作品タイトル不明
第九十話「世界が変わる、二週間」
一
まだ寒さの抜けきらぬ万延二年の初春。松の内が過ぎてしばらく、凍てつく朝の空気がひりりと肌に刺さる頃であった
明六つの時刻。空はまだ完全には明るくなっていない。東の地平線に薄く青い光が滲み、屋根瓦の輪郭がようやく闇から浮かび上がる、そんな冬末の朝であった。
一橋上屋敷、奥の特別教場。
昨日、一昨日と、すでに二日間使われたこの十二畳間も、三日目を迎えていた。
部屋の様子は、初日と少しだけ変わっていた。
四つの文机の上には、もはや新品の白い紙の束ではなく、二日分の書き付けが積み重なっていた。
墨の跡が乾ききらぬ頁、あるいは線で消した跡、あるいは丸で囲った要点——四人それぞれが、すでに二日分の格闘の跡を、紙の上に残していた。
文机の脇には、湯呑が置かれていた。冷えた朝に、温かい湯を飲みながら学ぶようにと、葵が朝のうちに用意したものであった。湯呑から立ち上る湯気が、火鉢の暖気と混ざり合って、部屋に淡い湿り気を与えていた。
黒板には、昨日の授業の名残が、まだうっすらと残っていた。「鯨の油」「蒸気船」「金銀の罠」——三つの言葉が、白い線でぼんやりと残っている。
葵が朝に拭こうとしたのを、糸子が「残しておいてくださいませ」と止めたのであった。「皆様が、昨日を思い出しながら本日を迎えるように」と。
床の間の掛け軸には、相変わらず「経世済民」の四文字。松陰が涙を流して訳した、あの言葉が、毎朝この部屋を見守っていた。
四人は、すでに座布団の上に座っていた。
左から、龍馬、高杉、久坂、松陰。
しかし、四人の表情は、初日とは違っていた。
松陰の眼は——糸子の入ってくる西側の障子に、すでに向けられていた。
まだ糸子は来ていない。しかし松陰は、糸子が現れる方角を、じっと見つめていた。
松陰の唇が、わずかに動いていた。
何かを呟いているようだった。
高杉が、隣でちらりと松陰の方を見た。
松陰の唇から、わずかに声が漏れ聞こえた。
「姫君様……姫君様……」
松陰は、糸子の名を、念仏のように唱えていた。
高杉が、深く溜息をついた。
(先生、もう授業前から、おかしくなっちょる)
高杉は、視線を自分の文机に戻した。
高杉の文机の上には、昨日の書き付けが広げられていた。
高杉の眉が、寄っていた。
高杉の内心。
(昨日、わしは——姫様の見た目に、観察するんをやめてしもちょった)
(観察対象として、見ることができんと思うた)
(じゃが、姫様が話し始めると——内容に引き込まれた)
(あの『鯨の油』『蒸気船』『金銀の罠』——どれも、わしが知らん世界じゃった)
(じゃが、姫様は、それを当然のように語った)
(——あの姫様の中には、わしらが知らん世界が、丸ごと入っちょる)
(それが見た目の中に、収まっちょる)
(……それが、ぶち、おかしいんじゃ)
高杉は、また自分の脳内で、論理が崩れそうになるのを、必死に抑え込んでいた。
高杉の眼が、わずかに、糸子が現れる障子の方に向いた。
……向いてしまった。
高杉は、慌てて視線を戻した。
高杉の内心。
(——いかん、わしも、姫様待ちになっちょる)
(先生のことを、笑えん)
高杉は、深く息を吐いた。
高杉の隣、久坂玄瑞。
久坂は、昨日と同じく背筋を完全に伸ばし、目を閉じていた。
しかし、その目蓋の奥では——昨日の授業の内容を、頭の中で何度も反芻していた。
久坂の内心。
(昨日、わしは——考えが追いつかんかった)
(あの一瞬の空白、わしの理詰めの考えが、止まってしもーた)
(情けなき限りじゃ)
(じゃが、その後——姫様の質問に答えることはできた)
(『燃料補給所の価値を交渉札に』——あれは、わしが姫様の話を聞いて、すぐに応用した発想じゃ)
(つまり——わしの理詰めは、考えを取り戻した)
(姿に動揺するのは、最初の瞬間だけ。話が始まれば、わしは集中できる)
(——本日もそれを保たんにゃあいけん)
久坂の目蓋が、わずかに開いた。
しかし、すぐに——閉じた。
久坂は、糸子が入ってくる前に、自分の集中を整えようとしていた。
久坂の隣、坂本龍馬。
龍馬は、昨日と全く同じであった。
胡坐をかいて、文机の上の白い紙を眺めながら、にやにやと笑っていた。
手元には、昨日のメモの整理が、すでに進んでいた。
「鯨の油=メリケンの灯と工場の燃料」
「蒸気船=石炭食らい。中継地の必要性」
「金銀の罠=日本の通貨制度の歪み」
「日本の戦略札=燃料補給所としての価値」
龍馬の整理は、簡潔かつ要点を完全に押さえていた。
龍馬の内心。
(さて、本日は何を教えてくださるかぜよ)
(昨日の話は、まこと面白かった)
(特に金銀の罠っちゅうがは、わしも肌で感じちょったことぜよ)
(横浜で、異国の商人が、にやにや笑いながら銀を持ち込んじょるのを、わしゃ見たことがあった)
(あれは、あの仕組みを知っちょったから、にやにやしちょったがか)
(——本日は、その続きが聞けるんじゃろう)
龍馬は、楽しみで仕方ないという顔をしていた。
西側の障子の向こうから、足音が聞こえてきた。
二人分。
昨日と同じ、葵と糸子の足音。
四人は、同時に背筋を伸ばした。
松陰の体が、震え始めた。
高杉が、深く息を吐いた。
久坂が、目を開けて、姿勢を整えた。
龍馬は、にこりと笑って、筆を構えた。
二
障子が、静かに開いた。
葵が、先に入ってきた。
そして——糸子が現れた。
本日の糸子は、昨日とは違う着物であった。
表は、深い紫。冬の終わりに、春を予感させる色。
その下に、薄黄。新春の梅の蕾の色。
襟元から覗くのは、白絹。
袖の縁には、銀糸で梅の枝が刺繍されていた。冬の終わりに咲き始める、梅の花の意匠。
髪型は、昨日と同じ。京の姫らしい結い方。金の簪も、昨日と同じ梅の意匠。
しかし、本日の糸子の眼差しは——昨日よりも、わずかに柔らかかった。
二日間、四人と接してきた中で、糸子は四人それぞれの個性を、改めて把握していた。
本日からは、より生徒との距離を縮めて、教えていく心算であった。
糸子は、四人の前まで歩を進めた。
「皆様、おはようございまする」
糸子の声が、教場に響いた。
四人は、深く一礼した。
「姫様、おはようございまする」
四人の声が、揃った。
しかし——。
松陰の眼は、すでに糸子に釘付けになっていた。
糸子の歩み、糸子の所作、糸子の声——一つ一つを、目に焼き付けていた。
糸子が、四人を見渡した。
糸子の眼が、松陰のところで、わずかに止まった。
糸子の内心。
(吉田殿……本日も、相変わらずでございますなー)
(既に泣きそうな顔をしている)
糸子は、表面には、穏やかに微笑んだ。
「では——本日も、始めまする」
糸子は、黒板の方に振り返った。
糸子は、昨日残しておいた「鯨の油」「蒸気船」「金銀の罠」の文字を、白墨で軽く撫でた。
そして、そのうちの「金銀の罠」を、丸で囲った。
「本日は——昨日お話しした『金銀の罠』を、より詳しく見ていきまする」
糸子の声が、教場に響いた。
糸子は、振り返って、四人を見た。
糸子の眼が、いつもの講師の眼に戻っていた。
「皆様、第一巻第一章の表題を、覚えておられますか」
久坂が、答えた。
「『数字が語る現実』にござります」
「左様」
糸子は、頷いた。
「本日は、その『数字』を、徹底的に見ていただきまする」
糸子は、扇を黒板に当てた。
「数字は——嘘をつきませぬ」
「数字は——感情を持ちませぬ」
「数字は——お見方の都合で、解釈を変えてくれませぬ」
「数字は、ただ、現実を、冷徹に語るのみでござりまする」
四人は、姿勢を正した。
「ゆえに——」
糸子の声に、わずかな鋭さが宿った。
「数字を読めぬ者は、現実を読めませぬ」
「現実を読めぬ者は——」
糸子の声が、低くなった。
「滅びまする」
三
糸子は、黒板に、数字を書き始めた。
白墨が、黒板の上を走った。
糸子の指の動きは、優雅であった。
白墨の動きは、流れるようでありながら、力強かった。書道で鍛えた筆さばきが、白墨にも生きていた。
糸子は、まず大きく書いた。
「日本 金一 : 銀五」
次に、その下に書いた。
「異国 金一 : 銀十五」
糸子は、振り返った。
「皆様、これは、昨日お話しした金銀比率の差でござりまする」
「日の本では、金一枚を、銀五枚で交換できる」
「異国では、金一枚を、銀十五枚で交換せねばなりませぬ」
「この差を、彼らはどう使ったか」
糸子は、扇で、黒板の数字を順に指し示した。
「まず——」
糸子は、黒板に、新たな項目を書いた。
「一、メリケンより、銀十五枚を持ち込む」
「二、日の本で、銀十五枚を金三枚に交換する」
「三、その金三枚を、メリケンに持ち帰る」
「四、メリケンで、金三枚を銀四十五枚に交換する」
糸子は、振り返った。
「結果——」
糸子の白墨が、最後の数字を書いた。
「銀十五 → 銀四十五 = 三倍」
糸子は、扇で、その数字を強く叩いた。
「銀の十五枚が、銀の四十五枚に。何もせずに、ただ船に乗せて運ぶだけで——三倍になるのでござりまする」
部屋に、衝撃が走った。
松陰の顔が、わずかに歪んだ。
高杉の眼が、見開かれた。
久坂は、唇を噛んだ。
龍馬は、メモを取りながら、わずかに眉を寄せていた。
糸子は、続けた。
「これを、彼らの言葉で『裁定取引』と呼びまする」
「一つの場所では安く、別の場所では高い、同じ品物の値段の差を利用して、利益を得る商法でござりまする」
「皆様の言葉で言えば——」
糸子は、わずかに微笑んだ。
「『大坂で安い米を、江戸で高く売る』」
「『京で安い反物を、地方で高く売る』」
「これは、日本でも昔から行われておる商いでござりまする」
久坂が、頷いた。
「左様、それは普通の商いにござりまする」
「されど——」
糸子の声が、変わった。
「異国が日本でやっておるのは、普通の商いではござりませぬ」
「彼らは——『通貨そのもの』を、商品として、扱っておるのでござりまする」
「銀を金に。金を銀に。——その交換だけで、富を生み出す」
「これは、日本の商人が考えたこともない、商いの形でござりまする」
高杉の眼が、暗い光を宿した。
高杉の内心。
(——通貨そのものを、商品として扱う)
(そんなことができるのか)
(しかし、姫様の話を聞けば、確かにできるんじゃ)
(ぶち、ずるい商いじゃ)
高杉は、思わず口を開いた。
「姫様——」
「はい、なんでしょう?高杉」
「これは、ぶち、ずるい商いじゃ」
「米を運んで売るのは、汗をかいちょる商いじゃ。けんど、銀を持ってきて金に替えるだけ、っちゅうがは——汗もかいちょらん」
高杉の声に、怒りが滲んでいた。
糸子は、頷いた。
「高杉、お気持ちは分かりまする」
「されど——彼らから見れば、これは『仕組みを利用した、賢い商い』なのでござりまする」
「悪いのは——この仕組みを、彼らに利用される形で放置していた、日本側でござりまする」
松陰が、両手で文机を握りしめた。
「日本側が悪い……」
松陰の声が、震えていた。
「我々が、悪いのですか……」
糸子は、首を振った。
「『悪い』というよりは——」
「『気付かなかった』のでござりまする」
「日本では、長い間、独自の通貨が流通しておりました。鎖国の中で、世界の標準を知らずに——日本独自の比率で、回しておりました」
「金銀比率が一対五になっておったのは——歴史の積み重ねの結果でござりまする」
「誰かが意図的に、悪い仕組みを作ったわけではござりませぬ」
「ただ——その日本独自の仕組みが、世界に開かれた瞬間、致命的な弱点になったのでござりまする」
四
糸子は、ここで、静かに息を整えた。
そして——次の話に進んだ。
「では、皆様にお問いいたしまする」
糸子の眼が、四人を順に見た。
そして——久坂で、止まった。
「久坂——」
久坂が、ぴくりと反応した。
「は、はい」
久坂は、慌てて姿勢を正した。
久坂の内心。
(——来た、姫様の問いじゃ)
(昨日と同じく、わしを試されちょる)
(落ち着け、玄瑞——集中せよ)
(姿に動揺してはならん)
(理詰めで、答えるのじゃ)
糸子は、穏やかな声で問うた。
「この金銀比率の差で——日の本は、何両を失いましたか」
部屋に、沈黙が流れた。
松陰、高杉、龍馬の眼が、久坂に向いた。
久坂は頭の中で、計算を始めた。
「……開港から、万延の 改鋳(かいちゅう) までは、半年余りっち聞いちょります」
「半年で、毎日、異国人の居留地から銀が持ち込まれ、金が持ち出されたっちゃ」
「一日あたり、どれほどの金が流出したかっちゅうことは——」
久坂は、頭の中で、数字を組み立てた。
「具体的な数字は、わたくしには分かりゃあせん」
「じゃが——半年の間、毎日続いたっちゅうんなら、桁違いの金が、流出したはずじゃ」
糸子の眼が、わずかに細められた。
糸子の内心。
(——よろしゅうござりまする、久坂殿)
(具体的な数字は分からなくとも、構造を捉えられた答えじゃ)
(理詰めの脳が、ちゃんと動いておる)
糸子は、外向きには、深く頷いた。
「お見事にござりまする、久坂」
久坂の頬が、わずかに紅潮した。
糸子の微笑みが、向けられた。
久坂の脳が——また、わずかに、揺れた。
久坂の内心。
(——いけん、また、姫様の微笑みに……)
(集中せえ、玄瑞)
久坂は、必死に、自分を立て直していた。
糸子は、続けた。
「では、具体的な数字を、お伝え致しまする」
糸子は、黒板に、数字を書いた。
「流出した小判 約十万両 〜 約五十万両」
「期間 安政六〜万延元年 (八箇月余)」
糸子は、振り返った。
「これが、独自に調べ上げた推計にござりまする」
「八箇月余に——日の本から、十万両から五十万両の小判が、流出致しました」
四人の眼が、見開かれた。
松陰の唇が、震えた。
「五十万両……」
「そんな、莫大な——」
糸子は、続けた。
「これだけでは、まだ、その重みは伝わらぬかもしれませぬ」
「比較を致しましょう」
糸子は、黒板に、新たな項目を書いた。
「咸臨丸(最新鋭の蒸気軍艦) 約六千両〜七千両」
糸子は、振り返った。
「皆様、咸臨丸はご存じでござりますか」
松陰が頷いた。
「ええ、勝殿が、メリケンに渡られた折に乗られた、最新鋭の蒸気船にござりまする」
「左様」
糸子は、頷いた。
「その咸臨丸の値段が——おおよそ六千両から七千両」
「では、流出した五十万両は——咸臨丸、何隻分に相当するか」
久坂が、即座に計算を始めた。
「五十万両を、七千両で割れば——」
久坂の唇が、わずかに震えた。
「約七十一隻分……!」
部屋に、衝撃が走った。
糸子は、頷いた。
「左様にござりまする」
「日本は、八箇月余に——最新鋭の軍艦を、七十隻も買い揃えられたはずの富を、失ったのでござりまする」
糸子は、続けた。
「しかも、これは『流出した小判の価値』だけの話にござりまする」
「実際には、もっと深刻な事態が、同時に起きておったのでござりまする」
糸子は、黒板に、新たな項目を書いた。
「異国人居留地の交換の法度」
「一人一日 銀三枚(一分銀十二枚=三両分)まで」
糸子は、振り返った。
「これは、開港時に、幕府が定めた法度にござりまする」
「『一人一日、銀三枚まで』。これならば、流出は限定的なはずでござりました」
高杉が、首を傾げた。
「されど、姫様。一日、銀三枚なら、五十万両も流出するわけがなかろう」
「左様にござりまする、高杉」
糸子は、頷いた。
「ところが——このルールは、有名無実化したのでござりまする」
糸子は、黒板に、新たな項目を書いた。
「ハリスの架空名簿による、両替申請」
糸子は、振り返った。
「ハリスをはじめとする外交官や商人たちは——架空の人物名を、リストに並べました」
「『ナポレオン』『ボナパルト』『空飛ぶ魚』」
「数千人分の交換枠を、偽造したのでござりまする」
松陰の眼が、見開かれた。
「……数千人分!?」
「左様にござりまする」
糸子は、続けた。
「この手口だけで…一日あたり、数千両もの小判が、毎日、整然と、そして合法的に海外へ流れていったのでござりまする」
「合法的に……」
高杉の唇が、わずかに開いた。
「ハリスは——アメリカの総領事じゃ」
「外交官じゃ」
「外交官が、こんな手口で、私財を貯めちょったっちゅうんか!」
糸子は、悲しげに頷いた。
「左様にござりまする、高杉」
「ハリスのような外交官でさえ、この錬金術に手を染めておりました」
「これが、開国の現実にござりまする」
久坂が、静かに口を開いた。
「姫様——」
「はい、久坂」
「これは、つまり——」
「『相手の倫理を期待できる相手じゃあない』っちゅうことでございますか」
糸子は、深く頷いた。
「そのとおりにござりまする、久坂殿」
「お見事な、まとめ方にござりまする」
久坂の頬が、また紅潮した。
糸子は、続けた。
「彼らに『紳士の取り決め』など、通用致しませぬ」
「『法律の精神』を共有することも、致しませぬ」
「彼らは、『書かれた条文の隙間』を、徹底的に利用致しまする」
「これが——国際社会の現実にござりまする」
糸子は最後に、もう一つの数字を書いた。
「一両 ≒ 米一石分 (現代の十万円〜二十万円相当)」
「五十万両 (約五百億円〜千億円規模)」
糸子は、振り返った。
「皆様——」
「五十万両という数字は——莫大な金額にござりまする」
「これだけの富が——八箇月余で海を渡って、消えていったのでござりまする」
部屋に、息を呑む音が響いた。
高杉が、思わず立ち上がりかけた。
「……七十隻!?」
「七十隻あれば——」
高杉の眼が、燃えていた。
「七十隻あれば、日の本の海岸線を、全て守れるじゃろう!」
「七十隻あれば、メリケンやイギリスの艦隊が、押し寄せてきても、十分に撃退できる!」
「それが——銀の入れ替えだけで、消えていったっちゅうんか!?」
糸子は、静かに頷いた。
「左様にござりまする、高杉」
「日本は——『近代化のための資金』を、開港のわずか八箇月余で、海外に流出させてしまったのでござりまする」
「これが——日本の現実にござりまする」
高杉が、唇を強く噛んだ。
血が、滲むほどに。
「ぶち、ぶち、悔しい……」
高杉の声が、震えていた。
松陰は——両手で顔を覆っていた。
肩が震えていた。
涙が止まらなかった。
久坂は、目を閉じていた。
久坂の眉間に、深い皺が刻まれていた。
龍馬は——筆を持ったまま、止まっていた。
龍馬の眼にも、暗い光が宿っていた。
龍馬の内心。
(——七十隻ぜよ)
(わしらは、その七十隻を、失ったがか)
(もしその七十隻があれば、わしの目指す海運も、もっと違う形で進められたじゃろうに)
糸子は、四人の表情を、確認した。
糸子の内心。
(——よし、四人とも、本気で受け止めた)
(数字の暴力だ。数字には、感情を超える力がある)
糸子は、続けた。
「それだけではござりませぬ」
糸子の声が、さらに低くなった。
「幕府は、この流出を止めるために——万延の改鋳を、断行致しました」
「これは、それまでの小判の金の含有量を、大幅に減らし——金銀比率を、国際標準の一対十五に合わせる、荒療治でござりまする」
糸子は、黒板に、新たな数字を書いた。
「万延の改鋳 金の含有量 およそ三部が一に減」
「物価 約三倍に 上昇(インフレ) 」
糸子は、振り返った。
「金の流出は——止まりました」
「されど、代償は、あまりに大きかったのでござりまする」
糸子は、扇で、「物価約三倍」の文字を指した。
「通貨の価値が、急落致しました。物価が、急騰致しました」
「昨日まで百文で買えた米が、翌日には三百文出さねば、買えませぬ」
「江戸の町には——餓死者が、少なからず出ておりまする」
松陰が両手で顔を覆ったまま、号泣していた。
「民が……民が、死んでいるのですか……」
糸子は頷いた。
「左様にござりまする」
「そして、この物価高騰が——『開国のせい』『幕府のせい』という、民の怒りを生みだしつつありまする」
「その怒りが、今、広がり始めている静かなる幕府批判にも、つながっておるのでござりまする」
糸子の眼が、松陰の方を見た。
「吉田殿——」
「は、はい——」
松陰は、両手を顔から離した。
眼が、真っ赤になっていた。
「吉田殿の松下村塾の塾生たちが、攘夷を叫ぶようになったのも——」
糸子の声が、わずかに優しくなった。
「その怒りの数ある源は、この物価高騰も含まれているのでございます」
「直接の原因は、開国かもしれませぬ。されど、根の根の原因は——」
糸子は、扇を黒板に当てた。
「金銀比率の歪みでござりまする」
「もし、幕府が早くに金銀比率を改正していれば——流出は防げた」
「流出が防げれば——改鋳の必要はなかった」
「改鋳がなければ——物価は急騰しなかった」
「物価が高騰しなければ——民の怒りは、徐々に広がりを見せなかったでありましょう」
松陰が、また両手で顔を覆った。
涙が、止まらなかった。
松陰の声が、震えていた。
「姫君様……」
「はい」
「私は——攘夷を、叫んでおりました」
「『異国を打ち払え』と、塾生たちに教えておりました」
松陰の声が、絶望に満ちていた。
「されど——攘夷の根拠を、数字で語ることが、できなんだのであります」
「『異国は悪じゃ』『異国を打ち払え』——それだけでございました」
「数字で——」
「数字で、何を失ったのか、何を取り戻すのか、何が真の敵なのか——」
「全く、語ることができなかったのでございまする」
松陰の手が、文机を握りしめた。
「姫君様、私は——」
「自分が恥ずかしい」
松陰の頬を、また涙が伝った。
糸子は、松陰の方を、静かに見つめた。
糸子の眼が、優しかった。
「吉田殿、それを恥じる必要はありませぬ」
「日本のほとんどの志士は、皆、同じでござりまする」
「数字を知らずに、感情で叫んでおりまする」
「されど、それを変えるのは、これからでござりまする」
「吉田殿が、これから数字を学べば——他の志士たちにも伝えていけまする」
松陰が、ゆっくりと顔を上げた。
「は、はい——姫君様——」
「松陰、必ず——必ず、数字を学びましょう」
松陰は、また、感動して涙を流した。
糸子の優しい言葉に、松陰の魂が、また揺さぶられていた。
その光景を、龍馬が、横目で見ていた。
龍馬は、にこりと笑った。
そして——口を開いた。
「先生、よう泣くなぁ」
松陰が、はっと、龍馬の方を向いた。
「うっ、うるさい。龍馬…」
松陰は、慌てて袖で涙を拭った。
しかし、その隣で、高杉が、龍馬を睨んだ。
「龍馬、口を慎めや」
「いやいや、晋作」
龍馬は、にこにこと笑った。
「先生の涙は、立派な涙ぜよ。けんど、今日だけでもう何回泣かれたきねえ」
高杉が、深く息を吐いた。
久坂も、わずかに苦笑した。
糸子の内心。
(このやりとり……予想通りだなー)
(坂本が、ちょうどよ道化を演じてくれる)
(吉田が深く落ち込まずに済む)
(——四人組の役割分担が、自然にできているなー)
五
糸子は、ここで一度、息を整えた。
そして、四人を見渡した。
「皆様——少し、休憩を致しまする」
四人は、ほっと息を吐いた。
松陰は、ようやく完全に、涙を拭った。
高杉は、肩の力を抜いた。
久坂は、目を閉じて、深呼吸をした。
龍馬は、にこにこ笑いながら、湯呑を手に取った。
葵が、新しい湯を、四人の湯呑に注いだ。
ちょうど、その時——。
西側の障子が、再び開いた。
四人が、視線を向けた。
入ってきたのは——糸子と葵以外の、もう一人の人物であった。
村田蔵六。
村田は、いつもと同じ、地味な青鼠の着物に、紺の羽織。背筋は伸び、足取りも整然としていた。
村田は、四人に一礼した。
四人も、慌てて深く一礼した。
「村田殿」
松陰の声が、響いた。
「ようこそ、お越しくださいました」
村田は、微かに頷いた。
「松陰先生、お変わりなく」
村田は、糸子の方に、視線を向けた。
「姫様、お疲れではございませぬか」
糸子は、振り返って、村田に微笑んだ。
「いえ、村田殿。教えることは、楽しゅうございます」
糸子の声に、嘘がなかった。
糸子は、本当に、教えることを楽しんでいた。
村田は、糸子の表情を見て——わずかに微笑んだ。
「左様でございましたら、何よりにございます」
「本日も、補助のために参りました。何かございましたら、お申し付けくださいませ」
糸子は、頷いた。
「かたじけなく存じます、村田殿」
村田は、四人の方を、改めて見た。
四人の眼が、村田を、見つめていた。
しかし、その眼の中に——複雑な感情が宿っていた。
久坂が、ふと、口を開いた。
「村田殿——」
「はい、久坂様」
久坂は、わずかに首を傾げた。
「失礼ながら——」
「はい」
「村田殿は——平気なのでございますか」
部屋に、わずかな沈黙が流れた。
村田は、首を傾げた。
「何のことでしょうか、久坂殿」
久坂は、わずかに、目線を泳がせた。
「いや、その——」
「姫様の御姿を、目の前にして……」
「平然としておられるのが——」
村田は、真顔で、久坂を見た。
しばらく、何も言わなかった。
そして——わずかに、首を傾げた。
「久坂殿、何か、お困りごとでも?」
部屋に、再び沈黙が流れた。
高杉が思わず、顔を覆った。
「ぐぬぬ……」
「村田殿、本気で言っちょるんか、それは」
「高杉殿、わたくしは何も——」
その時、龍馬が、にこりと笑って、口を開いた。
「ぜよ、村田殿。きっと慣れたんじゃきに」
村田は、龍馬の方を、見た。
そして——わずかに、微笑んだ。
「坂本殿、お察しの通りでございましょう」
「教科書編纂の折に、姫様には何度かお目にかかっておりましたゆえ」
部屋に、再び沈黙が流れた。
久坂と高杉は——同時に、深く息を吐いた。
久坂「なんじゃろうなぁ……」
高杉「まったくじゃ、この敗北感ぁ……」
二人の口から、同じ唸り声が漏れた。
糸子は、その光景を、御簾なしの場所から見ていた。
糸子の内心。
(村田殿……お見事でござりまする)
(あの応答の絶妙さ。「何のことでしょうか」とすっとぼけられた)
(村田殿の中では、もうわたくしの姿は当たり前のものとして、組み込まれておる)
(さすが、わたくしの近しい協力者でござりまする)
(——そして、久坂殿と高杉の悔しがる姿が、また見られた…)
(ふふふふふ…)
村田は、四人に向かって、一礼した。
「では、わたくしは、後ろに控えておりまする」
村田は部屋の隅に、静かに座った。
葵の脇である。
葵が村田に、軽く頭を下げた。
葵の眼が、わずかに笑っていた。
葵もまた、村田の応答を見ていた。
糸子は扇を、軽く動かした。
「では——」
「授業を再開致しまする」
六
糸子は、再び、黒板の前に立った。
「先ほどまで、金銀比率の差と、流出した金の量について、お話し致しました」
「次に——」
糸子は、黒板の文字を、扇で示した。
「『なぜ、彼らはこの仕組みを、見つけられたのか』をお話し致しまする」
四人は、姿勢を正した。
糸子は、続けた。
「皆様——」
「彼らは、なぜ日の本の金銀比率の歪みに、気付けたのでござりましょうか」
四人が、考え込んだ。
松陰が、答えた。
「異国の商人は——情報網を持っておるからにござりますか」
「左様、それも一つの理由でござりまする」
高杉も、続いた。
「異国は、世界中で商いをしちょる。だから、日本の通貨制度を見て、すぐに歪みに気付けたんじゃ」
「左様、それも正しゅうござりまする」
糸子は、続けた。
「されど——もう一つ、彼らを駆り立てた、強い動機がござりまする」
糸子は、扇を黒板に当てた。
「それは——『産業革命の出口』にござりまする」
四人が、首を傾げた。
「産業革命……?」
松陰の声が、戸惑っていた。
「異国では、ここ百年ほどの間に、機械の力で大量の物を作る仕組みが、急速に発達致しました」
「織物、鉄、武器——」
「その大量の物を、誰かに売らねば、利益にはなりませぬ」
「彼らは、世界中の市場を、必死に探しておるのでござりまする」
久坂が、深く頷いた。
「『売る場所』を、必死に探しておると?」
「左様にござりまする」
糸子は、続けた。
「そして——彼らにとって特に魅力的な場所が、この日本だったのでござりまする」
「『金が異常に安く放置されている』という、宝物のような状況」
「それに加えて——」
糸子は、黒板に書いた。
「生糸(絹糸)——欧州の蚕の病気と、戦略的価値」
「皆様、欧州では今、『微粒子病』という病気で、蚕が全滅しかけておりまする」
「そのため、欧州の絹織物産業は、原料となる生糸の不足に、苦しんでおりまする」
「そこに——日本の生糸が、登場致しました」
糸子は、続けた。
「日本の生糸は、質、量ともに、世界最高水準にござりまする」
「これを、安く買い叩いて、欧州で高く売る」
「その差額だけで、莫大な利益になりまする」
「金銀比率の差で儲け、生糸の転売でさらに儲ける」
「日本は——彼らから見れば、二重の利益を約束された、祝儀の土地だったのでござりまする」
高杉が、唇を噛んだ。
「ぶち、悔しいっちゃ!」
「我らの国を、祝儀の土地、じゃっち——!」
糸子は、頷いた。
「商売人の格言に、こういう言葉がござりまする」
糸子は、わずかに苦笑した。
「『利益が三倍あるなら、人間は絞首も恐れない』」
四人の眼が、見開かれた。
松陰が、声を上げた。
「絞首も、恐れない——!?」
「左様にござりまする」
糸子は、続けた。
「それほどの利益が、ここにあったのでござりまする」
「ゆえに、世界中の商人と外交官が、日の本に殺到致しました」
久坂が、深く息を吐いた。
「我らは、それを知らずに、生糸を売っておったのですか」
「左様にござりまする、久坂殿」
糸子は、頷いた。
「日本の商人は、彼らに『買い叩かれて』おりました」
「『これが世界の相場でござる』と言われれば、それを信じるしかなかったのでござりまする」
「相場を知る術を、持たなかったのでござりまする」
「これも——『情報を持っている者』と『持っていない者』の間で生じる格差にござりまする」
松陰が、両手を握りしめた。
「我らは、無知ゆえに、損をしておったのですか……」
「左様にござりまする、吉田殿」
糸子の声に、わずかな悲しみが滲んでいた。
「『無知は罪』とは申しませぬ」
「されど——『無知は損』なのでござりまする」
「無知でいる限り、損をし続けまする」
「ゆえに——皆様には、知っていただきたいのでござりまする」
久坂は、わずかに首を傾げた。
「されど——姫様」
「はい、久坂殿」
久坂は慎重に、口を開いた。
「もし、彼らが歪みに気付くだけならば、ここまで一方的な流出にはならんかったはずでございます」
「日本側にも、何か、止められる仕組みがあったのではございませんでしょうか」
「もし止められんとすれば——日本側にも、何らかの問題があったのではございませんでしょうか」
糸子の眼が、わずかに見開かれた。
糸子の内心。
(——おっ、久坂は鋭い)
(『日本側の問題』を、自分から問うてきた)
(これは、本日の核心部分ですね)
糸子は、外向きには、深く頷いた。
「久坂殿、まことに核心を突くお問いにござりまする」
久坂の頬が、また紅潮した。
糸子は続けた。
「左様にござりまする、久坂」
「日本側にも、止められなかった理由が——あったのでござりまする」
糸子は扇を、黒板に当てた。
「彼らの間でこういう経験則が、語られておりまする」
糸子は、白墨で、黒板に書いた。
「日本人は、断らない」
四人の眼が、その文字に釘付けになった。
「これが——彼らの間で語られた、日本人観でござりまする」
松陰が、思わず、声を上げた。
「断らない——だと?」
松陰の声に、屈辱が滲んでいた。
「我らが、何でも断らずに、言いなりになると——」
糸子は、頷いた。
「左様にござりまする、吉田殿」
「されど——これは、根拠のない誤解ではござりませぬ」
糸子の声が、低くなった。
「彼らが実際に、日本人と接して——そう経験したからでござりまする」
部屋に衝撃が走った。
糸子は続けた。
「皆様、ハリスのお話を、覚えておられますか」
高杉が頷いた。
「メリケンの総領事ぜよ。日米修好通商条約を結ばせた男じゃ」
「左様」
糸子は、続けた。
「ハリスは交渉の場で、何度もこう言いました」
糸子の声が、ハリスの口調を真似た。
「『拒否すれば、イギリスやフランスが、艦隊で攻めてくるぞ』」
「『清国が、阿片戦争でどうなったか、見ているのか』」
「『お主たちは、譲歩した方が、得策だ』」
松陰の唇が、震えた。
「卑劣な脅しではないか——」
糸子は、頷いた。
「左様、卑劣な脅しでござりまする」
「されど——幕府は、その脅しに屈しました」
「『戦争になるよりは、経済的に譲歩した方がマシ』と、消極的な選択を続けました」
「ハリスは、それを見て——『日本人は、強く言えば必ず折れる』と確信致しました」
「そして、その経験を——他の異国の商人たちに共有致しました」
高杉が、唇を噛んだ。
「ぶち、悔しゅうてならん……」
糸子は、続けた。
「それだけではござりませぬ」
糸子は、黒板に、新たな項目を書いた。
「『規則を、宗教のように守る』日本人」
「日米修好通商条約には、『通貨は同種同量で交換する』という条項が、ございました」
「これが、金銀比率の歪みを利用した、流出の原因でござりまする」
「もし、幕府が『この条項は不公平だから、破棄する』と言えば——流出は止められたかもしれませぬ」
「されど、幕府は——条約を宗教のように守ろうとしました」
「『一度結んだ条約を破ることは、国際的な不義理だ』と」
糸子の声が、わずかに痛みを帯びた。
「これは、誠実さでござりまする」
「日本人の、美徳でござりまする」
「されど、その誠実さが——国際経済というルール無用の戦場では、自分たちの首を絞めることになったのでござりまする」
「なお、条約締結後の交渉合議にて朝廷の使者として参加致して、『金銀交換比率の、適正化・協議条項』をメリケン国に認めさせました」
久坂が、深く息を吐いた。
「誠実さが——仇になったっちゅうことでございますか」
「左様にござりまする、久坂」
糸子は、続けた。
「さらに——」
糸子は、黒板に、新たな項目を書いた。
「『名前』という概念の欠如」
「これは、皆様には、信じがたきお話かもしれませぬ」
「異国人居留地の交換所には、毎日、異国人が押し寄せておりまする」
「そして、銀を、金に交換しております」
「されど、彼らは——架空の名前で、無制限に両替を要求したのでござりまする」
松陰の眼が見開かれた。
「架空の名前——」
「左様」
糸子は、続けた。
「『ナポレオン』『ボナパルト』『空飛ぶ魚』」
糸子は、扇を黒板に当てて、わずかに苦笑した。
「『ジャック・ケッチ』——これは、イギリスの首吊り役人の名にござりまする」
「『鼻をすする男』——」
「こんな、ふざけた偽名で、申請が出されました」
「役人たちは、それが詐欺だと、分かっておるようでした」
「されど、何故——拒否しなかったのか」
高杉が、思わず、口を開いた。
「なんで拒否せん!? 嘘の名と分かっちょるなら、突っぱねればええじゃろう!」
糸子は、首を振った。
「役人たちは、こう考えておりまする」
「『相手は異国人様である。失礼があってはならぬ』」
糸子は、扇を膝の上に戻した。
「『失礼があってはならぬ』」
「これが、日本の役人の、根本にある、考え方でござりまする」
「『相手に失礼をしたら、異国との関係が悪化するかもしれぬ』」
「『失礼をしないことが、国を守ることだ』」
「——そう、思い込んでいるのでございましょう」
「ゆえに、ふざけた偽名でも、断らずに、小判を渡し続けたのでござりまする」
高杉が、頭を抱えた。
「ぶち、阿呆ぜよ……」
「失礼を恐れて、本物の損害を被っちょる」
「これが、武士の国のやることか——」
糸子は、頷いた。
「左様にござりまする、高杉」
「これが、現実にござりまする」
糸子の声に、悲しみが滲んでいた。
「『お人好し』な対応が——世界中の荒くれ者たちの間で、『日本は簡単』という経験則を、定着させたのでございます」
部屋に、長い沈黙が流れた。
四人は、それぞれの内心で、衝撃を受け止めていた。
松陰は——両手を、膝の上で握りしめていた。
松陰の唇が、震えていた。
松陰の内心。
(——日本人の美徳が、仇になった)
(誠実さが、礼節が、わたくしたちの誇りであったはずのものが——)
(異国人から見れば、ただの『簡単さ』であった)
(——私は、何を信じてきたのじゃ)
(攘夷を叫んでおったわたくしは、根本から、世界を見誤っておった)
高杉は——拳を、固く握りしめていた。
高杉の眼に、深い暗い光が宿っていた。
高杉の内心。
(——わしの愛する日本が、こんなに馬鹿にされちょったんか)
(『失礼があってはいけん』——なんと愚かな)
(武士の国は、武士の心構えで、相手と渡り合わにゃあいけん)
(じゃが——その武士の心構えが、相手の卑劣さを呼び込んじょった)
(——わしらは、変わらにゃあいけん)
久坂は——目を閉じていた。
久坂の脳が、高速で回転していた。
久坂の内心。
(——これは、構造の問題じゃ)
(個人の問題じゃあない)
(日本全体の、人と人との関係の構え方が——異国じゃあ通用せん)
(『失礼を恐れる』っちゅうことが、武家社会の中じゃあ美徳じゃった)
(けんど、異国相手じゃあ、それが弱点になる)
(——つまり、わしらは『相手によって、構えを変える』っちゅう発想を、持っちょらんかった)
(これは——相当、深い問題じゃ)
龍馬は——筆を、止めていた。
龍馬の眼に、珍しく、暗い光が宿っていた。
龍馬の内心。
(——お人好しの日本人)
(わしも、土佐におった頃は、そのお人好しの一人じゃったき)
(人を信じることは、まっこと大事なことぜよ)
(けんど、信じる相手と、信じてはならん相手が、おるがじゃ)
(その見極めが、これまでの日本人にはできんかった)
(——わしらは、この広い世界で生き残るために、もう一段賢くならんといかんぜよ)
糸子は、四人の表情を、確認した。
糸子の内心。
(——よし、四人とも、本気で受け止めた)
(『日本人は断らない』という言葉の重みを、骨の髄まで理解した)
(これで、本日の核心は、伝わった)
糸子は、ゆっくりと、四人を見渡した。
「皆様——」
糸子の声に、わずかな優しさが戻っていた。
「これが、現実にござりまする」
「されど、これは——変えられる現実でござりまする」
「皆様が、これから学ぶ経済の知識——それは、この現実を変えるための、武器でござりまする」
「皆様が、断れる日本人になり——」
「皆様が、相手を見抜ける日本人になり——」
「皆様が、世界の中で、対等に渡り合える日本人になる」
「それが、わたくしの、願いでござりまする」
糸子は、深く頭を下げた。
四人も、慌てて、深く頭を下げた。
七
その日の授業は、ここで一区切りとなった。
糸子は、四人に、本日の宿題——第一巻第一章の復習と、自分なりの感想を文字にまとめること——を出してから、教場を出ていった。
葵と村田も、糸子に従って退室した。
四人は、教場に残された。
四人はしばらく、何も話さなかった。
ただ、それぞれの文机の上の、本日の書き付けを見つめていた。
「五十万両」
「咸臨丸七十隻分」
「物価三倍」
「日本人は、断らない」
「ジャック・ケッチ」
「鼻をすする男」
黒板に書かれた言葉、糸子が語った数字、四人それぞれが書き留めた言葉——。
それらが、四人の胸に、深く突き刺さっていた。
松陰が、ぽつりと呟いた。
「……変わらねばならぬ」
高杉が、頷いた。
「わしも同感じゃ」
久坂が、目を開けた。
「変わるのは、我々だけじゃあない」
「日本全体が、変わらにゃあいけん」
龍馬が、にこりと笑った。
「まっこと、姫様の言うことが、肌で感じられるぜよ」
四人は、無言で、立ち上がった。
部屋を片付けて、宿舎へと向かった。
夜——。
商務語学所近くの宿舎、二階の四人共用の八畳間。
膳の上の食事は、本日もほぼ手付かずであった。
しかし、本日はわずかに、状況が違った。
松陰、久坂、高杉が、それぞれに食事を口に運んでいた。
ゆっくりとであるが、食欲は戻っていた。
ただ一人、高杉だけは——食事の手が止まり、考え込んでいた。
高杉は、立ち上がった。
「ちと、夜風に当たってくるっちゃ」
「晋作、寒いぞ」
久坂が、声をかけた。
「いや、頭ぁ冷やしたいんじゃ」
高杉は、羽織を肩にかけて、宿舎の縁側に出た。
縁側は、冬の夜風に、冷えていた。
高杉の白い息が、月明かりの下で、わずかに見えた。
高杉は、欄干に手をかけて、夜空を見上げた。
万延二年…新春の、冬の星空が広がっていた。
星々が、いつも以上に、鮮明に見えていた。空気が乾き始めていた。
高杉の内心。
(ぶち、わしは、何を見ちょったんじゃ……)
高杉は自分自身に、問いかけた。
(昨日、わしは——姫様の見た目に、観察を放棄しちょったんじゃ)
(あの『重さ』と、あの『姿』のギャップに、振り回されちょった)
(けんど、本日の授業で——わしは、姫様の言葉に引き込まれた)
(『五十万両』『七十隻分』『日本人は、断らない』)
(あの言葉、あの数字、あの分析——どれをとっても、姫様の頭の中から出てきたものぜよ)
(——姫様の本当の姿は、見た目じゃあない)
(姫様の本当の姿は——あの知性じゃ)
高杉の唇が、わずかに動いた。
見た目は、おまけっちゃ」
高杉は、自分に言い聞かせるように、呟いた。
「姫様の本性は、あの知性じゃ」
「あの分析力じゃ」
「あの先見の明じゃ」
「見た目ぁ、ただの……容れ物じゃ」
高杉は、星空を見上げた。
冷たい夜風が、頬を撫でた。
高杉は、自分の脳内で、徐々に、糸子の像を再構築していた。
(——明日からは、ちゃんと授業を聞こう)
(姫様の見た目に、引きずられるのは——もう、終わりにしよう)
(わしは、姫様の知性を、学ぶために、ここに来ちょる)
(見た目は、見たいだけ見ればええ)
(けんど、それと、授業の集中は、別じゃ)
(——わし、晋作、立て直すっちゃ)
高杉は、深く、息を吐いた。
白い息が、月明かりの下で、消えていった。
高杉の眼に、いつもの観察モードの光が、ようやく完全に、戻っていた。
高杉は、部屋に戻った。
久坂が、顔を上げた。
「晋作、戻ったか」
「うむ」
「頭ぁ、冷えたか」
「冷えたっちゃ」
高杉は、座布団に座って、膳を引き寄せた。
そして、食事を、再開した。
今度は——食欲が、しっかりと戻っていた。
八
四人は、食事を終えた。
膳が片付けられた後、四人は、改めて部屋の中央に集まった。
誰が言い出したわけでもない。自然に、議論の場が、形成された。
松陰が、口を開いた。
「皆——」
「先生」
久坂と高杉が、応えた。
「私は——」
松陰の声が、わずかに震えていた。
「私は、本日、人生で最大の衝撃を受けた」
「『日本人は、断らない』」
「この言葉が——魂に、突き刺さった」
高杉が、頷いた。
「ぜよ、わしも同じじゃ」
久坂も、深く頷いた。
「わしも、同じじゃ」
「武家社会の美徳が、国際社会じゃあ、弱点になる」
「これは、根本から、考え直さにゃあいけん」
松陰は、続けた。
「我々は、これまで——」
「『異国を打ち払え』と、叫んでいた」
「されど——その叫びだけでは、何も変わらぬ」
「叫びの根拠を、数字で語れねば、誰も動かせぬ」
「『五十万両を失った』『咸臨丸七十隻分の富を失った』『日本人は、お人好しと笑われておる』」
「これらを、具体的に語れる人間が——これからの日本を、変えていくのだ」
高杉が頷いた。
「先生の言うことに、わしも賛成ぜよ」
「攘夷を叫ぶだけの志士は、もはや、要らんちゃ」
「攘夷の根拠を、経済で語れる志士じゃ」
「これからの志士は——刀と、算盤の、両方を持たにゃあいけん!」
久坂も、頷いた。
「その通りじゃ」
「数字を語れる志士になる」
「これが、我々のこれからの使命じゃ」
龍馬が、にこりと笑った。
「おうよ、姫様の言うことが、肌でビシビシと感じられるき!」
「わしらは、これから三月の間、姫様からその『数字を語る力』っちゅうもんを学ぶがじゃ!」
「楽しみで、まっこと辛抱たまらんぜよ!」
高杉が、ふと、ぽつりと呟いた。
「——姫様の頭の中、覗いてみたいっちゃ」
久坂も、頷いた。
「同感じゃ」
「姫様の頭の中には、わしらが見ちょらん世界が、丸ごと入っちょる」
「あの世界を、わしも見たいっちゃ」
松陰が、嬉しそうに頷いた。
「姫君様のお考えは——神の領域にある」
松陰は、両手を合わせて、また涙ぐみそうになっていた。
「あの御方のお考えは——」
龍馬が、苦笑して、口を挟んだ。
「先生、そろそろ普通に話そうか。……なんか、ちょっと恥ずかしくなってきたし」
松陰が、はっと、我に返った。
「これは——失礼した、龍馬」
四人は、わずかに、笑った。
その笑いが——四人の絆を、わずかに深めた。
四人は、しばらく、議論を続けた。
第一巻第一章の内容を、自分たちの言葉で、咀嚼していった。
松陰は「経世済民」という言葉を、漢学・兵学の文脈で深めていた。
高杉は「日本人は断らない」を、武家社会の構造的問題として分析していた。
久坂は「金銀比率の歪み」を、財政の論理から論じていた。
龍馬は四人の議論を、現場の感覚でつなぎ合わせていた。
夜が、更けた。
四人は、それぞれの寝床に入った。
しかし、すぐには眠れなかった。
松陰は、布団の中で、糸子の言葉を反芻していた。
松陰の唇が、動いた。
「『姫君様、私は自分が恥ずかしい』」
「『吉田殿、それを恥じる必要はありませぬ』」
松陰の眼に、涙が浮かんだ。
しかし、その涙は——感謝の涙であった。
「姫君様、かたじけなく存じます」
松陰は、布団の中で、深く頭を下げた。
久坂は、布団の中で、目を開けて、天井を見つめていた。
久坂の脳内では、本日の数字が、何度も再生されていた。
「五十万両、咸臨丸七十隻分、物価三倍——」
「これらを、自分の言葉で、藩の要人に語れるようにせにゃあいけん」
「玄瑞、明日からも、励めや」
高杉は、布団の中で、目を閉じていた。
高杉の脳内では、糸子の像が、徐々に再構築されていた。
「姫様の見た目は、おまけじゃ。本性は、知性じゃ」
「明日から、ちゃんと聞こうや」
高杉は、自分に、繰り返し言い聞かせていた。
龍馬は——もう、寝息を立てていた。
龍馬の枕元には、本日のメモが、整然と置かれていた。
「五十万両流出。咸臨丸七十隻分」
「万延の改鋳→物価三倍→民の怒り→倒幕運動」
「日本人は断らない=武家社会の美徳が国際で弱点」
「これからの志士は、刀と算盤の両方を持つ」
メモは、簡潔だが、本日の核心を、完璧に押さえていた。
寝ながらも、龍馬の脳は、整理を続けていた。
奥御殿の、糸子の私室。
糸子は、文机の前に座っていた。
文机の上には、黒い帳面。
糸子は、筆を取って、書き込んでいた。
「三日目——四人、徐々に慣れてきた」
「中二病、本日も泣いた。されど本日の涙は、悔しさと覚悟の涙」
「久坂殿、鋭い質問——『日本側に問題があったのでは』。本日の核心を自分で引き出した」
「高杉、後半に立ち直り。『日本人は断らない』に強く反応」
「龍馬殿、変わらず冷静。整理力が高い」
「村田殿の『何のことでしょうか』が秀逸」
糸子は、書きながら、わずかに笑った。
(ふふふふふ…)
(村田殿の、すっとぼけ)
(あれは、教科書の編纂作業で深まった、わたくしへの理解の表れ…)
(村田殿の中では、わたくしの姿は、すでに『当たり前のもの』として、組み込まれている)
糸子は、もう一行、書き加えた。
「四人は本日で世界の見え方が、変わったと思われる」
「『五十万両』『七十隻分』『日本人は断らない』——これらの数字と言葉が、四人の胸に突き刺さった」
「明日からは、より深い理解へ進める」
糸子は、帳面を閉じた。
鍵のかかる引き出しにしまった。
糸子は、立ち上がって障子を開けた。
夜の庭が、月明かりに照らされていた。
冬末の梅の蕾は——ついに一輪、わずかに開いていた。
淡い紅の花弁が、月明かりの下で、控えめに紅をのぞかせていた。
糸子は、わずかに微笑んだ。
(春が来た)
(梅が咲き始めた)
(——そして、四人もまた咲き始めた)
(本日の授業で、四人の世界の見え方が変わった)
(『五十万両』という数字を知った四人は、もう昨日までの四人ではない)
(数字を知った者は、感情だけでは生きられぬ)
(数字を知った者は、論理で世界を見る)
(——四人は、論理で世界を見る人間に、なりかけておる)
糸子は、夜風に、白い息を吐いた。
(残り、十一日…)
(第一段階の口頭試問まで、残り十一日ある)
(皆様——よろしゅう、お頼み申しまする)
糸子は障子を、ゆっくりと閉じた。
火鉢の炭が、ぱちりと音を立てた。
第九十話 了
糸子さんのイメージイラスト②を試しに作ってみました!
いかがでしょうか?ヽ(゜∀゜)ノ♪