軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七十五話「教科書、試験運用開始」

万延元年、冬。

江戸に、最初の本格的な寒さが来ていた。

一橋上屋敷の庭は、すっかり冬の支度を終えていた。楓は葉を全て落とし、枝だけが朝の空に向かって細く伸びていた。石畳の上には、庭師が朝一番に集めた落ち葉が小さな山になっていた。その山が、冬の朝の光を受けて橙色に見えた。

池の水面が、今朝は特に静かだった。

風がなかった。水が鏡のように平らで、その中に冬の白い空が丸ごと映っていた。空の雲が、水の中でも同じ形をしていた。上と下が逆になった、二つの空だ。

霜が石畳の隙間に降りていた。庭師が踏みながら歩くたびに、霜が薄く砕けた。その砕ける音が、静かな冬の朝に小さく響いていた。

松の緑が、今日は一段と深く見えた。

冬の白い光の中に、松の暗い緑だけがある。他の木が全て枝だけになった庭で、松だけが変わらない。その変わらなさが——今の季節は、特別な存在感を持って見えた。

奥御殿の一室。

糸子は朝から準備をしていた。

今日は特別な日だった。

教科書の試験運用が、今日から始まる。

第一期生——十名が、今日初めて集まる。

机の上には、初稿が五冊並んでいた。しかし今日使うのは一冊だけだ。第一巻のみを、今日は教える。残りは順番に。

「葵」

「はい」

「今日の場所は整いましたか」

「はい。日本橋小舟町の取次所の二階に、座敷を用意しました。畳六枚ほどの広さで——十人が座れます」

「塗板は?」

「昨日、運び込みました」

「墨と紙は?」

「各自分をご用意しております」

「よろしゅう おたの申します」

「はい」

葵が退室した。

糸子が窓の外を見た。

冬の庭が広がっていた。池の水面に、空が映っていた。

(三月余かけて作った教科書が——今日、初めて使われる)

(教科書とは本来、教えることで完成する。書いただけでは死に文字に過ぎない)

糸子が帳面を取り出した。

今日の確認事項を見た。

「最初に誰に読ませますか」

昨日の会議で、村田が聞いた。

「十人から始めまする」

糸子が答えた。

「三井系の番頭二人、横浜で取引経験のある商人二人、薩摩の実務担当二人、通詞二人——あと二人は」

「あと二人は」

村田が繰り返した。

「先生役です。村田殿と——もう一人」

「もう一人は」

「まだ来ていない方です」

村田が少し首を傾けた。

「……来ていない?」

「そのうち来ましょう」

(渋沢栄一のことを考えている。坂本が説得中だ。まだ来ていない。しかし——来た時のために、場所を作っておく必要がある)

村田はそれ以上聞かなかった。糸子が言わないことには理由があると——村田は知っている。

「では今日は、村田殿だけで始めましょう」

「承知しました」

「最初の授業の目的は——教科書の内容を伝えることより、生徒が学ぶ理由を理解することでございます」

「どういう意味ですか」

「なぜこれを学ぶ必要があるのか。それが分からないまま教科書を読んでも——頭に入りませぬ。最初の授業で——現実を見せまする」

「第一巻の最初の章——数字が語る現実、ですね」

「そうです。金銀比率の話から始めてくださいまし」

「承知しました」

日本橋小舟町。

天朝御用商務 江戸取次所だ。

表から見れば、普通の商家の建物だ。間口が広く、表に暖簾がかかっている。松屋の善兵衛が無償で提供してくれた建物だ。表は取引の場、中は商談所、奥は書院——という構造になっている。

その二階に、今日の授業の場が作られていた。

階段を上がると、廊下に面した引き戸があった。その戸を開けると、畳六枚ほどの座敷が広がった。

冬の朝の光が、小さな窓から斜めに差し込んでいた。畳の上に、光の長方形が映っていた。その光の中に、埃が細かく漂っているのが見えた。新しく整えられた部屋特有の、清潔な埃だ。

部屋の正面に、塗板が置いてあった。

木の枠に漆を塗った塗板だ。表面が黒く、光を反射しない。その塗板の表面に、今はまだ何も書かれていない。白い漆喰の壁を背景に、黒い板だけがある。

塗板の前に、村田蔵六が立っていた。

今日の村田は、普段と少し違う立ち方をしていた。

授業をする人間の立ち方だ。

背筋が真っすぐで、足が肩幅に開いて、両手が後ろに組まれている。蘭学塾で長年教えてきた体が、自然にその立ち方をしていた。

そして——十名が座っていた。

年齢は様々だった。二十代から四十代まで。格好も様々だ。商人の格好をした者、武士の格好をした者、通詞らしい格好をした者。

皆、少し緊張していた。

「天朝物産会所附属商務語学所」——その名前は聞いていた。御所御用の機関が開く学校だという説明は聞いていた。しかし実際に来てみると——予想と少し違った。

場所が普通の商家の二階だったからかもしれない。豪華な建物でも、格式のある場所でもない。畳に座って、塗板の前に先生が立っている。それだけだ。

「始めましょう」

村田が言った。

声が変わった。

いつも糸子と話している時の村田の声とは、少し違う。より明確で、より届くように調整された声だ。部屋全体に届く声だ。

「今日の最初に——一つだけ聞きます」

十名が村田を見た。

「あなたたちはなぜここに来ましたか」

その問いに、十名がそれぞれ少し考えた。

三井の番頭の一人が最初に答えた。

「異国との商いで負けない力をつけられると聞きました」

別の番頭が続いた。

「御所御用達の天朝物産会所が開く学校だから、と」

横浜の商人の一人が言った。

「実際に異国商人と取引しています。毎回、うまくいかないと感じています。何が足りないのかを知りたい」

薩摩の実務担当が言った。

「藩から送られました。有益な知識を持ち帰れ、と」

通詞の一人が言った。

「言葉は分かります。しかし——商売の仕組みが分からない。それを学びたい」

村田が全員の答えを聞いた。

「ありがとうございます」

少し間を置いた。

「全員、正しいことを言っています。しかし——本当の理由はもう少し深いところにあります」

全員が村田を見た。

村田が塗板に向かった。

筆を取った。

大きな字で書いた。

「1対5」

生徒たちが首を傾けた。

何の数字か、分からない。

村田が横に書いた。

「1対15」

沈黙があった。

「これが日本の金と銀の比率です」

村田が「1対5」を指した。

「そしてこれが——世界の比率です」

「1対15」を指した。

「この差が——何を意味するか、分かる方はいますか」

沈黙。

十名全員が塗板を見ていた。数字を見ていた。

横浜の商人の一人が少し考えていた。実際に異国商人と取引した経験がある。何かを感じていた。しかし言語化できていない。

武士の子弟が手を挙げた。

「……それはどういう意味ですか」

村田が答えた。

「異国商人が銀を日本に持ち込みます」

塗板に書きながら。

「銀百枚、持ってきます。日本で銀を金に換えます。比率は一対五——つまり銀五枚で金一枚です。銀百枚は金二十枚になります」

計算を書いた。

「その金二十枚を、海外に持ち出します。世界の比率は一対十五——金一枚は銀十五枚になります。金二十枚は銀三百枚になります」

最後の数字を書いた。

「最初に銀百枚を持ってきました。最後に銀三百枚になりました。三倍です」

全員が、塗板の数字を見た。

商家の番頭が声を上げた。

「それは……泥棒ではないですか」

村田が答えた。

「法律上は問題のない取引です。条約上は正しいが、実質的には詐欺的であることは間違いない…」

「しかし」

「しかし——日本の富が消えていく。誰かが損をしています。その誰かは——この国に生きている全員になるのです」

沈黙があった。

重い沈黙だった。

十名全員が、その数字の意味を飲み込もうとしていた。分かった者から、少しずつ顔が変わっていった。驚きから、怒りへ。怒りから、悔しさへ。

村田が全員を見回した。

「この計算を理解できましたか」

数名が頷いた。

「これが——あなたたちが学ぶ理由です」

村田が塗板に向かった。

最初に書いた数字の上に、一行書いた。

「知らなければ搾取される。知っていれば——対等に戦える」

その一文を書き終えて、村田が振り返った。

「この一文が——この学校の全てです」

部屋の後ろの方に、小さな衝立があった。

衝立の向こうに、御簾があった。

御簾の向こうに——糸子がいた。

今日の授業は、表向きは村田が主導している。糸子が御所の姫君だという事実は、まだ全員には明かしていない。御所御用達の天朝物産会所が後ろ盾になっているという説明だけをしている。

しかし糸子は今日、ここにいた。

聞いていた。

村田が授業をするのを、後ろから全部聞いていた。

(村田殿は良い先生だ)

糸子は思った。

(知識を持っているだけでなく——どう伝えるかを知っている。「なぜ学ぶのか」から始めた。これは重要な順序だ。目的が分からないまま方法を教えても、人間の頭には入らない)

(「法律上は問題ない取引だ」という言い方が特に良かった。悪者がいると思わせないことで——怒りが正しい方向に向く。悪者ではなく、仕組みに向かう。その怒りが——学ぶ動機になる)

「……先生」

農家の息子らしい格好の生徒が、初めて口を開いた。

声が少し震えていた。

「この計算ができれば——自分も異国人と戦えますか」

村田が少し間を置いた。

その間が、糸子には分かった。

(村田殿が何を言うか、分かった。この問いに対する答えを——村田殿は知っている)

「あなたたちが今日からやることは——まさにそれです」

村田が答えた。

教室が静まった。

農家の息子が、静かに頷いた。

(この生徒は——今日、一生忘れない経験をした。計算が分かったのではない。なぜ学ぶかが、腹の底から分かった。そういう経験をした者は——本当に学ぶ。本当に動く)

糸子が御簾の向こうで、小さく息を吐いた。

最初の授業が終わった後。

十名が帰り、村田と糸子が二人になった。

日本橋小舟町の取次所の奥の書院だ。

表と中の喧噪が、少し遠くに聞こえる場所だ。掛け軸が一幅、壁にかかっていた。墨の一文字——「誠」と書かれていた。善兵衛が選んだ文字だ。硯と筆が、脇の台の上に置かれていた。

障子から外の光が差し込んでいた。冬の午後の光は、斜めで白い。床に、障子の格子の影が伸びていた。その格子の影が、時間と共に少しずつ動いていた。

「良い授業でございました」

糸子が言った。

「……そうでしょうか」

「はい。農家の出の生徒——あの質問が出た時に、村田殿がどう答えるかを見ておりました」

「どう見えましたか」

「間を置いて答えておりましたね。それが正解でございました」

「なぜですか?」

「すぐに答えれば、励ましに聞こえまする。なれど少し間を置いてから答えれば——本当のことを言っている、と伝わりまする」

村田が少し考えた。

「……意識していませんでした」

「本物の教師は——意識しなくてもそれができましょう。長年教えてきた体が、自然に動く…」

「……なるほど」

「今日の十名を見ていて、気づいたことはありましょうや?」

村田が考えた。

「横浜の商人の一人——異国商人と実際に取引している方が、授業の途中で何度か頷いていました」

「はい」

「知識として聞いているのではなく、経験と照合していた。あの生徒は——教科書を読んだ後に、すぐに実践できると思います」

「村田殿が最初に見つけましたね」

「……そうでしょうか」

「わたくしも同じ人間を見ておりました。なれど村田殿の方が先でございました」

「教師の観察眼、でしょうか」

「そうでございます」

糸子が続ける。

「十名の中で——誰が最初に実践する人物になるかを見ておりました。村田殿の観察では、その横浜の商人でございますね」

「はい。ただし——農家の出の生徒も面白いと思います」

「なぜでございますか?」

「あの質問を最後にした。『自分も異国人と戦えますか』という問いは——商人としての動機ではなく、人としての動機から来ています。そういう動機を持つ人物は——長続きします」

(村田殿は教師として、生徒の長所を見抜く。それが最も難しいことだ。知識を教えることより、誰が何のために学んでいるかを見ること——それが本物の教師の能力だ)

「村田殿の観察を、今日の記録に加えさせてくださいまし」

「……構いませんが、何に使うのですか」

「教科書の改善に使います。生徒の反応を見ながら、修正点を探しまする」

「承知しました」

翌日から、授業は続いた。

一日一日、少しずつ進んだ。

第一巻の内容——万延経済と国際環境。金銀比率の失敗例から始まって、異国商人の思考回路、日本の貿易構造と弱点——これらを三日かけて教えた。

三日目の授業が終わった後、村田が書院に来た。

「二つ修正したい箇所があります」

「どこでございますか」

「第一節の計算問題——生徒が計算をした後、答えを発表してもらいました。そこで気づいたのですが——計算は全員できる。しかし、なぜその数字が問題なのかを説明できた者が半分しかいませんでした」

「計算はできるが、意味が分からないと?」

「そうです。計算を解かせた後に——この数字が何を意味するかを、生徒自身に言葉にさせる手順が必要だと思います」

(良い気づきだ。解法を覚えることと、意味を理解することは違う)

「教科書に加えましょう。各演習問題の後に——『この計算が示すことを、自分の言葉で説明せよ』という設問を一つ加えます」

「それが良いと思います」

「もう一つは?」

「異国商人の思考回路の章——生徒が最も関心を持った部分が、予想と違いました」

「どう違いましたか」

「『日本人は断らない』という部分——これを読んだ生徒が、かなり動揺しました。怒りを見せた者もいました」

「なぜそこに反応したのでごさいますか?」

「自分たちが見下されていたと感じたようです。異国商人が『日本人は断らない』と思って交渉してきたことへの——怒りです」

「その怒りは良い動機になりましょう」

「はい。しかし——教科書の文章が少し感情的に書かれていて、怒りが強くなりすぎた生徒は、その後の冷静な分析の部分が入りにくくなっていました」

(村田殿は授業で実際に見て、修正点を持ってきた。これが試験運用の価値だ)

「修正致しましょう。感情的な言葉を——観察的な言葉に変える。『異国商人が日本人を侮っている』ではなく、『異国商人が経験から得た行動習慣がある』という表現に」

「そうすれば——怒りより、分析の気持ちが先に来ます」

「はい」

村田が帳面に修正内容を書いた。

「では明日から第二巻——商談術に入ります」

「はい。七つの原則を教える順番ですが——」

「どうぞ」

「最初に実演を見せてはどうでしょう。先生が商人の役をやって、生徒の一人が異国商人の役をやる。原則の説明より先に、実際の商談を見せる」

「……見てから学ぶ、ということですね」

「はい。蘭学の解剖学でも——先に実物を見せてから、解説する方が定着します」

「採用致しましょう」

糸子が即断した。

「明日の授業、楽しみにしています」

一週間が過ぎた。

十名の生徒は、少しずつ変わっていった。

最初の授業の時は、皆が受け身だった。教師の話を聞くだけだった。しかし一週間後——少しずつ、質問が出てくるようになっていた。

三井の番頭の一人が、授業の後に村田に質問した。

「先生、原則三の代替案について——うちの商家では、一人で交渉に行きます。代替案を持てと言われても、一人では難しいのですが」

「良い質問です」

村田が答えた。

「個人が代替案を持つのは難しい。だから惣会所という組織が必要なのです。惣会所を通じて売れば——あなた一人ではなく、惣会所全体が代替案を持つことになります」

番頭が少し考えた。

「……それは、惣会所に入ることで、交渉力が変わる、ということですか」

「そうです」

「……なるほど」

番頭が帳面に書いた。

その場面を、衝立の向こうで糸子が聞いていた。

(この質問が出た——それが重要だ。個人の問題から組織の必要性に気づいた。教科書で説明するより、この質問と答えの方が——深く頭に入る)

授業後、糸子は村田に言った。

「番頭の質問——記録してくださいまし」

「何のためにですか」

「第二巻に加えます。演習問題として——『あなたが一人で交渉する場合と、惣会所を通じて交渉する場合の違いを書け』という設問を加えます」

「それは——生徒の質問から来た設問ですね」

「そうです。最良の教科書は——教えることで改良されまする」

二週間が過ぎた。

授業が第二巻の後半に入った頃、一つの問題が出た。

横浜の商人の一人——田中屋清兵衛という三十歳の男が、村田に申し出た。

「先生、実際にやってみたいのですが…」

「……何をですか」

「商談です。教科書の通りにやってみたい。横浜に知り合いの異国商人がいます。生糸の取引で、次に会う予定があります」

村田が少し考えた。

授業後、村田がこのことを糸子に報告した。

「……やらせますか?」

糸子が少し考えた。

(清兵衛は横浜の商人だ。実際の取引経験がある。教科書を二週間読んだ。準備はできている。しかし——まだ完全には教えていない。七つの原則は分かっているが、数字の使い方がまだ不安定だ)

「やらせましょう」

「……大丈夫でしょうか」

「大丈夫かどうかは——やってみなければ分かりませぬ。それが試験運用の意味でございます」

「しかし失敗したら」

「失敗したら、何が足りなかったかが分かりましょう。それが次の修正点になりまする」

村田が頷いた。

「……承知しました」

「ただし——事前に準備をさせてくださいまし。清兵衛を明日、わたくしの前に連れてきてくださいませ」

翌日。

書院に、田中屋清兵衛が通された。

三十歳の商人だ。横浜で異国商人と実際に取引してきた経験がある。その経験からくる、落ち着きがあった。しかし御所御用達の天朝物産会所の関係者と話すのは、今日が初めてだ。少し緊張していた。

御簾の向こうから、糸子が話しかけた。

「清兵衛、よう参った」

「いいえ、光栄でございます」

「横浜でイギリスの商人と生糸の取引がある、と村田殿から聞きました」

「はい。来週、会う予定でございます」

「どんな取引か」

「上州産の生糸、百斤を売る予定です。先方がどれくらいの価格を付けてくるか——まだ分かりません」

「去年、同じ商人と取引した時の価格は?」

「一斤あたり銀三匁半でした」

「今年の上海の相場は知っておるか?」

「……五匁前後だと聞いております」

「そちの言うことは正しい。フランスでの相場は七匁なり」

清兵衛が少し目を丸くした。

「……フランスまで御存知なのですか」

「天朝物産会所の承り事の首尾、これにてございますれば」

「なるほど」

「清兵衛、今日はその取引の準備いたそう」

「はい」

「まず——最低販売価格を決める。清兵衛の考えは?」

「……上海の相場が五匁なら、四匁以上は欲しいです」

「良きお考えにございます。四匁半をこれより下のなき値と定めましょうぞ。上海の相場に九分を掛けたるものにございますれば」

「九割を最低にする理由は?」

「横浜より上海へ運ぶ入用を差し引きての 直(あたい) にございます。浜の直が上海を下回るのは理なれど、入用を超えてまで安んずるには及びませぬ」

清兵衛が帳面に書いた。

「次なるは——先方が初めに差してくる直の見立てにございます。去年は三匁半でございました。今年の相場が上がりておるなれば、あちらは低う出るとお思いか、それとも高う出るとお思いか」

清兵衛が考えた。

「……低めに出てくると思います。異国商人は常に安く買おうとします」

「その通りにございます。なればこそ――初めの値は三匁より三匁半のあたりで差してくるのが必定かと存じます。」

「……では最初に何と言えばよいですか」

「そなた、『第二原則』を忘れてはおりますまいな?」

清兵衛が帳面を開いた。

「……沈黙は最強の返答」

「左様。先方が初めに値を差し出しても——ゆめゆめ、即座に言を返してはなりませぬ。三つ数え、五つ数えるほどの間、ただ黙しておいでなされ。その後に…」

「その後に?」

「第四原則——『まことの数は口舌に勝る』。まずはこう切り出しなされ。『上海での直が今いかほどになっておるか……そなた、しかと心得ておいでか』と」

清兵衛が書いた。

「証左となる紙面を用意なされ。物産会所が裏を固めた、上海・仏蘭西における最新の生糸の直……。これこそが我らの盾であり、矛。この数をまざまざと見せつけ、相手の逃げ道を断ち切るのです」

「数字を紙に出す、ということですね」

「その通りにございます。言葉は虚しく消えゆくものなれど、書状に記されたる『数』は重き枷となります。これを見せつければ、いかに強欲な商人とて、容易くは言い返せますまい」

糸子が続けた。

「最終に落ち着くべきは、四匁半から五匁のあたり……。そのあたりを我らの勝ち筋と見なして、談判を進めなされ」

「最高値の五匁以上は狙わないのですか」

「今回は狙いませぬ」

「なぜですか」

「左様。欲に駆られて最高値を追えば、計算の外なる理が入り込みましょう。まずは教えの通りに動き、『再び同じ果に辿り着けるか』……その確かなる 証(あかし) を掴むことこそが、肝要にございます」

清兵衛が少し考えた。

「……なるほど。最高値より、再現できることの方が大事、ということですね」

「今たびは、これにて。ひとたび『違わぬ道理』が証されましたならば――次なる折には、一切の容赦なく最高き直を搦め取ることができましょうぞ」

清兵衛が頷いた。

「……承知しました」

十一

一週間後。

清兵衛が横浜から帰ってきた。

報告に来た時、少し顔が上気していた。興奮と、それを抑えようとしている表情が混ざっていた。

書院に通されて、村田の前に座った。

「どうでしたか」

村田が聞いた。

「……四匁半で決まりました」

「そうですか」

「相手は最初、三匁を提示してきました」

「三匁か」

「はい。教科書の通りに、黙りました。三秒」

「そして」

「相手の顔が少し変わりました。何か考えているような顔に。そして——三匁とちょっと、と言い直してきました」

村田が少し頷いた。

「……それから」

「上海の相場を確認させてください、と言いました。紙を出しました」

「紙を見た相手の反応は」

「少し驚いた顔をしました。リヨンの相場も書いてありましたから」

「そして」

「四匁でどうかと言ってきました。わたくしが四匁半でお願いしますと言いました」

「それで」

「少し考えてから——四匁半でいこう、と」

村田が帳面を開いた。

「よくやりました」

「……ありがとうございます」

清兵衛が少し息を吐いた。

「ずっと緊張していました。沈黙している時が——特に」

「どれくらい黙りましたか」

「三秒のつもりが——少し長くなったかもしれません。五秒か六秒」

「それで良かったのです」

「そうですか」

「教科書には三秒から五秒と書いてありますが——状況によっては少し長くなることもあります。それが自然な判断です」

「……なるほど」

「一つだけ聞かせてください」

「はい」

「最後に相手が決断する前——相手が何か言いましたか」

清兵衛が思い出した。

「はい。品質の生糸を今のうちに確保しておけるのは良い、と言っていました」

「それが——第七原則の効果です。相手が良い取引をしたと思っている。だから次も来ます」

清兵衛が帳面に書いた。

「……先生、一つ分かったことがあります」

「なんですか」

「教科書を読んで理解した気になっていましたが——実際にやると、全然違います」

「どう違いましたか」

「相手の顔を見ながら判断しなければいけない。教科書に書いてある原則を思い出しながら、同時に相手の反応を読まなければいけない。頭の中がいっぱいになります」

「それが——経験の始まりです」

村田が言った。

「一度でも実際にやると——次は少し楽になります。頭がいっぱいにならなくなっていきます。それが訓練です」

清兵衛が深く頷いた。

十二

報告を聞いた後、糸子が善次郎に言った。

「記録してくださいまし」

「はい」

「『最初の勝ち——完了』と」

善次郎が帳面に書いた。

「……それだけでよろしいですか?」

「もう一つ書き添えてくださいませ」

「なんですか」

「『最大利益ではなく——再現可能な成功』と」

善次郎が書いた。

(四匁半は最高値ではない。最高値を狙うなら五匁以上が可能だった。しかし今日は——教科書通りに動いて、教科書通りの結果が出ることを確認することが目的だった)

(再現性を証明した。それが今日の意味だ)

(清兵衛が今日やったことを——次の商人も同じようにできる。それが教科書の価値だ。天才が一人いることより、平均的な商人が百人再現できることの方が——国の力になる)

「善次郎殿」

「はい」

「清兵衛の結果を、他の生徒に知らせてくださいませ」

「どのように」

「事実だけを。四匁半で決まった、と。詳細は言わなくてよいでしょう」

「……なぜ詳細は」

「自分でやってみたい、という気持ちを引き出すためでございます。詳細を全部言うと——真似すれば良い、と思ってしまうでありましょう。事実だけを言えば——自分はどうやるかを考えまする」

善次郎が少し考えた後、頷いた。

「……承知しました」

翌日の授業で、村田が清兵衛の結果を報告した。

「田中屋清兵衛殿が、昨日横浜で取引をしました。最初の提示より高い価格で決まりました」

それだけだった。

詳細は言わなかった。

生徒たちが少し前のめりになった。どうやったのか、聞きたそうだった。しかし村田はそれ以上言わなかった。

「次の授業から——実践の演習を増やします」

それだけ言った。

十三

その夜。

一橋上屋敷の奥御殿。

糸子が帳面を開いた。

鍵のかかる引き出しの中の、黒い帳面だ。

「試験運用・第一段階完了。清兵衛の取引結果——再現性証明」

書いた。

「村田殿の授業で確認したこと。知識を持つ者が必ずしも良い先生ではない。しかし村田殿は両方持っている。知識と、伝え方の両方を。これは稀なことだ」

書き加えた。

「農家の出の生徒——名前は後で確認する。あの質問をした人間は、将来必ず使える人材になる。追跡が必要だ」

さらに書いた。

「修正箇所二つ——演習問題の後に自己説明設問を加える。異国商人の思考回路章の文章を観察的表現に変える。これを次の会議で村田殿と確認する」

帳面を閉じた。鍵をかけた。

「葵」

「はい」

「今日はここまで」

「はい。お茶をお持ちしましょうか」

「お願い」

葵がお茶を持ってきた。

宇治の濃い香りが、冬の夜の部屋に広がった。

糸子がお茶を飲んだ。

(再現可能な成功が一つ出た。次は十人全員が同じことをできるようにする。その次は、百人が同じことをできるようにする)

(一つの成功は運かもしれない。しかし十人が再現すれば——それは方法の証明になる)

糸子が窓の外を見た。

冬の夜の庭が、月明かりの中にあった。楓の枝が、月の光を浴びて薄く輝いていた。池の水面が、月を映して白く光っていた。

松だけが、暗い緑のまま、静かに立っていた。

(明日も続ける…)

糸子は思った。

それだけだった。

冬の夜の庭に、静けさが満ちていた。

第七十五話 了