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作品タイトル不明

第九十九話「連環の計、潜伏」

一 梅雨の橋の上

文久元年、青梅雨の明ける頃。

暦の上では、すでに入梅を過ぎていた。

江戸の空は、その日の昼間も夕方も灰の幕を引いたように、白く曇っていた。雨は降ったり止んだりを繰り返している。

降る時は、本降りではなく霧雨のような細い雨で、しかし、それが髷の根まで確実に、湿らせてくる。

黄昏時、両国橋の上に、一人の男が立っていた。

勝麟太郎——後に、勝海舟と号する男である。

文久元年、三十八。背丈は、男にしては低い。当時の標準よりも、頭ひとつ低いほどである。しかし、橋の手すりに片肘をついて、川下の方を眺めるその姿には、なぜか背丈の小ささを忘れさせる、芯の通った気配があった。

勝の鼻のあたりには、子供の頃の古傷が薄く残っている。野犬に噛まれた時の傷である。眼光は鋭く、しかし、その鋭さは人を斬るためのものではなく、人を「見抜く」ためのものだった。

着物は、小袖に羽織。色は、地味な鈍色である。

手には、懐から取り出した一枚の紙。

数字が、ぎっしりと書かれていた。

幕府の勘定方の奥の奥の引き出しから、勝が「ある筋」を通じて写しだけを手に入れた、極秘の数字だった。

勝はその紙を、しばらく見ていた。

ぱたんと紙を二つに折った。折って懐に戻した。

手すりの上で、もう一度川下を見た。

隅田川は、梅雨の濁流で、いつもよりはるかに、太く速かった。

茶色く濁った水が、橋の下をごうごうと、音を立てて流れている。橋脚に流木が引っかかっては、押し流されていく。水面の上では雨粒が、無数の小さな輪を絶え間なく描いていた。

川風に潮の匂いが、わずかに混じっていた。河口から上ってきた風である。匂いの中に湿った木の腐ったような、青臭さが、混じっていた。

勝は川を見ながら、心の中で呟いた。

(幕府の中にいながら、幕府が変わるための種を蒔いている)

(姫様は「無血移行」と言った。しかし——それは幕府が死ぬってことだ。形を変えて、生き残るとしても、今の幕府は死ぬ)

(そのことをオイラは、受け入れている。受け入れているからこそ、ここにいる)

(不思議なことだ。あの少女の…姫の言葉が、オイラの中で一番まともに聞こえる)

川面の上の雨粒の輪を勝は、しばらく見ていた。

見ながらふっと、肩の力を抜いた。

肩の力を抜いてから、ほんの少しだけ笑った。

川の水が、夕陽を受けて赤く見えた。

濁った川の表面にところどころ、黄昏の橙が、滲んでいた。

「……平岡さん、来やがるな」

勝は、低く呟いた。

橋の北側の方角から、足音が二つ近づいてきた。

一つは、平岡円四郎のもの。

もう一つは、平岡が連れた小者の足音だった。

二 平岡円四郎、橋の上

平岡円四郎、四十。

一橋慶喜の最も身近な側近である。

背は、勝より頭一つ高い。骨組みは中肉だが、肩のあたりに武士らしい張りがある。顔つきは整っているのだが、目の下に薄い隈がある。これは最近、夜に眠れていない者の隈だった。

平岡の小者は、橋のたもとで待たせた。

平岡は勝のもとまで、ゆっくりと歩いてきた。

歩いてきて勝の隣で、川を見た。

「勝殿」

「お、平岡さん」

勝が軽く、振り向いた。

平岡は、勝にわずかに頭を下げた。

「お呼び立てして、申し訳ござらん」

「お呼び立てたぁ、こちらの台詞だ」

勝は、にやりと笑った。

「あんたが昨日、オイラの屋敷に文を寄越して『今宵お会いしたい』ってんで、こうして雨の橋の上で、待ってたんじゃねえか」

「左様でござりますが、しかし、勝殿の方から『両国橋にて』と返書を頂戴いたしたゆえ」

「あぁ、そりゃオイラの趣味だ」

勝は橋の手すりを、ぽんぽんと軽く叩いた。

「屋敷ん中ぁ、人の耳が多すぎる。橋の上は、川の音が、人の耳を塞いでくれるからね。ちょっとした人払いとしちゃあ上等よ」

「……なるほど」

平岡は、川の流れをしばし、見つめた。

濁流の音は、確かに人の声を覆い隠すには、十分だった。

「平岡さん」

「はい」

「あんた、オイラに、何を聞きてえんだい」

「……」

平岡は、しばらく答えなかった。

答えずに川の表面の、夕陽の色を見ていた。

見てから低く、ゆっくりと口を開いた。

「勝殿が、先頃から私にお話しになっておること——」

「うん」

「『公議政体』と申される、あの構想のことをもう少し、詳しくお聞きしたく」

「ほう」

「それから——」

平岡の声が、わずかに震えた。

「もう一つ。本日、上様がある筋の文を、ご覧になられました」

「ある筋、ねぇ」

「幕府勘定方の、内々の数字でございます。私もちらりと、見せていただき申した」

「……」

「私の見立ては、申し上げにくうございますが——」

平岡は、息を深く吐いた。

「これはいずれ、どうにもならぬ数字と存じ申した」

「ほう」

勝は、しばらく川を見たまま、黙っていた。

川風が、二人の羽織の裾を、ふっと揺らした。

勝は、振り向かないまま、口をゆっくり開いた。

「平岡さん」

「はい」

「あんた、慶喜公を将軍にしたいのかい?」

「……はっ?」

「それとも、慶喜公という——『人間』を救いたいのかい?」

平岡の体が、わずかに固まった。

平岡は、勝の方をゆっくりと見た。

見て、しばらく勝の鋭い眼光と、目を合わせた。

それから、ふっと視線を外した。

「……勝殿」

「うん」

「それは武士に対して、ずいぶんと毒のあるお問いで、ござりまするな」

「毒だぁ?」

勝は、にやりと笑った。

「平岡さん、毒だってのは知ってるよ。だが、それが聞きたかったから聞いたんだ。あんた、ここで返答に詰まる男じゃねえだろう」

「……」

平岡は、顎をぐっと引いた。

三 数字の紙

勝は、懐から先ほどの紙を取り出した。

取り出して、平岡の前にぽんと差し出した。

「読んでみな」

平岡は、紙を受け取った。

受け取って開いた。

雨粒が紙の縁に、いくつか落ちた。

平岡は、紙をわずかに体の前に傾けて、雨粒を避けながら読んだ。

勝が差し出した紙には、二つの表が書かれていた。

一つは、一橋家の家計の写し。

もう一つは、幕府勘定所の——極秘の赤字予測。

勝は、平岡が読んでいる間、川を見ていた。

しばらくして平岡の顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。

「これは——」

「あぁ」

「これは、本当の数字でござりまするか」

「本当の数字だよ」

勝は、淡々と言った。

「上の表は、一橋家ご当主——慶喜公のお屋敷の、年間の出入り。お役職の出費、お付きの方々の俸給、ご進物、ご親類筋への支度金。

下の表は幕府全体のここ十年の歳入と、ここから先、五年の見込みの歳出だ」

「……勝殿、これをどこで」

「幕府の勘定所の中に、オイラと近しい男が一人いる。そいつが写した。出所は聞かねぇでくれ。あんたの身を危なくしたかねぇ」

平岡の指が、わずかに震えていた。

平岡はしばらく、その紙を見ていた。

見ていて、ぽつりと呟いた。

「……これでは、あと…何年も保ちませぬな」

「あぁ」

「軍艦のお買い入れ、お台場の修築、震災のご復興、お外国へのお支払——」

「全部、銭だ」

「そして入る方の銭は、米の年貢が、ほぼすべて——」

「そう。米の出来は、お天道様次第。出る方は、お天道様は関係なし」

「……」

「銀の流れもご存知だろう。日本の金が銀を介して、毎日、海の向こうに流れ出してる。これも止められない。御公儀の内々の試算じゃ、ここから先、毎年何十万両単位で、国から金が抜けていく」

「……」

平岡は、紙を握りしめていた。

握りしめた指の節が、白くなっていた。

「平岡さん」

「はい」

「これがもし、あんたの目から見て商家の帳面だったら、どう判じる」

「……潰れまする」

平岡は、即座に答えた。

「五年もてば、上等。早ければ三年で、暖簾を畳まねばなりませぬ」

「だろ」

勝は、低く頷いた。

「これが、徳川家ってえ、巨大な商家の…今の帳面だ」

「……」

「であんたの主、慶喜公は、その潰れかけの商家の——次の若旦那候補だ」

「勝殿」

「なんでしょう」

「それは、聞き捨てなりませぬ」

「聞き捨てねえで、聞いてくれ」

勝は、川を見たまま続けた。

「今、慶喜公が、将軍におなりになるのは、どういうことか分かるかい?」

「……」

「危機的状況にある巨大な商家の、代表に就任して——」

「……」

「全部の負債を、ご自身の名で引き受けることだ」

平岡の喉が、ごくりと鳴った。

「……」

「賢い若旦那候補が、そんなとこに入っていって、ご自身の名を傷つけるのを、あんたは黙って見ていられるかい?」

四 三点囲み

平岡は、しばらく答えなかった。

答えずに川の濁流を、見ていた。

見ていて…ようやく、声を絞り出した。

「勝殿」

「うん」

「上様は——あ、いや、慶喜公は、賢いお方でござります。あのお方はすでに、お分かりかもしれませぬ」

「だろうな」

「お分かりの上で、なお——」

「うん」

「お逃げになることが、おできにならぬ」

平岡の声が、震えた。

「徳川のご一門にお生まれになられた以上、お逃げになることは、徳川を見捨てることになりまする。そして、徳川を見捨てることは——」

平岡は、しばらく言葉を選んだ。

「——あのお方のお心の根に、最もお苦しいお選びでござります」

「だろうよ」

勝は、深く頷いた。

「だからあんたが、苦しいんだろ」

「……」

「平岡さん。あんたが、慶喜公をお救いしたいってえ気持ちは、オイラには分かる」

「……」

「分かるけどよ、平岡さん」

勝の声が、低くなった。

「今のままで慶喜公が、将軍におなりになったら——その先、待ってるのは、三つの死ぬ場所だ」

「三つの、死ぬ場所……?」

「一つ目」

勝は人差し指を、ゆっくり立てた。

「経済の死に場所。幕府が潰れりゃ、徳川家のご領地もご資産も何もかもが、新しい政府かそれとも——海の向こうから踏み込んでくる、列強の手の中に、収められる」

「……」

「二つ目」

勝は、中指を立てた。

「物理の死に場所。攘夷を叫ぶ若い者たちの、今の的は開国した幕府じゃ、ねえ。開国を止められなかった、次の代の将軍候補だ」

「……」

「あんたも最近、薄々お気づきだろう。お屋敷の周りで見慣れねぇ顔の浪人が、増えちゃいねえかい」

平岡の頬が、わずかにこわばった。

「……増えちょります」

「だろ」

「三つ目」

勝は、薬指を立てた。

「名誉の死に場所」

勝の声がしずかに、しかし深くなった。

「徳川を滅ぼした、最後の賊軍の将——その名で慶喜公の名が、子々孫々まで語り継がれる。三百年、続いた、徳川の最後の旗を降ろした男として」

「……」

平岡の指が、ぴくりと動いた。

「これがあんたが、黙って容認できる未来かい?」

平岡の唇が、わずかに震えた。

震えながら、しかし、口は開かなかった。

雨がまた、ぱらぱらと橋の上に、落ち始めた。

雨粒が、平岡の頬のこわばりの上を転がった。

平岡は、それを拭わなかった。

五 泥舟と、岸

勝はしばらく、間を置いた。

川の濁流の音だけが、二人の間で流れた。

勝は平岡が、その「三つの死に場所」を、自分の頭の中でゆっくり、咀嚼するのを待っていた。

待つ…ということを勝海舟は、よく知っている男だった。

江戸っ子は、押す時と引く時の差が、命だ。

平岡がふっと、息を吐いた。

「勝殿」

「なんですかい」

「私は、武士でござりますゆえ——『主君を救う、唯一の道』と仰せの道があるのなら、それを…お聞かせいただきとう存じまする」

勝は、にやりと笑った。

笑ったが、その笑いは勝ち誇った、笑いではなかった。

むしろ、目の奥にわずかに痛みが、走っていた。

「……あんた、本当に、聞きたいかい」

「聞きとうござります」

「聞いたら、もう後戻りはできねえぜ」

「……承知の上でござります」

勝は、川をもう一度見た。

「平岡さん」

「はい」

「徳川の——『家』をお救いするには、徳川の——『幕府』を、殺すしかねえんだ」

平岡の眉が、ぴくりと上がった。

「……それはいかなる、お言葉でござりましょう」

「言葉、そのまんまさ」

勝は、ゆっくり続けた。

「徳川幕府ってのは、ある時期まで、よく働いた組織だ。だがな、今となっちゃこれは、もう修繕の利かねえ泥舟だ。

穴ぁ、いくつも開いて毎日、水が湧き上がってきてる。船の底をいくら塗り直しても、もう保たねぇ」

「……」

「だがよ。船が沈むからって船頭まで、一緒に沈む必要はねぇんだ」

「……」

「船頭は一旦、岸に上がる。岸の上で、別のもっと丈夫な船を用意する。

その船に、徳川という——『家』の本当に大事な部分だけを移し替える」

「……岸と申しまするは?」

「朝廷だ」

勝は、はっきりと言った。

「朝廷を岸にして、その上に新しい船を組む。船の名は——『公議政体』。

ご大名衆の合議で、お国の行く先を決める仕組みだ」

「……」

「徳川のご家督は、幕府のお頭ってえ立場をお降りになって——」

勝は、平岡の目をまっすぐに見た。

「朝廷ってえ、岸の上に組まれた、新しい船の、一番太い柱にお乗りになる」

「……」

「幕府は死ぬ。だがな、徳川の家は生きる。慶喜公は、徳川のご家督として、生き延びる。徳川のお血筋も、お資産も、新しい船の太い柱として護られる」

平岡は、しばらく呼吸を忘れたように、勝を見ていた。

「……それは」

「うん」

「これは勝殿、お一人のお考えでござりまするか」

「いや」

勝は、首を振った。

「オイラ一人じゃ、こんなに整った絵は描けねえ」

「では、どなたがそのような絵図を——」

「……」

勝は、しばらく答えなかった。

川の濁流を、しばらく見ていた。

見てから、ゆっくり言った。

「もしもあんたが、この絵をお受けになるってんなら——その時、初めて…絵の作者のお名を申し上げてもいい」

「……」

「お受けにならねえってんなら、オイラはこの夜の話を忘れる。あんたも忘れる。橋の上の川の音だけが、覚えていることになる」

勝は、ふっと笑った。

「どうしなさるね、平岡さん……」

六 平岡の沈黙

平岡は、勝の隣でしばらく立ち尽くしていた。

立ち尽くしたまま、ぽつぽつといくつもの断片を、頭の中でつなぎ合わせていた。

平岡の頭の中である、別の場面が流れた。

数日前——一橋家の屋敷の奥書院。

平岡が廊下を歩きながら、書院の障子越しに、慶喜公の影を見た。

慶喜公は、文机の前に坐って、何かを読んでいた。

その姿は、静かだった。

しかし、静けさの種類が、他の人間と違っていた。

嵐の前の海面のような、しずけさだった。

深く無風で、しかし、底の方で何かが、ぐぐと動いている静けさ。

平岡はその時、足を止めなかった。

止めなかったのは、賢明だった。

あのお方のしずけさには——近づきすぎてはいけない時がある。

今がその時だと、平岡は、その時感じた。

今、両国橋の上で。

平岡は、その時の慶喜公のしずけさを、もう一度思い出していた。

(——上様は、すでにお分かりだ)

平岡の心の中で、声が流れた。

(あのお方は、ご自身の前に待っているのが、何なのか、すでにご覧になっている)

(ご覧になりながら、お逃げにならぬ)

(なぜなら徳川のご一門に、お生まれになられたから)

(そしてそのご気性が、お逃げになることを許されぬから)

(——わたしは、あのお方をお救いしたい)

(救いたいというのは、武士として許されぬ、私情かもしれぬ)

(しかし、わたしは、もう十年以上、あのお方のお側で、お過ごしさせていただいた)

(あのお方のお笑いを、わたしは、何度も見てきた)

(あのお方のお笑いが、ある日、消える日のことをわたしは想像できぬ)

(——わたしは、あのお方をお救いしたい)

(救うために、今、わたしは何をすべきか)

平岡は、目を閉じた。

閉じた目の中に、別の絵が浮かんだ。

橋の上に、徳川の三葉葵の家紋が、揺れていた。

その家紋がゆっくりと半分、川の中に沈んでいく。

しかし——もう半分は川の上で、なお、揺れていた。

川の上の半分は、別の岸に繋がっていた。

その岸の名は——

平岡は、目を開けた。

「勝殿」

「うん」

「もう一つ、お聞きしたい」

「なんだい?」

「この絵図の作者は——徳川を憎んでおいでですか」

勝は、しばらく答えなかった。

答えずに川の流れを、見ていた。

見てから、しずかに言った。

「いや」

「……」

「むしろ、その逆だ」

「逆…?」

「徳川という、御家の血筋を——」

勝は、低く続けた。

「お救いしたいと仰るんだ」

「……」

「徳川の御家を、続かせたい。子々孫々絶やしたくない。お血筋が、後の世まで残るようにしたい——そう仰せだ」

「……」

「だから、幕府を殺してでも、徳川は生かすと…」

平岡は、もう一度目を閉じた。

閉じてしばらく、無言だった。

「……勝殿」

「うん」

「私は」

「うん」

「お受けする」

勝は、平岡を見た。

「いいんだな」

「お受けする」

平岡の声に、震えはもうなかった。

「これが——徳川を滅ぼす道なのか」

「……」

「徳川を、続かせる道なのか」

「……」

「私の目では、もう見分けがつきませぬ」

平岡は、川を見ていた。

「ただ——上様のお笑いが、ある日、消えるところを私は見たくない」

「……」

「ただ、それだけでござります」

勝はしばらく、平岡を見ていた。

見てから、深く頷いた。

「分かった」

「絵図の作者のお名は……」

「……」

勝は、声を低くした。

「近衛家の十三になる、お姫様だ」

平岡の体が、わずかに揺れた。

「……近衛家の?」

「近衛糸子様と申される…」

平岡の目が見開く。

「……朝廷の御使者様か!!」

「平岡さん。このお名を口に出すことは、これからの半年は、控えてくれ。あんたの口から漏れた瞬間、絵が変わる」

「……承知、致しました」

「いいか。もう一遍言うぞ」

「はい」

「あんたが、これから書く、上様への建白書には——」

「……」

「『公議政体』という言葉と、『朝廷とのご協力』という方向だけ入れてくれ」

「『近衛家』のお名は——」

「絶対に書くな」

「……承知」

「上様が、この絵をご自分で思いつかれた、と思うていただかにゃならねぇ」

「……」

「賢いお方だ。誰かに誘導されたと気づかれたら、逆方向にお走りになる。

そういうご性質をお持ちだ。あんたが、一番よくご存知だろう」

「……左様でござります」

「だから書くのは、あんたの言葉で書け。オイラの言葉でも姫様の言葉でもねぇ。平岡円四郎ってえ、あんたの言葉で書くんだ」

平岡は、深く頷いた。

頷きながら、心の中で自分自身に、もう一度言い聞かせた。

(——主君を救うために、幕府を殺す)

(私はこれから、長い夜を書斎で、過ごすことになる)

七 夜明け前の書斎

その夜。

一橋家の屋敷の奥書院。

平岡円四郎は、自分の私室の文机の前に坐っていた。

行灯が二つ、点いていた。

部屋の壁には、控えめな、しかし上等の唐紙が、貼られていた。

襖の一枚に薄い金の砂子が、星のように撒かれている。床の間には、一服の山水の掛け軸。花瓶には、控えめな白い百合が、一輪活けられていた。

雨が、屋根をぱらぱらと、叩いていた。

時々強くなり、時々止む。江戸の梅雨の典型的な夜だった。

部屋の中の空気は、紙と、墨と、行灯の油の匂いで、満ちていた。

平岡は文机の前で、しばらく何も書かなかった。

書かずに、ただ…白い紙を見ていた。

平岡の手が、震えていた。

筆を持つ、その手が震えていた。

平岡は自分の手を、しばらく見ていた。

(——私は、これから…何を書くのか)

(私は、これから、徳川幕府の終わりに繋がる、最初の一行を書くのだ)

(私は、徳川の家臣ではないか)

(その私が、徳川幕府の終わりに繋がる、最初の一行を書くのか)

(これは、裏切りではないのか)

(——いや、違う)

(私は、上様をお救いしたいのだ)

(幕府は、もう倒れる。倒れる泥舟に上様を、乗せ続けて、

一緒に沈むのを見ているのは、忠義ではない。それは、ただの惰性だ)

(上様を岸に、上がっていただく。岸の上で、別の船にお乗せする)

(その新しい船の舳先で、上様には、これからの長い長い、徳川のご一門の行末を見守っていただく)

(——これが忠義だ)

(私の忠義の形だ)

平岡は、目を閉じた。

閉じた目の中で、もう一度、あの奥書院の慶喜公の、しずけさを見た。

あの嵐の前の海面のような、静けさを。

平岡の手の震えが、ゆっくりと止まった。

止まった手で平岡は、紙の上に最初の一字を置いた。

「上様」

書いた瞬間、平岡の中の武士の何かが、ぐっと、痛んだ。

しかし平岡は、書き続けた。

——上様。

御身の御立場、御進退、御運命に関し、家臣として、ひそかに胸中に抱く所存を、本日、率直に書き付け、申し上げまする。

近頃の幕府の御様、ご家中の御出費、お外国へのお支払、お軍備のお補強——いずれも、もはや、米のお年貢のみにては、お賄いの目処が立ちませぬこと、上様におかれましては、すでによくよく、お見抜きでございましょう。

かような中で、上様が、将軍のお席に就かれることは家臣として、申し上げにくきことながら——

徳川のお家のお血筋を、長きにわたりお守りする、ということから考えまするに、必ずしも最も賢いお選びではないと、私はひそかに考えておりまする。

徳川のお家の、本当に大事なるは、幕府という——お役所の形ではなく、徳川というお血筋、お精神、お資産の後の世への引き継ぎでござります。

ここから先、上様が、お進みになる道は二つあるかと存じまする。

一つは、これまで通り幕府のお頭として、お国を率いる道。なれど、これはお船とともに、お血筋ごと沈むお選びになりかねませぬ。

もう一つの道は——

平岡は、ここで筆を止めた。

止めて、またしばらく、無言で紙を見ていた。

雨が屋根を、強く叩いていた。

行灯の油が、ぱちりと爆ぜた。

平岡は、深く息を吸って続けた。

——朝廷との、協力という…新しい形の船を、お組みになる道でござります。

ご公議のもと有力なお大名様方が、合議でお国の方向をお決めいたしまする。その新しいお船の最も太いお柱に上様には、お乗りいただく。徳川のお家は、幕府というお役所の形を、卒業し新しいお船のお柱として、長く、長く生き延びてゆく——

平岡は書いた。

書きながら…自分の中である言葉が、形になった。

「これからの天下、もはや徳川のお名でお治めになるは、お損でござります」

「これからは、『公議』というお名のお隠れ蓑をお使いになり、朝廷のお名をお借りになって、真のお力をお振るいになるべきかと」

平岡はその一文を、丁寧に書きつけた。

書き終えてから、しばらく、墨を乾かすために、そのままにしていた。

行灯の橙が、紙の上をゆっくりと撫でた。

雨は、さらに強くなっていた。

八 慶喜の沈黙

翌朝。

雨は、まだ降っていた。

ただし明け方、少しだけ間遠になった。

一橋家の慶喜の私室。

二十四歳の若き当主は、文机の前に坐っていた。

部屋の中の空気は、静かだった。

空気自体に静けさが、満ちていた。

平岡が部屋に入った時、慶喜は、文机の上で別の書物を開いていた。

その書物は——二日前に、勝が別の話の流れで、平岡を通じて、慶喜の手に渡るように仕組んだ、清国の最近の事情を記した内々の写し本だった。

慶喜は、その書物のある頁の上に、指を置いていた。

ぴくりとも、動かさずに置いていた。

「平岡か」

慶喜の声は、低かった。

しかし、その低さの中に不思議な芯があった。

「ははっ」

「何ぞ、用か」

「上様へのご建白の儀、書状にて整えてまいりました」

「ご建白」

慶喜の眉が、わずかに動いた。

「……ふむ。読もう」

平岡は、丁寧に書状を両手で、慶喜の文机の上に置いた。

置いてから、後ろに下がった。

慶喜は、清国の写し本を、軽くわきに退けた。

退けてから、書状を開いた。

平岡の書状の最初の一字を、慶喜はしばらく見つめていた。

見つめてからゆっくりと、頁をめくり始めた。

部屋の中で雨の音だけが、流れていた。

平岡は、部屋の隅で姿勢を、正して坐っていた。

坐ったまま、慶喜の顔を見ていなかった。

見ることができなかった。

慶喜の顔の表情は途中で、一度も変わらなかった。

眉も、動かなかった。

唇も、動かなかった。

目だけが文字の上を、ゆっくりと左から右へ、上から下へ走っていた。

最後まで読み終えた。

読み終えてから慶喜は、しばらく、書状を自分の手の中で握っていた。

握っていた手が、わずかに動いた。

動いて書状を、ゆっくり文机の上に戻した。

「平岡」

「ははっ」

「面を上げよ」

平岡は、顔を上げた。

慶喜の鋭い眼が、平岡の眼をまっすぐに射抜いた。

平岡は、しかし——その視線を、外さなかった。

外さないと決めて、ここに来ていた。

慶喜は、しばらく平岡の眼を見ていた。

見てからふっと、目を伏せた。

「……」

「上様」

「うむ」

「お叱りは、覚悟の上で書きましてござります」

「叱りはせぬ」

慶喜の声は、静かだった。

「これは、お前の独りでの考えか」

「ははっ」

「嘘を申すな」

慶喜の声に、わずかに刃が宿った。

「平岡。お前は、確かに頭の良い男じゃ。なれど、これだけの絵図を、お前一人で描けるほどの——人物ではない」

平岡の心臓が、一度強く跳ねた。

跳ねたまま、しかし、平岡は応じた。

「上様の…お見立て通りでござります」

「そうか」

「左様でごさります」

「……勝…か?」

「ご明察でござりまする」

「……」

慶喜は、しばらく無言だった。

無言で雨の音を、聞いていた。

「他には?」

「は」

「勝の後ろに、誰かおるか」

平岡は、しばらく答えなかった。

答えずに、慶喜の眼を見ていた。

慶喜は、その沈黙を見ていた。

見てからふっと、目元を緩めた。

「……平岡」

「ははっ」

「お前は、不器用な男じゃのう」

「は」

「沈黙が、答えになっておるということに、お前は気づいておらぬ」

「……」

「気づいておらぬ振りをしている…と申すべきか」

平岡の頬が、わずかに紅くなった。

「上様」

「うむ」

「勝殿は、その絵の、作者ではござりませぬ。なれど——」

「うむ」

「作者の名は、私の口からは、申し上げかねまする」

「ふむ」

「申し上げぬということを、ご容赦いただきとうござりまする」

「……」

慶喜はしばらく、平岡の眼を見ていた。

見てから、わずかに笑った。

笑みは、すぐに消えた。

「平岡」

「ははっ」

「この絵図は——」

「は」

「美しいのう」

「……」

「美しすぎて、わしの足の下から、徳川という地面を、ふっと抜き取ってしまう絵じゃ」

「上様」

「しかしだな、平岡」

慶喜の声が、また、静かになった。

「美しい絵は、危険じゃ。美しさでつい見入ってしまう。見入っているうちに、足の下の地面が、変わっておることに気づかぬ」

「……」

「わしは、賢いらしい」

慶喜は、自嘲するように言った。

「らしいと…人が言うておる。なれど、賢いと人に言われるほど、わしは、自分のことを賢いとは、思うておらぬ」

「……」

「賢い者ほど、誘導には、引っかかるものじゃ」

慶喜は、文机の上の清国の写し本を、軽く指で撫でた。

「最近、目に届く、いくつもの書物。耳に届く、いくつもの話。それらが、ある一つの方角を指しているということに——わしは気づいておる」

「……」

「気づいておるが、それを嫌だとは、申しておらぬ」

平岡の目が、わずかに見開かれた。

「上様」

「うむ」

「それは——」

「平岡」

「ははっ」

「この建白書、わしがしばらく預かる」

「……ははっ」

「お前は、これからこの件について、誰にも何も申すな」

「ははっ」

「勝にも申すな」

「ははっ」

「勝の後ろの、お方にも申すな」

平岡の体が、ぴくりと止まった。

「……ははっ」

「分かったな」

「……承知、致しましてござります」

慶喜は、書状を再び、手の中に取った。

取って、自分の文机の奥の引き出しに、丁寧にしまった。

しまってから平岡を見ずに、静かに言った。

「平岡」

「ははっ」

「お前は、わしを愛しすぎておるのう」

「……」

「武士として、不器用な愛し方じゃ」

「……」

「なれど、その愛のおかげで——」

慶喜は、ふっと笑った。

今度の笑いは、消えなかった。

「わしは今夜、よう眠れる」

「……」

「下がってよい」

「ははっ」

平岡は、深く頭を下げた。

頭を下げたまま、ゆっくりと…後ずさって部屋を、出た。

障子を閉めた。

閉めた瞬間、平岡の膝が、廊下の上でわずかに崩れた。

膝をつかぬよう、平岡は、必死で自分の体を支えた。

支えながら、心の中で呟いた。

(——上様は、すでにご覧になっていた)

(私が建白書を持って参った時には、すでにすべてをご覧になっていた)

(そして私の口から、その絵が出てくることを待っておられた)

(——あの方は、本当に怖いお方じゃ)

九 夜明けの橋、再び

その夜明け。

雨はまだ、降っていた。

両国橋の上にもう一度、勝海舟が立っていた。

今度は、平岡はいない。

勝は一人だった。

川の濁流の音が、ごうごうと続いていた。

勝の懐には、夜のうちに平岡から届いた、短い書状の写しがあった。

書状には、こう書いてあった。

——「絵、上様の御文机に収まり申した。御反応は、いずこへも漏らすべからずとの由。なれど、御態度に揺るぎなし。某、安堵にて本書を密かに、お知らせ申し上げまする」

勝は、その書状を夜のうちに読んで、すぐに両国橋まで歩いてきた。

歩いてきて、橋の上に立っていた。

川の流れを見ながら、勝は心の中でふっ笑った。

(慶喜公は、もうご覧になっていた。種を撒くまでもなく、ご自分でお見つけになっていた)

(オイラはただその種が、地面の上に在ることを、お知らせしただけだ)

(賢いお方ってのは、こういうもんだ)

(賢いお方を動かすのは、こちらが、押すんじゃなくてご自分が、押し動かすための最初の薄い、薄い、坂を用意することだ)

(その坂は、もう用意できた)

勝は、川を見ながら、もう一度笑った。

今度は、声に出して笑った。

「ふっ、はっはっは」

川風に笑い声が、流れた。

川面の濁流は、川風をまったく気にせず、流れ続けた。

勝は橋の手すりから、体を離した。

離してから、川下の方角をしばらく見つめた。

川下の方角のはるか先に、海が、 ある。

海の向こうに、世界がある。

勝は、その方角を見つめて、ぽつりと呟いた。

「姫様」

「あんたの絵は、また、一筆進みやしたぜ」

「平岡さんを、絵の中に引き入れた」

「平岡さんは上様を、絵の中に引き入れた」

「上様は、もう絵をご覧になった」

「ご覧になったまま、しばらくお黙りになる」

「だが——」

「あの黙り方は…絵を、お受けになったお方のお黙り方だ」

勝は、ふっと息を吐いた。

「あんたって人は、本当に面白いお方だ」

「これが無血移行ってえ、絵の本当の意味なんだな」

「徳川のお血筋を、生かしたまま、徳川のお役所の方を殺す」

「殺された側は、誰も自分が殺されたってことに気がつかねぇ」

「気がつかねえまま、別の岸の別の船の、太い柱になっちまう」

「ふっはっはっはーー」

勝は、ふと自分の口から、笑いが漏れたことに気づいた。

気づいて、慌てて口を押さえた。

「いけねえ、いけねえ」

勝は、苦笑した。

「やはり姫様のやることは、楽しくて仕方がねぇなぁ」

十 一橋上屋敷、奥御殿の朝

一橋上屋敷。

奥御殿の糸子の私室。

表向きには御所より朝廷の使者が、江戸にお越しになられているために、しばらく一橋上屋敷にご滞在中ということになっている。

実際には、糸子がその奥御殿を本拠として、勝、善次郎、近藤らを動かしていた。慶喜の住まう屋敷の、最も奥の一画。これほど大胆に、しかし、これほど目立たぬ場所もなかった。

その朝、江戸の空は雨の合間のわずかな晴れ間を見せていた。

簾を巻き上げると屋敷の池の水面の上に、夏の日差しがちらちらと跳ねていた。庭の青楓の葉が、雨上がりの光に緑をより深く見せている。

糸子は奥御殿の縁側で、漆塗りの折敷を膝の前に置いていた。折敷の上に新茶と季節の干菓子——青葉の形の、淡い緑色の練切。

糸子の前に、善次郎が坐っていた。その朝のうちに上屋敷の奥まで急ぎ足で参じていた。手には勝海舟からの写し書状。

「姫様」

「善次郎」

「勝様より、お便りが届きましてございます。

「拝見いたしましょう」

善次郎は書状を糸子の前に、両手で差し出した。糸子は書状を受け取って、ゆっくりと開いた。

書状には、平岡円四郎との両国橋上の対話、平岡が建白書を書いた経緯、慶喜公の元に書状が届いた経緯、慶喜公の反応——「揺るぎなく、しばらくお預かりとなる」という様子——が、勝の独特の軽さと深みを併せ持つ筆遣いで簡潔に、しかし漏らさず記されていた。

糸子は最後まで読んだ。読んでからしばらく紙を膝の上に置いていた。

読み終わってからの糸子の唇の端が、ゆっくりと上がっていった。

「善次郎」

「はい」

「平岡殿は——慶喜公を愛しすぎておいでですね」

「左様でございますか」

「ええ。だから、わたくしの嘘を、信じざるを得なかった」

善次郎の眉がわずかに上がった。

「嘘、でございますか」

「嘘と申しますか——」

糸子は扇子を軽く開いた。

「絵図の中のある一面だけを見せて、別の面は見せない…ということでございます」

「ほう」

「絵の表側だけを見せれば、それは確かに徳川を救う絵に見えまする」

「……」

「絵の裏側は——」

糸子は扇子の影で微笑んだ。

「徳川をゆっくり、じわじわと解体する絵でもござりまする。両方、本当でございます。両方とも嘘ではありませぬ」

「はぁ」

「平岡殿は絵の表側をお信じになった。裏側はお見えにならなかった。なぜなら——平岡殿のお目は、上様お一人だけをご覧になっておられるから」

糸子は扇子をぱちりと閉じた。

「主君をお救いになりたい…というお心が、絵の表側だけをお見せしてしまった」

「……」

「愛というものは——交渉において最も使いやすい、テコでござりまする」

善次郎はしばらく姫君の言葉を咀嚼していた。

「……姫様、慶喜公がもし絵の両面をご覧になっていたら、いかがなされまするか」

「ご覧になっておいででしょうね」

「……は?」

「あのお方は賢いお方ゆえ。両面をご覧になった上で——それでもなお、表側をお受けになられたのです」

「……」

「裏側をご覧になりつつ、表側をお受けになる。これがご決断というもの。あのお方のご決断は、平岡殿のような純粋な愛とは違いまする」

「……」

「あのお方は徳川のご一門のお血筋をご家臣を、ご家族を一切合切、新しい船にお乗せ替えなさるご決意をお固めになる、その第一歩を今、お踏み出しになった」

善次郎は深く息を吐いた。

「……姫様、慶喜公が表側をお受けになった…ということは——将軍をお支えなさるべき、最も近き右腕のご側近が、将軍に『辞めるご準備』をお勧めしている…ということでございますね」

「左様でございます」

「これは——」

「ええ」

糸子は扇子をもう一度開いた。扇子の影で唇の端が、いつもより深く上がった。

「幕府…という名の泥舟に——わたくしが、最も大きな穴を開けさせていただきました」

「……」

「その穴は外からは見えませぬ。船の底の最も深いところに開いた穴でございます。

船の上の方々は、しばらくは何もお気づきにならぬまま漕ぎ続けまする。なれど、船の底はもう…これからゆっくりと、ゆっくりと、水が入り続けるのでございます」

「……」

「やがて船の上の方々が、足の下が湿っておることにお気づきになる頃には——岸の上に新しい船が、すでに組み上がっておりまする」

糸子は扇子を口元に添えた。

「……ふふふ腐腐腐腐腐腐腐腐腐」

ごく小さな…しかし確かな笑いが、扇子の影から漏れた。

善次郎はしばらく目を伏せて、その笑いを聞いていた。聞いてからゆっくりと頭を下げた。善次郎の内心の声が流れていた。

(姫様はお優しいのか、お怖いのか、本当に分かりませんね。多分、両方なのでしょう)

(両方であるからこそ、人は姫様の絵の中に自らから入っていくのでしょう。私自身も、もう出られませぬ。出ようとも思いませぬ)

善次郎はゆっくり顔を上げた。

「姫様、私はこれから神田へ戻りまする」

「お役目、お頼み申しまする」

「はい」

「今後、平岡殿は上様のおそばで、日々煩悶なさることと存じます。

なれど——平岡殿の煩悶こそが、上様のお決断を深めてゆきまする。煩悶は削らずに煩悶のままにしておくことが、要でございます」

「はっ」

「勝殿には、これからしばらく平岡殿に、これ以上、新しい話をお入れにならぬよう、お伝えくださいませ。今は上様お一人で…お考えになる時間が要りまする」

「勝様にそのように伝えます」

「半年、待ちまする」

「ははっ」

「半年お黙りになって、上様がふと勝殿をお呼びになる日が参りまする。

その日が——次の絵を描き始める日でございます」

十一 雨の音

善次郎が下がった後、糸子は、しばらく縁側に坐っていた。

庭の青楓の葉が、雨上がりの光に揺れていた。

葉の上に残った、雨粒が時々、ぽとりと池の水面に落ちていった。

糸子は扇子を、膝の上に置いた。

お茶の湯呑みを、両手で持った。

持ったまま、しばらく何もしなかった。

ただ、呼吸をしていた。

呼吸を整えていた。

糸子の心の中でいくつもの場面が、流れていた。

両国橋の上で勝が、平岡に紙を差し出したその瞬間。

平岡が、夜の書斎で震える手で、最初の一字を書いた…その瞬間。

慶喜が、文机の前で書状を読み終えた、その瞬間。

そして——慶喜が平岡に向かってふっと笑った、その瞬間。

糸子は、その全部を自分の頭の中で見ていた。

見ながら心の中のどこかで静かに、頭を下げていた。

(—— 慶喜公)

(あなた様のご覚悟を、どうかお汚しいたしませぬよう)

(わたくしは、徳川のお家を本気でお救いしようと思っておりまする)

(救うために幕府を、殺すしかありませぬ)

(あなた様もそれを、お分かりになった上で平岡殿のご建白を、お受けになった)

(——お互い、覚悟しましょう)

糸子は静かに、目を閉じた。

簾の外で、また雨が降り始めた。

江戸の梅雨の、しずかな雨だった。

雨の音は遠くの楓の葉の上で、ぱらぱら、ぱらぱらと続いていた。

その音の中で糸子は、ぽつりと小さな声で呟いた。

「無血…一切血を流さないことは、理想ではあるけれど、現実には…どれくらいできるものなのでしょうか…」

その問いが自分の中で、繰り返された。

誰の血を流さぬ…ということ。

多少の血は流されてしまうかも…ということ。

徳川のお血筋も、攘夷の若い者たち…薩摩の、長州の、土佐の、越前の、肥前の——誰の血もなるべく流したくない…ということ。

それは絵が完成する最後まで、諦めずに近づけるということ。

多くの血を流せばそれは…ただの戦乱にもなりなる。戦乱の上に立てば、いずれ別の戦乱に倒される。

糸子が描こうとしているのは、戦乱で立つ国ではなかった。

糸子は、目を開けた。

目を開けた瞬間、扇子をぱちりと閉じた。

閉じた扇子の影で、ふっと唇の端が上がった。

「……あれこれ考えても、詮無きこと。ただ、ただ実行するのみ、近づけるのみでございます」

葵が後ろで、にこにこしていた。

(——姫君様が、日々を健やかに過ごせますように、私はお助けするだけでございます)

文久元年、入梅の頃。

江戸では、両国橋の下を隅田川の濁流が、ごうごうと流れていた。

平岡円四郎は自分の私室で、しばらく文机の前に、坐ったまま動けないでいた。

慶喜は、自分の文机の引き出しの中の一通の書状を、ふと思い出しては…しずかな顔で雨の音を聞いていた。

勝海舟は、橋の上で川下の海の方角を、にやりと笑って見ていた。

一橋上屋敷の奥御殿では糸子が、扇子を閉じたまま、青楓の若葉を見ていた。

雨は東国でも上方でも、静かに降り続いていた。

その雨の音の下で——

徳川という巨大な泥舟の最も深いところに最も大きな、しかし、誰にも見えない穴がひとつ…開いていた。

その穴からゆっくり、ゆっくりと…水が入り続けていた。

船の上の人々は、まだ誰一人、気づいていなかった。

糸子の絵は、また一筆…深いところで進んでいた。

第九十九話 了

糸子さんのイメージイラスト④を試しに作ってみました!

いかがでしょうか?ヽ(゜∀゜)ノ♪