軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百十五話「長崎暗闘編―クモの巣と光への渇望、あるいは友の魂を引き留める夜(前編)」

文久元年の長崎の夏は、肌にまとわりつくような酷い湿気を含んでいた。

ようやく梅雨が明けたばかりだというのに、大浦の急な坂道を上れば、朝から海風が運ぶ生ぬるい湿気が容赦なく体力を奪っていく。ぎらぎらと照りつける陽光を吸い込んだ石畳は、足元から容赦のない熱気を立ち上らせていた。

ふと見上げれば、坂の頂に佇む白亜の洋館が、強烈な光を跳ね返して白く眩んでいる。

眩しさに目を細めながら眼下の港へ視線を移すと、黒い蒸気船が吐き出す重たい煙が、どこまでも高い夏の青空を汚すように、ゆっくりと、しかし確かに流れていくところだった。

油屋の奥座敷には、額の汗を拭いもせず、龍馬、高田、小野寺の三人が膝を突き合わせていた。

机の上に広げられたのは、江戸から届いた糸子の書状の写しと、小野寺が夜通しで整理した細かな帳面。そして、手垢のついた長崎の地図だ。

大浦居留地、奉行所、小曽根邸、油屋、松田屋――それらの拠点が、鋭い鉛筆の線で蜘蛛の巣のように結ばれていた。

「――図式は、こうです」

小野寺が、ちりちりと痛む目をこすりながら帳面を指で弾いた。

「大浦殿が物産、つまり茶と生糸の仕入れをがっちり押さえる。松田屋が金融、為替の仲介役・窓口だ。政治的な泥被りは小曽根殿が一手に引き受け、楢林殿たち地元の通詞集団が異国の動向を耳に滑り込ませる。そして、」

「この、バラバラの糸を一本に束ねるのが、わしらの役目じゃ」

龍馬が、地図の真ん中をどんと拳で叩いた。

「クモの巣よ。どこか一本の糸が震えれば、網の端まで一瞬で伝わる。どこかが切れそうになっても、周りの糸がすぐに引き戻す。姫様が描きたいのは、そういう生き物のような仕組みながじゃき」

「ですが……」

高田が、声音を一つ落として釘を刺した。

「その糸の一本が、こちらの計算を超えて勝手に跳ねれば、網は身内から自壊しますよ」

「分かっちゅう」

龍馬は重々しく頷き、ふっと腕を組んだ。

その脳裏に、姫様から届いたあの書状の、異様な一筆が鮮明に蘇っていた。

長次郎と惣之丞への表向きの差図とは別に、薄い和紙の端に、まるで祈りのように添えられていた言葉。それはおよそ、天下の商権を握ろうとする冷徹な主の口から出るものとは思えない、歪な温度を孕んでいた。

――あの時、江戸の一橋上屋敷で、姫様はどんな顔をして筆を走らせていたのだろう。

夜の静寂の中、かすかな衣擦れの音だけが響く部屋で、彼女はそっと息を吐き、墨を磨り直していたはずだ。長次郎をグラバーの懐へ飛び込ませるという、あまりに危険な毒を盛りながら。

『近藤長次郎は――賢い。賢いから、外の世界を見たくなる』

ふと筆を止め、誰もいない闇を見つめる糸子の瞳は、どこか遠い、誰も触れられない「別の時間の記憶」を彷徨っていた。かつての歴史のどこかで、異国への憧れに焦がれ、密航の罪に問われて自ら命を絶った、あの若者の哀しい背中を……

『長崎の仕事をしながら、仮に「英国の船に乗れる機会」が目の前に現れた時、……この人物は一体、どちらを選ぶかしら』

自分がこの指で歴史の歯車を狂わせた。その自負と怯えが、彼女の細い指先を微かに震わせる。運命の時計の針は、もう止まらない。

『今この仕事をさせることで、彼が己の業と向き合う場面は、本来より早く訪れるかもしれない。あるいは――まったく別の、生きた道が開くかもしれない。私はそれを見届ける必要がある』

糸子は氷のような眼差しを崩さぬまま、けれど胸の奥のちりつくような痛みを堪えるようにして、白紙の余白に「ある一文」を滑り込ませたのだ。

「長次郎が夢に殉じようとしたら、会所の人間としてではなく、一人の友人として抱きしめ、それでも行くなら見送りなさい」

龍馬は、その奇妙な差図の真意を、未だに噛み砕き切れずにいた。

あの姫君は、長次郎の魂の底にある、底知れない「何か」を完全に見抜いている。

けれどその正体を、今の段階では、決して明かそうとはしないのだ。

「……何はともあれ、まずはグラバーの懐を抉りにいきます」

小野寺の文字を書く筆と墨の匂いが、思考を現実に引き戻した。

「商売の匂いに鼻が利く長次郎殿なら、グラバーも油断して内側に招き入れるはずです。その隙にわしが、裏の数字を盗み見るがやね」

「ええ。奴が各藩に吹っ掛けている詐欺同然の相場と、本国のマセソン商会に送っている適正な帳簿。その『二重の嘘』の差分さえ暴けば、こちらの勝ちです」

「高田殿は?」

「私は足場を固めます」

高田が冷淡なほど平然と言ってのけた。

「奉行所の目が届かない夜間の物流網、闇夜で船を出すための潮の満ち引き、逃げ道になる長崎の裏路地。三日もあれば、私の頭の中に完璧な地図が浮かびます」

龍馬は再び、机の上の地図に視線を落とした。しばらく、言葉はなかった。

(長次郎――おまんは、眩しい光に目を焼かれんと、ちゃんとこちら側におれるかえ)

声にならない、泥のような不安が、胸の底でしつこく渦巻いていた。

「よし、やろう。おまんらぁ、遅れをとるなよ!」

龍馬は一気に立ち上がり、湿った長崎の風の中へと顔を向けた。

大浦居留地の倉庫街は、日中でも人の動きが絶えない。

荷役夫が声を上げながら荷を運び、異国の商人が何かを怒鳴り合い、港から吹く潮風が帆布の匂いと油の匂いを運んでくる。洋館の窓から、ピアノの音が聞こえてくることもある。

小野寺順平は、居留地の端の茶屋に座って、帳面に数字を書き込んでいた。

見た目は、ただの書生だ。しかしその目は、居留地の動きを、絶え間なく追っていた。

(グラバー商会から、薩摩へ向けた武器の荷が今日も出た。積荷は表向き「農具」——しかし、あの荷の重量と、農具の本来の重量が、全く合わない)

小野寺は、数字を書き込んだ。

(さらに——この相場は、おかしい)

グラバーが諸藩に武器を売る際の決済通貨は、メキシコドル(洋銀)建てだ。しかし相場が、上海の市場相場と全く一致しない。

(洋銀を日本の一分銀に換える際の、奉行所の公定相場と、グラバーが諸藩に適用している為替相場に——差がある。意図的な差が……)

小野寺の指が、算盤を弾いた。

計算が出た。

小野寺の顔が、かすかに青ざめた。

(グラバーは——武器の売値だけでなく、為替相場を不正に操作して、諸藩から銀を不当に搾取している……!)

武器を売って得た利益に加え、為替の歪みから得る不正利益。二重の搾取。

しかもその帳簿は、表と裏の二種類があるはずだ。本国のジャーディン・マセソン商会に報告する「適正相場の帳簿」と、日本の諸藩にふっかけている「詐欺交換比率の帳簿」。

(その差分を暴けば——グラバーの首を、数字で絞めることができる)

小野寺は、帳面を閉じた。

そして、グラバー商会の洋館の方向を、しばらく見た。

洋館の窓際に、一人の男が立っているのが見えた。

長身で、赤い顎鬚を蓄えた、まだ二十代半ばの若い男。

トーマス・グラバーだ。

その青い目が、港の方を見ている。自信と野心を同時に宿した目だった。

グラバーのデスクに——小野寺の目には遠すぎて読めないが——何冊かの洋書が積まれているのが、かすかに見えた。

(あの洋書が——何だろうか?)

小野寺は、その疑問を帳面の端にメモして、茶屋を立った。

近藤長次郎は、グラバー商会の玄関に立っていた。

二十四歳の長次郎は、今日は最高級の絹の衣を身につけていた。京風の仕立て。小野寺が選んだ一品だ。しかし長次郎の顔には、その衣の格式とは少し不釣り合いな、野心と緊張が混じった表情があった。

これが「グラバー商会への正式な商談依頼」だ。

大浦慶からの紹介状を手に、長次郎は商館の入り口の番人に声をかけた。

「近藤長次郎と申す。大浦慶殿の御紹介にて、グラバー殿にお目にかかりたいのじゃが」

英語が少し混じった長崎弁の呼びかけに、番人は首を傾けた。

「……Do you speak English?」

(…英語は話せるのか?)

「A little」

(少しなら)

長次郎は答えた。

それから数分後——グラバーの書斎に通された。

書斎は、長次郎がこれまで見たどの部屋とも異なっていた。

整然とした洋書の棚。革張りの椅子と重い木の机。窓の外に、長崎港が広がっている。蒸気船のシルエットが、夕日の中に黒く浮かんでいた。

そして——机の上に、何冊かの洋書が置かれていた。

長次郎の目が、その洋書の背表紙に、一瞬、吸い寄せられた。

航海術の専門書。経済理論の原書。

「Political Economy(政治経済学)」

と書かれたもの。

「Are you the man sent by Oura Kei?」

(お前が、大浦慶の紹介で来た男か)

グラバーが、英語で話した。志賀親司が通訳として同席しているが、長次郎には言葉がかなり聞き取れた。

「Precisely. I am Kondo Chojiro, in charge of the Nagasaki branch for the Tencho Bussan Kaisho.」

(いかにも。天朝物産会所の長崎担当、近藤長次郎と申します)

「So, you understand our tongue, do you?」

(ほう、我々の言葉がわかるのか)

「I am still a student of the language. However...」

(私はまだ語学を学んでいる身です。しかしながら……)

長次郎は、グラバーの洋書を見て言った。

「あの航海術の本は、わしも読みたいと思うちょりました。Bowditch の "American Practical Navigator"(アメリカ実用航海術)ですろうか?」

グラバーの目が、変わった。

一瞬、驚きの色が走った。二十代の日本の商人が、英語の航海術教科書の題名を正確に言い当てるとは、思っていなかったのだ。

「Have you read it?」

(読んだことがあるのか?)

「I cannot read the original text yet. However, I have read the Dutch translation. I hope to read it in its original form someday.」

(原本ではまだ読めません。しかし、オランダ語訳で読みました。いつの日か原本で読みたいと思っています)

グラバーは長次郎を、しばらく見た。

その目の中に、何かが変わった。商人として相手を値踏みする目から、もっと別の——ある種の興味の目に。

「Chojiro Kondo.」

(近藤長次郎)

「Yes.」

(はい)

「Tell me... what is it that you want? What is your ambition?」

(お前は、何がしたい。お前の野心は何だ?)

長次郎は、その問いを受けて、少し間を置いた。

「I want to see the world.」

(世界を見たいです。)

答えた言葉は、準備していたものではなかった。

自分でも、思いがけない言葉が出た。しかし——それが本音だった。

「I want to see the world, and serve this country.」

(世界を見、そしてこの国に尽くしたいのです)

グラバーは、不敵に笑った。

「Those two goals do not contradict each other.」

(その二つは、矛盾しないな。)

「Yes.」

(はい。)

「Very well. Then, we shall talk. But before we get to business, first...」

(いいだろう。では、私と話をしよう。商談の前に、まず……)

グラバーは、机の上の洋書を取り上げた。

「Take this book. You have one week. I wish to see how far your mastery of the language can grow in seven days.」

(この本を持っていけ。期限は一週間だ。七日間で、お前の語学の習得がどこまで進むか確かめたい。)

長次郎の手に、その洋書が渡った。

重かった。

英語の経済書の重さが、長次郎の手の中で、奇妙なほど温かく感じられた。

長次郎は、その一週間、眠れなかった。

正確には、眠ることができなかった。

ランタンの明かりの下で洋書を読み始めると、気づけば夜が明けていた。そういう夜が、何度も続いた。

グラバーから借りた経済書は、長次郎にとって、麻薬のようなものだった。読めば読むほど、その先が読みたくなる。知れば知るほど、もっと知りたくなる。

「政治経済学」の原理。

市場の仕組み。

需要と供給。

価格の形成。

為替の理論。

これらが、長次郎の頭の中で、今まで肌で感じてきた「商売の感覚」と、一つ一つ、繋がっていった。

(そういうことじゃったのか。わしが今まで感じとったことが、こういう言葉で説明できるんじゃ)

知識が、自分の経験を照らし出す感覚。

それは、長次郎にとって、これまでに経験したことがない種類の快感だった。

七日目の朝、長次郎はグラバー商会に洋書を返しに行った。

「Did you finish it?」

(読み終えたか?)

グラバーが、英語で聞いた。

「I have read it.」

(読みました)

「What is your impression?」

(どう思った)

「Japanese commerce... has yet to put into practice even half of what is written in this book.」

(日本の商売は……この本に書かれていることの半分さえ、まだ実践できていません)

グラバーは、長次郎を見た。

「Why do you say that?」

(なぜそう思う?)

「Even if we understand the mechanisms of the market, we lack the 'systems' to drive them. Even if we understand the theory of exchange, the Shogunate’s regulations distort it. To realize the economy described in this book in Japan—the system itself must change.」

(市場の仕組みが分かっていても、それを動かすための『制度』がない。為替の理論が分かっていても、幕府の規制がそれを歪めている。この本が描く経済の姿を、日本で実現するには——制度そのものを変えなければならない)

「...Do you wish to be a politician, then? Not a merchant?」

(……お前は、政治家になりたいのか。商人ではなく)

「I am a merchant. However—I believe it is also the merchant's duty to build the system in which we can truly operate.」

(商人です。しかし——商人が真に動ける制度を作ることも、商人の義務(仕事)だと信じています)

グラバーは、しばらく長次郎を見ていた。

そして——もう一冊の洋書を棚から取り出した。

「Read this one, too.」

(これも読んでみろ。)

それは「航海術」の専門書だった。Bowditchの"American Practical Navigator"——アメリカ実用航海術。

「This is...」

(これは……)

「There are no Japanese or Dutch translations for this. It is the original English text. Can you read it?」

(これの和訳も翻訳書(蘭訳)もない。英語の原本だ。読めるか?)

「...I shall take up the challenge.」

(…… 挑んでみせます)

グラバーは、不敵に笑った。

「Chojiro Kondo. You are an intriguing man. I never imagined I would find someone like you in Japan.」

(近藤長次郎、お前は面白い男だ。日本にこれほどの男がいようとは、思ってもみなかったよ。)

長次郎は、洋書を受け取った。

重かった。

しかし——その重さの中に、別の何かが混じっていた。

「世界」への扉の重さ、とでも言うべきものが。

その夜、長次郎は惣之丞に見られることに気づかないまま、グラバーと話していた。

英国行きの話が出たのは、その翌日だった。

「Chojiro, I have a certain proposition to make.」

(長次郎、一つ持ちかけたい話がある。)

グラバーが、英語で言った。

「Tomorrow night, a ship bound for England leaves Nagasaki. Why don't you get on board?」

(明日の夜、英国行きの船が長崎を発つ。乗らないか?)

「...To England?」

(……英国へ?)

「Go to London and see the real economy for yourself. There are things there that you will never see in this country. A man like you—if you stay for three years, you will return with knowledge that no one in Japan could ever hope to match.」

(ロンドンに行って、本物の経済をお前自身の目で見てこい。この国では決して見られないものが、あそこにはある。お前のような男なら——三年間いれば、日本では誰も追いつけないほどの知識を持って帰れるはずだ)

長次郎の心に、その言葉が、深く刺さった。

ロンドン。

本物の経済。

誰も追いつけない知識。

「わしは、世界を見たいと思うちゅう」

グラバーに最初に会った時に言った言葉が、自分の胸の中で、こだましていた。

その夜、油屋の自室で、長次郎は洋書を読んだ。

ランタンの明かりの下、英語の文字と向き合った。分からない単語は、手元の辞書で引いた。一行進むのに、普通の何倍も時間がかかる。しかし——止まれなかった。

知識が、頁の向こうから流れ込んでくる感覚。世界の広さが、文字の中に詰まっている感覚。

(わしは、饅頭屋の息子ぜよ。土佐の、何の取り柄もない商人の子じゃ。じゃが——この知識いうもんは、どんな身分の人間も、等しく変えることができる。知識だけが、わしをわし以上にしてくれるがぜよ)

深夜。

隣の部屋から、かすかな寝息が聞こえてきた。

惣之丞の寝息だ。

長次郎は、洋書から目を離し、ランタンの炎を見た。

「世界が見たい。まっこと……まっこと、そう思うちょるがぜよ」

その気持ちが、胸の奥で、くすぶっていた。

三日後の朝、高田陽三郎が油屋に戻ってきた時、その表情が普段より険しかった。

「坂本殿、報告があります」

龍馬と小野寺が、すぐに集まった。

「奉行所の動きが、おかしい」

高田は、地図を広げた。

「昨夜から今朝にかけて、中島川沿いと大浦居留地の出入り口に、通常の三倍の目付が配置されました。これは——」

「御用改めの前兆じゃ」

龍馬が、言った。

「密輸経路の総(惣)探索の可能性があります。猶予は三日。それまでに物資と帳簿を動かさなければ、会所は破滅です」

高田の言葉は短く冷静で、しかし重かった。

「なぜ今、奉行所が動く?」

小野寺が言った。

「横浜の、幕府お抱えの商人でしょう」

高田が答えた。

「三井や小野組といった江戸系の商人が、長崎での我らの動きで、自分たちの利権が脅かされていることに気づいた。江戸の老中経由で、長崎奉行に圧力をかけた——そういう構図だと思います」

「小曽根殿の政治庇護も——」

「揺らいでいます。奉行所が本気で動けば、小曽根殿も庇いきれない場合が出てくる」

「松田屋の為替経路も」

「同じく、凍結の危機です」

三人の間に、沈黙が落ちた。

油屋の外から、夏の蝉の声が聞こえてくる。暑い。その暑さが、この状況の緊張感をさらに重くする。

「三日か……」

龍馬が、腕を組んだ。

「これは——外と内、両方から来たきに」

「外?」

「奉行所が外からの圧力じゃ。内は——」

龍馬は、少し言葉を切った。

「長次郎のことが、少し気になっちゅう」

高田と小野寺が、龍馬を見た。

「なんでもないかもしれん。じゃが——姫様の書状のことが」

龍馬は言わなかった。言えなかった。

しかし、胸の奥のその感覚は、消えなかった。

それは、四日目の夜に起きた。

油屋の暗い廊下で、沢村惣之丞が龍馬の部屋の前に立っていた。

その顔が、いつも以上に険しかった。

「龍馬、ちょっとええか」

「どうした、惣之丞」

「長次郎のことじゃ」

低い声だった。

二人は、油屋の裏の物置小屋に入った。ランタンを点けた。

惣之丞が、まず口を開いた。

「龍馬、長次郎が——変なんじゃ」

「変…とは?」

「ここ数日、夜中まで英語の本を読んどる。グラバーから借りた洋書を、寝る間もなく読んどる。それだけなら、まあ勉強熱心じゃと思えたんじゃが——」

惣之丞は、声を落とした。

「今日、昼間、長次郎を追いかけていったら——グラバー商会の裏口で、グラバーと二人で話しよった。通訳も連れずに。英語でなにやら……」

「……なんと話しとったか」

「全部は分からん。わしの英語はたかが知れとるきに。じゃが——」

惣之丞が、息を吸った。

「『英国行きの船』ちゅう言葉が、聞こえたき。グラバーが、長次郎に何かを勧めよった。長次郎は、何度も頷いとった」

龍馬は、その言葉を、黙って受け止めた。

沈黙。

「龍馬、長次郎は——」

「分かったき」

龍馬は、立ち上がった。

「わしが、長次郎と話すきに」

深夜。

龍馬は、長次郎の部屋の前に立った。

ランタンの明かりが、引き戸の隙間から漏れている。

静かに、引き戸を開けた。

長次郎が、洋書を広げたまま、机に向かっていた。龍馬の気配に気づいて、顔を上げた。

「……龍馬か?」

「おう…」

龍馬は、部屋の中に入って、長次郎の横に座った。

しばらく、二人とも無言だった。

「英語の本か」

「ああ」

「面白いか」

「……面白いがぜよ」

長次郎の声は、静かだった。しかし、その静かさの中に、何かが張り詰めていた。

「グラバーから、何か言われたがか?」

龍馬が、直接聞いた。

長次郎が、手を止めた。

「……聞いとったがか」

「惣之丞から聞いたぜよ」

「惣之丞め…」

長次郎は、かすかに苦笑した。しかしその苦笑は、すぐに消えた。

「……龍馬、わしは——」

「イギリスの船に乗りたいがか?」

龍馬の声は、責めていなかった。

「……分からん」

長次郎が、正直に言った。

「分からん、じゃと?」

「乗りたい、というのが正直なところじゃ。じゃが——」

長次郎は、洋書の表紙を、指で撫でた。

「会所の仕事を、ほっぽり出してええんか、とも思う。龍馬らを裏切ることになる…ということも分かっちゅう。じゃが……」

「じゃが?」

「わしは、饅頭屋の息子じゃきに。武士でも、学者でもない。ただ、賢いだけの商人の子ぜよ。わしがこの国を動かすには——世界を見て、世界を知らんと、何もできんがじゃないか、と——」

長次郎の声が、微かに震えた。

龍馬は、その言葉を聞きながら、胸の奥に何かが来るのを感じた。

糸子の書状の一節が、もう一度、頭を走った。

(「長次郎が夢に殉じようとしたら、会所の人間としてではなく、一人の友人として抱きしめ——」)

「長次郎」

「なんじゃ」

「ちょっと待ちや」

龍馬は、立ち上がった。自室に戻り、糸子からの書状の一つを持ってきた。

封がしてある。糸子の筆跡で「長次郎が迷った時に」と書かれていた。

龍馬の視線が、長次郎の机の端、英語の辞書の下に半分隠された「天朝物産会所の暗号帳」に留まった。長次郎の指先が、それをグラバーへの手土産にしようとするかのように、微かに震えながら触れている。

「長次郎、おまん……」

すべてを察した龍馬は、責める代わりに、自室から持ってきた糸子からのもう一通の封書を、その暗号帳の上に重ねるようにして静かに置いた。

龍馬は、その封書を、長次郎の前に置いた。

「……例の姫様からか?」

「ああ。おまんへの指令とは別の…もう一通じゃ。わしが、適切な時に開けろと言われちょった」

長次郎は、封書を見た。

手に取った。

ゆっくりと、開けた。

張り詰めた沈黙が流れる大浦の夜。

龍馬は、懐から一通の和紙を取り出し、机の上に静かに滑らせた。グラバーの誘惑に狂い、暗号帳を盗み出そうとした長次郎の、凍りついた視線がその紙に注がれる。

「長次郎、これを見や。姫様からおまんに宛てた、裏の書状じゃ」

龍馬の低く落ち着いた声に、長次郎は喉を鳴らした。恐る恐る指先で広げたその紙には、江戸にいるはずのお公家様の、あまりにも冷徹で、そして深い慈悲に満ちた文字が並んでいた。

『近藤長次郎は――賢い。賢いから、外の世界を見たくなるでしょう。長崎の仕事をしながら、もし「英国の船に乗れる機会」が目の前に現れた時。この人物は、一体どちらを選ぶでしょうか』

長次郎は、肺の空気をすべて吐き出すように息を呑んだ。糸子は、長崎の地で自分が抱くであろう澱のような渇望を、何百里も離れた江戸からすべて見抜いていたのだ。

『私が視た、ある哀しき夢の跡では――彼は異国への密航を企て、その咎によって若くして自ら命を絶ちました。今この仕事をさせることで、彼が己の業と向き合う場面は、本来より早く訪れるかもしれない。あるいは――まったく別の、生きた道が開くかもしれない。私はそれを見ておく必要があります。坂本、もし彼が揺らいだなら……』

滲む文字を追いながら、長次郎の体が、わずかずつ、ほどけるように変わっていった。

最初は、裏切りを見咎められて硬直していた強張った体。それが――張り詰めていた糸がふっと切れたように力が抜け、肩が小さく震え始める。

そして最後の一行。自分を断罪する言葉ではなく、ただ一人の人間として生きてほしいと願う、狂おしいほどの情が込められた一節を読んだ時、長次郎の目から大粒の涙が溢れ落ちた。

畳を濡らす、音もない涙だった。一粒、また一粒と、暗い部屋の床に吸い込まれていく。

龍馬は、かける言葉も見つからないまま、ただ黙って彼の横でその涙が枯れるのを待っていた。

やがて長次郎は、震える手で書状を膝の上に置き、顔を覆った。

「……姫様も、龍馬も、わしをここまで見てくれちょったか」

絞り出すようなその声は、情けなく、けれど確かに熱を帯びて震えていた。

「長次郎――」

「姫様は、最初から知っちょったんじゃな。わしが自分の生まれを呪って、世界を見たくて、英国の船にしがみつきたがる男じゃと」

「ああ。全部お見通しじゃったがやろ」

「それを、」

長次郎は何度も首を振った。

「それを責めるんじゃなくて、咎めるんじゃなくて……」

「ただ『行くなら見送る』と書いてくれちょる。わしを、犬のように切り捨てずに……」

長次郎は、涙の滴を吸った和紙を、愛おしそうに丁寧に折り畳んだ。

「しかし、龍馬。手紙の最後には、こうも書いてあった。その前に、もう一度だけ、あなたの肚の底から聞いてくれと」

「……なんて書いてあったがぜ?」

「『あなたが真に世界の広さを見たいなら、何も異国の船に密航して国を捨てる必要はない。わたくしたちの手でこの日本を大きくすれば、世界の方からあなたの足元へ歩み寄ってきましょう。その新しい国造りの面白さを、わたくしたちと一緒にしてくれないか』――とな」

龍馬は、その言葉を反芻しながら、しばらく黙って夜の闇を睨んだ。

姫様という底が知れない人が、またしても、はるか遠くから自分の背筋を優しく撫でていくような感覚があった。

(この姫様は――先の世で長次郎が、密航に失敗して死んだことを、本当に知っちゅうんじゃないか)

それは単なる勘を超えた、確信という名の重りとなって、龍馬の胸の奥底に静かに沈み込んでいった。

「長次郎」

龍馬は、友の顔をまっすぐに見つめた。

「……なんじゃ、龍馬」

「イギリス行きは、どうするがじゃ」

「……やめる。……やめることにしたき」

長次郎は、袖で手荒く顔を拭うと、はっきりとした声で言った。

「わしは、天朝物産会所の仕事を続けるぜよ。グラバーの懐に潜り込んで、奴を騙し返してやる。……二重スパイとしてな。わしのこの商才と英語、あのイギリス人にくれてやるには惜しすぎるきに」

「……そうか」

「龍馬」

「なんじゃ」

「泣くのは、これで終わりじゃ。男が一度、本当の主に命を預けると決めたんじゃき、……明日から泥水をすすってでも動くぜよ」

長次郎は、ぐっと拳を握りしめた。その瞳からは、先ほどまでの濁った迷いが完全に消え去り、凄まじいまでの知性の光が宿っていた。

「龍馬、奴をハメる策がある。グラバーは本国のマセソン商会に対し、手持ちの資金力以上の茶の先物契約を交わしちゅうはずじゃ。

お慶さんに頼んで、九州の 一役中(いちえきちゅう) の茶葉の出荷をほんの一週間止めてもらい、同時に小曽根さんに動いてもらって奉行所の目を競合のスネル兄弟へ向けさせる。そうしてグラバーの足元がガタついた瞬間、小野寺殿が掴んだ二重帳簿の証拠を突きつける。奴は確実に、わしらの網にかかる」

「……ッ、おまん、そこまで一瞬で見抜いたか!」

龍馬は破顔し、その逞しい肩を強く叩いた。

「グラバーのクモの巣を、わしらの網で丸呑みにしてやるがじゃ」

「一緒に動こうぜよ、長次郎!」

「おうよ!」

龍馬は立ち上がり、開け放たれた窓から大浦の夜空を見上げた。

墨を流したような闇の向こう、長崎の港には、いくつもの異国船の灯火がまたたいている。長次郎を狂わせ、絶望的な憧れを抱かせたあの光が、今は倒すべき、そして乗りこなすべき巨大な荒波のように見えた。

夜風がふわりと部屋に入り込み、二人の火照った顔を冷ましていく。

二人の間に流れる空気は、もう先ほどまでの重苦しさを微塵も残していなかった。あるのは、夜明けを待つ静かな熱気だけだ。

「さあ、明日は忙しくなるぜよ」

龍馬の呟きに、長次郎は声を出さず、ただ深く力強く頷いて応えた。

第百十五話 了