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作品タイトル不明

第七十六話「教科書完成・そして次の計画」

万延元年、冬の深まり。

江戸の冬は、一日ごとに寒さが増していく。

一橋上屋敷の庭は、すっかり冬の景色になっていた。楓は葉を全て落として、枝だけが朝の空に向かって伸びていた。その枝が、冬の白い光の中で細く、しかし確かな線として刻まれていた。

石畳には今朝も薄く霜が降りていた。

庭師が朝一番に出て、その霜を竹箒で掃いていた。石の隙間に水が入り込んで凍る前に、霜だけは掃いておく必要があった。箒の動きに合わせて、霜が細かく砕ける音が、静かな朝に響いていた。

池の水面が、今日は鏡のように平らだった。

風がなかった。水の色は冬の深い黒に近い。その中に、冬の白い空が丸ごと映っていた。松の緑の影も映っていた。楓の枝だけの姿も映っていた。水の中に、冬の庭の全てがあった。

松だけが、変わらない。

どんな季節になっても松だけが緑を保っている。その変わらなさが、今の季節は特別な存在感を持って見えた。冬の白い景色の中で、松の深い緑だけが色として残っていた。その色が——糸子の心を、ささやかに支えてくれる色でもあった。

奥御殿の一室。

文机の上に、五冊の帳面が並んでいた。

第一巻から第五巻まで、正式版として完成した教科書だ。

表紙は和紙に墨で題が書かれていた。

「天朝物産会所附属商務語学所・教範 全五巻」

そして表紙の右上には、朱色の御朱印が押されていた。天朝物産会所の朱印だ。その朱印の下に、小さく「天朝御用・秘」の一文字が刻まれていた。

「秘」の文字が——この教科書の性質を、何より雄弁に語っていた。

糸子が五冊を見ていた。

三月余をかけて作った草稿。一ヶ月の試験運用。その結果を反映した修正。そして——今日、正式版が完成した。

(形になった)

糸子が静かに思った。

巳の刻——午前十時。

廊下に、いつもの足音がした。

障子が開いた。

村田蔵六が入ってきた。

村田の目が、机の上の五冊の帳面に留まった。

正式版だと、一目で分かる。表紙の材質が草稿版とは違う。しっかりした和紙を使っている。御朱印が押されている。その違いが、遠くからでも見えた。

(最初の十冊の白紙から——この五冊まで)

村田が少し動きを止めた。

最初にこの部屋に通された朝のことを、村田は思い出しているはずだった。白紙の帳面が十冊並んでいて、何から始まるのか分からなかったあの朝。数ヶ月以上前のことだ。その白紙が、今は文字と御朱印で埋まった正式版になっている。

村田が座った。

礼をした。

そして五冊を、少しの間、黙って見た。

「……これを見ると——思います」

村田が言った。

「なんでございましょう」

「わたしが蘭学者になって、最も良かったことは——この仕事ができたことかもしれません」

糸子が少し止まった。

「大げさでございますよ、村田殿」

「そうでしょうか」

(村田殿はおせじを言わない人だ。それは知っている。しかしそれでも——大げさだと思う)

「まだ初校が終わっただけでございます。これから生徒たちに使っていただいて、問題が必ず出てきましょう。そのとき改訂版を作りまする。また村田殿には手伝っていただきする」

「……はい」

村田が頷いた。

「改訂の時も、是非お呼びください」

「よしなに、お頼み申し上げまする」

「それから—本日はもう一つ話がございまする」

糸子が続けた。

「なんでしょうか?」

「異国向け商品戦略の具体的な第一手についてでございます」

「異国の輸出?、でございますか」

「はい。その第一段として——浮世絵の異国輸出をこれから天朝物産会所で始めるのでございますが、村田殿には別の形で関わっていただきたいのでございます」

村田が少し首を傾けた。

「浮世絵、でございますか」

「はい」

糸子の声に、力があった。

「浮世絵の輸出は——日本という国・文化を異国に売るための、文化外交の道具になりまする」

村田が帳面を開いた。

筆を構えた。いつもの、書き取る姿勢だ。

「現在は異国に渡っている浮世絵は、荷物の緩衝材として捨てられているのが実態でございます」

「なれど——」

糸子が少し間を置いた。

「将来、浮世絵は異国で革命を起こすと予測しまする」

村田が顔を上げた。

「……革命、と?」

「はい。異国の画家たちが浮世絵に衝撃を受け、その影響が異国の絵画そのものを変えることになりましょう。わたくしの見立てでは、今から数十年後に起きると予測しております」

「どうしてそのようなことが分かるのですか?」

村田が静かに聞いた。

「異国の美術の動きを調べた結果と、長崎の商人からの情報を合わせた見立てでございます」

「……姫様の御慧眼には驚かせられますな」

村田が書き取っていた。

「今から輸出を始めれば、数十年後に来る流行を先取りすることになりましょう」

「数十年後の流行を……先取りする…」

(村田殿はこの概念を初めて聞いたはずだ。しかし受け入れが早い。論理として筋が通れば、それが未来予測であっても受け入れる。蘭学者の思考だ)

「しかし村田殿。これは単に『絵を売る』ことではありませに」

「では、何を売るのですか」

「日本という国を知らしめるのでございます」

村田が少し止まった。

「異国に広まれば——日本への関心が高まりましょう。関心が高まれば、他の商品も売れやすくなりまする。日本文化が高く評価されれば——日本という国の格が上がりまする。そうなれば…条約交渉でも対等に話せるようになりましょう」

村田が深く頷いた。

「…なるほど」

「天朝物産会所が輸出する全ての商品の価値を底上げするのでございます。広告として」

「……姫様は、本当に先のことをよく見ていらっしゃる」

村田は思った。今までも何度も思ったことだ。しかし今日、また改めて思った。

「これが基本戦略でございます」

糸子が続けた。

「それに加えて——もう一つ、中長期の施策があります。ここが村田殿に関わっていただきたい部分でございます」

「一体なんでしょうか?」

「日本を紹介する本を作りたいのです」

「本?、ですか」

「日本という国を紹介した本にございます。どういう文化を持つ国か、どういう歴史を持つ国かを、英語、オランダ語、フランス語で書いて。その本と浮世絵を併せて輸出する計画でございます」

村田が筆を止めた。

「誰が書くのですか?」

「村田殿と、商務語学所の卒業生に書いていただきたいのでございます」

「……わたしが?」

「はい、今すぐではございません。村田殿…」

「語学所の生徒が英語で書ける程になってから、正式に着手します。おそらく一年から二年後になるかと思われまする」

「その時が来たら、また村田殿に相談致しましょう。一緒に制作を始める予定でお願い致しとうございます」

「承知しました。楽しみにしております」

(村田殿は「楽しみ」と言う時、本当に楽しみにしている。社交辞令ではない。本当に村田殿には感謝しかありませぬ…)

「そしてこの書物には——日本の皇統についての重要な一節を入れたいのでございます」

糸子が続けた。

「皇統、でございますか」

「はい。神武天皇の御即位からずっと、男系男子直系で受け継がれてきた万世一系の皇統が続いております。今の万延元年の時点で——二千五百二十年になります」

村田が筆を止めた。

目を見開いた。

「……二千五百二十年?」

「はい」

「……それは随分具合的に数字ですね」

村田の声に、普段とは違う響きがあった。

「確かな数字、でございますか?」

「根拠がありまする」

糸子が続けた。

「近衛家は——五摂家筆頭として、千年以上にわたり御門様を補佐してまいりました。御門様と非常に濃密な姻戚・養子の関係を築いてきた家柄でございます」

「……はい」

「そのため過去、近衛家には御門の歴史を研究された方々がおりました。歴代の御門の系譜、御在位、御事跡を詳細に記録した書物が残っておりまする。その書物を参考に、わたくしが計算しました結果——万延元年の時点で二千五百二十年という試算が出ております」

村田がしばらく、動かなかった。

書き取るために構えていた筆も、止まっていた。

(過去、近衛家には御門の歴史を研究された方々は確かにいた。ただし、歴代御門の詳細な記録は残っているけれど…その書物を参考に計算したというのは、わたくしの嘘。異国ならばそれはもっと分からない。だからそれを海外戦略にわたくしは迷わず使う)

糸子は思った。

村田が静かに筆を置いた。

正座を整え直した。

「姫様」

「なんでございましょう」

(声が少し、違う?)

「わたくしは——近衛家の千年の重みを、今まで十分には理解しておりませんでした」

「今、改めて理解いたしました」

村田が少し頭を下げた。

「姫様個人の知識の深さには、何度も驚かされてまいりました。しかし——その背後に、近衛家という千年の知の蓄積がある。その蓄積の上に、姫様の判断が乗っている」

「……」

(村田殿が、わたくしの背後にあるものを見ている)

(「近衛家」という言葉が、その事実が村田殿の中で重みを取り戻した。千年以上御門様を補佐してきた家柄が…)

(わたくしの知識の出所の一部が…今日はじめて、村田殿の中で具体的な実感を持った?)

「村田殿、頭を上げてくださいまし」

「……はい」

「わたくしは——近衛家に生まれただけでございます。家の千年の重みは、わたくしが作ったものではございませぬ」

「しかし——それを受け継いでおられる」

「受け継いでいるだけでは意味がありませぬ。使える形にして初めて、意味が生まれましょう」

村田が頷いた。

「……それが、この教科書ですか」

「はい」

「近衛家の千年の知識を、商人の役に立つ形に変換する。それが、この三月余の作業だったのですか」

(村田殿は自分で答えを作った。その答えで納得できるなら——それが正解だ。わたくしがわざわざ否定する必要はない)

「そうでございます」

糸子が静かに答えた。

「村田殿のおかげで、ようやっと形になりました」

「……わたくしの側こそ、このお仕事をさせていただけたことを」

村田が再び、深く頭を下げた。

「光栄に思います、姫様…」

長い沈黙があった。

庭の外で、冬の風が松の葉を揺らしていた。松の葉が擦れる、細く乾いた音が聞こえた。

村田がゆっくりと顔を上げた。

表情が、少しだけ柔らかくなっていた。

「……ならば、まだ終わりではないですね」

「終わりはしばらく来ませぬ」

糸子が言った。

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

村田が立ち上がった。

五冊の教科書を一度だけ見て、それから礼をした。

「では——また改訂の時に」

「はい」

村田が退室した。

廊下に足音が遠ざかっていった。

その足音を聞きながら、糸子は御簾の向こうで静かに頭を下げた。

(村田蔵六殿——あなたがいなければ、この教科書はできませんでした)

(わたくしの知識は、形のない記憶でしかなかった。あなたがそれに言葉を与えてくれた。この幕末に生きる人たちに届くように言葉を…)

(これからも——お世話になりまする)

村田の足音が完全に遠ざかった。

部屋に静けさが戻った。

少しの間、糸子は一人だった。

五冊の教科書を見ていた。机の上に並んだ、朱色の御朱印が押された五冊を。

廊下から足音がした。

静かで、整然とした、善次郎の足音だ。

「姫様、失礼します」

「どうぞ」

障子が開いた。

善次郎が入ってきた。

「村田殿はお帰りになられましたか、姫様」

「今、退室されたところです」

「ちょうどよろしゅうございました」

善次郎が正座した。

「……どうしました、善次郎」

「姫様に三点ほど、ご報告がございます」

「なんでございましょう?」

善次郎が帳面を開いた。

「一つ目——商務語学所の場所の件でございます」

「はい」

「神田・お玉ヶ池周辺が適当と考えております」

「理由をお聞かせてくださいまし」

「はい、四つございます」

善次郎が指を折りながら説明した。

「一つ。日本橋小舟町から徒歩圏でございます。連絡が早い。緊急の時でも半刻以内に双方を行き来できます」

「二つ。神田は学問・教育の土地柄でございます。昌平坂学問所が近くにあります。『神田に学校がある』という状況自体が、違和感なく受け入れられます」

「三つ。千葉周作殿の玄武館がお玉ヶ池にございます。剣術系の人材との接点が自然に作れます。将来、塾生の護衛や情報収集に剣客が必要になった時に、すでに近所に人脈ができている状態になります」

(善次郎は先を考えている。今の話ではなく、一年後・二年後のことを)

「四つ。幕府の蕃書調所——洋学研究機関——も神田にございます」

「ああ…」

糸子が頷いた。

「蕃書調所があるということは——」

「はい。近くで洋学の研究をしているのは普通のこと、と幕府に思わせられます」

「擬態、ということでございますね」

「その通りでございます。わが商務語学所は『民間の私塾』という位置づけです。商家が子弟に洋学と商業を学ばせる私塾——という見せ方です。蕃書調所の近くにあることで、『近くの幕府の機関でも同じようなことをやっているのだから』と思わせられます」

「幕府からの不審の目を逸らすのでございますね」

「その通りです。実態は天朝物産会所の……ですが——外から見えるのは、普通の私塾です」

糸子が深く頷いた。

(善次郎は政治的な擬態まで考えている。これは——本当に、全部を理解した上での提案だ)

「建物は?」

「父、善兵衛が買い上げた旧・商家の大店を改装する予定です。間取りは——」

善次郎が帳面を開いて見せた。

「表に『商務語学所』の看板を掲げます。中は、大教場——三十名収容——、小教場——少人数講義用——、村田殿の研究室兼住居、教科書編纂室、塾生の自習室、そして」

善次郎が少し声を落とした。

「地下に秘密資料庫を設けます。第五巻関連の資料を保管する場所です」

「地下?」

「はい。地下にすることで、外部からの捜索に対する備えになります。入り口は、一見すると酒蔵の入り口のように見える造りにします」

(第五巻の情報戦資料は、絶対に外に出してはいけない。その保管場所まで、擬態の設計がされている。善次郎の準備の深さが分かる)

「承知しました。進めてくださいまし」

「承知しました」

「二つ目——天朝御用商務惣会所、江戸惣会所の本部の件でございます」

「江戸惣会所の本部…」

「はい。こちらは——日本橋小舟町の拠点と兼用で進めたいと考えております。ただし、機能別に別館を増築します」

「なぜ兼用なのでございますか?」

「惣会所本部を別所に構えると、『表の組織』と『裏の組織』の分離が目立ちすぎます。天朝物産会所——最高顧問——と江戸惣会所——中央——は建前上は別組織ですが、実務的には連携が必須です。別所に分けると、かえって不自然になると判断しました」

「一緒の場所に置くことで、自然に見える」

「その通りです」

「具体的な構造は?」

「本館——既存の建物——は天朝物産会所の江戸拠点として使います。姫様の御座所、奥向きです。そして新館を増築します」

善次郎が絵図面を見せた。簡単な平面図だ。

「新館は、江戸惣会所の事務方・幹事商家の集会所・公的な受付として使います。三井・鴻池・住友などの幹事商家は、新館に通されます」

「姫様の御座所のある本館には通常入れません」

「両館は渡り廊下で接続しますが——外からは別棟に見えるような造りにします。中では繋がっていますが、訪問者の導線は完全に分かれます」

(二重構造の建物——現代の企業で言えば、表向きのロビーと役員フロアを物理的に分ける設計だ。善次郎は無意識にそれを実装している)

「隣接地の土地は?」

「父、善兵衛が無償で提供致します」

「また善兵衛殿に…」

「はい。父は『これは我が一生の仕事だ』と言って、張り切っておりますから…」

糸子が少し沈黙した。

「……善兵衛殿には、いずれ特別なお礼を改めてしなければなりませんね」

「父も喜ぶと思います」

善次郎が嬉しそうに頷いた。

「三つ目——中二病殿と塾生の、江戸での衣食住についてでございます」

(中ニ病の件か…すっかりその存在を頭の中から抹消していたわ)

糸子の表情が、わずかに引き攣った。

「…はい」

「当初は試衛館に住まわせる想定でしたが——塾生の数を考えますと、試衛館の居住できる人数を超えます」

「全員で何人おりましたか?」

「中二病殿本人を含めて、かなりの人数になると見込んでおります」

「……具体的には?」

「…中二病殿を入れると二十三人になるそうです。ただ試衛館には、せいぜい五、六名が限度です」

「残りは?」

私が用意する長屋に収容します。小舟町近辺の、天朝物産会所関連施設を使います」

「配置は」

「中二病殿本人と、主要塾生五、六名を試衛館に分宿させます。近藤殿と土方殿の監視下に置きます」

「それは——」

「中二病殿を、最も近藤殿の目の届く場所に置くということです」

(善次郎は中ニ病対策まで考えている。中二病殿を試衛館に置く理由は、単に宿泊施設としてではなく——近藤殿の監視が目的だ。剣術の訓練という名目で、常に目を離さない場所に置く)

「残りの塾生は」

「長屋に分散させます。商務語学所の近くと、小舟町の近くで分けます。商務語学所の近くに住む者は、授業に通いやすくなります。小舟町の近くに住む者は、惣会所の雑務を手伝わせる予定です」

「全員が、何らかの形で動くことになると?」

「はい。遊ばせておく余裕はございません。全員が、何らかの労働か学習に従事してもらいます」

(善次郎は塾生を——戦力として扱う見立てをしている。遊ばせる者は一人もいない。全員を動かす。これが「馬車馬のように使い倒す」、わたくしの意向と合致しているわけか…)

「一切容赦なく使い倒してくださいまし」

「は、はい…」

善次郎が苦笑いしながら、帳面を閉じた。

少しの間、沈黙があった。

善次郎が、もう一度帳面を開いた。

「……姫君様」

「なんですか」

「もう一つ、関連する報告がございます」

「どうぞ」

「松下村塾の塾生が、来週江戸に着く予定です」

(来週か…)

糸子の表情が、わずかに変わった。

「……この教科書を——全員分、刷る必要があります」

「第一巻から第四巻までで、一人あたり——」

糸子の頭の中で、数字が動いた。

「善次郎、計算してください」

「……かなりの費用に」

「計算してから言ってください」

「……はい」

善次郎が慌てて筆を取った。

紙の上で算盤を弾いた。一冊あたりの刷り代、紙代、製本代、識別番号の印刷代——全部を計算した。二十四人分。第一巻から第四巻まで……

(中ニ病のせいで今月も出費が…計算が狂う。本当に、ほんとうにめんどくさいおっさんを拾ってしまった。ぐぬぬっ…)

「一切容赦はしない!、いや、してなるものか!!」

「やる!わたくしはやると決めたら、絶対にやるおなごなのでございます!!」

糸子が内心で新たに決意を固めて、そして叫んだ。

ぐぬぬぬっ————————

糸子の中で、烈火ごとく怒りの炎が燃え広がっていた。

善次郎が算盤を置いた。

「……予想より、五割増しの費用になります」

「……刷ってくださいませ」

「はい、姫様……」

善次郎が苦笑いした。

「……ほどほどにお願いしますね」

(善次郎は分かっている。わたくしが今、中ニ病に対して業火を燃やしていることが…)

「人はそう簡単には死にませぬ。大丈夫です。安心しておくんなまし」

糸子がとても可愛らしい笑顔で答えた。

…その笑顔を見て、脂汗を流しながら苦笑いするしかなかった善次郎がそこにいた。

(長州ルートのため、塾生の教育のため——中ニ病は必要な存在だ。ぐっ、気持ちの悪い崇拝者であろうと、使えるものはなんでも使う。それが計画の一部だ)

「善次郎、もう一つ」

「はい」

「塾生の中で、英語がある程度できる者はいそうでございますか」

「……到着してから確認が必要です。しかし、高杉晋作殿は江戸で英学に触れた経験があると聞いております」

「高杉晋作か…」

(塾生の中に使える人間がいれば、商務語学所で早期に育てる。使えない人間がいれば、惣会所の雑務に回す。全員を仕分ける)

「どの程度経験があるのか、確認が必要でございますね」

「承知しました」

善次郎が立ち上がりかけた。

「善次郎」

「はい」

「ご苦労様でございます」

善次郎が少し頭を下げた。

「姫様も、どうかご無理をなさいませんように」

「かたじけのう存じます」

善次郎が退室した。

廊下に、善次郎の整然とした足音が遠ざかった。

十一

糸子が一人になった。

部屋の中に、五冊の教科書だけが残っていた。

文机の上に並んだ五冊。朱色の御朱印。「天朝御用・秘」の一文字。

冬の光が、障子を通して斜めに差し込んでいた。その光の中で、五冊の表紙が静かに輝いていた。

糸子が五冊を並べ替えた。

一巻一巻を手に取って、順番に確認した。

第一巻——序章・幕末経済と国際環境。金銀比率の失敗例から始まる章。村田が書いた「知らなければ搾取される。知っていれば対等に戦える」の一文が冒頭に書かれている。

第二巻——商談実務・交渉術。七つの原則。模擬商談。清兵衛が横浜で実践した章。

第三巻——為替・金融基礎。善次郎の帳面から来た複式簿記。「知らないことは悪意より怖い」の一文。

第四巻——海運・物流・リスク管理。龍馬の証言が入った章。保険の概念が「一つの損失を皆で分かち合う仕組み」として書かれている。

第五巻——情報戦・戦略経済学。五人以内に限定される章。情報の速さ・正確さ・独占性の三要素。

(大学院で学んだ経済学が——幕末の言葉になっていた)

(百貨店での商談経験が——江戸時代の交渉術になっていた)

(二十一世紀のマーケティングが——幕末の市場分析になっていた)

糸子が小さく声に出した。

「……形になりました」

(転生前に学んだことが——近衛糸子として使える形に)

「橘咲として、この幕末という時代に——足跡を残すことができました」

自分の声が、冬の朝の静けさの中に溶けた。

(橘咲としての二十八年間は——どこにも残らないはずだった。転生した瞬間に、あの人生は消えるはずだった)

(しかし今——形として残った)

(五冊の教科書として。千人か万人か、やがてそれを読む商人たちの頭の中に——橘咲が学んだことが、近衛糸子の名義で残る)

(それで十分だ)

糸子が帳面を開いた。

鍵のかかる引き出しから、二冊目の黒い帳面を取り出した。

開いた。

筆を取った。

書き込んだ。

「天朝物産会所附属商務語学所・教範 完成——これで………が揃った。第一段階・完了」

少し間を置いて、書き加えた。

「(……が、少し近づいた気がする)」

(…………。そしてこの国の未来。そのすべてが——少し近づいた)

「うけけけけーーーっ」

声が漏れた。

廊下で近藤勇が「また笑っている……」と思った。

(今日はまた少し違う笑い方だ。いつもより満足そうな笑い)

(何があったかは分からない。しかし何かが完成したのだろう)

近藤は何も言わなかった。

庭を見た。

松だけが、今日も変わらぬ緑を保っていた。

その松の向こうに、冬の白い空があった。

遠くに——微かに、冬の日の暖かい色が見えていた。

第七十六話 了