作品タイトル不明
第百十六話「長崎暗闘編―クモの巣と光への渇望、あるいは友の魂を引き留める夜(後編)」
一
翌朝。
長崎・油屋町の朝は、ねっとりと肌にまとわりつくような湿り気を帯びていた。油問屋「大浦屋」の重厚な表門をくぐれば、そこには街の喧騒とは一線を画す、
ひやりとした静寂が横たわっている。通りに面した格子窓からは、控えめながらも力強い光が差し込み、磨き上げられた黒光りする床を斑に照らしていた。
店先には、九州各地から運び込まれた菜種油の香油樽が整然と並び、特有の濃密な香りが立ち込めている。だが、今のこの店を支配しているのは、油の匂いだけではない。
奥の蔵から漂ってくるのは、若草を蒸したような、清々しくも鋭い香り――輸出を待つ「嬉野茶」の芳香だ。
龍馬は奥座敷で、大浦慶に全ての状況を説明した。
奉行所の臨検の予告。グラバーの動き。そして、長次郎が二重スパイとして動くことになった経緯。
慶は、煙管を持ったまま、龍馬の話を聞いた。
全て聞き終えた時、慶は、煙管をぽんと叩いた。
「……なるほどね。グラバーが、奉行所の動きを利用して、天朝物産を潰そうとしちゅうわけか」
「そうじゃ。奉行所が摘発に動けば、松田屋の為替経路も、小曽根殿の庇護も、全部止まる。その隙に、グラバーが長崎の武器流通を独占する」
「ふん」
慶が、立ち上がった。
その目に、ギラリとした光があった。
「グラバーね」
「大浦さん——」
「長崎の女ばナメたら大怪我するばい!」
慶は、断言した。
「茶の出荷ば止むっ。九州一円の茶葉ば、全部押さえるたい。うちが仕入れ先の農家も仲買人も、残らず押さえとっとやけん、グラバーが欲しがっとる茶が一俵も出んごとするとは、うちには造作なかことばい」
「けんど――大浦さんも損したき」
「一時的な損こくより、長崎の覇権の方が大事ばい。グラバーはイギリス本国と茶の先物契約ば結んどるでしょうが。その納品が遅れたら——」
「契約に背いたき罰金を取られて、グラバーの金繰りが回らんなる」
「そがんことたい」
慶は、満足そうに煙管を吹かした。
「坂本さん、うちに任せとき。その間に——」
「小曽根殿に動いてもらわんといかん」
「そい。奉行所の目の、どこに向くごとするか——ね」
その夕方、小曽根乾堂が、龍馬の話を聞いて静かに頷いた。
「奉行所の御用改めの矛先を、プロイセンのスネル兄弟の倉庫へ——ですか」
「乾堂殿なら、できると思うきに」
「……楢林殿の協力があれば、可能です」
乾堂は、考えながら言った。
「スネル兄弟は、幕府側の「敵側?」勢力に武器を流しています。その証拠を奉行所に、さり気なく目に見えるようにすれば——奉行所の役人は、まず目立つ方を叩く。わたくしたちではなく、スネル兄弟を」
「頼まれてくれんろうか」
「無論です」
乾堂は、静かに、しかし確固として言った。
「この会所の印を刻んだのは、このような時のためです」
大浦慶が動き始めたのは、その日の午後だった。
油屋の帳場から、次々と飛脚が出ていった。九州各地の仕入れ先への連絡。茶農家への指示。仲買人への命令。
慶の指示は、シンプルだった。
「明日から一週間、一俵も出荷しない」
それだけ。
九州一円の茶葉の流通が、大浦慶の一声で、止まる。それが可能なのは、慶がこの十年以上かけて、仕入れ先の農家から出荷の仲買人まで、すべてを自分の信頼関係で網羅しているからだ。
「グラバーはね」
慶が、龍馬に言った。
「イギリス本国と茶の先物契約を結んどる。○月までに何千ポンド納品するっちゅう、厳格な契約たい。その納品が止まったら——」
「違約金が発生するがやき」
「そい。しかも莫大な額ばい。グラバーの金の回りが、一気に止まってしもうっ」
「完璧じゃ」
「当然たい。うちが長崎のお茶ば仕切って三十年ばい。こがん時のために、この場所ばずーっと守ってきたっとやなかね」
慶は、煙管を一口吸った。
「ところで坂本さん、長次郎さんのことは——」
「大丈夫やき」
「そい、本当ね?」
「……大丈夫にしてみせるぜよ」
慶は、龍馬の顔を見た。何かを察したように、それ以上聞かなかった。
「分かった。うちは茶の方ば押さえる。長次郎さんのことは、坂本さんに任せっけん」
「まっこと、ありとうございます、大浦さん」
小曽根乾堂の計算も、見事だった。
乾堂は、楢林栄左衛門との連携で、スネル兄弟の倉庫に関する情報を、奉行所の目付の耳に「うっかり」届くようにした。
スネル兄弟は幕府「の敵?」側の藩に武器を流している。その証拠が、奉行所推奨の書式で整えられた書類として、奉行所の検問の網にかかるように仕組まれた。
「奉行所というのはね」
乾堂が龍馬に言った。
「書式が正しければ、まず中身より形式を信じる。そして——より目立つ不審者を先に叩く本能がある」
「スネル兄弟の方が、目立つ不審者になる…と」
「はい。プロイセンの商人が幕府の敵側に武器を流しているという情報は、奉行所の役人にとっては、大いに報告書の実績になる。うちへの御用改めより、スネル兄弟への摘発の方が——『手柄』になりますから」
「うまいきに、乾堂殿」
「商売も情報戦も、仕組みは同じです」
乾堂は、静かに笑った。
「誰かが得をする方向に、物事は自然に流れるのです」
二
夜。
長崎港の闇に、小さな伝馬船が、音を立てずに動いていた。
船を操るのは、沢村惣之丞だった。
二十一歳の惣之丞は、荒事の現場では長次郎より確かに頼りになる。波の読み方、舟の操船技術——惣之丞には天性の船乗りの勘があった。
「静かに」
惣之丞が、低く言った。船の中に小野寺と、二人の屈強な男(大浦慶が手配した荷役夫)が乗っている。
高田の指示した航路を、惣之丞は頭の中で辿っていた。
中島川沿いの奉行所の検問を避け、大浦湾から長崎港の奥へ。潮汐の干潮のタイミングで、グラバーの倉庫の裏手に接岸できる。高田は、潮汐の周期を三日で計算しきっていた。
接岸した。
音を立てないように、荷役夫たちが素早く動いた。
グラバーの倉庫の裏扉——長次郎が、今日一日かけて鍵の場所と番人の交代時間を調べ上げていた。番人の交代の空白の時間が、わずかに十分間。
扉が開いた。
小野寺が、ランタンを最小限の明かりにして中に入った。
帳簿の棚を、素早く探した。
「あった…」
二冊の帳簿。
一冊は、表の帳簿。本国への報告用。
もう一冊は——諸藩にふっかけている詐欺レートの帳簿。
小野寺は、両方を抱えた。
「持ち出しは一冊だと、長次郎殿から聞きましたが——」
「原本が消えれば、すぐに気づかれる。写しを作る時間は?」
「……ありません」
「なら——」
惣之丞が言った。
「両方持ち出す。グラバーに気づかれたら、そこからが勝負じゃ」
しかし、小野寺が首を振った。
「駄目です。原本が消えれば明日の商談前にグラバーが気づき、商館を完全封鎖して犯人探しを始めます。交渉の席にすら着けなくなる!」
「なら、今ここで書き写す!」
小野寺は懐から予備の矢立と薄紙を取り出すと、ランタンの極小の明かりの下、取り憑かれたような速さで二冊の帳簿の『差分相場』が記された重要ページを書き写し始めた。
惣之丞が外の見張りの動向を睨み、冷や汗を流しながら秒数を数える。
制限時間残りは、一息つく間――。
小野寺は写し終えた紙を懐に押し込み、原本を寸分狂わぬ位置へと棚に戻した。
そして……船が、静かに離れていった。
三
グラバーが、龍馬たちに連絡を寄こしてきたのは、その翌日だった。
「明日、商談をしたい」という簡潔な申し入れだった。
大浦慶の茶の出荷停止が、グラバーの資金繰りに影響を与え始めていた。それを察知したグラバーが、動いてきたのだ。
翌日の午後、グラバー商会の書斎で、龍馬と長次郎がグラバーと向かい合った。
長次郎は、この日のために、一晩かけて英語の交渉文を準備していた。
グラバーは、最初は余裕の笑みを浮かべていた。
「You said you represent the Tencho Bussan Kaisho—tell me, what is it you truly want?」
(天朝物産会所から来たと言ったな……。して、本当の望みは何だ?)
長次郎が、英語で答えた。
「First, there is something I must confirm.」
(まず、確認しなければならないことがあります。)
長次郎の英語は、完璧ではない。しかし、十分に通じる。そして——自信があった。
「The exchange rates for the arms you sell to Satsuma and the other clans... there is a massive discrepancy in the conversion from Mexican dollars to Ichibu-gin compared to the true market value. Tell me, Mr. Glover—were you aware of this?」
(あなたが薩摩や諸藩に売っている武器の決済相場。メキシコドルから一分銀への換算に、本来の相場と大きな乖離があります。グラバーさん、あなたはご存知でしたか?)
グラバーの目が、わずかに変わった。
「What on earth are you speaking of?」
(一体何の話だ?)
「Please, take a look at this ledger.」
(この帳簿を御覧ください。)
長次郎は、小野寺から受け取った帳簿の写し——二冊分の差分をまとめた一枚の表を、グラバーの机の上に滑らせた。
「This is...」
(これは……)
「These are copies of the ledgers found in your warehouse. It shows the discrepancy between the two: the one for reporting to your home country, and the one for invoicing the various domains. This difference—」
(あなたの倉庫から出てきた帳簿の写しです。本国への報告用と、諸藩への請求用の、二冊分の差分です。この差額が——)
長次郎は、数字を読み上げた。
グラバーの顔から笑みが消えた。
「If I were to send these to Jardine Matheson...」
(これをジャーディン・マセソンに送れば……)
「What is it you want?」
(何が望みだ。)
グラバーが、英語で言った。先ほどとは全く違う声だった。
龍馬が前に出た。そして、土佐弁で言った。長次郎がそれを英語に変えた。
「わしらはおまんを、破滅させに来たのではない」
"We did not come here to ruin you."
「……」
「おまんと一緒に、この国の『新しい売り買いの仕組み』を作りに来たがじゃ」
"I am here to work with you... to build a 'new system of commerce' for this nation."
グラバーの青い目が、龍馬を見た。
「What do you mean by that?」
(それはどういう意味だ?)
「今まで、武器は、異国の商人から諸藩へ、直接流れちゅう。その経路に、わしらが入る。異国の 商人(おまん) ⇒天朝物産会所⇒諸藩、という構図じゃ」
"Until now, weapons have flowed directly from foreign merchants to the various domains. We intend to step into that path. The new structure will be: Foreign Merchant (you) → Tencho Bussan Kaisho → Various Domains."
「...Are you saying I should become your supplier?」
(……私が、お前たちの「仕入れ業者」になれということか。)
「そうじゃ。その代わり——詐欺相場は止める。適正価格での取引になる。おまんの利益は減るかもしれん。しかし——」
"Precisely. In exchange—no more fraudulent exchange rates. We trade at fair market value. Your profit per deal may decrease. However—"
「安定した量が保証される、いうことぜよ」
"I will be guaranteed a steady volume of trade."
長次郎が英語で付け加えた。
「The Kaisho will unify the window for all the domains, so you will no longer lose customers to the Snell brothers in the heat of competition. And furthermore—」
(会所が諸藩への窓口を一本化します。そうすれば、スネル兄弟との競争でお客を取られることもなくなります。それに――)
長次郎は、グラバーのデスクの洋書を指差した。
「I have learned so much from your book. Mr. Glover, you truly wish to be a part of Japan’s modernization, do you not? I know that you do.」
(あなたの本から、多くを学ばせてもらいました。グラバーさん、あなたは日本の近代化に本気で関わりたいと思っているはずです。そうでしょう?)
グラバーは、その言葉を受けて、しばらく動かなかった。
長次郎の目を、じっと見ていた。
やがて——グラバーの口元が、動いた。
「...You people are insane.」
(……お前たちは狂っている。)
それから——不敵な笑みが浮かんだ。
「But—by joining this system, you can defeat the Prussians. The Snell brothers can only sell to the Shogunate.」
(だが――このシステムに乗れば、プロイセンに勝てる。スネル兄弟は幕府側にしか売れん。)
「それは、わしらが考えるき。おまんは、品物の質と供給量を保証してくれらええ」
"We will take care of that. All I ask from you is to guarantee the quality of the goods and the volume of supply."
グラバーは、一言一言、噛み締めるように考えた。
「...Fair enough.」
(……よかろう)
グラバーは、立ち上がった。
「Tencho Bussan... Go ahead then, entangle me in your web.」
(天朝物産……。いいだろう、お前たちのクモの巣に私を絡め取るがいい。)
四
その夜、龍馬は長崎港を見下ろす丘に立っていた。夏の夜の港は、昼間とは別の顔を持っていた。
停泊する蒸気船の灯りが、水面に揺れている。居留地の洋館から、かすかな音楽が聞こえてくる。潮風が、丘を吹き上げてくる。
龍馬は、その景色を見ながら、糸子に言われた言葉を思い出していた。
(「その火口を塞ぐための足場を、坂本、あなたの足で固めてきなさい」)
物産(大浦)。
金融(松田)。
政治(小曽根)。
語学(通詞・長次郎)。
そして最大の 武器商人(グラバー) 。
全部が——一本の糸で繋がった。
「長崎の裏にて、天朝物産会所が糸を引く、姿なき『兵器差配』の網が張り巡らされた」
「完成したきに」
龍馬は、低く言った。
「坂本殿」
後ろから、高田の声がした。
「報告書の作成が終わりました。仕立飛脚の手配も」
「ありがとう」
「……お疲れ様でした」
高田が、静かに言った。
その高田が「お疲れ様」と言うのは、珍しかった。
龍馬は、振り返って、高田を見た。
「高田殿も、よく動いてくれたきに」
「私は地図を見ていただけです。実際に動いたのは、みなさんでした」
「そんなことはない。おまんの潮汐の計算がなければ、夜の物流は成功しなかった」
高田は、何も言わなかった。
しかし、その目が、わずかに和らいでいた。
翌朝、龍馬は仕立飛脚への書状を書いた。
姫様、
長崎に糸子様の描かれた通りの網を張り終えました。
物産、金融、政治、情報、武器——全部、一本の糸で繋がりました。
グラバーを檻に閉じ込めました。
長次郎も大丈夫です。
坂本龍馬
書き終えて、龍馬は少し止まった。
「長次郎も大丈夫です」——その一行を、もう一度読んだ。
糸子への報告というより、誰かへの誓いのような一行だった。
五
一橋上屋敷の糸子の部屋に、仕立飛脚が届いたのは、それから十数日後だった。
夏の終わりの江戸の空は、高く青かった。
糸子は、封書を開いた。
龍馬の、荒っぽい文字を読んだ。
読み終えて、しばらく、目を閉じた。
「……よくやってくれた」
糸子は、低く言った。
「よくやってくれたわね、龍馬。長次郎…」
葵が、傍らに控えていた。
「姫君様、お喜びですか」
「うれしい、というより——」
糸子は、窓の外の空を見た。
(前世の歴史では、近藤長次郎は密航しようとして、自害させられた)
「変わったの。長次郎は、この道を選んだ。わたくしの書状が効いた…と思いたい」
葵が、複雑な顔をした。
「姫君様は……最初から、長次郎殿が異国に行こうとすることを、分かっておられたのですか?」
「可能性として、考えておりました。だから——先回りして書状を準備したのでございます。そして坂本に出しました」
「それは——」
葵が、言葉を選んだ。
「残酷なことでもありますね。姫君様の手のひらの上で、運命を変えさせられた長次郎殿にとっては」
「そうかもしれませんわね」
糸子は、静かに言った。
「でも——ひょっとしたら彼は本来の歴史では違う選択をしていたかもしれない。『密航しようとして死ぬ』かもしれなかった。今回はわたくしの手引きによるもので、彼がまっさらな心で選んだ道とは違ったかもしれない。なれど、わたくしは——長次郎に、この先も自分の人生を選んで、歩んでほしかった」
「……姫君様」
「近藤長次郎。あなたは世界の広さを、英国の船で見なくていい。この日本を大きくすることで、世界があなたの足元に来る——そう信じて生きてほしい」
糸子は、新しい紙を広げた。
次の書状を書き始めた。
その目に遠い先を見通す、あの光が宿っていた。
六
糸子はその夜、一気に書状をしたためた。
宛先は、近藤長次郎と沢村惣之丞。
書状にはこう書かれていた。
近藤長次郎、沢村惣之丞殿
よく、やってくれました。
次の人間を送ります。
土佐和紙の流通を完全に掌握した男です。味方であれば頼もしい存在でありますが、敵に回れば、恐ろしき毒にもなりうる男です。
この男の扱いには、注意が必要です。獰猛で策略家で、自尊心が高い。しかし——その分、動かしたときの破壊力は格別です。
檻に入れたグラバーを手懐け、真の富を吸い上げなさい。
その者の名前は、岩崎弥太郎。
あなた方には久方ぶりの再会となることでしょう。長崎でお待ちなさい。
一橋上屋敷より
仕立飛脚が長崎を目指して 遮二無二(しゃにむに) 走り始めた、ちょうど翌週のこと。
長崎港の桟橋に、うだるような熱気を孕んだ風を切り裂いて、土佐からの船が滑り込んできた。
歩み板をドタドタと力強い足取りで降りてきたのは、三十前後の一人の男だ。
背は決して高くない。だが、横幅のあるずんぐりとした体躯には、まるで破裂寸前の蒸気機関のように、内に秘めたエネルギーがギチギチに詰まっていた。着ているものは 煤(すす) けた質素なものだが、その顔に据えられた「目」だけが、周囲の風景から完全に浮き上がっている。
岩崎弥太郎だ。
ギラギラと野卑に輝く、漆黒の眼光。そこには底なしの欲望と、冷徹な野心、そしてそれらをすべてコントロールする極上の知性が、渾然一体となって渦巻いていた。男がふと視線を走らせた瞬間、まわりの空気がピリッと張り詰める。
弥太郎は大きく胸を広げ、長崎の海を睨みつけた。 肺腑(はいふ) の奥底まで届くように、深く、深く息を吸い込む。
鼻腔を突いたのは、懐かしいあの匂いだ。
「……戻ってきたぞ。長崎、おまん、ちっとも変わらんのう」
弥太郎の低く地響きするような声が漏れた。
かつて坂本龍馬と出会い、土佐から離れたこの地で同じ土佐者として、意気投合したのが…ここ長崎だった。いわばここは、男の原点。
その網膜には、ぎらつく夏の海原と、そこに黒い影を落として林立する異国の蒸気船のシルエットが、鮮烈に焼き付いていた。
「相変わらず、ゾクゾクするほど面白そうな街じゃき」
弥太郎の唇が、にやりと吊り上がった。獲物を前にした猛獣そのものの、獰猛な笑みだ。
その弥太郎のすぐ後ろから、三人の男を引き連れて、一際凛とした佇まいの男が降りてきた。
旭狼衛の長崎出張支部を率いる隊長、速水護である。一刀流の免許皆伝でありながら西洋兵学にも明るい彼は、このうだるような暑さの中でも、驚くほど沈着冷静なオーラを纏っている。
「岩崎殿、あまり一人で先走られては困りますな」
速水が苦笑まじりに声をかけると、その隣から、帳面を抱えた副隊長の神代弦一郎が眼鏡の奥の目を光らせた。
「土佐を出てから徒歩と船で約三週間……。暦の上では初秋とはいえ、この盛り盛りの暑さです。軍資金の残高と隊士の体力を考えれば、まずは一刻も早く宿へ向かうべきかと」
大坂の蔵屋敷仕込みの算術と情報分析の天才である神代は、長崎に到着した瞬間から、すでに頭の中でこれからの活動資金の計算を始めているようだった。
「硬いこと言うなよ、神代の旦那! やっと着いたんだ、ちょっとくらい息抜きさせてくれよ〜」
そう言って神代の肩を叩いたのは、人たらしの達人、宮川蜂介だ。すでに長崎の港を行き交う人々に目を輝かせ、誰に話しかけようかとウズウズしている。その蜂介のすぐ後ろには、まるで気配そのものを消し去ったかのように、音もなく佇む名波幽水の姿があった。無口な凄腕隠密の目は、すでに周囲の不審な動きを警戒して鋭く光っている。
土佐を出発した晩夏から、この猛暑の中を共に旅してきた五人。その道中は決して楽なものではなかったが、この長崎の空気を吸った瞬間、旅の疲れなど吹き飛んでいた。
「―― 相変わらずおそろしい顔して降りてくるのう、弥太郎さんよぉ!!」
小気味いい声が、桟橋の先から飛んできた。
見れば、見知った顔が二つ、こちらへ走ってくる。近藤長次郎と沢村惣之丞だ。
かつて龍馬や慎太郎、長次郎、惣之丞の四人と共に、一緒にここ長崎で行動した馴染みの同志たちだった。
「おんしゃあ、長次郎に惣之丞か! 久しいのう!」
弥太郎がガハハと笑う。
長次郎が息を切らせながら歩み寄った。
「久しぶりやき、弥太郎殿! おんしゃら旭狼衛の皆も……! 姫様からの文で、皆が船でこっちへ帰ってくるっち聞いちゃあき、こじゃんと出迎えに来たがぜよ」
「ほう、姫様からの文か。あの方は相変わらず、手回しがえいねぇ」
弥太郎は長次郎と惣之丞を品定めするように、じろりと眺めた。その瞳の奥のギラギラした光は、再会の喜びのなかでも決して消えない。それは理屈や学問で得た鋭さではなく、生き物としての、圧倒的な「勘」の鋭さだった。
長次郎は、その弥太郎の横顔を盗み見て、内心で舌を巻いていた。
(この男は……やっぱりバケモノやき。あの聡明な姫様が『味方であれば頼もしい存在でありますが、敵に回れば、恐ろしき毒にもなりうる男です』とまで書状に書いてあった意味が、この目を見ただけで嫌というほど分かる。それに、後ろに控える旭狼衛の四人も、ただ者やない……)
「それはそうと、よぉ」
弥太郎は、首に巻いた手拭いで汗を拭いながら言った。
「おんしらが長崎で動きよったことは、知っちゅう。今は長崎の…天朝御用商務惣会所がどうなっちゅうか、詳しく教えてくれ。…まあ、立ち話も何やし。油屋とやらに歩きながら、じっくり話を聞かせてもらおうか。それに――」
弥太郎は言葉を切り、もう一度、長崎の港の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
じっとりとした潮の匂い。近代化の象徴である石炭の、黒く重い煙の匂い。居留地から漂う、嗅いだこともない異国の香辛料の香り。
そして、それらが混ざり合った、この街特有の独特な空気――。
「ええ匂いじゃ。たまらんのう……ここは、金の匂いが最高にするきに」
その言葉には、単なる強欲な計算高さを超えた、商売という巨大なゲームそのものを愛してやまない、子供のような純粋なワクワク感が宿っていた。
「はは、頼もしいねぇ。弥太郎殿と旭狼衛の皆が来てくれたら百人力やき」
惣之丞が嬉しそうに笑い、旅籠の方向を指差した。
長次郎は、弥太郎や速水たちと肩を並べて、石畳の坂道を登り始めた。
ふと、歩調を緩めた弥太郎の鋭い視線が、長次郎の脇に抱えられた小野寺の帳面――天朝物産会所の「大福帳」に注がれた。じっとりと汗ばんだ表紙の隙間から覗く、左右に整然と分かたれた数字の列。
弥太郎の片眉が、ピクリと跳ねた。
「……おい、長次郎。おまん、長崎でえらい『上等な仕分け』を扱いゆうのう。 貸方(よしかた) と 借方(かしかた) の貸借対照表が、ピシャリと整合しちゅう」
「なっ……!!」
長次郎は思わず足を止め、帳面を抱え直した。自分の喉がヒリつくほど驚いているのが分かる。
「おんしゃあ、なぜこの『仕組み』を知っちゅうがぜ……!? これは異国の、それもごく限られた商人しか知らんはずの――」
「何言いゆうがじゃ、おまんは」
弥太郎はフンと鼻で笑うと、首の手拭いでガシガシと汗を拭った。
「龍馬から聞いちゃあせんのか? 姫様が江戸で作った『商務語学所』じゃき。あそこじゃあ、わしらみたいな者がぁが集められて、この『複式簿記』やら『経済学』やらいう…得体の知れん学問を、基礎のキからみっちり叩き込まれちゅうがぜよ。学校の教科書にもう載っちゅう」
「わしも勉強を途中で放り出して、姫様にあっちへこっちへと…行かされておるがなぁ」
「学校の……教科書……?」
長次郎の背筋に、ドッと冷たい汗が流れた。
自分が高熱に浮かされるようにして、グラバーの洋書から死に物狂いで掠め取った「世界の秘密」が、江戸では、すでに次代を担う商人たちへ組織的に教えられている。あの姫様は、一体どれほど先の世界を見て、この日本を塗り替えようとしているのか。
弥太郎は硬直する長次郎の顔を覗き込み、ニヤリとニ短調の不敵な笑みを浮かべた。
「……けんど、土佐和紙の流通でわしが見てきたものより、この長崎の帳面ははるかに桁が大きい。二重の相場を同時に動かしちゅう形跡がある。おまんら、これを使って長崎の異国人を数字の網でハメちゅう最中じゃな?」
「……っ!!」
知識の出元だけでなく、現在の戦況まで一瞬で見抜かれた。長次郎は、この岩崎弥太郎という男の底知れぬ実務能力の前に、ただただ圧倒されるしかなかった。
隣から放たれる圧倒的な熱量と、背後から感じる一筋縄ではいかない只者ではない者たちの気配に、肌がじりじりと震えるのを感じていた。
(こりゃ……面白うなってきたぜよ。龍馬に旭狼衛、それにこの弥太郎……。役者はみーんな揃うちゅう。長崎が、いや…ひょっとしたら日本が、ここからまたドカンとひっくり返るぞや!)
文久元年、初秋。
じりじりと照りつける夏の終わりの太陽。
長崎の空は、どこまでも高く、どこまでも青かった。
そのとき、遥か港の方から、腹に響くような蒸気船の汽笛が、ゴォォォンと力強く、新しい時代の幕開けを告げるように鳴り響いた。
第百十六話 了