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作品タイトル不明

第七十四話「初稿完成・二人の評価」

万延元年、冬の初め。

一橋上屋敷の庭は、すっかり冬の顔になっていた。

楓は葉を全て落とした。枝だけが残って、朝の空に向かって伸びていた。その枝が、細く、しかし確かな線として空に刻まれていた。夏は葉に隠れていた枝が、今は全部見えている。枝の先まで見えた。枝がどんな形をしていたか——秋の葉に隠されていた構造が、冬になって初めて分かる。

石畳は今朝、薄く霜が降りていた。

朝一番に庭師が見回りに来て、その霜を確認した。石の隙間に水が入り込んで凍る前に、霜だけは掃いておく必要があった。庭師が竹箒を動かした。霜が解けた後の石畳が、朝の光の中で黒く湿っていた。

池の水面が、今日は完全に静かだった。

冬の朝の池は、夏や秋より重く見える。水の色が暗い。その暗さの中に、朝の空の青が映っていた。鏡のように映っていた。楓が散って、木が枝だけになったことで、池に映る空の面積が増えた。水の中に、冬の広い空があった。

松だけが、変わらない。

四季を通じて変わらない松の緑が、今の季節は特に際立っていた。他の木が枝だけになった庭の中で、松だけが緑の色を保っていた。その緑が、冬の庭の唯一の色だった。

奥御殿の一室。

机の上に、五冊の帳面が並んでいた。

第一巻から第五巻まで、初稿が揃っていた。

村田が退室した後の昨日の夜、糸子が五冊を並べて見た時——それは、ただの帳面の束ではなかった。

三月余の作業が、そこに詰まっていた。

需要と供給の概念が、幕末の言葉になっていた。七つの交渉原則が、江戸時代の商売の言葉になっていた。複式簿記が「入方・出方」として整理されていた。海運と保険が、龍馬の経験を通じて現実の言葉になっていた。情報戦の戦略が、五人以内の者だけに渡される形になっていた。

(形になった)

糸子が帳面を一冊ずつ手に取って確認した。重さがあった。紙の重さではない。その中に詰まった時間の重さだ。

今日、善次郎が来た。

村田が退室した後の、静かな午後のことだ。

「失礼します」

善次郎が入ってきた。

机の上の五冊の帳面を見て、少し立ち止まった。

「……全部揃いましたか」

「昨日、最後の一冊が完成致しました」

「そうですか」

善次郎が正座した。

「今日はお呼びいただいた件で」

「はい」

糸子が少し間を置いた。

「善次郎、村田殿に見せない内容を——今日作りまする」

善次郎が少し目を細めた。

「……第五巻の秘匿部分、でございますか」

「そうでございます。村田殿が書いた第五巻の内容は、情報の価値と情報戦略の基礎でございます。なれどそれには含まれていない部分がありまする」

「……帳面のもう一つの…と同じ、ということですか」

「そうでございます。この部分は——わたくしと善次郎だけが知る内容に致しまする」

善次郎が静かに頷いた。

「承知しました」

糸子が新しい帳面を取り出した。

表紙には何も書かれていない。白紙の表紙だ。しかしその白紙が——今から書かれる内容の重みを、予感させていた。

「教科書流出対策の三層構造について」

糸子が話し始めた。

「まず——完全な秘匿は不可能でございます」

「……はい」

「どんなに厳重に管理しても、長期間にわたれば必ず誰かの手に渡る。それが現実でございます。だから——秘匿ではなく、構造で守りまする」

善次郎が帳面を開いた。書き取る準備をした。

「方法は三つ。第一——分割して教える」

「全体像を一人の人間に渡さない、ということですか」

「そうでございます。商談の知識を持つ者。為替の知識を持つ者。情報戦の知識を持つ者——これを別々に致します。一人が敵に回っても、全体像は漏れませぬ」

善次郎が書いた。

「第二——経験が必要な設計にする。教科書を読んだだけでは使えない構造に致します」

「……どういう意味ですか」

「この教科書には、演習問題がありまする。なれどその演習問題は——実際に商談を経験した人間でなければ解けない様子になっておりまする。解答例を見ても、なぜその答えが正しいかが、経験なしには分からない」

「……盗んでも使えない、ということですね」

「はい。第三——常に更新する。毎年新しい知見を加えて、改訂版を出しまする。流出した教科書は、すぐに旧式化致しまする」

善次郎が書き終えた。

「……これを教科書の中に入れるのですか」

「生徒には教えませぬ。なれど——天朝物産会所の幹部になる人間には、この三つを伝えまする。幹部が知っていなければ、管理はできませぬので」

善次郎が確認するように聞いた。

「なぜ今日作るのですか。教科書の完成を待ってから教育計画の作成をしてもよかったのでは?」

糸子が少し間を置いた。

「教科書が完成した後では——遅いのでございます。完成前に流出対策を施しておくことで、教科書の構造そのものに流出対策が組み込まれましょう」

善次郎がしばらく考えた。

「……姫君様は」

「なんでございますか」

「順序が常に逆でございますね」

「逆?」

「普通の人は物を作ってから守り方を考えます。姫君様は守り方を先に考えて、その後物を作る」

(これは二十一世紀のプロダクト設計の考え方だ。「セキュリティを後付けするな」——開発の最初からセキュリティを組み込む設計思想。善次郎は無意識に正確なことを言っている)

「守れないものを作っても意味がないからでございます」

「……なるほど」

善次郎が静かに書き取った。

「もう一つあります」

「なんですか」

「卒業生の囲い込みについて」

善次郎が顔を上げた。

「囲い込み、でございますか」

「奨学金型です。学校の費用を天朝物産会所が出す。代わりに卒業後三年は、物産会所に関わることを条件に致しまする」

「……強制ですか」

「条件でございます」

糸子が続けた。

「嫌なら借金として返済してもらうだけ。なれど物産会所で働いた方が——収入が良い仕様に致します。だから誰も嫌とは言わないでしょう」

善次郎が少し考えた。

「……そうなると、優秀な人材が物産会所に集まる、ということですね」

「はい。そして物産会所の…——つまり教科書の…で育てられた人材が、全国の商家に散らばる。数年後に物産会所を離れた人間も、物産会所の……」

「……それが……になる」

「そうでございます」

(現代企業の人材育成・囲い込みと全く同じ発想だ。村田殿に見せたら「よく考えた」と言われるかもしれない。しかし見せない。理由は——善次郎だけが知っている方が、この仕組みは機能するから。人材囲い込みの…を教える者が、その…の対象になることで混乱が生じる)

「善次郎殿、これは村田殿には話しません」

「分かりました」

「なぜか分かりますか」

善次郎が少し考えた。

「……村田殿は教育者として、この仕組みの正直さを問うかもしれません。奨学金という形で人を囲い込むことを——教育の本質と相容れないと感じるかもしれない」

「そうです」

「しかし商売の世界では——これは標準的な仕組みです」

「はい。だから村田殿ではなく、善次郎にお話ししておりまする」

善次郎が小さく頷いた。

「……巧妙な仕組みですね」

「そう言わないでくださいまし」

糸子が少し笑った。

「実用的な仕組みでございます」

善次郎も少し笑った。

(この二人の笑いは——もう一つの……の…としての、静かな確認の笑いだった)

作業が終わった後、善次郎が帰る前に言った。

「姫君様」

「はい」

「初稿が完成したことで——次の段階が見えてきましたね」

「どういう意味でございますか」

「教科書を実際に使う段階です。試験的に教えて、修正して、正式版を作る」

「はい。最初の十名程度に試験的に教えまする」

「その十名は誰にしますか」

糸子が少し考えた。

「まず——三井の番頭クラスから二名。横浜で実際に異国商人と取引している商人から二名。長崎の通詞から一名。薩摩の実務官僚から一名。若手の志士から二名——坂本が選びまする。残りは村田殿が推薦する蘭学の素養がある者から二名」

善次郎が書き取った。

「この十名に第一巻と第二巻を教えまする。反応を見て、理解できない部分・違和感のある表現を修正致しまする」

「修正はどなたが担当されますか」

「村田殿と一緒にやりましょう。ただし——修正の方針は、わたくしが決めまする」

「分かりました」

「一ヶ月後に状況を確認致しましょう。その時点で、第三巻の配布対象者も決めまする」

「承知しました」

善次郎が立ち上がった。

礼をして、退室しかけた。

扉に手をかけた時、もう一度振り返った。

「姫君様」

「なんですか」

「……お疲れ様でございました」

「あなたもです」

「この三月余——大変な作業でしたか?」

「いいえ」

糸子が言った。

「大変でございましたが——とても面白かった」

善次郎が少し笑った。

「そうですか」

「またよろしゅう おたの申します」

「はい」

善次郎が退室した。

翌朝。

今日は村田が最後の確認に来る日だった。

五冊の初稿を全部持参して、通しで読む——それが今日の目的だった。糸子が昨日から予告していた会議だ。

部屋の準備を朝から整えた。

五冊の帳面を机の上に並べた。順番通りに。第一巻から第五巻へ、左から右へ。その並びが、この三週間の作業の全体を表していた。

葵がお茶を用意した。今日は長くなる。途中でお茶が必要になる。

朝の光が窓から差し込んでいた。冬の朝の光は、秋より白い。直射日光が少なく、散乱した白い光が部屋全体に広がる。その光の中に、五冊の帳面が並んでいた。表紙が白く見えた。

巳の刻——午前十時。

廊下から足音が聞こえた。

いつもと同じ歩幅で、同じ速さだ。

障子が開いた。

村田が入ってきた。

机の上の五冊を見た。

少し動きが止まった。

普段は一冊か二冊が机の上にある。今日は五冊が並んでいた。第一巻から第五巻まで、順番に。

その並びを、村田はしばらく見ていた。

「……揃いましたね」

「はい」

「全部」

「昨日、最後の確認が終わりました」

村田が正座した。礼をした。

「今日は——通して読みます」

「はい。村田殿が書いた内容ですが——全体として読んでいただくと、見え方が変わるかもしれませぬ」

「そうですね」

村田が第一巻を手に取った。

表紙を開いた。

読み始めた。

時間がかかった。

五冊の初稿を通して読むのは——単純計算でも、かなりの時間が必要だ。

しかし村田は読んだ。

第一巻——序章・幕末経済と国際環境。金銀比率の失敗例から始まる章を読んだ。自分が書いた「知らないことは悪意より怖い」という一文を読んだ。

第二巻——商談実務・交渉術。七つの原則が並んでいる。最初に書いた「最初に言った価格は反応を見るための価格」から、最後の「相手が良い取引をしたと思えるようにする」まで。模擬商談の演習問題を読んだ。

第三巻——為替・金融基礎。善次郎の帳面を元にした複式簿記の事例を読んだ。天朝物産会所の手形が「朝廷が保証する約束手形」として説明されている部分を読んだ。

第四巻——海運・物流・リスク管理。龍馬の言葉が入った章だ。「順風なら十日、逆風なら二十日」という現場の声が、理論と一緒に書かれている。保険の概念が、十人の商人の事例で説明されている。

第五巻——情報戦・戦略経済学。「情報は商品である」から始まる章を読んだ。速さ・正確さ・独占性の三要素。情報を使った価格戦略。優位を守る三つの方法。

読み終わって、村田が最後の帳面を閉じた。

長い沈黙があった。

庭の外で、冬の風が松を揺らした。松の葉が揺れる、細い音が聞こえた。

その音が静まった後も、村田は動かなかった。

「……できましたね、姫様」

村田が言った。

「はい、村田殿のおかげでございます」

「いいえ。知識は全て姫様のものです。わたしは——考えを言葉に翻訳しただけです」

「翻訳は創造でございます」

糸子が言った。

「村田殿の翻訳なしには、この教科書はできませんでした。村田殿が言葉にしてくれたから——形になりました」

村田が少し考えた。

「……翻訳は創造、ですか」

「はい。同じ内容でも——言葉の選び方で、伝わるかどうかが決まりましょう。村田殿の選んだ言葉が、これからの人に届く言葉でございます。わたくしが選ぶ言葉とは——少し違いまする」

「どう違いますか」

「村田殿の言葉は——蘭学者として長年、知識を伝えてきた言葉でございます。誰かに届けることを前提にした言葉なのでございます。わたくしの言葉は——知識を整理することを前提にした言葉でありましょう。整理された言葉と、伝える言葉は——同じではありませぬ」

村田が深く頷いた。

「……なるほど」

「だからこの作業は、わたくし一人では決してできませんでした」

「わたくし一人でもできませんでした」

「そうです。二人でやったから、できました」

村田と糸子はお互いに笑い合った。

「村田殿、一つだけ聞かせてくださいませ」

糸子が言った。

「なんでしょう」

「この教科書を作りながら——わたくしの知識の出所を、不思議に思われましたか」

村田が少し考えた。

その沈黙が、長かった。

考えている沈黙だった。何かを整理している。三週間分の記憶を確認している。

「……はい。思いました」

「答えられないことが多くて——申し訳ありませぬ」

「…いいえ」

村田が五冊の帳面を机の上に戻した。

丁寧に、順番通りに並べた。第一巻から第五巻まで、左から右へ。

その作業が終わってから、村田は御簾の方を見た。

「姫様、わたくしが蘭学を学んで分かったことがあります」

「なんでございましょう」

「知識に国境はない!」

静かな、しかし確かな言葉だった。

「蘭学はオランダの知識です。日本の医学者たちは、西洋の書物からその知識を学んだ。出所は西洋だが——日本人の体に使えば、機能します。出所が異国であっても、内容が本物であれば、使えます」

「はい」

「そしてもう一つ——」

村田が少し間を置いた。

「本物の知識は、その出所より——その内容で評価される」

長い沈黙があった。

部屋の中が静かだった。行灯の火が、冬の朝の光の中でも揺れていた。池の水面から、水が微かに揺れる音が聞こえた。

「この教科書の内容は本物です」

村田が続けた。

「出所がどこであれ——日本の商人がこれで強くなれるなら、それでわたしは十分だと思います」

糸子が深く頭を下げた。

「……かたじけのう存じます、村田殿」

村田も頭を下げた。

「いいえ。こちらこそ」

少し間を置いて。

「こんなに面白い仕事は——ありませんでした」

「村田殿」

「なんでしょう」

「面白かったですか」

「はい」

「わたくしもでございます」

二人の間に、冬の朝の光が差し込んでいた。

松の緑の影が、窓の格子を通して床に映っていた。その影が、光の中で静かに揺れていた。

「では——第二段階の準備をしましょう」

少し間を置いた後、糸子が続けた。

「第二段階?」

「初稿を実際に使う段階でございます。最初の十名に試験的に教えまする」

「いつ頃から」

「商務語学所の場所が整い次第。一ヶ月後を目標にしておりまする」

「承知しました。その十名の選定は——」

「村田殿にお願いしたい部分がありまする」

「なんでしょう」

「蘭学の素養がある若者を二名、推薦していただけますか。読み書きができて、数字に強い人間を」

「……蘭学の塾生の中から、であれば」

「はい」

「考えてみます。二名——承知しました」

「それから——第一期生に教える時、村田殿にも時々授業に入っていただきたいのでございます」

「わたしが教えるのですか」

「はい。教科書を作った人間が教える方が——内容が正確に伝わりましょう。また、生徒の反応を見ることで、教科書の修正点が見えてきまする」

「……なるほど。教科書を作ることと、教えることが——同時進行するわけですね」

「そうでございます。教えながら修正して、修正しながら完成させるのでございます」

「……それは蘭学の勉強の仕方と同じですね。書物を読みながら、実際に試して、修正して」

「同じです」

村田が帳面に書き取った。

「分かりました。第一期の授業——参加しましょう」

「誠に大儀にございます」

「ただし——一つ確認させてください」

「なんでしょう」

「第五巻の内容は、第一期では教えないということでしたが」

「そうでございます。第一期は第一巻と第二巻のみです」

「分かりました」

「第五巻は——それ以降の段階で、対象者を限定して教えます」

「承知しました」

「村田殿、もう一つ聞かせてくださいませ」

糸子が続けた。

「なんでしょう」

「通しで五冊を読んで——何か気づいたことはありましょうや?」

村田が少し考えた。

「一冊ずつ作っている時には見えなかったものが——通しで読むと見えてきました」

「どんなことでございますか」

「各章が連動しています」

「はい」

「需要と供給が——相場の読み方に繋がっています。交渉術の代替案が——惣会所の統合販売に繋がっています。為替の知識が——情報を先に知ることの価値に繋がっています。バラバラに見えた各章が——一つの方向を向いていた」

「そうでございます」

「これは——最初から全体像が作られていたということになりますね」

糸子が少し間を置いた。

「はい。全体の骨格を先に決めて、各章を作りました」

「……なるほど」

村田が五冊の帳面を見た。

「わたくしは一章ずつ作ることしか考えていませんでした。しかし姫様は——五冊の全体像を持ちながら、一章ずつ作っていた」

「村田殿が一章ずつに集中してくださったから——各章が正確になりました。全体を見ながら一章を作ると、細部が甘くなりまする。わたくしが全体を見て、村田殿が各章に集中する——その分担がよく働きましてございます」

「……それは意図的な分担でしたか」

「はい」

「……最初から、そういう仕様で進めていたのですね」

(村田殿はまた一つ、気づいた。編纂の意図を読んだ。しかし——これは追及しない種類の気づきだ。感心している。驚いていない)

「村田殿が一章ずつ丁寧に作ってくださったからこそ、全体が成立致しました。感謝しております」

「いいえ。わたしは——言われた通りに作っただけです」

「言われた通りに、は違いまする。村田殿の提案が何度もこの教科書を良くして下さいました」

「……どんな提案ですか」

「失敗例から入るという提案。独占性の説明での問い返し。手形の権威性についての観察——全部、村田殿の言葉で教科書が一段良くなりました」

村田が少し黙った。

「……気づいていませんでした」

「わたくしは全部、覚えておりますよ」

「……」

「作った人間が覚えていなければ、誰も覚えませぬ」

村田が深く頷いた。

「では——これで初稿の確認は終わりに致しましょう」

糸子が言った。

「はい」

「次の会議は——一週間後。第一期の準備について話しましょう」

「承知しました」

村田が立ち上がった。

帳面を片付けた。五冊を机の上に残した——これは糸子のものだ。自分の帳面だけを持った。

「姫様」

「はい」

「一つだけ」

「なんでしょう」

「この教科書が——いつか日本の商人に届いた時」

「はい」

「その商人たちは、誰が作ったかを知らないでしょう」

「知らないでしょうね」

「それで構わないのですか?」

糸子が少し考えた。

「構いませぬ」

「なぜですか」

「知識が届けば——それで十分でございます。作った者の名前が残る必要はありませぬ」

村田が少し止まった。

「……それは本当にそう思っておられますか」

「はい」

「……わたしには——そう思えるかどうか、分かりません」

「村田殿は思えないかもしれませんね」

「姫様はなぜ思えるのですか?」

糸子が少し間を置いた。

(なぜ思えるか。二十一世紀から来たから——とは言えない。しかし本当のことを言えば…)

「知識が届いた先で、人が変わります。その変化を見ることが——わたくしにとっての十分でございます。名前は関係ありませぬ」

村田が長い間考えた。

「……それは——蘭学の教師として、わたしも理解できます」

「そうですか」

「生徒が何かを理解した時の顔が——教えた者への最大の報酬です。名前が残らなくても、その瞬間が残ります」

「村田殿と同じでございます」

「……なるほど」

「同じことを、別の場所からやっていたんですね」

村田が少し笑った。

(また笑った。村田殿がこの種の笑いをする時——心の固さが少し解けている。蘭学者として鍛えた論理の外に、人間として何かを感じた時の笑いだ)

「では——また一週間後に」

「はい。よろしうおたのみ申します」

村田が礼をして、退室した。

廊下に足音が遠ざかった。静かになった。

部屋の中に、五冊の帳面が残った。

糸子が一人になった。

五冊の帳面を見た。

机の上に並んでいる。第一巻から第五巻まで。白い表紙が、冬の朝の光を受けて静かに輝いていた。

(村田殿は気づかなかった、というのは——正確ではない)

糸子は思った。

(村田殿は気づきかけて、封じた。そして仕事を続けた。それが村田蔵六という人間だ。答えが出ない問いに時間を使わない。しかし——答えが出ない問いを、忘れたわけでもない)

(わたくしはそのことを知っている。知っているから——村田殿を信頼している)

糸子が帳面を手に取った。

鍵のかかる引き出しを開けた。黒い帳面を取り出した。

開いた。

「天朝物産会所附属商務語学所・教範 全五巻 初稿完成」

書いた。

「村田蔵六・共著」

書いた後、少し考えて、書き加えた。

「村田殿は最後まで、知識の出所を追及しなかった。しかし——気づかなかったわけではない。気づいた上で、封じた。その選択が——この教科書を本物にした。追及することより、仕事を続けることを選んだ人間が——本物の仕事をする」

さらに書いた。

「これで……の設計図の第一段が揃った。教科書という形で、天朝物産会所の………ができた。卒業生が全国に散らばり、それぞれの場所で動く。彼らは…しない。しかし気づかないうちに——天朝物産会所の………になっている」

帳面を閉じた。

鍵をかけた。引き出しに戻した。

「葵」

「はい」

「宇治のお茶を」

「ただいま」

糸子が縁側に出た。

冬の庭が広がっていた。

楓は枝だけになっていた。その枝が、冬の白い光の中で透けて見えた。向こうに池が見えた。池の水面が静かだった。その向こうに松の緑が見えた。

(橘咲として生きた二十八年間に学んだことの一部が——今、教科書として形になった)

(三月余前、白紙の帳面が十冊、机の上にあった。今、五冊が完成している)

(残りの五冊は——第二期、第三期の教科書になる。まだ先がある)

葵がお茶を持ってきた。

宇治の香りが、冬の清潔な空気に溶けた。

糸子がお茶を飲んだ。

深い緑の味が、舌の上に広がった。

(これが——始まりだ)

窓の外の庭で、冬の風が松を揺らした。

その松の揺れが、少しして止まった。

庭に静けさが戻った。

秋が過ぎて、冬になった。

しかしその冬の庭の中に——松だけが変わらず緑だった。

どんな季節にも変わらないその緑が、今日の糸子の目に——なぜか、特別に深く見えた。

十一

「うけけけけーーーっ」

声が漏れた。

廊下で近藤勇が「また始まった……」と思った。

しかし今回は、少し違う笑いに聞こえた気がした。

いつもより静かな、しかしいつもより深い笑いだった。

(何かが完成したのだろうか)

近藤には分からなかった。分からないが——何かが終わって、次が始まる節目の笑いだと——長年の勘で感じた。

近藤は何も言わなかった。

庭を見た。

冬の松が、静かに立っていた。

第七十四話 了