軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八十九話「姫君様、姿を現す——」

万延二年、新春の華やぎは既に収まっていた。

江戸の春は、まだ冷たかった。

しかし、空の色が——わずかに変わり始めていた。

東の空から差し込む朝の光が、昨日までよりも、ほんの少しだけ、白く、明るい。冬至を過ぎてから日に日に長くなっていく日の光が、ようやく目に見えて感じられるようになっていた。

一橋上屋敷の、奥の一棟。

奥御殿から渡り廊下で繋がった、二階建ての武家屋敷である。表向きは、客人の宿泊や、季節ごとの茶会に使われる別棟ということになっている。

しかし——昨日からは、別の用途に使われていた。

その一階の、奥の十二畳間。

一昨日まで何もなかった部屋に、変化があった。

部屋の正面には、黒く塗られた板が、壁に立てかけられている。横幅およそ六尺、縦は四尺。商務語学所の教場で使われているものと同じ、漆を塗って磨いた「黒板」と呼ばれるものであった。

その黒板の脇には、小さな机。机の上には、白く細い棒が数本、並べてある。これは「白墨」と呼ばれるもので、黒板に文字を書くための道具であった。

部屋の中央には——四つの座布団が、整然と並んでいた。

座布団の前には、それぞれに小さな文机。文机の上には、墨壺、筆、白い紙の束、そして昨日糸子から渡された四冊の「学習計画書」が、丁寧に置かれていた。

部屋の北側には、床の間。床の間の掛け軸には、一行の文字が書かれていた。

「経世済民」

昨日、糸子の話を聞いた松陰が、自分の言葉で訳した四文字。それがすでに掛け軸として、ここに掲げられていた。葵が朝のうちに用意したものであった。

部屋の南側には、大きな障子。障子越しに、庭の冬の光が、わずかに差し込んでいた。障子の前には、座布団が一枚。その後ろに、葵が控えるための小さな台が置かれていた。

部屋の西側には、もう一つの障子。これは、奥御殿側に通じる廊下に繋がっている。糸子が入ってくる障子。

火鉢が、二つ。

部屋の四隅のうち、東と西に一つずつ。冬末とはいえ、朝はまだ冷える。火鉢の炭が、ぱちりと小さく音を立てていた。その音だけが、静かな部屋に響いていた。

明六つ——午前六時。

まだ日が完全に昇っていない、薄明の時刻。

部屋には、四人がすでに座っていた。

左から——坂本龍馬。高杉晋作。久坂玄瑞。吉田松陰。

昨日と同じ並び順。

しかし、四人の表情は、昨日とは違っていた。

龍馬は、いつも通りであった。座布団の上で胡坐をかき、文机の上の白い紙を眺めながら、にやにやと笑っている。

高杉は、姿勢を正し、しかし眉間にわずかな皺を寄せていた。何かを考え込んでいる顔であった。

久坂は、背筋を完全に伸ばし、目を閉じて——昨日の糸子の言葉を、頭の中で反芻していた。

松陰は——両手を膝の上に揃え、しかし全身が、わずかに震えていた。期待と興奮が、抑えきれずに、体の表面に滲み出ていた。

龍馬が、ふと、三人の顔を見渡した。

そして——首を傾げた。

「ぜよ——」

龍馬の声が、静かな部屋に響いた。

「なんで皆、そんなに緊張しちょるんじゃ?」

高杉が、ぴくりと反応した。

「龍馬」

「なんぜよ、晋作」

「お前——緊張しちょらんがか?」

龍馬は、にこりと笑った。

「まぁ、姫様の授業ぜよ。楽しみじゃきに」

久坂が、目を開けた。

久坂の目は、すでに鋭かった。

「お前は——色々と、分かっておらぬな、坂本」

「分かっちょらん、とは何ぜよ、玄瑞」

久坂が、わずかに息を吐いた。

「昨日、姫様は仰せられた。『三月後、別々の戦場へ赴いていただく』と」

「うむ」

「『死ぬ気で学んでください』『学んだ知識を、血と肉に』と」

「うむ」

「そして本日が、その第一日じゃ」

久坂の声に、わずかな震えが宿っていた。

「わしは——昨日の姫様の言葉が、頭から離れぬ」

「経世済民。世を経め、民を済う」

「これは、口で言うのは易い。しかし、実際にやるとなれば——」

高杉が、久坂の言葉を受けた。

「血と肉になるまで学ぶちゅうがは——なまじの覚悟ではできぬ、ということじゃ」

松陰が、ようやく口を開いた。

松陰の声は、震えていた。

「皆——」

「先生」

「私も、緊張しておる」

「されど、これは——ありがたき緊張だ」

「姫君様が、御自ら私のような者に、教えてくれるのだからな」

松陰の眼に、また涙が滲んでいた。

龍馬が、苦笑した。

「先生、まだ授業も始まっちょらんに、もう泣きそうになっとるぜよ」

松陰は、慌てて袖で目を拭った。

「これは——失礼。龍馬」

久坂が、龍馬の方に視線を戻した。

「坂本——」

「なんぜよ」

「お主、本当に緊張しておらぬのか」

龍馬は、首を傾げた。

「うむ、緊張しちょらんぜよ」

「なぜじゃ」

龍馬は、わずかに笑った。

「姫様は、きっと姫様らしい授業をなさるじゃろう。わしゃ、それを楽しみにしちょるだけぜよ」

「『姫様らしい』とは、どういうことじゃ?」

龍馬は、にやりと笑った。

「それは——」

その時、廊下の方から、足音が聞こえてきた。

二人分。

軽く、しかし整然とした足音。

四人は、同時に背筋を伸ばした。

松陰の体の震えが、最大に達した。

西側の障子が、静かに開いた。

最初に入ってきたのは——葵であった。

葵は、四人に深く一礼してから、南側の障子の前に置かれた座布団に、静かに座った。

そして——。

障子の向こうから、もう一人の人影が、ゆっくりと部屋に入ってきた。

糸子が——御簾なしで、四人の前に、姿を現した。

四人の視線が、糸子の姿に、釘付けになった。

糸子は、座布団の前まで歩を進めて——四人の前に立った。

障子越しの白い朝の光が、糸子の姿を、斜めから照らした。

黒く長い髪が、京の姫らしい結い方で、肩から背に流れていた。髪の艶が、朝の光を弾いて、わずかに青く光っていた。

後ろで結い上げた髪に、金の簪が一本、差されていた。簪の先には、小さな梅の花の意匠が施されていた。

冬の終わりに、春を待つ梅の花。糸子の髪の上で、小さな金の梅が、ひっそりと咲いているように見えた。

肌は、雪のように白かった。冬の冷気の中で、ほんのわずかに頬が紅潮しているのが、白さの中に儚く浮かんでいた。

それは作り物のような白さではない。生きている、十三歳のおなごの肌の白さであった。むしろ、そのわずかな血の色こそが、糸子が生身の人間であることを、辛うじて証明していた。

眼は、黒く深かった。

その眼は、十三歳のおなごの眼であるはずなのに——その奥には、底の知れぬ知性と意志が宿っていた。

何十年も生きてきた者の眼のような、しかし同時に、若々しさも宿る眼。見る者を、一瞬で射抜くような、強さがあった。

しかし、糸子はその眼を、優しく細めていた。生徒たちの前に立つ、教師としての眼差し。厳しさと優しさが、絶妙に同居していた。

着物は——近衛家の家紋である「近衛牡丹」が織り込まれた、冬の重ね着であった。

表は深い藍。冬の空のような、静かで深い色。

その下に、薄紅。春を呼ぶ色。

襟元から覗くのは、白絹。雪のような白。

袖の縁には、銀糸で雪輪が刺繍されていた。冬の終わりに、雪の結晶が舞っているような意匠。

完璧な格式の、しかし派手すぎぬ、清楚な装い。五摂家筆頭の姫としての品位を保ちながら、教師として生徒の前に立つ謙虚さも、表現されていた。葵が、季節と場面を考えて選び抜いた一着であった。

所作は、完璧であった。

立ち姿、息の運び方、目線の動かし方——すべてが、千年の家格に磨き上げられた、迷いのない動きであった。一つ一つの所作に、長い修練の跡があった。しかし、そのことを感じさせぬ自然さがあった。

全体として——「人間離れした完成度」。

十三歳の美少女、しかし、神秘的な気配を帯びた、何か。

京の都の千年の気品が、目の前に降臨したかのような姿。

この姿が、御簾なしで、四人の目の前に現れた。

糸子は、四人の正面まで歩を進めた。

そして、わずかに微笑んだ。

「皆様——」

糸子の声が、御簾を介さず、直接、四人の耳に届いた。

穏やかで、しかし芯のある、十三歳のおなごの声。

「おはようございまする」

部屋が——凍りついた。

最初に動いたのは——松陰であった。

動いた、というよりは——動けなくなった、と言うべきか。

松陰は、糸子の姿を、目に映した瞬間——全身の動きを、停止した。

座布団の上で、両手を膝の上に置いたまま、眼だけが、糸子を凝視していた。

唇が、わずかに開いた。

しかし、声は出ない。

松陰の脳裏に、これまで御簾の向こうで聞いてきた糸子の声が、すべて、一気に蘇った。

代理戦争論。海洋国家論。経世済民。

あの重く、深く、この国の未来を見通した言葉たちが——目の前のこの姿から、発せられていたのか。

松陰の眼に、涙が滲んだ。

いや、滲むという段階を、すでに超えていた。

涙が、頬を伝った。

一筋、二筋——。

松陰の唇が、ようやく動いた。

「これは…これはぁ!!!」

声が、言葉にならなかった。

松陰は、両手を膝から離した。

そして——両手を、合わせた。

拝む形であった。

松陰の体が、わずかに前に傾いた。

「……天に上りし、神のお姿——!」

松陰の声が、震えながら、しかしはっきりと、部屋に響いた。

「天が——天が、姫君様の御姿として、ここに降りて来られた——!」

松陰の涙が、頬を伝って、顎まで滴り落ちていた。

「松陰、生涯の幸せにございまする——!」

「拝みまする——拝みまする——!」

松陰の上体が、深く、深く、前に傾いた。

額が、文机に近づいた。

「松陰、この御姿を、生涯、忘れませぬ——!」

「目に焼き付け——魂に刻みまする——!」

松陰は、拝み続けた。

止まらなかった。

糸子は、御簾なしで——その光景を、直接見ていた。

糸子の内心。

(——やはり、こうなった)

(中二病が拝み始めたら、止まらないなー)

(予想通りだけど——予想を超えた拝み方だ)

(御簾というフィルターがなく、直接見ちゃうと思わず顔を背けたくなるのは、何故だろうか?)

(このおっさんは、こんなことして、自分が恥ずかしくはないのだろうか?)

糸子は、冷静に分析しつつ苦笑した。

しかし、表面には、その苦笑を出さぬよう、穏やかな表情を保った。

糸子は、扇を持っていた。

しかし、その扇は——もはや、御簾越しに使う扇ではない。直接、四人に向けて、振るう扇である。

松陰の隣に座っていた、久坂玄瑞。

久坂の脳内では——一瞬、何も起こらなかった。

文字通り、何も。

糸子の姿を、眼が捉えた。

しかし、その情報が——脳に届かなかった。

いや、届いてはいた。しかし——脳が、その情報を、処理できなかった。

久坂の脳内に、空白が生まれた。

…。

……。

…………。

数秒の空白の後、久坂の脳が、ようやく、再起動を始めた。

しかし、それは正常な再起動ではなかった。

久坂の脳内。

(……)

(これは——)

(これは——なんじゃ)

(待て、わしは何を見ておるのじゃ)

(御簾の向こうで感じておった、あの『重さ』)

(代理戦争論を四段階で語った、あの圧倒的な分析…)

(問答で、わしを追い詰めた、あの論理)

(あの『重さ』の発し主が——目の前のこの——)

(——美しさ……)

(いや、待て、わしは『美しさ』を見ておるのではない)

(わしが見ておるのは——あの圧倒的な知性の、発し主の——姿——)

(しかし——)

(しかし、その姿は少女じゃ)

(少女の姿に、あの『重さ』が宿っておる——というのか?)

(理解が——)

(理解が、追いつかぬ——)

久坂は、目を見開いたまま、固まった。

顔に、わずかに汗が滲み始めた。

冬末の朝の冷気の中で、久坂の額に、汗の粒が浮かんでいた。

久坂の理詰めの脳は——「美しさ」と「知性の重さ」を、同じ存在の中に統合することができずにいた。

脳が、二つの情報を別々のものとして理解しようとして——失敗していた。

久坂は息を吸うのを、わずかに忘れていた。

久坂のさらに左隣、高杉晋作。

高杉の脳内も、似たような状態に陥っていた。

しかし、高杉の場合は——久坂とは、わずかに違う種類の混乱であった。

高杉の脳内。

(……)

(ぶち……)

(ぶち、なんじゃ……これは……)

(わしの眼が——観察を放棄しちょる)

(昨日まで、御簾の向こうで、姫様の声を聞きながら——わしは観察しちょった)

(声の調子、間の取り方、扇を叩く動作、葵殿への目配せ——すべてを観察して、姫様の本性を読み解こうとしちょった)

(そして、ある程度、読み解けたつもりでおった)

(『重い』『深い』『腹黒い』『底が見えぬ』——そう判断しちょった)

(しかし——)

(しかし、目の前のこの姿は——)

(観察対象として、認識できぬ)

(人——なのか、これは)

(人として観察できる対象なのか、これは)

(わしの眼が、根本から、機能を停止しちょる)

(こんなおなごは、見たことがありゃあせん )

高杉の唇が、わずかに開いていた。

口が半開きの状態で——高杉は、糸子を見つめていた。

高杉の機知も、機転も、ここでは何の役にも立たなかった。

高杉の行動様式——「相手を観察して隙を突く」——が根本から崩されていた。

対象が、観察できない。

ならば、隙を突くこともできない。

高杉は——丸腰であった。

久坂と高杉が、固まっていた。

松陰が、拝み続けていた。

その三人の隣で——。

坂本龍馬は、平然としていた。

龍馬は座布団の上で、いつも通りに胡坐をかいていた。

糸子の姿を、目に映していた。

しかし、固まらない。

拝まない。

ただ、にこりと笑って——。

「姫様、おはようございますちや」

普通に、挨拶をした。

糸子は、龍馬の方に視線を向けた。

糸子の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

「坂本、おはようございまする」

糸子も、普通に、挨拶を返した。

二人の間に、ごく自然な、朝の挨拶が交わされた。

その挨拶を聞いた、固まっていた久坂と高杉が——。

わずかに視線を、龍馬の方に向けた。

「……」

「……」

久坂の脳が、新たな混乱に陥った。

高杉の口が、さらに開いた。

龍馬の内心は、別のところにあった。

龍馬の内心。

(——松陰先生、また始まったぜよ)

(先生、本当にお気持ちは分かるけんど、それじゃ授業にならんぜよ)

(玄瑞と晋作も——初めて見たがじゃな)

(ぜよ、わしも初めて見た時はあんぐりだったきに、二人の気持ちは分かる)

(あれは衝撃ぜよ。あの『重さ』と、『姿』が、同じ一人の中におるとは——わしも信じられんかった)

(けんど、人は何にでも慣れるんじゃ)

(三度見れば、慣れる)

(玄瑞と晋作も、いずれ慣れるじゃろう)

(——けんど、今のあの二人の顔は、面白いぜよ)

(特に晋作。普段あれだけ機知が効くやつが、口を半開きにしちょる)

(玄瑞も、額に汗をかいちょる。理詰めの男が、論理で処理できんのじゃろう)

龍馬は、笑いそうになるのを、堪えていた。

(こうしてみるとほんと、姫様は冗談みたいな存在ぜよ)

(あの可愛らしい見た目で、あのとんでもない計画を立てちょるがじゃきに)

(しかも、その計画が、本当に動き出しちょる)

(御朱印を取り、商務語学所を作り、わしらを駒として使い、これから諸藩を動かそうとしちょる)

(その全部を、見た目…少女がやっちょることか?)

(——冗談みたいな存在ぜよ、まっこと詐欺ぜよ)

(けんど、わしゃもう慣れたきに)

(姫様は、まぁ、そういうお人じゃろ。それでええんじゃ)

松陰の拝礼は、まだ続いていた。

久坂と高杉は、まだ固まっていた。

糸子は、四人を見渡した。

糸子の内心。

(中二病は、もう少し拝ませておくとして……)

(久坂と高杉は——そろそろ、引き戻さねば、授業が始まらない)

(坂本は——いつも通り。よろしい)

糸子は、ゆっくりと、扇を動かした。

その動作の優雅さに久坂と高杉の眼が、また釘付けになった。

糸子は、穏やかな声で、口を開いた。

「吉田殿——」

松陰の拝礼が、わずかに止まった。

「は、はい——姫君様——」

「お気持ちは、誠に有難く存じまする」

「しかし、本日は授業の日にござりまする」

「お顔を、上げてくださいませ」

松陰はゆっくりと、上体を起こした。

しかし、その眼は、糸子から離れなかった。

涙はまだ頬を伝っていた。

「姫君様——」

「はい」

「姫君様の御姿を、目に焼き付けることを——お許しいただきたく」

糸子は、わずかに苦笑した。

「焼き付けるのは、よろしゅうございまする」

「されど、授業の内容も、合わせて、頭に焼き付けてくださいませ」

「は、はい——必ず——!」

松陰は、何度も頷いた。

葵が御簾の脇から、立ち上がった。

手に湯呑を持っていた。

葵は松陰の前まで歩を進めた。

「吉田様——お水を召し上がりくださいませ」

「葵殿…すみませぬ——」

松陰は、湯呑を受け取った。

手が、まだ震えていた。

松陰は、ゆっくりと、水を飲んだ。

水を飲んでから松陰は、わずかに呼吸が落ち着いた。

しかし、眼はまだ糸子から離れなかった。

松陰は、湯呑を文机に置いてから——心の中で、もう一度、糸子の姿を深く刻んだ。

糸子は、次に、久坂と高杉の方を向いた。

二人は、まだ固まっていた。

糸子は、わずかに首を傾げた。

「久坂——」

久坂の眼が、ぴくりと動いた。

しかし、すぐには答えられなかった。

「久坂、大丈夫でございますか」

久坂の喉が、ごくりと鳴った。

久坂は、ようやく、息を吐いた。

「……は、はい……」

久坂の声は、いつもの理詰めの声ではなかった。

わずかにかすれた、十代の若者の声であった。

糸子は、わずかに微笑んだ。

糸子の内心。

(久坂……ぐらついておるなー)

(あの問答で、わたくしをネチネチといじめてくれた久坂殿が、姿を見ただけでこうなる)

(——初心ですなー)

糸子は、続けて、高杉の方を見た。

「高杉——」

高杉の眼も、ぴくりと動いた。

高杉は、慌てて口を閉じた。半開きだった口が、ようやく結ばれた。

「……すみませぬ——」

高杉の声も、いつもの機知の声ではなかった。

わずかに上ずった、二十一歳の若者の声であった。

糸子の内心。

(高杉も、ぐらついておるのう)

(普段あれだけ口が回る御方が、わずかな言葉しか出せないとは…)

(——余興としては、面白いものが見られました)

糸子は、外向きには、穏やかに頷いた。

「お二方、慌てなくてよろしゅうございます」

「ゆっくり、息を整えてくださいませ」

久坂が、ようやく深く息を吐いた。

肩がわずかに緩んだ。

しかしまだ完全には、回復していなかった。

久坂は、視線をゆっくりと、隣の龍馬の方に向けた。

久坂は龍馬を見つめた。

しばらく、見つめた。

そして——。

久坂が、口を開いた。

「坂本殿——」

龍馬は、にこりと笑って、久坂の方を見た。

「なんぜよ、玄瑞」

久坂の眉が、わずかに寄った。

「お主——」

「うむ」

「なんで、そんなに平然としちょるん?」

部屋に、わずかな沈黙が流れた。

龍馬は、首を傾げた。

そして、にこりと笑った。

「いや、姫様はいつもこんな感じぜよ」

久坂の眉が、ぴくりと動いた。

高杉の口も、また開いた。

「いつも——」

「じゃと——!?」

二人の声が、ほぼ同時に、上がった。

龍馬は二人の反応を見て、目を丸くした。

「まっこと、わしゃあ姫様におうがは三度目じゃ」

久坂と高杉の眼が、見開かれた。

「三度目——!?」

久坂の声が、わずかに震えていた。

「坂本——いつから、そんなに姫様におうちょったんかね」

高杉の声も、上ずっていた。

「いつからじゃ、龍馬!」

「お前——いつから、そんなに姫様と親しくしちょったんかね」

龍馬は、慌てて、両手を振った。

「親しいわけじゃないぜよ、晋作」

「親しいわけじゃない——じゃと?」

「役目ぜよ。お役目で、姫様にお会いしちょっただけぜよ」

龍馬は、あくまで、平然としていた。

久坂と高杉は、——脱力した。

久坂の肩が、ゆっくりと下がった。

「わしらは……」

久坂の声に、悔しさのようなものが滲んでいた。

「初めてじゃと言うのに……」

高杉が、深く息を吐いた。

「ぐぬぬ……」

高杉の眉間に、深い皺が寄っていた。

「龍馬——お前は、ずるいっちゃ」

「ずるい、とは何ぜよ、晋作」

「お前が平然としちょるんは、慣れちょるからっちゃ。わしらは、初めてなんじゃ」

「だから、これから慣れるんぜよ」

「お前に言われると、なんでこう、むしょうに腹が立つんじゃろ」

久坂が、小さく頷いた。

「同感じゃ……」

糸子は、御簾なしの場所で、この三人のやりとりを見ていた。

糸子の内心。

(ふふふふふ……坂本は、これだから飽きないわねー)

(高杉と久坂を、軽く転がしている…)

(本人にその気はないんえだろうけど——あの二人にとっては、坂本に『負けた』と思っているのかもしれないなー)

(今後三月余、この四人組のやりとりを毎日見られる)

(どんな苦行だ…と思っていたけれど…)

(少しは楽しみができたかも?)

糸子は、穏やかに、口を開いた。

「皆様、では——」

「授業を始めまする」

糸子は、ゆっくりと振り返り——黒板の前に立った。

四人の眼が、糸子の後ろ姿にまた釘付けになった。

糸子は白墨を一本、手に取った。

そして黒板に向かって——書き始めた。

「金銀比率」

四つの文字が、黒板に、白く浮かび上がった。

糸子の指の動きは、優雅であった。

筆を扱う動作の延長で、白墨を扱っていた。流れるような、しかし力のこもった筆致であった。

書き終えてから、糸子は振り返った。

四人の方を見た。

「皆様——」

糸子の声が、教室に響いた。

「異国は、なぜ日本に来たのでしょうや?」

四人の眼が、糸子の方に集中した。

しかし——。

松陰の眼は、糸子の言葉ではなく、糸子の姿そのものに、向いていた。

涙はもう止まったが、眼差しは熱を帯びたまま、糸子の一挙手一投足を追っていた。

久坂の眼は、糸子の言葉を聞こうとしていた。しかし、その眼差しの集中力は、いつもの七割ほどであった。糸子の言葉と姿が、別々に久坂の脳に入ってきて、互いに干渉していた。

高杉の眼は、糸子を観察しようとしていた。しかし、対象として認識するという基本動作が、まだ戻っていなかった。高杉は観察しようとしてできずに、ただ眺めていた。

龍馬の眼だけが——糸子の言葉に、まっすぐ向いていた。

文机の上の白い紙に、墨をつけた筆を構えていた。

メモを取る、いつもの龍馬の姿であった。

糸子は、四人の集中度を、瞬時に見抜いた。

糸子の内心。

(三人は、まだ半分も集中していないなー)

(しかし——授業は進めねば…)

(言葉が、いずれ三人を引き戻すと信じよう!)

糸子は、続けた。

「皆様は、おそらくこう、思っておられましょう」

「異国は、日本と誼を通じに来た。または、日本を侵略しに来た。または、日本に何か珍しい品を売りつけに来た——と」

四人が…中二病、久坂、高杉、龍馬——四人とも無意識に頷いた。

糸子は、わずかに微笑んだ。

「半分、当たっておりまする」

「半分?」

久坂が、呟くように繰り返した。

糸子は、頷いた。

「されど——その奥に、もっと深い、もっと冷徹な理由がございまする」

糸子は、文机の上に置かれていた一枚の地図を、四人の前に広げた。

葵が、地図の角を、丁寧に押さえた。

地図には、太平洋が描かれていた。日本、清国、朝鮮、そして、東の方には——アメリカ大陸の西海岸。

糸子は、地図の上に、扇の先を当てた。

「彼らを突き動かしているのは、情け容赦のない、『算盤の理』にござりまする」

糸子の声に、わずかな冷たさが宿っていた。

松陰が、ようやく、糸子の言葉に集中し始めた。

「『算盤の理』にございますか?」

「左様にござりまする、吉田殿」

中二病は、わずかに首を傾げた。

「姫君様——刀の理ではなく、算盤の理でございますか」

「左様にござりまする」

糸子は、頷いた。

「異国は、刀で攻めて来ておるのではござりませぬ」

「彼らは、算盤で攻めて来ておるのでござりまする」

「ゆえに——刀で守ろうとしても、勝てぬのでござりまする」

「算盤には、算盤で応じねばなりませぬ」

松陰の眼が、わずかに見開かれた。

久坂も、深く頷いた。

高杉は無言で、糸子の言葉を噛みしめていた。

糸子は、扇を黒板に当てた。

「本日は、その『算盤の理』を、三つの肝でお伝え致しまする」

糸子は、黒板に、新たに三つの言葉を書いた。

「鯨の油」

「蒸気船」

「金銀の罠」

糸子の白墨の動きを、四人の眼が追っていた。

松陰の眼は、まだ熱を帯びていた。しかし、その熱は、姿への熱から内容への熱へと、徐々に移り変わっていた。

久坂の眼は、いつもの理詰めの集中力を、ほぼ完全に取り戻していた。

高杉の眼は、観察姿勢に復帰しつつあった。対象として糸子を見ることに、まだ違和感はあったが、糸子の言葉の内容には惹きつけられていた。

龍馬の眼は、ずっと変わらず、糸子の言葉に集中していた。

糸子の内心。

(——よし、皆、入り口に立った)

(さて、ここから本気で打ち込むぞー)

糸子は、黒板の前で、ゆっくりと振り返った。

「一つ目——鯨は、泳ぐ油田なり」

糸子の声が、教室に響いた。

四人の眼が、糸子の方に集中し始めていた。

松陰が、わずかに身を乗り出した。

久坂の眼にも、いつもの理詰めの集中力が、戻り始めていた。

高杉も——なんとか、観察姿勢に復帰しつつあった。

糸子は続けた。

「異国——特にメリケン国が、何より求めておるもの。それは、この海の向こうに眠る『油』にござりまする」

糸子は地図の太平洋の真ん中を、扇で指した。

「彼らの国では、夜を照らす灯りも、工場を動かす機械も、すべてが鯨の油でござりまする」

松陰が、わずかに眉を寄せた。

「鯨の油——でございますか」

「左様」

「魚油や菜種油では、足りぬのでございますか」

「足りませぬ」

糸子は、扇を地図の上で動かした。

「彼らの工場——これは『機械の山』のようなものを思うてくださいませ——には、毎日毎月毎年、莫大な量の油が必要でござりまする」

「魚油や菜種油では、量が足りぬのでござりまする」

「鯨は、一頭で数十石——いえ、もっと多くの油が取れまする」

「ゆえに彼らは鯨を追って、世界中の海を回っておるのでござりまする」

高杉が、わずかに顔を上げた。

観察姿勢に、ようやく完全復帰したようであった。

「姫様——」

高杉の声に、まだ少しだけ、上ずったところがあった。

しかし、内容は鋭かった。

「では、なぜこの日の本に、彼らは執着しておるんじゃ?」

「鯨を追うのは、太平洋ぜよ。日の本は、その通り道に過ぎんじゃろう」

糸子は、わずかに目を見開いた。

糸子の内心。

(——おっ、高杉、復活した。しかも鋭い質問だ)

(さすがでございます)

糸子は、表面には、穏やかに頷いた。

「お見事な質問にござりまする、高杉」

高杉の頬が、わずかに紅潮した。

糸子は、続けた。

「彼らにとって、鯨を追う船は——薪がなければ動かず、水がなければ人は死にまする」

「太平洋を、何ヶ月も、何年も、捕鯨で航海するには——途中で薪と水を補給する場所が、必要不可欠でござりまする」

「その場所が——」

糸子は扇で、地図の日本を指した。

「日の本にござりまする」

部屋の空気が、わずかに変わった。

「彼らにとって、この日本は——」

糸子の声が、低くなった。

「捕鯨船の命を繋ぐための——『海上の宿場町』に過ぎぬのでござりまする」

久坂が、ぴくりと反応した。

「宿場町——」

久坂の声に、衝撃が滲んでいた。

「日の本が、宿場町だと——」

「左様にござりまする」

糸子は、淡々と続けた。

「ハリスが、最初に幕府に求めたものは何でございましたか?」

松陰が答えた。

「下田の開港——」

「左様」

「下田は太平洋を回る彼らの捕鯨船にとって、絶好の宿場町でござりまする」

「彼らは、日本そのものに興味があったのではござりませぬ。日本が、太平洋という油田の真ん中にあったから——目を付けただけのことでござりまする」

部屋に、長い沈黙が流れた。

松陰が、両手で顔を覆った。

「……日の本が、宿場町と——」

松陰の声に、深い悔しさが滲んでいた。

「神州日本が、異国の捕鯨船の、薪炭を補給する場ですと——」

糸子は、松陰の方を、静かに見た。

「吉田殿、悔しいのは、よく分かりまする」

「されど——感情で動けば、彼らに勝てませぬ」

「彼らの『算盤の理』を、こちらも『算盤の理』で読み解くのでござりまする」

松陰は、ゆっくりと顔を上げた。

松陰の眼が、また涙ぐんでいた。

しかし、その涙は、先ほどとは違う種類の涙であった。

「は、はい——姫君様——」

「『算盤の理』を学びまする——」

糸子は、松陰の決意を確認してから、次の話に進んだ。

「二つ目——蒸気船という、大食らいの獣」

糸子は、黒板の「蒸気船」の文字を、扇で叩いた。

「皆様、黒船を御覧になったことはございますか」

松陰が頷いた。

「ペリー来航の折に、見ておりまする」

高杉も頷いた。

「江戸湾で、見たことがあるっちゃ」

久坂は、首を振った。

「萩におりましたけぇ、見ちょりません」

龍馬が、にこりと笑った。

「わしも、横浜で見たぜよ」

糸子は、頷いた。

「あの黒船は——驚くほど大量の石炭を、食らう獣にござりまする」

「一日の航海で、何十石もの石炭を消費しまする」

「彼らは、清国という巨大な市場で商いをして、大儲けをしたいと願っておりまする」

久坂が、首を傾げた。

「姫様、清国とは、どういう市場にござりまするか」

糸子の内心。

(——おっ、久坂、復活してきた。しかも質問は的確)

糸子は、表面には、穏やかに答えた。

「久坂、よい質問にござりまする」

「清国は、人口四億の、世界最大の市場でござりまする」

「彼らに何かを売れば、莫大な利益が出まする」

「特に、英吉利の場合は——阿片を売りつけて、清国の銀を吸い取っておりまする」

「これが、阿片戦争の真相でござりまする」

久坂が、深く息を吸った。

「阿片戦争……」

「異国は、阿片を売って、清国の銀を奪うために、戦をしたのでありまするか」

「左様にござりまする」

糸子は、続けた。

「英吉利は勝ちました。清国は敗れました」

「敗れた清国は、阿片の輸入を認めさせられ、上海など五つの港を開かされ、莫大な賠償金を支払わされ、香港を取られました」

「これが、たった二十年前のことでござりまする」

部屋に、衝撃が走った。

高杉が、唇を噛んだ。

高杉の眼に、暗い光が宿った。

高杉の内心。

(——わしらが、攘夷攘夷と叫んじょる間に、清国はそんなことになっちょったんかね)

(しかも、原因が阿片じゃと?)

(戦をしたんじゃない——商いの罠に、嵌められたんじゃ)

糸子は、続けた。

「英吉利は、清国市場で大儲けをしたい。されど、英吉利の本国から清国まで、海を渡るには船が重すぎる。一気には渡れぬ」

「そこで——途中の島々や港を、燃料補給所として確保せねばなりませぬ」

「日本もまた——その候補地の一つでござりまする」

糸子は、扇を地図の上で動かした。

「彼らは日の本を救いたいから、来ておるのではござりませぬ」

「己の商いを円滑に進めたい——その一事のために、大砲を向けておるのでござりまする」

久坂の眉が、深く寄った。

久坂は、思わず口を開いた。

「姫様——」

「なんですか、久坂」

久坂の声が、まだ少し、震えていた。

しかし、内容は——鋭かった。

「じゃったら、もし日本が、その『燃料補給所』としての価値を、認めさせるんなら——」

「わしらは、相手に対して、ある程度の『価格交渉力』を、持つことができるんじゃありませんかね?」

部屋が、静まり返った。

糸子の眼が、——わずかに見開かれた。

糸子の内心。

(——おっ、久坂、見事な発想だよ。)

(『燃料補給所』としての価値を、こちらの交渉カードに転換する。まさにその通り…)

(久坂の理詰めの脳が、復活しただけでなく——わたくしが教えた『信用と価値の理』を、即座に応用している)

(さすがでございます)

糸子は、外向きには、穏やかに、しかし力強く頷いた。

「久坂——お見事な視点にござりまする」

久坂の頬が、わずかに紅潮した。

糸子は、続けた。

「その通りにござりまする」

「日本が『燃料補給所』であることを、こちらが先回りして認識し、それを交渉カードとして使うこと。これは極めて有効でござりましょう」

「具体的には——薪炭の値段、水の値段、停泊料金、港の使用料」

「これらを、こちらが主導権を持って決めれば——日本は、ただ搾取されるだけの宿場町ではなくなりまする」

「『高い宿賃を取る、強気の宿場町』になれるのでござりまする」

久坂が、深く頷いた。

久坂の眼にようやく、いつもの理詰めの光が、完全に戻っていた。

「なるほど——」

「これが、経済の戦い、ということなんじゃありませんるか」

「左様にござりまする」

糸子は、続けた。

「今はまだ、できておりませぬ。されど——商務語学所で人材を育て、天朝物産会所で商いの網を作り、いずれそれを実現致しまする」

「これが、わたくしの…、一つの目標にござりまする」

久坂は、深く頷いた。

糸子は、ここで——三つ目に進んだ。

「三つ目——日本は、黄金のなる木に見えておる」

糸子は、黒板の「金銀の罠」の文字を、扇で叩いた。

「皆様——昨日もお話し致しましたが、改めて、確認致しまする」

「日の本では、金一枚に対し、銀が五枚」

「異国では、金一枚に対し、銀は十五枚」

糸子は、黒板に、数字を書いた。

「日本:金1:銀5」

「異国:金1:銀15」

「この差が、お分かりになりますか」

久坂と高杉が、ハッと顔を上げた。

久坂は、すぐに計算を始めた。

「異国から、銀十五枚を持ち込む」

「日の本では、銀十五枚は、金三枚に交換できる」

「その金三枚を、異国に持ち帰れば——銀四十五枚になる」

「つまり、銀十五枚が、銀四十五枚に——三倍に増える」

糸子は、頷いた。

「左様にござりまする」

「彼らは、日の本に銀を持ち込むだけで——己の富を、三倍に膨らませることが、できるのでござりまする」

「ゆえに、彼らにとって日本との交易は——」

糸子の声が、低くなった。

「ただ座しているだけで、蔵が建つ『魔法の賽』なのでござりまする」

高杉が、思わず声を上げた。

「それは——」

高杉の声に、怒りが滲んでいた。

「それは、ぶち、許せんぜよ」

「正々堂々の商いではない。仕組みを、利用しちょるだけぜよ」

糸子は、頷いた。

「左様にござりまする」

「されど、彼らから見れば——『不義ではない』のでござりまする」

「日本の幕府が、金銀比率を一対五に決めた。そして異国との交易を許した。ならば、その仕組みを使って利益を得るのは、彼らの『正当な商い』なのでござりまする」

「悪いのは——仕組みを設計した、幕府にござりまする」

松陰が、両手で顔を覆った。

「幕府が、悪いのか——」

「幕府が金銀比率を、彼らに合わせて改正していれば——この流出は、起こらなかったのでござりまする」

「されど、改正には時間がかかった。その間に——莫大な金が、流出してしまいました」

糸子は、ここで——核心を突いた。

「皆様、彼らは日本と『対等な付き合い』を望んでおるのでは、ござりませぬ」

「この、歪んだ仕組みを、食い物にしに、群がってきておるのでござりまする」

糸子は、ここで一度、息を整えた。

そして、四人を見渡した。

糸子の声が、これまでで最も、冷徹に響いた。

「吉田殿。高杉。久坂。そして、坂本」

「異国を追い払うために、刀を振るうのは——」

「盗賊に対し、竹槍を向けるようなものでござりまする」

四人の眼が、見開かれた。

「真に戦うべきは——」

「彼らが持ち込む、『経済の理』そのものにござりまする」

糸子は、扇で、黒板を強く叩いた。

その音が、部屋に響いた。

「彼らが何を欲し、何に困り、どこで利を貪ろうとしておるのか」

「その裏の算盤を読み解き——」

「こちらから、『商いの網』を、仕掛け返さぬ限り——」

糸子の声が、低く、しかし力強く響いた。

「日の本は、戦わずして、彼らの家畜に成り果てまする」

部屋に、長い沈黙が流れた。

四人は、言葉を失っていた。

松陰の頬を、また涙が伝っていた。

しかし、それは先ほどまでの、感動の涙ではなかった。

悔しさと、覚悟の涙であった。

高杉の眼の奥で、暗い光が、深く燃えていた。

久坂の手が、文机の上で、固く握りしめられていた。

龍馬の筆が、止まっていた。

メモを取ることを、忘れて——糸子の言葉に、聞き入っていた。

糸子は、四人の表情を、確認した。

糸子の内心。

(——よし、四人とも入った)

(先ほどまで、わたくしの姿に動揺していた三人も、ようやく内容に集中できている)

(言葉の力だわ。経済の真実の力…)

(——三人とも、姿の衝撃を超えて、内容の衝撃を受け取った)

糸子は、最後の言葉を、放った。

「さあ、学びなさい——」

「世界を動かす、『欲の正体』を」

「それが、皆様が守ろうとするこの国を、真に救う…唯一の道にござりまする」

部屋に、四人の荒い呼吸の音だけが——熱く、重く響いていた。

糸子は、黒板の前で、深く一礼した。

「本日の、初日の講義は、これにて」

「明日からは、第一巻の各章を、順に詳しく読み解いて参りまする」

「皆様、本日は——お疲れ様でございました」

四人は慌てて、深く平伏した。

「姫様——本日はありがたく、拝聴致しました——」

松陰の声は、まだ震えていた。

糸子は、もう一度、四人を見渡してから——葵を伴って、部屋を出ていった。

西側の障子が、静かに閉じた。

夜。

商務語学所近くの、宿舎

二階建ての武家屋敷を改装した宿舎の、二階の一室。

四人共用の、八畳間。

部屋の中央に、低い食事用の膳が、四つ並んでいた。膳の上には、白米、味噌汁、焼魚、煮物、漬物。葵が手配した、栄養を考えた献立であった。

しかし——三人の膳の上の食事は、まだ手付かずであった。

久坂は、膳の前に座ったまま、文机の方を見つめていた。

高杉は、膳の前で胡坐をかきながら、天井を見ていた。

松陰は、膳の前で正座のまま、目を閉じていた。

ただ一人——龍馬だけが、もりもりと食べていた。

茶碗の白米を口に運び、味噌汁をすすり、焼魚をほぐし、煮物を楽しんでいた。

「美味いぜよ」

龍馬が、満足そうに呟いた。

しかし、誰も応えなかった。

龍馬は三人の方を、ちらりと見た。

「皆——メシ食わんがか?」

最初に答えたのは、久坂であった。

久坂は、ゆっくりと、龍馬の方に視線を向けた。

「……坂本殿」

「なんぜよ、玄瑞」

久坂は、しばらく言葉を探していた。

ようやく、口を開いた。

「お前、姫様の——その、なんちゅうか……」

龍馬は、首を傾げた。

そして、にやりと笑った。

「美しさ、っちゃ?」

久坂が、わずかに目を伏せた。

「……うむ」

高杉が、天井を見たまま、呟いた。

「ぐぬ……」

松陰は、目を閉じたまま、何も言わなかった。

龍馬は、茶碗を膳に置いてから、口を開いた。

「たまるか、初めて見た時はわしゃあ、あいた口がふさがらんかったぜよ」

久坂と高杉が、ぴくりと反応した。

「お前も、最初はそうじゃったんかね」

久坂の声に、わずかな安堵が滲んでいた。

「ぜよ。初めは、わしゃあ信じられんかったちや」

「あの『重さ』のあるお方が、こじゃんな少女じゃとは——」

「けんど、慣れる」

高杉が、ようやく天井から視線を戻した。

「慣れる、じゃと」

「晋作、人は何にでも慣れるもんぜよ」

「三度も見れば、慣れてしまうもんじゃ」

高杉は、深く息を吐いた。

「三度——か」

高杉の眉が、寄った。

「三度見るまで、あの状態でおるっちゅうことかね」

「いや、二度目からは、もう少し楽になるぜよ」

「楽になる、っちゅうんかね」

「うむ。わしの場合は、二度目で半分、三度目で完全に慣れた」

久坂が、首を傾げた。

「坂本殿は、何度くらい、姫様にお会いになったんでありまするか」

「三度ぜよ。今日が三度目」

「……そうか」

久坂は、うなだれた。

「わしらは、まだ初日じゃ」

「気の長い話じゃね……」

松陰が、ようやく目を開いた。

松陰の眼は——いつもと違って、どこか遠くを見ていた。

「皆——」

「先生」

久坂と高杉が、同時に松陰の方を向いた。

松陰は、静かに口を開いた。

「慣れぬ……」

「私は、生涯慣れぬであろうな……」

松陰の声に、確信が宿っていた。

「あのお姿は——人ではない」

「人の姿を借りた、何か神聖なる存在に思えるのだ」

「私は、あのお姿を、生涯、神々しきものとして、目に焼き付け続ける」

「拝み続ける」

龍馬が、苦笑した。

「先生……それじゃ三月、持ちませんぜよ」

松陰は、首を振った。

「いや、龍馬よ」

「私は、姫君様のお姿を見るたびに、力が湧くのだ」

「あのお姿は——わたくしの魂の、糧になるのだ」

「三月余どころか、生涯…私を支えてくださるだろう」

高杉が、深く息を吐いた。

「先生は、相変わらずっちゃ……」

松陰は、にこりと笑って、ようやく食事に手を付け始めた。

しかし、食事をしながらも、松陰の眼は時折、虚空を見つめた。

今日の糸子の姿を頭の中で、繰り返し再生しているようであった。

高杉が、深く息を吐いて、自分の膳に手を伸ばした。

しかし、箸が止まっていた。

高杉の眉間に、深い皺が寄っていた。

「明日から……」

高杉が、ぽつりと呟いた。

「明日から、どうすれば、授業に集中できるんじゃろ……」

その呟きを聞いた龍馬が、にやりと笑った。

「それは慣れるしかないぜよ」

「龍馬、お前に言われると、なんでこう腹が立つんじゃろ」

「のう、晋作。慣れた者の特権ぜよ」

高杉は、龍馬の方をにらんだ。

しかし、その眼光には、いつもの鋭さがなかった。

高杉は、——苦笑するしかなかった。

久坂が、ようやく茶碗を手に取った。

久坂の手は、まだ、わずかに震えていた。

「わしらは、姫様の姿にぐらつく。それでも姫様の言葉に、耳を傾けんにゃあいけん」

「これは——修練じゃ」

「論理に集中する力を、鍛える修練なんじゃ」

高杉が、頷いた。

「ぐぬぬ……それしかないっちゃ」

松陰が、にこにこと笑いながら、食事を続けていた。

松陰は、すでに、糸子の姿に集中することを、自分の使命として受け入れていた。

久坂と高杉は、糸子の姿に動揺するのを、自分の弱さとして克服しようとしていた。

龍馬は、慣れた者の余裕で、すでに次の日のことを考えていた。

四人の、それぞれの立ち位置が、初日にして明確になっていた。

十一

夜が、更けた。

四人は、それぞれの寝床に入った。

しかし、すぐには、眠れなかった。

松陰は、布団の中で、目を閉じても、糸子の姿が浮かんできた。

「姫君様……」

松陰は、呟いた。

「この松陰、命を懸けて学びましょう」

「そして姫君様の助けの、一助となることを誓いましょうぞ」

松陰の眼に、また涙が滲んだ。

しかし、今夜の涙は——感謝と覚悟の涙であった。

久坂は、布団の中で、目を開けたまま、天井を見つめていた。

久坂の脳内では、まだ、糸子の姿と糸子の言葉が、別々に、しかし徐々に統合されていく過程にあった。

(あの『重さ』と、あの『姿』は——同じ一人の中にある)

(『美しさ』も『知性』も、別物じゃない)

(あの御方は、その両方を、合わせ持っておられる)

(——わしの考えが、それを認めんにゃあいけん)

(玄瑞、お前の頭で、これを合わせんにゃあ……)

久坂は、自分に言い聞かせた。

明日からは、もう少し、集中できるはずだ——と。

高杉は、布団の中で、寝返りを打っていた。

「ぶち、眠れんっちゃ」

高杉は、呟いた。

高杉の脳内では、まだ、観察モードが完全には機能していなかった。

(明日から、姫様を、観察対象として、認識し直さねばならぬ)

(人として、観察せねばならぬ)

(そうせねば、わしは姫様の本性を、読み解けぬ)

(——これは、わしの戦いじゃ)

高杉は、唇を結んだ。

龍馬は——すでに、寝息を立てていた。

いつものように、寝つきが良かった。

龍馬の枕元には、本日のメモが書かれた紙が、丁寧に置かれていた。

「鯨の油」

「蒸気船」

「金銀の罠」

「日本=海上の宿場町。逆手に取れば、強気の交渉カード」

「異国の真の姿=商人」

メモは、簡潔だが、要点を完全に押さえていた。

寝ながらも、龍馬の脳は、整理していた。

十二

奥御殿の、糸子の私室。

障子の外には、月が出ていた。

万延二年の、新春夜の月。冬末の月とは、わずかに色が違っていた。

空気が乾き始めて、月がより明るく、より鮮やかに見えた。

糸子は、文机の前に座っていた。

文机の上には、黒い帳面。

糸子は筆を取って、書き込んでいた。

「初日——御簾を取り払う」

「松陰、想定通りに拝礼。涙を流す。生涯、姿を覚えると発言」

「久坂、想定通りに脳が処理落ち。後半に復活。鋭い質問——『燃料補給所』としての価値を交渉カードにと発想」

「高杉、想定通りに観察姿勢停止。後半に復活。鋭い質問——『なぜ日本に執着するのか』」

「龍馬殿、想定通りに平然」

糸子は、書きながら、わずかに笑った。

(うふふふふ…)

(皆様、想定通りに動いておりまする)

(明日からは、徐々に慣れていくでござりましょう)

糸子は、もう一行、書き加えた。

「高杉と久坂、姿への動揺を超える戦いが始まった」

「中二病、信仰がさらに深まった。かなりウザい」

「坂本、変わらず」

糸子は、帳面を閉じた。

鍵のかかる引き出しにしまった。

糸子は立ち上がって、障子を開けた。

夜の庭が、月明かりに照らされていた。

冬末の梅の蕾は昨日よりも、またわずかに膨らんでいた。

よく見れば一輪、ほころび始めている蕾もあった。

糸子は、わずかに息を吐いた。

白い息が、月明かりの下で、わずかに見えた。

(春が、近づいている)

(蕾が、ほころび始めた)

(——そして、四人もまた、ほころび始めた)

(明日からの三月余で、四人は、それぞれの力を咲かせるだろう)

(その花を、わたくしの計画の彩りとする)

糸子は、わずかに微笑んだ。

(参りまする、皆様)

(わたくしが皆を咲かしてみせましょう)

風が、わずかに吹いた。

梅の枝が、揺れた。

ほころび始めた蕾が、月明かりの中で、わずかに紅をのぞかせていた。

糸子は、障子を、ゆっくりと閉じた。

火鉢の炭が、ぱちりと音を立てた。

その音が、夜の静けさの中で——糸子の決意を、わずかに肯定した。

第八十九話 了