軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八十八話「糸子先生——開講の辞令」

万延二年、新春。

江戸の春は、芽吹くところまで芽吹き、そして——わずかに、盛りの気配を見せ始めていた。

一橋上屋敷の庭は、今朝も淡く霞みかかっていた。

石畳の隙間に青く萌えた苔が、明け方の白い光を吸って柔らかく光っていた。庭師が打ち水をする音が、しんと澄んだ空気の中に響いていた。水が土に染みる音が、しとしとと、しかし鮮やかに、朝の静けさを塗り替えていた。

池の水面は、今朝も鏡のようだった。

風がない。水の色は春の明るい碧。その中に、明け方の陽と、雲一つない春の空が映っていた。桜の淡い影が、水の上で揺らぎもせずに浮かんでいた。すべての色が、水の中で一度溶け合っているようだった。

そして——。

庭の片隅、奥御殿の障子の前に植えられた一本の桃の木。

その枝に——。

春桃の蕾がある。

まだ開いてはいない。固く、小さく、桃の色を内に閉じ込めたまま、枝の先に張り付いている。しかしその蕾は、昨日よりも、わずかに膨らんでいた。

目を凝らさねば、分からぬほどの、わずかな違い。

しかし——確かに、膨らんでいた。

それを、廊下を歩く者は、気付かない。

ただ一人、奥御殿の障子越しに、その蕾を毎朝見続けている者だけが——その違いを知っていた。

近衛家の姫、近衛糸子。

年が明けた万延2年の現在、ようやく十三歳になった姫君は、その朝も文机の前に座っていた。

文机の上には、四冊の帳面が並んでいた。

第一巻から第四巻まで。

いや、それは正確には四冊の「学習計画書」であった。それぞれの巻名と、それを学ぶ生徒の名前が、表に墨で書かれていた。

吉田松陰。

高杉晋作。

久坂玄瑞。

坂本龍馬。

糸子はその四冊を、ゆっくりともう一度確認していた。

(さて——本日からだ)

糸子の指が、四冊の帳面の上を、一つ一つ撫でていった。

(中二病殿には、第一巻を中心に。思想伝道の役)

(高杉には、第二巻を中心に。実務工作の役)

(久坂には、第三巻を中心に。論理担当の役)

(龍馬殿には、第四巻を中心に。外部エージェントの役)

(——四人それぞれに、違う道)

(しかし、最初の二週間は、共に第一巻を学んでもらう)

(世界観を、揃えるためだ)

糸子の指が、止まった。

(そして——)

(明日からは、御簾を取り払う)

糸子の指が、わずかに震えた。

(教える者として、姿を見せねばならないなー)

(書を読むだけならば、御簾でも構わないんだけど…教えるとなると…指で示し、目で語り声で導かないとなー)

(御簾越しでは、それは出来ないからなー)

(明日からは、ついに姿を見せる)

糸子は、ゆっくりと息を吐いた。

(わたくし的には姿を見せることは、それ程決意することでもないげれど…)

(坂本以外の三人、特に中二病はどう反応するかな?)

(特に、久坂と高杉は、御簾越しでわたくしの『重さ』を多少は感じていたはず。その感じと目の前の十三の少女の姿が、果たして噛み合うのだろうか?)

(多分、噛み合わないと思う)

(自分でいうのも何だけど…転生したこの姿は、超美少女だと思うのよねー)

(時たま、鏡を見て…これは本物だろうか?、なんて頬をツネって確かめるときが、あるくらいだからなー)

糸子の口元が、わずかに歪んだ。

(噛み合わないのを見て——わたくしが少し愉しむ気でいる…というわけではない)

(絶対にないぞ——多分?)

(……ふふふふふ)

糸子は、心の中で密かに笑った。

(本当に、そうではないぞ)

障子の向こうで、衣が擦れる音がした。

糸子は居住まいを正した。

障子が、音もなく開いた。

葵が控えめに入室した。

葵は——恭しく、漆塗りの朝膳を捧持していた。

「姫君様、お目覚めでございますか」

「おはよう、葵」

葵が文机の傍らに膳を据えた。炊き立ての飯の白い湯気が、凛とした部屋に漂った。

葵が糸子の顔をちらりと見た。

「姫様——お顔の色がいつもより……」

「いつもより…なんでございますか?」

「……お元気そうでございます」

糸子が、わずかに笑った。

「葵にも見抜かれてしまいまするか」

「葵は、姫様のことは——いつでも見抜けますよ」

葵の声に、わずかな笑みが滲んでいた。

糸子は、静かに頷いた。

「葵——本日が、開講の日でございまする」

「はい」

「四人を、奥御殿に呼んでおります」

「巳の刻に、お通しいたします」

「本日は、御簾越しで構いませぬ」

「なれど、明日からは——」

葵が糸子の言葉の続きを察したように、静かに目を伏せた。

「明日からは、御簾を取り払いまする」

葵は、何も言わなかった。ただ深く、頭を下げた。

糸子は、味噌汁の椀を手に取った。湯気が顔にかかり、その温かさに——糸子は、ほっと息を吐いた。

(本日は、まだ御簾越し)

(明日からは、姿を見せる)

(——さて、参りましょう)

巳の刻。

奥御殿の御座所。

部屋は、十畳。

北側に格子戸、東側に障子、南側に御簾。御簾の奥に糸子の御座所がある。

部屋の中央には、何も置かれていない。本日は、四人が並んで座るための空間として、整えられていた。

部屋の隅に、小さな火鉢が置かれていた。冬末とはいえ、朝はまだ冷える。火鉢の炭が、ぱちりと小さく音を立てていた。その音が静かな部屋に、わずかな温度を与えていた。

御簾の脇には、葵が控えていた。葵の前には四冊の帳面——四人それぞれの学習計画書が、整然と積み上げられていた。

御簾の奥には、糸子。

文机の前に座り、扇を膝の上に置いていた。背筋を伸ばし、静かに——四人の到着を待っていた。

廊下から、足音が聞こえてきた。

四人分の足音であった。

最初は——軽く、跳ねるような足音。坂本龍馬。

その次に——重く、しかし整った足音。久坂玄瑞。

次に——間合いを計るような、独特のリズムの足音。高杉晋作。

最後に——感極まったような、わずかに早い足音。吉田松陰。

四人が、御座所の前で止まった。

葵が、静かに障子を開けた。

四人が、入ってきた。

四人は、御簾の前に並んで座った。

順番は——左から、龍馬、高杉、久坂、松陰。

四人は、同時に、深く平伏した。

「姫様——」

「本日は、お招きいただき、まことにありがとうございまする」

松陰の声が、すでにわずかに震えていた。

御簾の奥で、糸子は——目を細めた。

(中二病は、本日も、いつもの中二病だなー)

糸子は、扇を軽く動かした。

「皆様、おはようございまする」

糸子の声が、御簾を通して四人に届いた。

穏やかで、しかし芯のある声。

四人は、平伏したまま頷いた。

糸子は、ゆっくりと続けた。

「改めまして…久坂、高杉、坂本、吉田殿を含めた、四人には——」

「わたくしが講師となり——」

「三月余、みっちりと、商務語学所で教える経済学を——特別に、学んでいただきまする」

部屋に、わずかな沈黙が流れた。

松陰の肩が、震え始めていた。

次の瞬間——。

「待ち望んでおりました——!」

松陰の声が、一気に上ずった。

「何と今日は素晴らしき日か——!!」

「ついに!ついに!!ついにーっ!!!この日この刻を迎えられましたーーー」

松陰が、勢いよく両手を合わせた。

「姫君様が御自ら——わたくしの講師となってくださる——!」

「この松陰、命を懸けて姫様が教えてくださる経済学を必ず習得してみせましょうぞ——!!」

松陰の声が、御座所に響き渡った。

御簾の奥で、糸子は——内心で、深く息を吐いた。

(——やはり、こうなったか)

(ある意味…期待を裏切らない男、吉田松陰…)

(中二病は、相変わらずだなー)

糸子は、外向きには穏やかに答えた。

「おおきに、お礼申し上げます」

その声に、わずかに苦笑が滲んでいた。

しかし、松陰は止まらない。

「姫君様の御自らのご講義など——まこと有り難き幸せ——」

「松陰、生涯の宝にござりまする——!」

糸子が内心で、もう一度息を吐いた。

(吉田殿……いちいち感動して、ありがたいけど、なんか……話が進まないー)

糸子は慎重に声を整えた。

「それでですね——」

「前にもお話致しましたが『三月余と、期限を区切るのは——その後に、それぞれ特別に動いて貰わなければならないため』にございまする」

松陰の眼が、——更に輝いた。

「ついに、わたくしも姫君様のお役に——」

「なんとも恐れ多い、なんとも有難い——」

「しかし、この松陰は、姫君様のためならば、全力をもって、そのお力に——ならせていただきますぞ!」

糸子は、御簾の奥で——額に手を当てた。

(——やっぱり、最後まで聞いてくれない……)

(けど…このノリ何処で……はっ!?)

(夢の話を聞いた…近藤殿となんか、被るような?)

(一緒にしたらいけない、いけない、いけない…いけない……いけない………)

葵が御簾の奥で、わずかに肩を震わせていた。

葵は、笑いを堪えていた。

糸子は、慎重に声を整えた。

「あの——近藤殿」

「申し訳ありませぬが、しばらく、わたくしの話を、最後まで聞いていただけないでしょうか?」

松陰は、はっと我に返った。そして訝しがる。

「これは——失礼を致しました——!」

「余りに、興奮してしまいました——!」

「是非、最後まで拝聴させていただきたく——!!」

「ところで、姫様。私は吉田、吉田松陰ですぞ。何故、近藤殿の名前が呼ばれたのでありましょうか?」

「はっ!、思わず呼んでしまいました。失礼いたしましたー」

糸子は部屋の隅にいる近藤をチラッと見てみた。

…そこには絶望した表情を浮かべ、警護する近藤がいた。

(わー!間違いなんです、近藤殿。すみませーん。後で必死にフォローしておかないとー!!)

めちゃくちゃあたふたする糸子であった。

糸子は、軽い息を吐いた。

「ごほんっ、それではお話を、進めまする……」

糸子の内心。

(はぁ、なんでまだ肝心なことは話していないのに、こんなに疲れるのだろう)

少しだけ遠い目になってしまった。

糸子は、葵に目で合図した。

葵は、四冊の帳面を手に取った。

そして、四人の前に——それぞれの学習計画書を、丁寧に置いた。

四人の前に——別々の帳面が置かれた。

糸子は、御簾の奥で——息を整えた。

そして、本格的に話を始めた。

「では——皆様」

「お渡しした帳面の中身は、後ほど詳しくご説明致しまする」

「その前に——」

「経済学とは、何でございましょうや」

糸子の声が、わずかに変わった。

穏やかな声から、講師としての声に。

「皆様は『経済』と聞けば、何を思い浮かべられましょうか?」

松陰が、すぐに口を開いた。

「お上の勘定方の、銭の出し入れにございます」

高杉が、静かに続いた。

「両替商の算盤、商人の帳面、年貢の計算——」

久坂が、頷いた。

「民が汗して働きちょる、得た蓄えをどう回すか。それが経済の本道じゃと思うちょります」

最後に龍馬が、にこりと笑った。

「ぜよ——わしゃ、銭の話は不得手じゃきに、皆さんの言うことを聞いちょります」

糸子は、穏やかに頷いた。

「皆様のお考えは——半分、当たっておりまする」

「半分、ち言われるんですか?」

久坂が、わずかに眉を寄せた。

「半分、にございまする」

糸子の声に、凛とした力が宿った。

「経済とは——銭の話だけではございませぬ」

「それは『人の欲と、知恵と、信頼』を編み合わせ、天下の巡りを司る——目に見えぬ巨大な仕組みのことにございまする」

部屋に、静寂が流れた。

四人が、糸子の言葉を、それぞれの中で噛み砕いていた。

糸子は、続けた。

「本日は、その『目に見えぬ仕組み』のうち、三つの肝を——お話し致しまする」

「これは、明日から学ぶ第一巻の——核心にございまする」

「一つ目——欲望は、世を動かす力なり」

糸子は、扇を軽く動かした。

葵が、文机の上に置かれた茶碗を、御簾の脇まで持ってきた。

糸子は、その茶碗を御簾越しに指し示した。

「皆様の前に、葵が茶碗を置きまする」

葵が、四人の中央に、一つの茶碗を置いた。

「この茶碗が——ここまで届くまでに、誰かが無理強いをいたしましたか」

四人は、顔を見合わせた。

松陰が、静かに答えた。

「いいえ、無理強いは——されておりますまい」

「左様にござりまする」

糸子は、続けた。

「陶工は、銭が欲しいから茶碗を作りまする」

「商人は、利を得たいから茶碗を運びまする」

「皆、己の利——己の欲——を求めて、動いておりまする」

「しかし、その結果——」

糸子の声に、わずかな力がこもった。

「誰かに茶を飲ませ、世を潤すこととなっておるのでございます」

部屋に、しばらく沈黙が流れた。

久坂が、口を開いた。

「それは……『欲』が、世の中を回しちょる、ち仰るんですか?」

「左様にござりまする」

糸子は、頷いた。

「人は誰しも、今より豊かな暮らしをしたいと願いまする。この『欲』こそが——実は、世を動かす真の車輪にござりまする」

「これを異国では『見えざる手』と呼びまする」

「『見えざる手』——」

松陰の声が、震えていた。

糸子は続ける。

「お上が細かく指図せずとも、民の欲を正しく解き放てば——物資は、水が低きへ流れるが如く、必要な場所へと行き渡るのでござりまする」

高杉が、わずかに身を乗り出した。

「姫様――それは、お上は手を出さん方がええ、ち言われちょるんですか?」

糸子は、静かに首を傾けた。

「全く手を出さぬ、というわけではござりませぬ。されど——民の欲を、正しく流れる方向へ整えること。それが、お上の役目にござりまする。流れを、止めることではござりませぬ」

高杉の眼が、わずかに細められた。

高杉の内心。

(——このお方の言うこと、攘夷とは違う方向じゃ)

(『欲を解き放て』——か)

(武士の道とは、真逆の発想じゃのぉ)

(しかし……肌で感じる。これは、世の理じゃ)

糸子は続けた。

「二つ目——得意を伸ばし、不足を補う」

糸子は、扇で空に大きな円を描いた。

「次に、なぜ万国と商い——貿易——をせねばならぬか、ということでございまする」

四人は、姿勢を正した。

糸子は、ゆっくりと続けた。

「日本が米を作り、異国が軍船を作ると致しまする」

「双方が『何でも己で賄おう』と致せば、どうなりましょうや」

松陰が、答えた。

「中途半端な物しかできませぬ」

「左様にござりまする」

糸子は、頷いた。

「日本は絹や茶など、得意なものに力を注ぎ——異国へ売る」

「異国は、火薬や機械を、日本へ売る」

「互いに『最も得意なこと』に専念して、交換し合えば——」

「一国だけで足掻くより、遥かに大きな富が、双方に残るのでござりまする」

「これが、これからの万国の道理にござりまする」

久坂が、深く頷いた。

「これは——理に適うちょります」

「たとえば、土佐の山じゃあ木が育ちます。じゃが、米はあんまり穫れんのです。やから、土佐は紙や木材を売って、米を買うちょる」

「左様、それと同じ理にござりまする」

糸子の声に、わずかな笑みが滲んでいた。

「これを、国と国の間に広げる」

「日本は何が得意か。何を売れるか。それを見極めることが——これからの日本の生死を分けまする」

龍馬の眼が、わずかに輝いた。

「ぜよ——」

龍馬が、ぽつりと呟いた。

「わしゃあ、海運をやりたいがぜよ」

「日本中のもんを、日本中に運ぶ。さらには、異国へも運ぶがじゃ」

「『得意を伸ばす』っちゅうがは——わしの好む話ぜよ」

糸子は、御簾の奥で——わずかに微笑んだ。

(坂本は、すぐに自分の話に繋げる。なれど、それが坂本の良きところ…ですね)

糸子は、息を吸った。

「三つ目——信用は、実なき富を生む」

糸子は、ここで一度、間を置いた。

部屋に、静寂が満ちた。

糸子の声にこれまでとは違う、重さが宿った。

「これが、最も驚くべき肝にござりまする」

葵が糸子の指示で、御簾の脇から、一枚の紙を取り出した。

その紙を、四人の中央に置いた。

四人は、その紙を見た。

「これは——?」

久坂が、首を傾げた。

「天朝物産会所の、預かり証にござりまする」

糸子の声が、続いた。

「ここに『百両』と書かれておりまする」

四人は、その紙を見つめた。

「この紙には——百両の現銀があるわけではござりませぬ。ただ、紙に文字が書かれておるだけ」

「されど、世の人々が『天朝物産会所の預かり証なら間違いなし』と信じれば——」

糸子の声が、わずかに低くなった。

「この紙一枚で、千両、万両の商いが動き出しまする」

部屋の空気が——わずかに軋んだ。

松陰が、ゆっくりと顔を上げた。

「それは——紙が銭になる、ということにございますか?。姫様」

「いいえ、吉田殿」

糸子は、静かに首を振った。

「紙が、銭になるのではござりませぬ」

「『信』が——銭になるのでござりまする」

「『信』、ち——?」

高杉の声が、わずかに震えていた。

糸子は、続けた。

「富とは——蔵にある金銀の量ではござりませぬ」

「世の人々が『あの者の手形なら間違いなし』と信じる——『 信(まこと) 』の総量こそが——国の富を、何倍にも膨らませるのでござりまする」

「世界はすでに——大砲の数ではなく、この『信用の連鎖』によって、動かされておりまする」

部屋に、長い沈黙が流れた。

高杉が、ゆっくりと顔を上げた。

「姫様——」

「はい」

「もし――その『信』が、のうなってしもうたら、どねえなると?」

糸子の声が、静かに、しかし鋭く返ってきた。

「『信』が崩れた瞬間——」

「紙は、ただの紙に戻りまする」

「そして、それを信じておった者は、一夜にして…富を失いましょう」

高杉の喉が、ごくりと鳴った。

「……ぶち、おそろしい話じゃ」

糸子は、頷いた。

「ゆえに——『信』を守ることが、何より大切でござりまする」

「天朝物産会所は、その『信』を守るために、慎重に動いておりまする」

「『信』を守れば——銭が増えまする」

「『信』を失えば——銭は消えまする」

久坂が、深く頭を下げた。

「……得心がいきました。これが、経済の真の姿——」

「左様にござりまする」

糸子は、ここで——声を整えた。

「以上、三つの肝にござりまする」

「一つ、欲望は世を動かす力」

「二つ、得意を伸ばし不足を補う」

「三つ、信用は実なき富を生む」

「これが——経済学の入り口でござりまする」

松陰が、深く頭を下げた。

松陰の声が、感動で震えていた。

「……姫君様」

「経済とは——すなわち『経世済民』——」

「世を 経(おさ) め、民を 済(すく) う——その学問にござりまするか」

糸子は、御簾の奥で——わずかに目を見開いた。

(中二病……『経世済民』と、自分で訳したか)

(さすがでございます。ダテに歴史に名を残しておりませんね)

糸子は、外向きに穏やかに答えた。

「左様にござりまする、吉田殿」

「経済とは、経世済民の学問」

「その深淵を、これから三月余で、皆様にお伝えいたしまする」

松陰が平伏したまま、何度も頷いた。

松陰の目から一筋の涙が、頬を伝った。

御簾の奥で、糸子は——内心で深く息を吐いた。

(ふぅ、マクロ経済とかリカードの比較優位とか、信用創造とか——幕末期の言葉にするのは骨が折れるわ……)

(でも、これで少しは伝わったかしら?)

(中二病はすでに泣いている。理由は知りたくないから…放っておくけど。久坂と高杉は深く考え込んでいるなー。坂本は——海運の話に飛びついた)

(——よし、入り口は開いた!)

糸子は、扇を膝の上に戻した。

そして、四人を見渡すように——御簾の奥から、目を向けた。

「では——」

「これより三月余の流れを、お伝え致しまする」

四人は、姿勢を正した。

「皆様の前に置かれた帳面が、それぞれの学習計画書にござりまする」

「中身は、後でゆっくり目を通してくださいませ」

「まず——最初の二週間」

「四人共通で、第一巻『経済と国際環境』を、学んでいただきまする」

「先ほど話した『欲』『得意』『信』——これらの肝が、より詳しく、より具体的に書かれておりまする」

「金銀比率の失敗、異国商人の思考、貿易構造と日本の弱点など——これらを、体系的に学びまする」

四人は頷いた。

糸子は続けた。

「場所は——ここ一橋上屋敷の、特別教室にございまする」

「そして神田・お玉ヶ池の商務語学所…」

「皆様には、その宿舎に学習している間はお住まい頂きまする」

「明六つに起きて、暮六つまで——いいえ、夜更けの八つまでも、学びと向き合っていただきまする」

「寝食を忘れて、己を磨き上げていただきまする」

四人の額に、わずかに汗が滲んだ。

糸子は、止めなかった。

「合計——およそ、八十五刻の修練でござりまする」

「九十日の間、毎日欠かさず、一刻は雑念を払い、真剣に書と向き合う時間を設けまする」

「予習・復習、さらには同志との激論や実践を含めれば——」

「一日のうちに、三刻から四刻は、学問に没頭することになりましょう」

松陰が、深く頷いた。

「願ってもないことにござりまする」

高杉が、わずかに眉を寄せた。

「ぶち、覚悟がいるのぉ」

久坂が、姿勢を正したまま、応えた。

「望むところでござる」

龍馬が——わずかにうなだれた。

「姫様……三月、机の前にずっと座りっ放しは、わしの体には堪えるぜよ……」

糸子は、御簾の奥で——わずかに笑った。

「坂本には、横浜での実地研修も組み込みまする」

「あなたが机の前に縛られすぎぬよう、配慮いたしまする」

龍馬の眼が、ぱっと輝いた。

「実地研修——!」

「ぜよ、それなら頑張れますきに!」

高杉が、龍馬の方を見た。

「龍馬、お前さんだけ得しちょらんか?」

龍馬が、にやりと笑った。

「晋作、それはわしの体質ぜよ。机に長くは座れんがじゃ」

久坂が、二人の間に静かに口を挟んだ。

「お主ら、姫様の前で——口を慎まんか!」

二人が、はっと姿勢を正した。

糸子は、御簾の奥で——内心で、もう一度笑った。

(このやりとり……これから三月、毎日見ることになるのか)

(賑やかでよろしい)

(…けど、わたくしはこれらを…美形男子に脳内変換しようとしていたのかー)

(そりゃあ、拒絶反応もおきるだろうなー。いつからわたくしはチャレンジャーになったのでしょうか?…うーむっ)

糸子は、続けた。

「ただし——全員に全巻を均等に、というのは、非効率にござりまする」

「それぞれの能力、性格、これからの役割に応じて——重点を配分致しまする」

「お渡しした帳面に、それぞれの学習計画が書かれておりまする」

糸子は、まず松陰を見た。

「吉田殿——」

「あなたには、第一巻を中心に学んでいただきまする」

松陰の目が、見開かれた。

糸子は、続けた。

「あなたは不世出の教育者。和漢洋の学問を収め、兵学にも通じた知の巨人です。こと学問の地力において、あなたの右に出る者はこの場に一人もおりませぬ」

松陰の目元が、熱いものに潤んだ。

「ただし——複式簿記の細かな計算まで、習得していただく必要はありませぬ」

「あなたは『教える側』の御方」

「あなたの本領は、あくまで『導き手』としての座にあります」

「あなたが第一巻という真理を、その魂に完全に溶かし込んだ時――」

「あなたは志士たちへ、真に伝えるべき言葉を持つはずです」

「『なぜ、経済を学ぶ必要があるのか?』」

「『真の敵は、誰なのか?』」

「この理を、武士の魂に響く言葉で説けるのは、あなたをおいて他にはおりません。最も重き『思想の伝道者』の任、お引き受けいただけますか」

松陰の頬を、感涙が伝い落ちた。

「姫君様――」

「この松陰を、それほどまでに見抜いてくださるとは……。身の引き締まる光栄に存じます!」

糸子は、次に高杉を見た。

「高杉——」

「あなたには、第二巻を中心に、学んでいただきまする」

高杉が、わずかに目を見開いた。

「あなたは明倫館で学び、昌平坂の俊英をも凌ぐ才を持ちながら、既存の枠に収まらぬ『動』の男。理屈よりも、勝負の機微を嗅ぎ取る嗅覚に優れています」

高杉が、不敵な笑みを深くした。

「商談の七原則。別条の策——『最善の代替案』という考え方」

「『感情を表に出さない』」

「『時間を使う者が勝つ』」

「その機知を、わたくしの『交渉術』で研磨いたします。田中屋清兵衛という商人がおります。横浜にて、教科書通りの交渉技術で異国の商館を相手に大いに成果を出した人物です。彼を相手に、あなたは『勝つまで終わらぬ』模擬商談を繰り返していただきます。お遊びは、ここまででございますよ」

高杉は――獲物を見据える鷹のような目で応じた。

「商人相手に、負け越しは許されんか……。面白い、この高杉晋作、完封してご覧に入れましょう」 (――じゃが、この姫様、俺の底を見透かしちょる。俺が『奇』を好む性質であること、そんでこの戦法が、後の下関での交渉にも繋がる大事であることまで予見しちょるんか……)

(俺の特性を見抜いた上で、交渉術で磨くと決めちょる)

(しかも田中屋という商人を、相手に用意しちょる……容赦がないのぉ)

(しかし…)

(——警戒せねばならぬ)

(このお方は、まことおそろしいお人じゃ)

糸子は、次に久坂を見た。

「久坂——」

「あなたには、全巻を、均等よく。特に第三巻を重視していただきまする」

「村塾の双璧たるあなたの強みは、その鋼のごとき論理。体系的に、隙なく学びを積み上げる知性は、四天王随一です」

久坂が、居住まいを正し、深く頭を垂れた。

「その論理を、藩の財政分析へとぶつけます。複式簿記を血肉とし、一藩の台所を数字という軍略図で語れるようになっていただきます」

「為替の仕組み、為替差益の罠——これらを、自分の言葉で説明できるようになって頂きまする」

「これさえできれば、あなたは諸藩の要人……感情では動かぬ老獪な役人たちを、数字という逃げ場のない正論で屈服させられましょう。高杉が『動』なら、久坂、あなたは『静』の理で敵を穿つのです」

久坂は、目を見開いた後、震える声で答えた。

「……晋作とは、戦う土俵が違うちゅうことにございますな。この玄瑞、姫様の期待、違わず形にしてみせましょう」

久坂は深く平伏した。

「この玄瑞、対等に議論ができるよう――血と汗を流して学びまする」

久坂の内心。

(——これは、わしの体系的学習の能力を、最大限に活かす配分じゃ)

(姫様は、わしの強みも弱みも見抜いちょる)

(これは、身が引き締まる)

糸子は、最後に龍馬を見た。

「坂本——」

「あなたには、第四巻を中心に学んでいただきまする」

「あなたはすでに航海術や世界情勢に触れ、その肌で海の広さを知っています」

龍馬が、顔をくしゃりとさせて笑った。

「おっ、海か! 姫様、わしの心に土佐の風が吹き抜けたぜよ!」

「ええ。勝殿から学んでいるその知識を、単なる『経験』ではなく、確固たる『理論』で武装していただきます。主要航路の利益率、オランダ流の海上保険……。あなたの野生の直感に、誰も論破できぬ根拠を与えるのです」

さらに糸子は付け加えた。

「そして、第二巻の商談・交渉。あなたは他藩を繋ぐ『仲介者』。高杉と組み、互いに喉元を突き合うような模擬交渉を行ってください」

龍馬の瞳が輝く。

「晋作、頼むぜよ! おまんを説得できれば、天下を説得できるも同然じゃき!」

高杉も、牙を剥いて笑い返した。

「ああ、龍馬。たっぷり磨いてやるけぇ」

「……ただし」

糸子が少しだけ悪戯っぽく微笑を漏らす。

「第三巻の細かな計算は、基礎だけで構いません」

「ただし『為替差益の罠』『手形の仕組み』は、商人と話す時に最低限、分かっていなければ話になりませぬ」

「あなたは商人と対等に話せる程度の常識があれば十分。複雑な算盤は、久坂に任せればよろしい」

龍馬が、途端に情けない顔でうなだれた。

「助かったぜよ……わし、数字を見つめると知恵熱が出るきに……」

「このとおり、よろしう頼んじゅうきに」

「わしの分までお計算してつかぁせ」

「やれやれ…全く……堪忍してくれえや」

久坂が、呆れたように、しかしどこか誇らしげに溜息をつく。

部屋の空気が、わずかに和らいだ

糸子は、御簾の奥で——内心で、もう一度笑った。

(これならば…多少は?楽しく過ごせそうで、よかったー、)

(最初は濃いおっさん連中四人と三月余…一緒に過ごすなんて、どんな苦行?って思ったからなー)

しみじみ…そう思う糸子である。

糸子はここで——声を整えた。

「では、三月の流れの、続きをお伝え致しまする」

四人は、姿勢を正した。

「第一段階——最初の二週間」

「四人共通で、第一巻を学んでいただきまする」

「毎日、集中講義」

「第一巻の全三章を、二週間で習得していただきまする」

「この段階の試験は、わたくしが口頭試問」

「『代理戦争論を、自分の言葉で説明せよ』と問います」

「合格するまで、次に進めませぬ」

四人の額に、わずかに汗が滲んだ。

糸子は続けた。

「第二段階——次の六週間」

「役割別に、分岐学習」

「吉田殿は、第一巻の応用・深化。村田殿と対話しながら『藩士にどう伝えるか』を、練っていただきまする」

「高杉は第二巻、商談実務・交渉術を、集中習得。模擬商談を実際の商人との間で、繰り返していただきまする」

「久坂は第三巻、為替・金融基礎を、集中習得。善次郎の帳面を直接手に取って、複式簿記の計算練習を毎日続けていただきまする」

「坂本は前半三週間で、第四巻を徹底習得。後半三週間で、第二巻を実戦習得。横浜の天朝物産会所拠点で数日、実地研修も組み込みまする」

龍馬の眼が、輝いた。

「やっぱり実践じゃなけりゃ、覚えられんこともあるき」

「実地研修なら、いくらでも行くぜよ!」

糸子は、御簾の奥で笑った。

「実に坂本らしい反応ですね、しっかりおやりなさいまし」

糸子は続けた。

「この第二段階の終わりに、中間試験を課しまする」

「吉田殿は、藩士を想定した模擬授業を、わたくしに向けて行っていただきまする」

「高杉は、模擬商談で、商人と対決。勝つまで繰り返していただきまする」

「久坂は、藩内の財政分析を提出。そして数字で論じていただきまする」

「坂本は、他藩志士を想定した、模擬対話を行っていただきまする」

四人の表情が、緊張で引き締まった。

糸子は、続けた。

「第三段階——最後の四週間」

「四人で連携訓練」

「週三日は、四人で議論・模擬工作」

「『要人の説得』を想定した、役割演習」

「『藩士への講義』を想定した、吉田殿の練習」

「『藩内若手への浸透』を想定した、高杉の練習」

「『他藩への遊説』を想定した、坂本の練習」

「久坂は要人への進言書草案を作成」

「最後に——」

糸子の声が、わずかに強くなった。

「最終試験を課しまする」

「これは以前話した通りでございまする」

「わたくしの前で——」

「想定を薩摩藩とし、説得する模擬交渉を実演していただきまする」

龍馬の眼に緊張が現れた。

「薩摩じゃな……やってやるぜよ!」

糸子は、御簾の奥で頷いた。

「あなたは、自分らしくおやりなさいな」

龍馬は覚悟を決めた顔をした。

「そりゃあ骨が折れるけんど、まっこと、なんとかしてみせますき」

糸子は、御簾の奥で笑った。

「しっかり学んでいただければ、坂本…あなたならば必ず成し遂げられるでしょう」

糸子は、四人を見渡した。

そして、声を——ひときわ低くした。

「最後に——もう一つ、お伝えせねばならぬことがござりまする」

四人の表情が、引き締まった。

糸子の声に、これまでとは違う重さが宿っていた。

「皆様には——三月後、別々の場所に、赴いていただきまする」

部屋に、沈黙が流れた。

「吉田殿には、思想を伝える場へ」

「高杉には、藩内を動かす場へ」

「久坂には、論で要人を口説く場へ」

「坂本には——諸藩を駆け巡る場へ」

四人は平伏したまま、糸子の言葉を聞いていた。

「皆様の活動場所は、違いまする」

「されど——目指すところは、一つでござりまする」

「日本を、新しき世に導くこと!」

「『代理戦争論』で申し上げた通り——日本人同士で殺し合えば、笑うのは異国にござりまする」

「ゆえに、そうさせてはなりませぬ」

「皆様には——その道の、最も重要な役を担っていただきまする」

松陰が、深く深く頭を下げた。

高杉が、平伏したまま目を閉じた。

久坂が、姿勢を正したまま頷いた。

龍馬が、にこりと笑って頷いた。

糸子は、続けた。

「ゆえに——」

「この三月余は皆様にとって、命を懸けた修練と思いなさい」

「死ぬ気で学んでくださいませ」

「学んだ知識を——あなた方の血と肉にしてくださいませ」

「それができなければ——」

糸子の声が、わずかに低くなった。

「あなた方は、戦場で生き残れませぬ」

「…なれど、大丈夫でございます。あなた方ならば、必ずや…やり遂げられましょう!」

「わたくしが出来ると申しているのです。後はあなた方が行動するだけにございます」

「ここでやらなければ、 漢(おとこ) が廃りましょうぞ!!」

坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田松陰。

それぞれの男たちは、それぞれの覚悟を——内心で固めた。内なる熱き思いを胸に……

松陰の内心。

(——姫君様が、自ら講師となって、私に教えてくださる)

(しかも、私を『思想伝道の役』とお見立てくださった)

(この松陰は必ずやこの経済学を自分のものにして、藩士たちに伝える)

(姫様の思いのためにも…私の生涯の使命とする!)

高杉の内心。

(——余りに授業内容が細かい)

(しかも、各自の特性を完全に、見抜いた上で配分されちょる)

(このお方は、本当に何者じゃ?)

(俺の長所、強い部分を——全部見抜いちょる)

(このお方は、どこまで見ちょる?)

(しかし、悪うない。見ちょれ、姫様の考える以上の働きを見せてやるけぇ)

久坂の内心。

(藩の要人と対等に議論できる程度まで、引き上げていただける)

(玄瑞、血と汗を流して学びまする)

(そして、議論じゃあ誰にも負けんようになってみせる!)

龍馬の内心。

(——わしゃあ、三月余りも毎日学問じゃというが、気が遠うなるのう……)

(けんど——)

(姫様の言いゆうことは、分かるき。魂が言いゆう。……これからのわしに必要になる知識じゃ、と)

(経済を知らんと、わしゃあ、これからいろんな奴を説得できんきに)

(『代理戦争論』とやらを、わしの言葉で語れるようにならんといかん……)

(こじゃんと、徹底的に学ぶぜよ)

(わしはとっくに覚悟はできてるき!)

四つの影が、同時に、深く畳に額を寄せた。

「姫様…」

「伏して、ご教導をお願い奉ります」

重なる声は、見事なまでに一つに響いた。

糸子は御簾の向こうで、静かに首を縦に振った。

「万事、よしなに差配してくださいませ」

「明日よりこの場にて、第一巻の集中講義を執り行います」

「皆様、明六つには、遅れず参集くださいませ」

四人は再度深く拝礼し、静かに、しかし確かな足取りで座を立った。

龍馬は、地を踏みしめるような力強い歩調で去った。

久坂は、悲壮なまでの決意を面に湛えたまま退室した。

高杉は、不敵な光を瞳に宿し、愉悦を隠さず背を向けた。

最後に松陰が、震えるほどに心を昂ぶらせて一礼し、去った。

障子が、音もなく吸い込まれるように閉じる。

室内には――糸子と葵、そして無言の近衛と沖田の気配だけが残った。

そして、つい先程のことを思い出し、そっと糸子は近藤を見てみると…

そこにはまだ…絶望しきって、項垂れている近藤の姿があった。

「こっ、近藤殿。失礼致しました! 。あまりに熱烈な中二病の様子が、以前わたくしの夢のことで鼻息荒く、聞き出そうとされた近藤殿の姿と……その、瓜二つでございまして——あっ!?」

糸子が、正直に言い過ぎてしまったと気づいた時には、すべてが遅かった。

部屋の隅で警護していた近藤を見れば…そこには目に沢山の涙を浮べながら、壁に向かってブツブツ何かを呟いている姿があった。

(……某は姫様の目に、あんな風に映っていたのか……?)

(某もそのうち、みなから…中二病と呼ばれることになるのか?)

(そんなのは嫌だ、絶対にいやだ…死んでもイヤだ……)

近藤の魂が口から抜けかけている。武士の矜持が、音を立てて崩壊していく。

「あはははははっー、近藤さん。姫様に『同類』だと思われてたんだ! 。中二病殿とそっくりだって!、お腹痛いー。あはははははははははーーーっ」

沈黙を切り裂いたのは、沖田総司の容赦ない爆笑だった。膝を叩き、指を指して笑い転げるその姿に、糸子は戦慄する。

「傷口に塩を塗り込むようなことは、しないでくださいまし、沖田殿!」

(こ、この男…容赦なさすぎる…ド畜生だわ……)

葵はといえば、無言のまま、冷ややかな視線でこのカオスを眺めていた。

口には出さないが、その瞳は雄弁に語っている『この混沌は何? 私は何を見せられているの?』と、ドン引きの極致にある。

「姫様だって、とどめ刺しておいて、良く言いますよー。近藤さんが泣いてるー!、あははははははははーーーーーーーっ!!」

近藤を更に指差し大爆笑する沖田。

「沖田ーあなたは黙らっしゃい!、近藤殿を指で差さないの!!」

「わー! 違うんです近藤殿! 悪意はないんです。本当なんです。 すみませーん!!」

御簾の向こうで、糸子は必死に手を合わせ、涙目でフォローに奔走した。

新春の清々しい空気はどこへやら。一橋上屋敷の奥御殿は、一人の武士の心がへし折れる音と、一人の天才剣士の不敬な笑い声に支配されていた。

刻が止まったかのように、糸子は、動かなかった。もはや疲れ切っていた。

御簾の奥、文机の前で身を固め、扇を膝の上で握りしめていた。

葵が、滑るような所作で御簾の脇へ歩み寄り、糸子を覗き込んだ。

「姫様――」

「葵」

「お疲れに、なられたのではありませぬか」

糸子の唇が、わずかに弧を描いた。

「本当に勘弁してほしい。なんなの?この茶番は……はぁー」

「お茶を、用意して参りますね」

「お、お願い…」

葵が、衣擦れの音を残して退いた。

ついに、糸子は一人きりになった。

糸子は、ゆっくりと、守られていた御簾の境界を越えた。

御簾を、その手で押し上げ――安住の地を離れ、部屋の中央へと、一歩を踏み出した。

そこには、四人の志士が座していた熱の残滓が、色濃く漂っていた。

並んだ四つの座布団。

主を失ったその布の上に、彼らの魂の温度が、まだ燻っている気がした。

糸子は、その陣を望むように、立った。

(中二病、高杉、久坂、坂本)

(皆様、わたくしの言葉は、魂に届きましたか)

糸子は、肺の底から、長く息を吐き出した。

(『欲』『得意』『信』)

(難解な真理を当時の言葉を紡ぎ、懸命に伝えた)

(吉田殿は『経世済民』の本質を射抜かれた。その才、恐るべし)

(高杉は『不干渉』の利に目をつけた。古き攘夷の枠を超えた鋭い感性)

(久坂は『土佐の山』を即座に引き合いに出した。現実を動かす実学の徒)

(龍馬殿は『海運』に己の夢を重ねた。どこまでも奔放で、愛すべき男)

(四人の魂の扉は、叩いた)

糸子は、微かに唇を綻ばせた。

(明日こそが、真の開戦)

(明日からは、この結界を取り払う)

(彼らは、どのような貌をするだろうか)

(特に、久坂と高杉)

(御簾越しに畏怖を感じていた二人が、眼前の…ただの幼き少女と対峙した時)

糸子の口角が、いたずらっぽく吊り上がった。

(楽しみで、仕方がありません)

(ふふふ、ふふふ……)

障子が、静かに滑り開いた。

葵が、香りを纏わせた茶を運び入ってきた。

糸子は、慌てて賢公女の顔を取り戻し――机の前へと戻った。

しかし葵は、主のその一瞬の「企み」を、捉えていた。

葵がお茶を机に据えながら、悪戯めいた笑みを浮かべた。

「姫様…」

「はい」

「明日の刻が、待ち遠しくてなりませんね」

糸子は、その言葉の鋭さに、わずかに目を丸くした。

そして降参したように、肩を竦めた。

「葵には、全てお見通しでございますね」

「姫様のお心だけは、誰よりも知っておりますゆえ」

「ふふふ……」

糸子は、茶碗を手に取り、一口含んだ。

芳醇な温もりが、糸子の内側を満たしていく。

「葵」

「はい」

「明日からは、御簾を打ち払いまする」

葵の表情は、凪いだ水面のように動かない。

その時が来ることを、すでに確信していたかのように。

「承知、いたしました」

「導く者として、真の姿を晒さねばなりません」

「知識を授けるだけなら、御簾で十分。なれど、教えるとは、指で指し眼差しを交わし、声の震えで導くこと」

「この薄絹越しでは、真理は伝わらぬのです」

「左様にございます」

葵は深く、恭しく頭を下げた。

糸子は、お茶をもう一口、飲み干した。

「明日からは、四人の前に直に立ちます」

「わたくしは、十三のおなごに過ぎませぬ」

「されど…わたくしは、彼らを導く師でもあります」

「ゆえに、この姿を見せねばならぬ」

葵が、慈しむように深く頷いた。

「姫様のその覚悟、葵が、終生お支えいたします」

「覚悟という大層なものではありませぬ、なれど…ありがとう、葵」

糸子は、葵の瞳を見つめ返した。

そこには、いつもの穏やかでいて、揺るぎない覚悟の炎があった。

糸子はその光に、心の棘が抜かれるような気がした。

(葵がいてくれて、本当によかった)

夜。

奥御殿の、糸子の私室。

障子の外には、月が昇っていた。

新春の月は、冴えて気高かった。

糸子は文机の前ではなく——障子の前に座っていた。

障子をわずかに開けて、庭を見ていた。

庭の片隅、奥御殿の障子の前に植えられた、一本の梅の木。

その枝の冬梅の蕾。

今朝よりも、わずかに——膨らんでいた。

夕方には、気付かぬほどの違い。

しかし、夜の月明かりの下で、糸子の目には——確かにその違いが見えた。

(蕾が、膨らんでおる)

(春が、近づいておる)

糸子は、静かに息を吐いた。

白い息が、月明かりの下で、わずかに見えた。

(明日から、御簾を取り払う)

(教える者として、姿を見せる)

(まあ、普通に姿を見せるだけだし、覚悟とかするものでもないんだけどねー)

糸子は、目を閉じた。

(吉田殿は、感動するだろうなー多分)

(涙を流すかもしれない)

(拝み始めるかもしれない)

(中二病だからなー。授業が止まるんだろうなぁ)

(それでも、止めるわけにはいかないけど…)

糸子は、目を開けた。

(高杉と久坂は、どう反応するかなー)

(御簾越しで感じていた『もの』と、目の前の十三のおなごの姿)

(——違和感ありまくりで、ぶつかるであろうな)

(二人の脳が、しばらくフリーズするかも?)

(それでも——慣れてもらわないとね)

(姫君の『見た目』と『感じたもの』は、別ではない。同じ一人の中にあるのよ)

(その事実を二人には、認めてもらわないとね)

糸子の口元が、わずかに歪んだ。

(坂本は二度もわたくしの姿を見ているから平気だろうなぁ)

(多分、凄いフレンドリーにしてくるだろう)

(『ぜよぜよぜよぜよ』言ってくるんでしょう!)

(坂本の、そういうところ好ましく良いとだよねー)

(一切、見た目に振り回されない)

(人を、人として見る目があるからなー)

糸子は、もう一度、庭の梅を見た。

月明かりの下で、蕾は、紅の色を内に閉じ込めたまま、静かに膨らんでいた。

(蕾が膨らみ、いずれ咲く)

(咲いた花は、やがて散る)

(散った後にも、また次の春が来る)

(それが——世の理…)

糸子はゆっくりと、息を吐いた。

(いくら礼式とはいえ、さすがにずっと御簾の奥に隠れていることはできない)

(近衛糸子として前へ出ると覚悟もしたし…)

(それが——わたくしの役目だ)

風が、わずかに吹いた。

梅の枝が、わずかに揺れた。

蕾は揺れの中でも、しっかりと枝の先に張り付いていた。

(明日から——先生になる)

(先生…上手くやれるかなー)

(三月余だけど、わたくしも頑張ろう!!)

糸子は、障子を、ゆっくりと閉じた。

部屋の中に、火鉢の炭が、ぱちりと音を立てた。

その音が、夜の静けさの中で——糸子の心に、わずかに響いた。

糸子は、文机の前に戻った。

文机の上には、もう四冊の学習計画書はなかった。すべて葵が、四人に渡した。

代わりに、糸子は、引き出しから——黒い帳面を取り出した。

鍵のかかる引き出しに、しまわれている、二冊目の黒い帳面。

糸子は、その帳面を開いた。

筆を取って、書き込んだ。

「三月特別授業編・開講」

「生徒は四人——吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、坂本龍馬」

「明日よりわたくしは、先生になる」

「前世では、誰かに教えるなど、考えたこともなかった。百貨店のバイヤーとして、商談はしたが、人を育てる立場にはいなかった」

「けれど、ここでは——わたくしが教える」

「前世で学んだ経済学を、この四人に伝える」

「そして、四人を通じて——日本の未来を変える」

糸子は、わずかに微笑んだ。

(大それたことをやる…)

(とは思っていない)

(これは必然なんだ。やらなければならないんだ!)

(それにやると決めたら、絶対にやるおなごなんですから、わたくしは…)

(——ふふふふふ)

糸子は、帳面を閉じた。

引き出しに、しまった。

鍵をかけた。

障子の外で、また風が、わずかに吹いた。

梅の枝が、揺れた。

蕾は、まだ閉じていた。

しかし——その内には、確かに、紅の花が、待っていた。

春の足音は、もう少しだけ先である。

しかし——確かに、近づいていた。

糸子は、文机の前に座ったまま、目を閉じた。

(明日——参りまする)

(——御覚悟、皆様)

第八十八話 了

糸子さんのイメージイラストを試しに作ってみました!

いかがでしょうか?ヽ(゜∀゜)ノ♪