまで、根を詰めるのは、よろしくござりませぬ」

「されど——今宵だけは、もう少しお進みくださいませ」

「明日の朝、一晩での進捗を、見せていただきとう存じまする」

糸子は、わずかに笑った。

「期待しておりまする」

久坂は、深く頭を下げた。

「畏まりまして、ございまする」

糸子は、葵を伴って——部屋を出ていった。

障子が、静かに閉じた。

部屋に、久坂が一人残った。

糸子が、上駕籠を出させた。

近藤勇が脇についた。土方は前を沖田は半刻前から先触れに走らせている。

葵は駕籠の中、糸子のすぐ脇。供はそれだけだ。

天朝物産会所の江戸拠点の通用門を抜ける時、近藤がちらりと姫君の横顔を見た。普段、この種の交渉は人を呼びつけて済ませる方である。自ら出向くのは、珍しい。

理由は問わなかった。問わぬ方が姫様には心地よいことを、近藤はもう知っていた。

神田お玉ヶ池は、夏の昼下がりの匂いに浸っていた。お堀の水面に陽がぎらぎらと跳ね、堀端の柳が生ぬるい風にたわんでいる。

千葉道場の方角から、竹刀の打ち合う音が、かんっ、かんっ、と乾いて響いてきた。

塀の向こうの商務語学所からは、別種の音。算盤の珠と、村田蔵六の低い声、そして塾生たちの英語の復唱が、薄く混じり合って漏れていた。

その語学所の塀から、路地一本を隔てて建つ町家がある。二階建ての商家造り。軒先に、控えめな看板が一枚。

——「松屋御用所」。

本店からは半町ほど離れた、奥の事務所だった。

門前に、二つの影。松屋善次郎と沖田総司。

上駕籠が止まり、近藤が戸を開けた。葵に手を引かれて、糸子がゆっくり降り立つ。白の小袖に、薄萌黄の打掛。お忍びの装束だが、姿が現れた瞬間、善次郎の背筋がぴたりと整った。

「姫様。お呼びくだされば、いつでもお伺いいたしましたものを」

恐縮の口調の奥に、わずかな歓びが滲んでいる。

「久坂の様子も気になりましたし。たまには、こうして自ら動くのもよろしいかと」

糸子は扇子を軽く開いた。

「それに、善次郎——お会いせねばならぬお話が、ござりますゆえ」

善次郎は最後の半分を聞き逃さなかった。書状で済む話、人を介してよい話ではない、ということだ。

「承知致しました。お入りくださいませ」

玄関を入ると、土間が広い。奥に向かって廊下が一本まっすぐ伸び、北側に勘定部屋。中で若い番頭が算盤を弾いていて、糸子の姿を見るなり慌てて平伏した。

その奥、八畳の板間。書見と打合せ用の部屋である。北窓から午後の光が白く流れ込み、文机がふたつ、向き合うように配されていた。

糸子が文机の前に坐る。葵は襖際に控えた。近藤と沖田は廊下の外で立ち番。葵以外を、糸子は襖の中に入れなかった。

障子の向こうから、千葉道場の竹刀の音と、塾生の英語の斉唱が遠く流れ込む。風向きが変わった時、はっきり聞き取れた単語があった。

「シルク」「リヨン」「フランス」

善次郎の口元が、ふっと緩んだ。

「それで、姫様。お話、と申されますのは」

「生糸でございます。

糸子は扇子を膝に置いた。

「善次郎。異国の蚕の病——『微粒子病』、覚えておいでですね」

「左様で」

善次郎は頷いた。横浜の蘭商人筋から、断片で何度も入っていた話だ。フランス、イタリアの養蚕業が、ここ数年壊滅に近い。蚕が繭を作る前にばたばた死んでいく。

「異国の機屋は、糸が、足りませぬ。リヨンの絹織工房は、喉から手が出るほどに、生糸を求めておりまする。そこへ——日の本の生糸が、登場致しました」

「左様」

「質も量も、世界最高水準。これを安く買い付け、異国で高く売る。差額だけで莫大な富。さらに、転売を重ねれば——」

糸子は扇子の先で文机の角を、軽く叩いた。

「富が、富を生みまする」

善次郎の頭の中で、横浜から上がってきた半年分の数字が、すでに流れていた。生糸の値は、月ごとに跳ね上がっている。デントも、ジャルディン・マセソンも、躍起になって買い付けに走り始めていた。

「数字は、すべて、わたくしの頭の中にも入ってございます」

「左様でありますか」

糸子はしずかに頷いた。

「であれば、お話は早うござります。本日は——その流れをいっそう太くするために、参りました」

糸子は、扇子をいったん閉じた。

「ひとつ、確認させていただきとう存じまする。京にいた頃、丹後と但馬の優良な農家を、少数ながら『天朝物産会所』の専属契約で囲い込ませていただいた——あの件、今も続いておりましょうや?」

「続いております。丹後三家、但馬二家。年に一度、新茶の頃に、天朝物産会所で直接、契約を更新致しております。本年も滞りなく」

「結構でござります」

糸子の声が、ほんの一段低くなる。

「善次郎、これより——生糸の輸出を、最大化致しまする。今の数倍、数十倍、いえ、その先までも見据えての、最大化でござります」

善次郎の眉が、ぴくりと上がった。

「異国の蚕の病が、いつ治まるかは、誰にも分かりませぬ。なれど、治まる前に、機屋衆の頭の中に、こう刻み込んでしまわねばなりませぬ。『生糸と申せば、日本のものに限る』と。そこまで刻んでしまえば、病が治まっても、機屋は日本の糸を買い続けまする」

善次郎は、しばらく姫君の言葉を頭の中で転がしていた。これは、ただの儲け話ではない。日本の座る席を、世界という座敷の中で、上座のほうへ、ひとつ移し替える絵だ。

「お聞かせくださいませ。具体に何を?」

糸子は、扇子を立てた。先で、空中に、ゆっくり四本線を引いた。

「ひとつ目。最高級の生糸の、開発でござります。日本の中の上等…ではござりませぬ。世界の中の最高でなければ。糸の太さが信じがたいほど均一であること。光沢が、鏡のように見えること。一本一本に節がないこと。これを揃えた糸に、銘を付けまする。『春蚕・極純』と致します」

善次郎は、その四文字を頭の中で書いてみた。商人としては、心地よく腹に収まる名だった。

「そしてこれを、わたくしどもは——『ブランド』と申しまする」

「ぶらんど?」

「お初の言葉でござりましょうね」

「はい、はじめて耳にします」

「英語でござります。日本の言葉に直しまするに——『この名前さえついておれば、間違いはない、と買い手が信じ込むこと』。あるいは、『商品そのものに宿る信用』と」

「……屋号?ということでしょうか」

「近うはござります。なれど、屋号はお店の名にござりまする。ブランドは、商品そのものに付く名でござります。越後屋、と聞けば、人は店を思い浮かべまする。なれど『春蚕・極純』と聞けば、人は糸そのものを、思い浮かべまする」

善次郎の頭の中で、新しい引き出しがひとつ、ことりと開いた。

「承知、致しました。『ブランド』、頂戴致します」

「お早うござりますね」

「姫様と付き合うには、引き出しを増やしておかなければ、いけませんからね」

「まぁ、善次郎ったら…」

くすくすく笑う糸子。

「そして二本目。横浜の『天朝物産会所横浜取扱所……Tencho Trading House』を、拡張致しまする。見た目より大きな蔵、外国商人を迎える応接、二階に積み出し帳場、三階に検品の場。

すべてを、ひとつの敷地内に揃えてしまいまする。土地は、吉田橋の内側は——異国人居留地への入口に最も近い日本人地区の一角の空き地。そなたの父、善兵衛がすでに用意してくださっておりまする。」

「承知いたしました」

「三本目。生糸の経路の一本化。これは前々から少しずつ進めておりまするが、もう一段、深めまする。産地から横浜の蔵まで——運送、両替、検品、保管、すべて、わたくしどもの手の内に収めまする。中間に商人が一人でも入れば、その分、利が外に漏れまする。漏れた利は戻りませぬ」

「こちらはまだ少し…時間がかかりますが、なるべく急ぐように致しましょう」

「四本目。丹後と但馬以外の産地でも、優良農家との専属契約を、広げまする。信州、上州、奥州、武蔵と甲斐——合わせて、五つの新しい産地。御所御用達の称号を背に、最も腕の良い農家衆を、囲い込みまする」

「お役は、私に任せていただいても?」

善次郎は、思わず口にした。

「あら、任せられる方が、いるのでございましょうや?」

「…はい。先日、生糸を専門に扱ってきた者を、2名ほど引き抜いたばかりでございます」

善次郎は、にやりと笑った。

「善次郎は察しが良いのか…とにかくさすがでございますね」

「すべては善次郎の良い様に…」

糸子は、ふっと微笑んだ。

「もったいのうございます」

善次郎は、しばらく姫君を見ていた。そして静かに頭を下げた。

「姫様。ひとつだけ、お聞かせください」

「なんでしょう?」

「『春蚕・極純』——その最高級の生糸は、技術として、本当に可能でございましょうか」

糸子は、それを待っていた。

「逆に、お聞きいたしまする。日本の養蚕の技術は、どこまで到達しておりますか」

善次郎は頭の中で、自分の知る限りを整理した。

「結論から、申し上げます。可能でございます。ただし、限られた量ではありますが…」

「拝聴致します」

「上等な繭は、表の毛羽と、内側の蛹寄りの薄い層を取り除いた、真ん中の層が、最も美しゅうございます。『中層』。これだけを贅沢に使い切る——これが、ひとつ目の鍵でございます」

「次は」

「糸を引く者の腕。日の本の座繰りは手で行いまするが、上等な職人は、指先の感覚だけで、糸の太さを髪一筋ぶんの違いまで感じ取れまする。新しい繭をいつ継ぎ足すか、その間合いを寸分の狂いなく揃えられる者が、上野と信濃に、ひと握りずつおります」

「ひと握り…でございますか」

「それぞれ十人、おるかおらぬか。『 細糸(さいし) 』と申しまして、極めて細く、しかも均一な糸を引く技は、これらの土地で、ほぼ秘伝のように受け継がれております」

「光沢は?」

「巻き取る時に、よけいな撚りをかけぬこと。摩擦を限りなく減らすこと。これを徹底致すれば、絹の表面の細かい構造が損なわれず、鏡のような光が、生まれます」

「量は?」

「年に、数十貫でござります。多くは引けません」

善次郎は、ふっと笑った。

「なれど、姫様。最高級は、量で稼ぐものではございませぬ。量は、その下の等級で稼ぎまする。最高級は、頂点として立てておくだけで十分。最高級の存在が、その下の等級の値を引き上げてくれます」

糸子は、深く頷いた。

「お見事でござります、善次郎。先回りなさいましたね」

「いえ、商人なら、誰でも考えるところで——」

「いえ、お見事」

「ただ、ひとつだけ懸念が…」

「拝聴致します」

「手の技には、限界がございます。フランスやイタリアの機屋衆は、すでに『器械製糸』というものを、導入にすることになるでしょう。鉄の機械で糸を引く技でございます。日本にもいずれ、必ず入って参りまする」

糸子は、しばらく考えていた。

「器械製糸の機械を、機会があれば、取り寄せになる契りを、結びたく存じます」

「最高級は、職人衆の手で。並と上は、機械で。両方を揃えるのでございます。手の技だけに頼れば、いずれ異国の機械に量で押し潰されます。機械だけに頼れば、最高級の銘を保てませぬ。両方揃えてこそ、異国の機屋衆に勝てると試算致します」

「お見事——」

「これは、いずれ姫様か商務語学所の方にお頼みする話。今日決めますのは、本日四本のお話だけ。器械製糸は、また別の日に…」

「分かりました」

糸子は扇子を、もう一度膝の上に置いた。

「これで、本日の主だったお話は、終わりでござります」

善次郎は、深く深く頭を下げた。

「それでは善次郎、よしなに」

糸子が立ち上がる。葵が続いた。

「さて、帰りましょうか」

「はい、姫様…」

扇子の影で、糸子はわずかに笑った。

葵だけがその笑いを、傍で見ていた。

その同じ夜——。

別の場所で他の三人もまた、それぞれの戦いを続けていた。

商談演習場では——。

高杉晋作が、田中屋清兵衛と、模擬商談の三回目を行っていた。

高杉は、これで三回目の敗北を喫したところであった。

「……ぐっ」

高杉が、深く息を吐いた。

田中屋は、深く頭を下げた。

「高杉様、本日も——」

「分かっちょる、清兵衛殿。わしの負けじゃ」

高杉は、苦笑した。

「お前さん、商人風情と思うちょったが——わしより、ぶち口が立つ」

田中屋は、慌てて首を振った。

「いえ、滅相もございませぬ」

「私も姫様の教えでようやく、こうして商談ができるようになっただけにございます」

「以前は——異国商人に、無残に負けておりました」

高杉は田中屋の顔を、見つめた。

高杉の内心。

(清兵衛殿……お前さんは、あの姫様に救われた一人なんじゃな)

(姫様の教えは、武家だけでなく、商人にも届いちょるのか…)

(……じゃが、わしは、明日は絶対に勝つ。勝たせてもらうっちゃ」

高杉は、深く頷いた。

「明日、もう一度、お頼み申します」

「はい、いつでも」

商務語学所の研究室では——。

吉田松陰が村田蔵六と、深く語り合っていた。

松陰は、第一巻を「教える側」として、再編する作業に入っていた。

「村田殿——」

「はい、松陰先生」

「藩士に、これを伝えるとなれば——どのように語るのが、良いとお思いだろうか?」

村田は、わずかに首を傾げた。

「松陰先生、お考えは何かありますかな?」

「あると言っておきましょう」

松陰は、深く頷いた。

「藩士たちには——『漢学・兵学の文脈』で語ることが、肝要かと存ずる」

「『経世済民』という言葉から入る」

「これならば、藩士たちは、抵抗なく、聞いてくれましょう」

村田は、深く頷いた。

「お見事な見立てだと思います」

「松陰先生は、教育者として、まことに優れていらっしゃいますな」

赤坂の勝海舟邸では——。

坂本龍馬が勝海舟と、酒を酌み交わしていた。

勝が、にやりと笑った。

「龍馬、お前は本当に面白い男になったな」

「勝先生…」

「俺もなぁ、姫様の話を聞いた時、最初は信じられなかったぜ」

「あんな小さな娘子が、あれほどの計画を立てているとはなぁ」

「けど、龍馬——お前を見ていれば、姫様の人を見る目の確かさが分かるってもんだぜ」

龍馬は、にこにこと笑った。

「姫様の見る目は、確かやちや」

「先生も、わしも、姫様に楽しませてもろうちゅうきね」

「やっぱり 漢(おとこ) に生まれたからにゃあ、こじゃんとデカい仕事を、やり遂げてこそやと思うぜよ」

勝は頷いた。

「横浜行きは——」

「ほいたら、来週から行きますきに」

「そこで、海運の現場を、こじゃんと見てくるぜよ」

勝は、にやりと笑った。

「楽しみじゃねぇか、龍馬よ」

久坂は——。

糸子が立ち去ってから、また、文机に向かっていた。

しかし、本日の久坂はそれまでとは違っていた。

久坂の脳に、新しい指針が入っていた。

『型として捉える』——。

『理屈ではなく、手に覚え込ませる』——。

久坂は、最初の取引から、書き直し始めた。

「一両で、米一石を買った」

借方——米一石(一両分)

貸方——現金、一両

久坂は、声に出した。

漢学の素読のように。

「借方、米一石、一両。貸方、現金、一両」

「借方、米一石、一両。貸方、現金、一両」

「借方、米一石、一両。貸方、現金、一両」

何度も、何度も——。

声に出し、手で書き、目で見る。

頭で理屈を考えるのを止めた。

ただ、型として、繰り返した。

夜が、更けていった。

燭台の火が、少しずつ短くなっていった。

久坂の眼の下に、深い隈ができていった。

しかし——。

ある瞬間。

久坂の眼が、ふと見開かれた。

久坂の唇が、わずかに動いた。

「——あっ」

久坂の手が止まった。

久坂の脳の中で何かが——繋がった。

「これは——『陰陽』じゃ」

「金が形を変えただけっちゃ。手元に来たもんと、手元を離れたもん。表と裏」

「それを、両方記しちょるだけじゃ」

「難しいことは、何もないっちゃ」

「ただ、一つの取引を、表と裏から、書いちょるだけ——!」

久坂の眼に、輝きが戻った。

久坂は慌てて、続きを書き始めた。

今度は、止まらなかった。

手が自然に、動いていた。

計算が自然に、合い始めた。

借方と貸方が、揃い始めた。

久坂の額に、汗が滲んだ。

しかし、その汗は、苦しみの汗ではなかった。

歓喜の汗であった。

「玄瑞、ようやく一段、登れたか」

久坂は、呟いた。

夜が、更けていった。

久坂は、書き続けた。

明け方近く——。

ついに、最後の頁の最終行を、書き終えた。

借方の合計と、貸方の合計が——完璧に一致していた。

久坂は、しばらく、その帳面を見つめていた。

そして——。

久坂は、立ち上がった。

部屋の障子を開けた。

冬末の冷気が、部屋に流れ込んだ。

空は、まだ薄暗かった。しかし、東の空が、わずかに白み始めていた。

久坂は、縁側に出た。

縁側の前には、小さな庭があった。

その庭には、一本の梅の木があった。

その枝に——。

白い梅の花が、いくつも、ほころび始めていた。

まだ完全な開花ではなかったが、確かに、花を咲かせ始めていた。

久坂はしばらく、その梅を見つめていた。

明け方の風が、わずかに吹いた。

梅の枝が、揺れた。

久坂の眼から——。

涙が、一筋流れた。

久坂の内心。

(——これが、姫様の見ておられる世界か)

(複式簿記の眼で、世界を見りゃあ——あらゆる動きが、二つの面から見えてくる)

(金が動けば、その分だけ別の何かが動くっちゃ)

(一つの動きには必ず、もう一つの裏側がある)

(——これは、世の理そのものじゃ)

(陰と陽、表と裏、得ると失う、仕入れると売る——)

(すべての商いは、こうして、二つの目で捉えられるんじゃ)

久坂は、深く息を吸った。

冬末の冷たい空気が、肺に流れ込んだ。

久坂は——次の段階をすでに見ていた。

(藩の財政も——この眼で見りゃあ、見えてくる)

(『ただ金がない』のではない。『何に金を使ったか』が見えるっちゃ)

(その金が、未来を生む使い方なら——借金は悪ではない)

(その金が、ただ消える使い方なら——借金は罪じゃ)

(——わしはこれで、藩を救う材料を手にした)

久坂はもう一度、梅の花を見つめた。

(玄瑞はようやく一段階段を登れたちゃ)

(これからも、登り続ける。必ず…)

(姫様の見ておられる世界に——少しでも近づけるよう、努力し続けちゃろう!)

久坂は、深く息を吐いた。

白い息が、明け方の冷気の中に、消えていった。

十一

その日の朝——。

久坂は完成した帳面を持って、奥御殿に向かった。

まだ朝餉の前であった。糸子はすでに起きていた。

葵が糸子に、久坂の来訪を告げた。

糸子は、御簾なしで久坂に会った。

久坂は、深く一礼した。

「姫様——」

「久坂。お早う。何用でございましょうや?」

「夜分にいただきましたご教示を元、一晩で書き直しましたんでござりまする」

久坂は、帳面を、糸子に差し出した。

糸子は帳面を、丁寧に受け取った。

葵が御簾の脇で、湯を準備していた。

糸子は、ゆっくりと頁をめくった。

最初の取引。

二つ目の取引。

三つ目——。

糸子の眼が、頁を追っていった。

最後の頁をめくった。

借方の合計と、貸方の合計を確認した。

完璧に一致していた。

糸子は、深く頷いた。

「久坂——」

「はい」

「お見事にござりまする」

糸子の声に、深い喜びが、宿っていた。

「型として捉えられた、ということでござりますね」

久坂は、深く頷いた。

「左様にござりまする、姫様」

「夜更けまで、書き続けておりました時——」

「ある瞬間、すべてが繋がりました」

「『これは、陰陽じゃ』ち」

「一つの取引を、表と裏から見ちょるだけ——」

「それが、分かった瞬間、手が自然に動き始めました」

糸子は、わずかに微笑んだ。

糸子の内心。

(——お見事、久坂)

(陰陽——という言葉で、自分の中で消化したか)

(漢学の素養が、複式簿記の理解の橋渡しになった)

(理詰めの脳が、複式簿記の型を自分のものにしたんだね)

(これで、久坂は——藩首脳と、対等以上に議論できるようになるでしょう)

糸子は、外向きには、深く頷いた。

「久坂——」

「はい」

「これからは、もっと複雑な取引も、書けるようになりましょう」

「商家の年間の帳簿、藩の財政——どれも同じ型で書けまする」

「これからの数週間で、複雑な事例を、いくつも書いていただきまする」

「最後には——藩の財政を、ご自身で分析していただきまする」

久坂は、深く頭を下げた。

「玄瑞、必ずやお応えいたしまする」

十二

奥御殿の、糸子の私室。

久坂が退室した後、糸子は文机の前に座った。

文机の上には、黒い帳面。

糸子は筆を取って、書き込んだ。

「第二段階・初日——久坂、複式簿記の壁を突破」

「『陰陽』として、自分のものにした」

「漢学の素養が、橋渡しになった」

糸子は、わずかに笑った。

「ふふふふふ」

(さて、残りの三人は、どうしているかな?)

(高杉は、田中屋に三度負けて、悔しがっていると聞いた。明日、初勝ちするか、まだか…?)

(中二総帥は、村田殿と深い議論をしておるはず)

(坂本は——勝殿と、酒でも酌み交わしているんだろうなぁ…)

糸子は、立ち上がって、障子を開けた。

朝の庭が、見えていた。

冬末の梅は——昨日よりも、また多くの花を、咲かせていた。

淡い紅と、白の花が、枝の先で、控えめに、しかし確かに、咲いていた。

春が、近づいていた。

糸子は、わずかに微笑んだ。

(皆がそれぞれの花を、咲かせ始めている)

(中二総帥は、教える側として)

(高杉は、商談者として)

(久坂は、財政分析者として)

(坂本は、海運の戦略家として)

(——四人とも、わたくしの計画の、彩りになってもらわないとね)

糸子は、扇を膝の上に、戻した。

(残りはまだ…十数週間ありまする)

(皆、お頼み申しまする)

糸子の内心の声が、朝の風に消えていった。

第九十一話 了