作品タイトル不明
第百話「窓」
一
刻は、還る――
文久元年、初春。
江戸を覆う鈍色の空からは、時折、乾いた粉雪がときたま風に舞って落ちてきた。
一橋上屋敷の奥御殿は、外の騒がしさを嘘のように拒絶して静まり返っている。長く伸びた廊下の軋みも、庭の枯れ木が擦れ合う微かな音も、すべてが分厚い寒気の中に吸い込まれていくようだった。
だが、その奥深く、糸子の私室だけは異質だった。火鉢に熾された上質な炭が、パチパチと小さな爆ぜ音を立てては部屋を春のようなぬくもりで満たしている。そこには、仄かに燻る香木の、甘く重たい残香が満ちていた。
その温かい部屋の片隅で、糸子はただ一人、優雅にお茶を啜っていた。
熱い白磁の肌から立ち上る湯気が、彼女のまだ幼さの残る頬の前で、白くゆったりと揺れる。
じわりと指先に伝わる心地よい熱を確かめるように、糸子は湯呑みを、上品に両手で持ち直した。茶の青い匂いと、唇を潤す微かな渋みが、張り詰めた日常の緊張をほどいていく。
書状が届いたのは、そんな、すべてが止まったかのようなゆったりした刻だった。
静寂を引き裂くように、せわしない足音が廊下の鴬張りを鋭く鳴らした。
部屋の御簾の向こう、警護に当たっていた旭狼衛の隊士、一ノ瀬隼人が、息を弾ませて急ぎ足で滑り込んでくる。その肩には、江戸の冷たい風の匂いと、微かな湿り気が白く残っていた。
「姫様、失礼致します。――中浜殿からの、急便でございます」
隼人の声は低く、しかし隠しきれない緊迫感を孕んで強張っていた。差し出された文箱は、はるばる黒潮を越えてきた旅路の果てに、異国の未知の油の匂いを微かにまとっている。
「一ノ瀬殿、おおきに」
糸子はいつもの穏やかな笑みを崩さず、しかしすべてを見透かすような静かな目でそれを受け取った。
封を切り、中に納められていた紙を広げる。
カサリ、と乾いた異国の紙の音が室内に響いた。それは私たちがよく知る和紙ではなく、どこかざらついた、重みのある洋紙の感触だった。
一ノ瀬隼人は、糸子が手紙に目を落としたのを見届けると、一歩後ろへ下がった。
姫様の纏う空気が、一瞬で変わったのを感じ取ったからだ。ただの異国からの便りにしては、部屋を支配する沈黙の重さが違った。
首筋に冷たい刃を突きつけられたような、奇妙な圧がじわりと広がっていく。
「では、私はこれで」
隼人は低く声を残し、深く一礼した。
気配を乱さぬよう、静かに、しかし流れるような動作で後退りする。障子をそっと引き締めるまで、その視線は部屋の主から外されることはなかった。
ピシャリと、微かな音を立てて木枠が噛み合う。
張り詰めた廊下に出た隼人は、ようやく胸の奥に溜まっていた息を吐き出した。冷え切った冬の空気が、強張った顔をなでていく。
二
糸子は目を落とし、そこに躍る、万次郎の狂おしいほどの筆跡を追い始めた。
内容は「世界が変わった」という事実が、届く瞬間でもあった――
San Francisco, Dec. 26th, 1860
My Dear Lady Itoko Konoe,
(1860年12月26日、サンフランシスコ。近衛糸子様へ)
まだ浅い春の光が江戸の空を掠めている頃でしょうか。この紙を姫様がその小さな指先で開かれるとき、私はまだ、この引き裂かれつつある異国の凍てついた大地のどこかで、息を潜めているはずです。
姫様が私をこの未知の国への総領事として押し上げてくださったこと、その大恩は、私の剥き出しの命がある限り忘れることはございません。しかし、いま私が姫様に捧げられるのは、きらびやかな異国の土産話ではなく、この国の喉元から漏れ出る、黒い血のような真実だけでございます。
ここ、サンフランシスコの日本領事館は、数ヶ月前に我々が到着した折の歓迎が、まるで嘘のように冷え切っております。
ほんの少し前まで、私たちを「東洋からの珍客」と手を叩いて熱烈に歓迎してくれたアメリカ人たちが、いま、何をしているかお分かりになりますか。彼らはもう、私たちのことなど見てはいないのです。ただ、互いの胸元を睨みつけ、どちらが先に引き金を引くか、それだけを測り合っています。
この国は、空中分解を始めました。
今月、12月20日のことでございます。サウスカロライナという南の州が、ついにこの合衆国という 『国』から脱退すると、正式に宣言いたしました。
チャールストンの街では、信じがたいことに、国が割れたことを祝う祝砲が鳴り響いたそうでございます。人々は狂ったように笑い、「ついに自由になった」と夜通し踊り狂っていると、こちらへ届く新聞が伝えております。
私の手元にあるアメリカの地元新聞『チャールストン・マーキュリー』の号外には、黒々と、恐ろしい文字が躍っております。
『THE UNION IS DISSOLVED! ――連邦は解体された!』
一国が死ぬ瞬間を、私は文字通り、この目で目撃しております。
すべては、先月の大統領選挙で、リンカーンという男が勝った大いなる歪みの結末です。彼はまだ正式な大統領に就任してすらおらんのです(こちらの仕組みでは、就任は来年三月でございます)。それなのに、南部の人々は「あの男が来れば、我々の暮らしのすべて(奴隷という血の制度です)が奪われる」と、怯え、そして狂暴になっております。
ワシントンの議会からは、南部の政治家たちが次々と荷物をまとめ、呪い言葉を吐き散らしながら故郷へ帰っていきます。話し合いの道は、完全に閉ざされました。
すでに、銃声の幻聴が聞こえるようでございます。
サムターという海上の要塞では、北側の軍が夜陰に紛れて砦を移動し、それに激怒した南側が要塞を包囲いたしました。街の普通の市民たちが、昨日まで商人や農民だった男たちが、今朝からは銃を肩に担いで軍事訓練を始めております。「戦争は避けられない」――その確信が、冷たい霧のように街を、人々の心を、真っ黒に染め上げていくのです。
経済も、恐ろしい速度で腐食が始まっております。
銀行の前には預金を引き出そうとする人々が殺到して、悲鳴のような怒号が響き、ニューヨークの大きな商人たちは「南部との商売が破滅する」と頭を抱えて泣き叫んでおります。
姫様。
私には、この光景が、どうしても他人事とは思えないのです。
海を隔てた我が国、日本。そこでも今、将軍様の継承や、尊王だ攘夷だと、志士たちが刀の柄に手をかけて睨み合っているのではございませんか。
このアメリカという巨大な怪物が、己の肉を己で引き千切り、血を流してのたうち回る姿は、明日の我らの姿ではないのかと……夜、領事館の窓の外、暗い太平洋を見つめるたび、私は背筋が凍るような戦慄を覚えるのです。
I pray from this distant foreign land for but one thing: that when this letter reaches you in the spring, the soil of Edo and your own noble person remain unstained by the scent of blood.
I beg you, please take the utmost care of yourself.
This world, it seems, is a thing far more fragile than we imagine—like a delicate work of glass.
(この手紙が届く春、どうか江戸の地が、そして姫様の御身が、血の匂いに汚れていないことを、ただそれだけを、遠い異国より祈り続けております)
(どうぞ、お気をつけあそばせ)
(この世界は、私たちが思っているよりも、ずっと脆いガラス細工のようでございます)
I hope this letter finds you in good health and spirits,Your everlasting friend,Manjiro Nakahama
(ご尊体健やかに、益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。 貴殿の永遠の友、中浜万次郎より)
……糸子が書状を読み終えた時、しばらく動かなかった。いや、動けなかった。
(中浜殿……)
三
「姫様、いかがされましたか?」
張り詰めた葵の声が、廊下の障子を抜けて、静まり返った部屋に滑り込んできた。
けれど、糸子は動かない。万次郎の狂おしい筆跡をじっと見つめたまま、ただ唇の端を、かすかに歪な形に吊り上げた。
「……きた…来ましたね!」
「何が……でございますか?」
葵はきょとん…としながら見つめていた。
「わたくしが――来ると知っていたものでござりまする」
糸子は、まだどこか熱を帯びた異国の洋紙を、静かに文机の上へと滑らせた。
カサリ…と冷たい音が、不気味なほど室内に響く。
(予測はしていた。もしや…と思う不安もあった)
(けれども、海の向こう側の世界だけは、史実通りに動いていく可能性が高い…と感じられたことは非常に大きい)
胸の奥で、確信という名の冷徹な刃がぎらりと光る。
前世という名の歪んだ記憶が囁いていた通りの歴史。あのアメリカという巨大な怪物が、己の肉を引き千切り、血の海に沈んでいくあの凄惨な劇が、いま、海の向こうで寸分の狂いもなく幕を開けようとしている。
南北戦争。
一八六一年、四月――あの国は必ず、内側から爆発する。
今は三月。あと、一ヶ月。たったの一ヶ月しかない。
普通の人間なら、世界を巻き込む大乱の予兆に腰を抜かし、怯え、神仏に祈りを捧げるかもしれない。
けれど、糸子の双眸に宿ったのは、恐怖ではなかった。それは、暗闇の中で獲物を見定めた猛禽のような、底知れぬ歓喜の光。
これは――脅威ではない。
むしろ、逆だ。これこそが、我が国に与えられた唯一無二の…そして最後の福音。
『――太平洋の窓だ』
心の内でその言葉を、愛おしむように、そして酷薄に噛み締めた。
あのアメリカが内乱という名の地獄に足元を焼き尽くされている間、彼らには、この極東の小さな島国を相手にする余力など、塵ほども残らない。押し寄せる列強の外交圧力という名の窒息しそうな重圧から、日本だけがぽっかりと解放される、奇跡のような空白の刻。
閉ざされた牢獄に、一筋の新鮮な風が吹き込むように、いま、世界が日本に向かってその「窓」を開こうとしている。
四
「姫様……?」
答えを持たない葵が、不穏な気配を察して思わず一歩、身を引いた。
その怯えをあざ笑うかのように、糸子は文机の上の書状を見つめたまま、声音から一切の感情を排して、ただ静かに呟いた。
「風が……変わりますよ、葵」
「これから――日本にとっては、猶予と呼べる四年…という刻が訪れましょう」
ふっと糸子の口元から漏れ出た言葉は、冷たい部屋の空気に触れて白く消えた。
「猶予……でございますか?」
「メリケンが自分たちのことで手一杯になる間に――わたくしたちは、この国を変えまする」
糸子は文机の端から分厚い帳面を引き寄せると、躊躇いなく筆を浸した。たっぷりと墨を含んだ穂先が、滑らかな紙の上で三行だけを書き付ける。
『窓が開いた。』
『四年間。』
『使い切る。』
まだ濡れて黒々と光るその文字を、糸子は満足そうに眺めた。
「葵……」
「なっ、何でしょう?姫様」
急に声をかけられ、葵の肩がびくりと跳ねる。
「まずは甘味とお茶を用意してくださいまし」
「はい、直ちにお持ち致します」
弾かれたように葵が退室していく。その背中を見送りながら、糸子は小さく息を吐いた。
「まず、わたくしがやるべきことは、情報の整理でございますね…」
ぽつりと言ったその声は、薄暗い廊下の隅にまで届いていた。
障子のわずかな隙間から室内の様子を窺っていた近藤勇は、じっとりと拳に汗を握る。
(姫様が動かれた……)
近藤の大きな身体が、目に見えない威圧感に気圧されるように微かにすくんだ。今回は、あの異国からの書状を読んだ直後だ。間違いなく、海の向こうで何かが起きた。
五
手元の帳面を見つめる糸子の頭は、すでに「盤面分析」へと移行していた。万次郎の手紙がもたらした事実は、前世の記憶が寸分の狂いもなく、この世界の現実に重なり始める、戦慄の号砲だった。
この巨大な…日本にとっての好機を完全に使い切るためには、いささかの漏れも許されない。
その確信を指先に込め、彼女は帳面へと向かう。手元にある情報は膨大だが、整理すべき本質は極めてシンプルだった。
幕府が知る「表面の事実」と、自分が知る「未来の真実」。この二つの剥離こそが、これから日本を動かす最大の鍵になる。
……そう考える糸子であった。そして頭に浮かぶ、あらゆることを、躊躇いなく筆を走らせた。
◆ 幕府の情報
【幕府が把握できる情報】
・アメリカの政治的緊張: 南部諸州の脱退と、彼らが独自に「アメリカ連合国」を樹立したという政変の事実。
・リンカーン大統領就任: 彼が正式に大統領に就いたという報せと、その就任演説の概要。
・ワシントン周辺の治安悪化: 暗殺の噂を避けるため、リンカーンが変装して夜陰に乗じ入城せざるを得なかったという緊迫した内情。
・サムター要塞をめぐる駆け引き: 南北双方の軍が、一触即発の状態で要塞を睨み合っているという現地からの凶報。
・肌で感じる戦雲: 横浜港に集まるメリケンの商人や船員たちの間で、すでに「いよいよ本当に戦争が始まる」という噂が現実味を帯びて飛び交っていること。
【幕府、万次郎が把握しにくい情報】
・正確な開戦日の予測不能: 文久元年の初春という現在の時点では、具体的に「何月何日」に最初の砲声が鳴り響くかまでは見通せない。
・戦争の規模と期間の誤認: これがどれほど凄惨な泥沼になるか、現地のアメリカ人でさえ「数ヶ月の小競り合いで終わる」と高を括っており、長期の総力戦になるとは誰も予想していない。
・軍事力・資金力の詳細な数字: 南北それぞれが動員できる正確な兵力や、それを支える戦時財政の具体的な裏付け。
・列強の動向: イギリスやフランスといった欧州の国々が、経済的な思惑から最終的にどちらの陣営に肩入れするのかという外交の不透明さ。
◆ 史実の南北戦争の情報
【戦争の具体的な推移】
開戦(1861年4月12日):リンカーンの当選を認めない南部が引き金を引く。サウスカロライナ州のサムター要塞へ向けて南軍が容赦ない砲撃を開始し、ついに同族嫌えの戦いが幕を開ける。
初期:南部優勢(1861年後半〜1862年)
名将リー将軍に率いられた南軍は、個々の将兵の質の高さを武器に、東部戦線で北軍を次々と撃破する。首都ワシントンの膝元で大敗を喫した北部は完全に揺らぎ、戦局は一気に長期化の泥沼へと引きずり込まれていく。
転換点:北部への風向き(1863年)
奴隷解放宣言(1863年1月1日): リンカーンが放ったこの一手が、戦争の性質を「単なる身内の領土争い」から「奴隷制廃止という大義名分」へと昇華させる。これにより、欧州列強は南部を公然と支援する大義を失う。
ゲティスバーグの戦い(7月): 史上最大の激戦の末に北軍が勝利を収め、南軍の北進を決定的に阻止する。
ヴィックスバーグの戦い(7月): 同時期、北軍がミシシッピ川の要衝を制圧。南部は完全に地理的分断を余儀なくされる。
終盤:北部の一方的勝利(1864〜1865年)
グラント将軍率いる北軍が、その圧倒的な産業力、人口、そして網の目のように張り巡らされた鉄道網という「物量」で南部を圧殺し始める。シャーマン将軍による容赦のない「海への進軍」によって、南部の主要な経済基盤と生活インフラは徹底的に焼き尽くされた。
終結(1865年4月):
1865年4月9日、バージニア州アポマトックス・コートハウスにて、限界を迎えたリー将軍が降伏。事実上の終戦を迎える。
【戦争の主な影響と結果】
奴隷制度の完全な廃止: 合衆国憲法修正第13条の可決により、建国以来の歪みであった奴隷制が法的に終焉を迎える。
産業資本主義の確立: 北部の勝利により、保護関税の強化や大陸鉄道の建設、ホームステッド法(1862年)などが一気に推進され、アメリカは農業国から工業中心の近代巨大国家へと変貌を遂げる。
連邦の統一: 各州が持つ独自の権利(州権)よりも、中央政府(連邦)の優位性が絶対的なものとして確定する。
六
◆ 日本への影響
この海の向こうの4年間にわたる大乱は、奇しくも日本の「幕末・維新期」の進路を決定づけることとなる。その本質は、皮肉にも「中古兵器の氾濫」と「大国の不在がもたらした空白」だった。
1. 中古兵器の大量流入(戊辰戦争の裏舞台)
1865年にアメリカで戦争がピリオドを打った瞬間、戦場でだぶついた膨大な軍事在庫が行き場を失った。これを目ざとい死の商人たち(グラバー商会など)が見逃すはずはなく、仕入れ値同然で買い叩かれた兵器が、そのまま日本へと流れてくる。これが、後の戊辰戦争の火力を劇的に変えることになった。
小銃: 当時の主力であった「ミニエー銃」や「エンフィールド銃」、さらには最新鋭の連発銃である「スペンサー銃」などが一気に流入し、日本の戦場から刀槍の時代を一掃する。
ガトリング砲: アメリカで産声を上げたこの恐るべき機関銃が、本格的に実戦で猛威を振るったのは、本国ではなく日本の北越戦争(長岡藩の河井継之助らによる防衛戦)が最初期となった。
甲鉄艦(後の東艦): 元々は南軍がフランスの造船所に発注した最新鋭の鉄甲船「ストーンウォール号」だった。終戦によって宙に浮いたこの怪物を江戸幕府が買い付け、紆余曲折を経て新政府軍の手へと渡り、最終的には函館戦争を終結させる決定打となる。
2. アメリカの外交・プレゼンスの低下
黒船を送り込み、力ずくで日本の扉を開け放った張本人であるアメリカが、自国の身内揉めによって東アジアの舞台から一時的に脱落する。
影響力の空白: メリケンが内戦に没頭している間、日本における外交の主導権はイギリスとフランスの二大国へと完全に移る。これが、イギリスが「倒幕派(薩長)」を後ろ盾し、フランスが「幕府」を囲い込むという、幕末特有の二大陣営の対立構造を先鋭化させた。
関係の停滞: 万延元(1860)年に日本が命懸けで派遣した初の遣米使節団の直後に戦争が始まったため、本来期待されていた日米間の密接な経済・外交ルートは、数年にわたり完全に機能不全に陥る。
3. 日本側の視点と近代化への刺激
この激動を、当時の日本の知識人や志士たちは単なる「対岸の火事」としては見ていなかった。彼らはこの内戦の経過を、自国の未来を占う教科書として凝視していた。
近代化の加速: 福澤諭吉をはじめとする洋学者たちは、内乱という致命的な危機を経てなお、より強固に再統一されたアメリカの姿を目の当たりにし、諸藩が割拠する古い日本を廃し、強力な「中央集権国家」を打ち立てる必要性を痛感する。
拳銃: 史実の龍馬が寺田屋の危難などで愛用したことで知られる「スミス&ウェッソン(S&W)モデルNo.2」。この銃が日本に大量に持ち込まれたのも、南北戦争期に米軍の将校たちがこぞって私物として買い求めたため、生産ラインが爆発的に拡大していたという背景があった。
七
そこまで一気に書き連ねたところで、廊下から気配が近づく。
葵がお盆を手に戻ってきた。
「お待たせいたしました、姫様。お茶が入りましたよ」
文机に置かれたのは、湯気を立てるお茶と、小さく切られた羊羹。糸子は筆を置くと、ふっと表情を和らげてそれを受け取った。
「おおきに、葵。良い匂いでござりますね」
じわりと指先に伝わる湯呑みの熱を確かめながら、茶を一口、喉に流し込む。
その様子を、近藤がまだ障子の影から固唾をのんで見守っていた。
糸子はわざとらしく視線だけをそちらへ向け、いたずらっぽく微笑んだ。
「近藤殿。そなたの分も用意させておりまする。そこに控えておられては、せっかくの茶が冷えてしまいます。中へお入りくださいまし」
「……御意」
低く太い声とともに、障子が静かに横へ滑った。
部屋に入ってきたのは、巨躯を縮こまらせた近藤勇である。警護のために気配を完全に殺していたつもりが、姫君には、いささか気を使われてしまったらしい。
「警護中の身とは言え、恐悦至極に存じます」
近藤は、磨き上げられた廊下に大きな膝を突き、丁寧に頭を下げた。だが、その目は無意識のうちに、文机の上に広げられた帳面へと吸い寄せられていく。
まだ乾かぬ墨が、部屋の灯火を浴びて黒々と光っている。そこには、メリケンという異国がこれから辿る血の双六と、それを梃子にしてこの日本を根底からひっくり返すための、恐るべき絵図が凝縮されていた。
「近藤殿、そんなに固くならんと、もっと近くへ。葵、近藤殿にもお茶を」
「はい! ただいま」
葵が手際よく動き、新たな湯呑みにお茶を注ぐ。
近藤は促されるままに糸子の傍に、にじり寄った。しかし、その背筋は鉄骨でも入っているかのように、真っ直ぐに張り詰めたままだ。
八
「……姫様。不躾ながら、先ほどの中浜殿からの急便、ただ事ではございませぬな」
近藤は直接、糸子に視線を投げかけた。彼が仕えるこの主は、時にメリケン国総領事すら手玉に取る。その彼女が、書状を読んだ直後にこれほど凄まじい「気」を放ったのだ。
「ええ。海の向こうで、いよいよ大掛かりな『盤繰り』が始まりまする」
糸子は羊羹を小さな黒文字で切り分け、上品に口へと運びながら、何でもないことのように言った。
「盤繰り…でございますか?」
「はい。メリケンが身内同士で殺し合いを始めまする。それも、ほんの小競り合いではござりませぬ。国中の男が銃を担ぎ、畑を焼き払い、互いの息の根を止め合うような、凄惨極まる大戦にございます」
近藤の眉がピクリと跳ねた。
異国の内乱。普通なら「左様でございますか」と聞き流すところだが、糸子の目がそれを許さない。
「それが、この日本とどう関わるのか……お分かりになりますか、近藤殿?」
試すような声音。近藤はごくりと唾を飲み込み、自らの浅薄な予測を口にするのを躊躇った。
だが、ここで黙り込むのは旭狼衛の長として許されない。
「……アメリカが乱れれば、我が国へ押し寄せる黒船の数も減りましょう。なれば、幕府も少しは息をつけまする…でありましょうか?」
「半分正解、半分は残念にございますね」
糸子はクスリと笑った。その笑みには、絶対的な自信が宿っていた。
「確かにメリケンは日本から手を引きまする。けれど、空いた座には、すかさずイギリスとフランスが滑り込んできましょう。幕府は、アメリカを失った恐怖から…今度はフランスの甘い汁に飛びつくことになりましょう。そして、薩摩や長州はイギリスの知恵を借りる。……つまりね、近藤殿」
糸子は湯呑みを置き、文机の帳面をパタンと大きな音を立てて閉じた。
「わたくしが伝えた代理戦争論が、現実味を帯びてきた…ということでございます」
「そして同時に…あちらの戦争が終わるまでの『四年間』。これが、この国に与えられた唯一の猶予になりまする。
この間に、わたくしたちが、朝廷が、日本が…いかに力を集結させて足場を固めなければ……四年後、内戦を終えて怪物となって帰ってきたメリケンと、彼らに乗っかったイギリス、フランスに、この国は骨までしゃぶられまする」
近藤は、ただ圧倒されていた。
目の前にいるのは、間違いなく十三歳の近衛家の姫君だ。しかし、その口から語られる言葉は、一介の武士が考える「天下国家」の規模を遥かに超え、巨大な盤面を俯瞰しているように思えた。
「窓が開いたのです。たった、四年間だけの…」
糸子は立ち上がり、部屋の窓から見える江戸の寒空を見上げた。
「ところで、姫様、不躾ながら質問があるのですが……」
近藤が、膝に置いた拳を握り直しながら尋ねた。
「何でありましょう?近藤殿…」
「なぜ姫様には、『四年の猶予』……という具体的な期間がお分かりになるのでしょうか?。メリケンが身内揉めを始めるとしても、それがいつ終わるかなど、誰にも見当がつかぬはず…」
糸子は、湯呑みを口元へ運ぶ手をふっと止めた。
(さすがに、前世の知識で知っています……とは言えないわねー)
ほんの一瞬だけ、脳内でそんな苦笑いを浮かべたが、表には出さない。いつもの涼しげな顔のまま、近藤をまっすぐに見据えた。
「……近衛家には、表には出ぬ独自の情報網がありまする。此度の万次郎殿からの書状で、その集めていた情報の確証が得られ、ようやく一枚の絵になったのでございます」
糸子は湯呑みをそっと机に置いた。
「それらの情報を以前、徹底的に精査し試算いたしました。それらを突き詰めれば、どれほど泥沼化しようとも、四年前後で必ずどちらかが力尽きる……そういう数字が導き出されたのでございまする」
近藤は、その淀みのない答えにただ息を呑んだ。
占いのような予言ではない。どれほどの情報と、それを裏付ける計算があれば、その知略の深さになりえるのだろうかと…近藤は改めて背筋が震えるのを覚えていた。
「この四年間を、一滴も残さずにすべて使い切る。そのために、わたくしも自ら動かねばなりますまい。近藤殿、旭狼衛の護衛を当てにさせていただきまする」
振り返った糸子の瞳には、今までにない覇気と、底知れぬ笑みが妖しくきらめいていた。
九
「はっ……! 我ら旭狼衛は、最後の一人になるまで、姫様を必ずお守りして見せます」
畳に両手を突き、額を擦りつける近藤の背中は、まるで精悍な岩塊のようだった。男たちの命を預かる長の、偽りのない剥き出しの誓い。その太い声が、温かい室内の空気をびりびりと震わせる。
「ですから、どうか安心して姫様は、信じた道をお歩みくだされ」
近藤は顔を上げ、糸子をまっすぐに見据えた。その濁りのない眼光には、絶対の決意が宿っていた。
姫様が描く未来の盤面がどれほど血生臭く、どれほど険しいものであろうとも、己が守護し姫様の歩まれる道を確保する。その覚悟が、男の寡黙な佇まいから饒舌に伝わってきた。
糸子は、その真っ直ぐな言葉を正面から受け止めた。
張り詰めていた肩の力をそっと抜き、どこか慈しむような、それでいてすべてを委ねるような柔らかな笑みを浮かべる。
「頼み上げましてございますえ、近藤殿」
はんなりとした京言葉が、近藤の頑なな心を優しく解きほぐしていく。彼女がただの冷徹な怪物ではなく、自分たちを真に必要としているという事実が、男の胸をさらに熱くさせた。
「さて……」
糸子は文机の上の帳面へ視線を戻し、声音をふっと実務のものへと切り替えた。
「これから、さらに深く情報を整理致さねばなりませぬ。少しでも思考の糸がもつれれば、四年の猶予など一瞬で霧散してしまいます」
「葵、近藤殿……」
「はい、姫様」
「はっ」
「これより、わたくしが呼びかけるまで、この部屋には誰も…一歩たりとも入れることは許しませぬ。よろしゅうございますね?」
「畏まりました。この近藤、奥御殿の敷居は跨がせませぬ。葵殿、参りましょう」
近藤が巨躯を翻し、葵を促して静かに立ち上がる。葵は名残惜しそうに、しかし主の絶対的な決意を汚さぬよう、一礼して部屋を後にした。
パタン、と障子が閉まる。
二人の足音が廊下の鶯張りを小さく鳴らし、やがてそれも遠ざかって、完全な沈黙が戻ってきた。
一橋上屋敷、奥御殿。
外では相変わらず、乾いた粉雪が鈍色の空から音もなく舞い降りている。低く垂れ込めた雲が陽光を遮り、庭の枯山水は白く凍てついていた。
しかし、この閉ざされた一室だけは、赤々と熾る火鉢の熱で満たされ、仄甘い香木の香りが濃密に淀んでいる。
世界から切り離されたようなその空間で、糸子は大きく息を吸い、再び筆を取った。
静寂の中に、墨を磨る微かな音だけが響く。
彼女の脳裏には、先ほど整理した南北戦争情報が、そしてさらなる情報たちが浮かび上がっていた。
これから先、前世で知った歴史の通りに動く可能性が高い。だが、それをただ待つだけでは意味がない。 幕府よりも、雄藩よりも先に、この手で御さねばならないのだ。
カサリと帳面をめくる。
糸子は帳面に最初の一文字を書き付けた。
さらさらと、躊躇いのない筆跡が白紙を埋めていく。細い指先が、驚くほどの速さで文字を紡ぎ、描き出していく。
これは、単なる覚え書きではない。
数年後の日本、そして世界という巨大な獲物と対峙するための、精緻な蜘蛛の巣だった。
窓の外の冷気とは対照的に、糸子の内側からは静かな、しかし圧倒的な熱量が湧き上がっていた。文字を追う彼女の瞳は、爛々と怪しい光を放ち、時折、楽しげに小さく揺れる。
誰にも知られることなく、この静寂に満ちた奥御殿の一室で、日本の未来を決定づける本当の「革命」が、いま、ひっそりと始まりを告げた。
第百話 了
糸子さんのイメージイラスト⑤を試しに作ってみました!
いかがでしょうか?ヽ(゜∀゜)ノ♪